坊ちゃんの約束
坊っちゃんの約束
沖田秀仁
ルルルッ、ルルルッ……。
かすかに音がするのは夢の続きか。
いや違うようだ、耳元で電話が鳴っている。
目を開けると暗がりにカーテン越しの鈍い光があった。
隣のベッドで忌々しそうに呻いて寝返りを打つ衣擦れがした。
電話よ、との不機嫌そうなくぐもった妻の声と舌打ちで手を伸ばした。
二人のベットの間のサイドテーブルに置かれた旧式の固定電話を妻は取らない。それはまだいくらか平穏な日常が私たちの上にもたらされていた最後の日々の朝だった。
頭を起こして受話器を耳に当てると、まだ眠った頭に聴いたことのある女の声がひどく慌てた様子で一つのことを繰り返し叫んでいた。私は甦りつつある記憶の中で「なんだ、なんなんだ」と電話の女を真似るように同じ言葉を繰り返した。そして突如として受話器の向こうで叫ぶ相手と内容を理解してベッドに跳ね起きた。
「母が脳梗塞で倒れたと、綾からだ」
受話器を耳から外してそう言うと、ベッドに体を埋めたまま「何なの」と妻が呟いた。
「だから、田舎の母が脳梗塞で倒れて救急車で岩国中央病院へ搬送されたんだ」
と、私はいつになく声を荒げた。
牛乳配達の友田さんが声を掛けたが返事がないため、勝手口を開けると母が土間の台所に続く十二畳の板の間に倒れていたという。慌てて近所に暮らす妹へ知らせ、妹夫婦が大慌てに駆けつけた。するとどうも母の様子がおかしいため、すぐに救急車を呼んで病院へ搬送したばかりだという。そうしたことを早口で妻に知らせて、再び受話器を耳に当てた。
しかし驚いて飛び起きるでもなく「それで」と、妻は寝たまま溜息を吐くように言った。遠く離れた田舎に独りで暮らす母の一大事にさえも慌てふためかず、落ち着き払っている妻の態度にいささか腹が立ったが、私は受話器を握ったまま湧き上がる怒りを抑えた。
去年の秋に定年を迎えて三十数年も勤めた大手家電製造会社を退職し、系列の販売子会社に嘱託として勤め始めたばかりだ。市場調査部長とは名ばかりで碌な仕事はなく収入も以前の半分以下となって、それと比例するかのように私の家庭内の地位も低下している。
「綾が言うには母を救急車で搬送したが、僕にもすぐに帰ってくれということだ」
私が応えると、妻は青天の霹靂のように「何なの」と呻いてやっと半身を起こした。
広島県と島根県との県境に近い山口県岩国市の山間部に、八十代の半ばを過ぎた母が一人で暮らしている。嫁いだ妹が近くに暮らしているが、田舎に暮らす肉親はその妹一人だけだ。いざというときには私が田舎へ帰って段取りをしなければならないかと、父が病死して以来覚悟してきたつもりだ。つもりだったが、現実にその日が訪れると決意や覚悟は何の役にも立たないことが分かった。いきなり首根っこを掴まれて、切立った断崖から足下の深い闇を覗き込まされたような暗い気分に包まれた。
「とにかく、帰ってきてくれと言っている」
送話口を手で塞いで私が顔を上げると、妻はあからさまに嫌な顔をした。
「なぜなの、田舎のことはすべて妹さんに任せていたんでしょう」
鳥の巣のような頭に手を突っ込んでぼさぼさと掻きながら、妻は怪訝そうに声をくぐもらせた。
「ああ、五年前に父が亡くなってから、藤田に事後を託しているが」
と、私は語尾を濁した。藤田とは妹の良人藤田良平のことだ。
「それなら、お母さんが脳梗塞で倒れたからといって、あなたが騒ぐことはないでしょう」
妻は冷淡にそう言ったが、受話器の向こうでは尚も妹が繰り返し訴えた。
「お兄さん、とにかくすぐに帰って来て。私は藤田へ嫁いだ人間だから私がどうこうするわけにはいかないの、」
――とにかく帰って来て、と妹は切迫した口吻で続けた。
「分かった。しかし、これからすぐにこちらを発って帰るにしても、着くのは昼前後になるからな」
そう言うと私はベッドから立ち上がって、不平を鳴らす妻にかまわず洗面所へ向かった。
密閉した部屋に閉じ込められ淀んだ空気がパジャマの薄い布地を通して、目覚めた私の体の動きを引き止めるように纏わりつく。六月初旬の午前五時を回ったばかりの地上から二十数メートル、八階のコンクリートに囲まれた空間はやや肌寒かった。
私が暮らしているのは二十年ばかり前に購入した東京郊外に建つマンションの一室だ。当時は十二階建てと高層で、専有面積が八十数平方メートルもあって広いと評判だった。しかし今となっては高さといい広さといい、新規に販売されるマンションの新聞折込み広告と比較すればグレードは随分と下でしかない。しかも間取りは一々リビングを通らなければ個室から洗面所やバス・トイレへ行けない仕組みになっているため、ゆっくりとくつろげる広い空間はどこにもない。外観だけでなくいかにも古い造りのマンションだが、購入した時期が同年齢の者たちと比べればいくらか早く、バブルであらゆるものが高騰する前だったため価格はそれほどではなかった。私の数年後に購入した同期入社の仲間たちがバブル崩壊後に過大なローンの重圧に喘いだような痛手を蒙ってはいない。だがそれにしても3LDKのマンションは部屋数が少なく平均的な所帯が暮らすにはやや手狭で、テレビに書棚やソファーなどの家具を入れた八畳程度のリビングはまともな歩行に困難をきたすほどだった。
「何だよ、朝っぱらから大声出して。みっともないから夫婦喧嘩はよしてくれよな。このマンションの壁はそれでなくても薄いんだから、お隣さんへ筒抜けだぜ」
リビングのソファーの後ろを通り過ぎるときに、皮のソファーに寝そべってインターネットでゲームをしていた次男が厭わしそうに声を上げた。体を丸めてすっぽりとソファーに納まり、無言で液晶画面に向かっていた次男の亮に気づかなかったわけではないが、私はことさら驚いたように振り向いた。これが世間並みということか、我が家には二十七歳になるフリーターの倅が一人いた。
「おう、また徹夜でゲームか。仕事はどうなっている」
私は言わずもがなの苦言を呈して亮の傍を通り過ぎた。
すると、亮は大袈裟に溜息をついた。
「今日は休みなんだよ。派遣の仕事は毎日あるわけじゃないんだ」
亮は素早くコントローラの指を動かしながら、ラッパーのようなノリで言い返した。
私たち夫婦は二人の息子に恵まれた。上の子は健といって今年の八月で三十一になる。下の子は健より四つ年下で名を亮といった。健は有名な公立大学を卒業して就職氷河期だった当時にもかかわらず、なんとか業界大手の自動車部品製造会社に就職した。今では大学の英会話サークルで知り合った同じ年の娘と結婚して、家からバス停で四つばかり離れた同じ町の賃貸マンションで暮らしている。欲をいえば私たちと同居するのは狭いマンション暮らしのため無理だとしても、私の郷里のことくらいは長男の嫁にも考えて欲しかった。ただ長男の愛した人が一人娘で先方の家のこともあって二人で散々悩んだのだろう、戸籍こそ私の姓を継いでくれたが将来は都内にある嫁の実家の墓を守るつもりのようだ。付き合った娘にそうした事情があることを承知の上で、私に一言の相談もなく長男は結婚を決めたことに私は一抹の寂しさを感じたものだ。正直にいえば内心では少なからず愕然とするものがあった。しかし、それも少子化の時流にあって仕方のないことかと自分を納得させた。
せめて下の子が好きになる娘には私の田舎のことも話せる相手であって欲しいと願うが、そうした心配をするよりもまずはまともな就職を探す方が先のようだ。不安定な派遣労働のような仕事で家庭を営むのは困難だろう。しかし親の心子知らずで、次男には今の暮らしが性に合っているのか普段は家でゴロゴロして気の向いたときにだけアルバイトのような仕事へ出掛けていた。
ただ小さい頃の次男は将来に淡い期待を抱かせる側面があったのも確かだ。何事にも興味を持ち活発で物怖じしない、誰とでも友達になる優しい子供だったような記憶がある。むしろ心配したのは長男の方だった。いつもおとなしく家で一人遊びしていたため学校にあがってから集団生活にからうまく馴染むのかと案じたものだ。
幼稚園に入ると次男は近所の公園で走り回って仲間と遊び、疲れるとジュースを飲みに泥だらけの友達を引き連れて家に上がり込んで妻を困らせたものだ。小学校低学年の長男が個人主義の硬い殻の中に閉じこもる性癖がある反面、次男は子供たちの間では頼られる存在のようだった。
しかし十で神童十五で才子二十歳過ぎれば只の人といわれるように、子供の成長は時として期待を裏切る。学年が進むに従って長男は次第に根気強さと慎重な性格が高い評価を受けて、勉強が出来るだけでなくクラスでいろんな役に推されるようになった。その一方、小学校にあがってから次男の受けた評価は最悪で、片時も大人しくし勉強に身を入れないばかりか授業中も落ち着きに欠けてクラスの調和を乱すと手厳しいものだった。そして小学校中学年からサッカーに熱中して勉学を怠り、中学から高校にかけてはますますサッカーにのめり込んだ。結果として大学受験に次々と失敗してやっと三流どころの私学に滑り込んだ。その大学でもサッカークラブに入っていたが全国大会に出場するようなチームではなく、遊び仲間の集まった同好会のようなものだったようだ。
大学卒業後もまともに就職するでもなく、家で趣味のパソコン・ゲームに興じて気の向いたときに登録した派遣会社から命じられるままにバイトのような仕事をしている。団塊の世代の一員として厳しい競争に晒されながら管理社会を生き抜いてきた者の目から見ると次男の生き方は不満だらけだが、世間にいわれるフリーターと比べれば家に食費などを入れないまでも小遣いをせびらないだけまだましだといえた。
「お祖母ちゃんが脳梗塞で倒れた。父さんはこれから新幹線で田舎へ帰るんだ」
そう言いながら洗面所の蛇口を捻った。
これからすぐに発てば始発の新幹線に間に合うだろう。
「お祖母ちゃんが倒れたって。死にそうなほど具合が悪いのか」
亮はテレビ画面から顔を上げて、心配そうに問い掛けた。
ゲームの世界ではずいぶんと派手に対戦相手を殺しているが、現実世界で死と向き合った経験がまだ少ないため動揺しているのだろうか。
私は歯ブラシを咥えた不明瞭な声で「どんな具合か、良く分からない」と応えた。
私の子供はいずれもこのマンションで生まれてはいない。二人とも三鷹郊外の2DKの社宅で人生を始めた。その当時から長男の大学受験勉強のために取り止めになるまで、彼らの最大の年中行事は盆と暮れの新幹線で移動する帰省旅行だった。
「オレもついて行って良いかな。田舎へはここ十年ばかり帰っていないから」
やや声を張り上げて、亮は聞いた。
私は嗽をして、「父さんは遊びに行くんじゃないぞ」と叱るように言った。
「分かっているさ。お祖母ちゃんのお見舞いだろう」
亮は半身を起こして、ソファーの背越しに問うような眼差しで洗面所を見ていた。
「それはそうだが、どうやらお見舞いだけじゃ済まないようだ。ややこしい問題が待ち受けているような気もするが」
私はそう言いながら、普段着ている薄手灰色ジャケットの袖に手を通した。
亮がついて来るかどうかは、亮自身が決めれば良い。家にいたところでパジャマ姿のままダラダラとゲームをするだけで、いつものように妻と角突き合わせるのがオチだろう。
「ついて来るのなら早く支度をしろ、これからすぐに出かけるぞ」
そう言いながら、私はクローゼットの引戸を開けて棚の上の黒い布鞄に手を伸ばした。
「そんな服を着て、そんなものを持って行くの。亮までついて行くってどういうこと」
と、背後から妻の責める声がした。
いつ起きてきたのか、パジャマ姿の妻がソファーの傍らで仁王像のように立っていた。
妻は身長百五十五センチに満たず女としても小柄な部類に属するが、そのビア樽型に肥満した体躯は上背が百七十五センチでも痩身の私を圧倒している。
妻が鋭い視線を向けた黒い布鞄はここ十年来出張などの折に、いつも着替えやパソコンを入れて持ち歩いてきたものだ。私は手にした布鞄をぶらぶらさせて、
「改まった旅ではないし、緊急の事態だからこんなものだろう。亮が行きたければついて来れば良いだろう。どうせ家にいたってゲームばかりしているんだろうから」
と、同意を求めるように振り返った。
しかし妻は腕組みをしたまま落ち着き払って、突き放すような醒めた目を私に向けた。
「どれぐらいいるの。会社への連絡はどうするの。費用はいくらぐらいかかるの」
諄々と幼い子供に言い聞かすような、少し小馬鹿にするような言い方を妻はした。
「つまり、慌てて行く必要はない、ということか」
私が目に力を込めて見返すと、妻は厭わしそうに首を横に振った。
「あなたが早く行けばお母さんの脳梗塞が劇的に改善するの。言っておきますが、私をその渦に巻き込まないで下さいな。綾さんが来て欲しいのはお母さんが脳梗塞で倒れたからだけじゃなく、退院後のこともあってのことじゃないかしら」
冷静な占い師のように、妻はこれから起こることを予見してみせた。
お互いに年を取り既に心を奪われるようなときめきは感じないが、妻とは会社で知り合って結婚した。世にいう職場結婚だ。年は私より二歳下だが地元の高校を卒業して総務課で働いていたため、会社では私の二年先輩に当たる。当時から少しばかり自己中心的な部分は認められていたが、それが可愛らしくみえたし決して嫌味な女ではなかった。若い頃の妻は東京に生まれ育った娘らしく身に付けるファッションも化粧も洗練されていて、田舎から上京したばかりの私にはまるで銀幕の女優のように輝いて見えた。半年以上も口も利けないほど緊張していた記憶があるが、結婚した後で妻の両親は東北の出身で終戦直後に職を求めて上京したということを知った。そのせいか若い頃は夫婦で諍いをすると妻の口から東北訛りが出たものだ。それが妻の魅力を毀損するものでないのは百も承知だが、付き合っている頃から知っていればもう少し余裕をもって接したのにと思ったものだ。
女子社員の多い家電製造業では総務課に配属されるのは会社でも飛びっきりの華らしく、総務部女子社員はまばゆいばかりの美形揃いだった。小柄で瓜実顔の美佳はその中でも一段と可愛く、飲み会などに職場の先輩たちから声を掛けられていた。
私は高度経済成長期に地元の大学を卒業して、引く手あまたの就職先の中から将来性を見込んで東京に本社のある会社に就職した。そして総務部に配属されて四年後、二十六歳になった私は部長に媒酌人を依頼して美佳と所帯を持った。美佳には他にも付き合っている人がいたようだが、私がプロポーズするとすんなりと受け入れてくれた。当時は職場の華をものにしたと秘かに有頂天になっていたが、どうやら妻には妻なりの深い読みがあったようだ。これも後で知ったことだが、どう見ても田舎臭くてパッとしない男だから、私と結婚すれば浮気の心配をしないで済むと踏んで生涯の伴侶に選んだというのがその真相のようだ。事実、美佳の睨んだ通り私はこれまで浮いた話の一つとしてなく、三十数年こつこつと職場と家を往復するだけの人生を送り、この春にサラリーマンとして大過なく定年退職を迎えた。平穏といえば平穏だが、時として自分の情熱のすべてを注ぎ込む仕事が他にあったのではないかと、いささか不満の残る人生だったような気がしないでもない。
だが私は自分を典型的な団塊世代の仕事人間だと思っている。高度経済成長と軌を一にしてひたすら脇目も振らず働いて次長にまでなった。しかし一息つく間もなくバブルが弾けるとともに部課長制度は廃止されて、厳しい職能給の洗礼を受けた。振り返ってみれば結構しんどい人生だったような気もする。
「あなた、私の話を聞いているの。まあ急いで駆けつけるのは仕方ないとして、どれくらいあちらにいるつもりなの。変な約束や安請合いはしないで下さいね」
妻は何を心配しているのか、くどいほど私に念を押した。
「会社には東京駅から携帯で連絡するよ。データのやり取りならパソコンを持って行けば電話回線と接続して出来なくもないから、仕事に支障はないはずだ」
黒布鞄を片手に持ったまま、私は言い訳のように言葉を紡いだ。
ただ、どの程度滞在するのか、どのような話が出るのか、どのような結論を求められるのか、と訊いた妻の疑問には予測がつかないため返答をはぐらかした。
「いずれにしても、お前と相談してから物事の結論を出すようにするから」
私はそう言って、差し出した妻の手に黒い布鞄を手渡した。
妻はタンスから着替えの下着を丁寧に鞄に詰め、私はパソコンを入れてマジックテープで固定した。
朝が早いため、まだバスは走っていない。
電話でタクシーを呼んでからマンションを出た。
明るい街に人影はなく、不思議な光景に私は倅と顔を見合わせた。
車窓から眺める中央線の駅までの道々、舗道を行き交う人影は疎らだった。駅からバス停二つの近さだが、タクシーの窓から眺める街の景色はいつもと違う街に見えた。
始発電車の快速電車で東京駅まで一時間余り、この春まで私の通勤電車だった。私は黒布鞄を抱えて、まだラッシュの始まる前の空いた電車に亮と並んで腰をかけた。
「いつだったか、夏休みに兄さんと二人だけで田舎へ帰省させられたことがあった」
席に座ると顔を向けて、亮が思い出を語るように言った。
それは健が高校生になり、亮がまだ中学へ上がる前のことだった。何を思い立ったか妻が急に子供たちの自立心を気にしだして、子供たちだけで帰省させたのだ。確か当時テレビでそのような番組を放映していたような気がする。子供たちだけで旅をさせれば自立心が涵養されると妻は単純に信じたようだが、テレビ番組で放映されたということは子供たちだけで旅行したのではない。少なくともカメラマンやディレクターが付き添って、それなりに危険防止策を施しての上でのことに違いない。そこまで見抜いてやったことではないだろうが、妻は彼女なりに子供たちだけで広島で乗り換えるのは難しいと判断して、一日に数便しかない田舎の駅にも停車する東京発の新幹線を選んだ。
「ああ、そんなことがあったな」
と私は電車の揺れに体を任せて、揺れるつど思い出を一つ手繰るように頷いた。
「なんとなく、あの時のような不安な気分だ」
亮はそう言って、中吊の週刊誌の広告に視線を移した。
亮のいった気持ちが私にも理解できた。子供心にも不案内な行程に心細さが募るが田舎に着けば祖父母や親戚の人々が出迎えてくれると分かっているため、道中の不安と必死に戦うことができたのだろう。しかし大人になった今の道中にそうした不安など何もないが、今度は辿り着いた先に確かなものが一つもないような気がするのだろう。いや、それは亮の気分ではなく、たぶん私の抱いている気持ちなのだ。
「お祖父ちゃんが広島から新幹線に乗り込んできて、オレたちを探してくれたんだ」
過ぎ去った昔を懐かしむように、ぼそりと亮が呟いた。
生前ついに父は私と親しく口を利くことはなかったが、孫たちには何かと話しかけて打ち解けていた。厳格な父親も孫には優しくなるものだと人から聞かされたことがあるが、まったくその通りだった。しかし、その父も五年前に八十二で亡くなってしまった。今にして思えば亮たちを出迎えた時の父は七十歳だった。あと十年もたてば私も七十になる。
「お祖父ちゃんが出迎えてくれて、嬉しかったか」
私が聞くと、亮は俯いて「ああ、突然だったからびっくりしたが」と応えた。
七十前後の父は痩せてはいたがまだ若い者と同じように、コンバインに乗って稲刈りをしたりトラクターを巧みに運転して田を鋤いたりしていた。一日中屋外の作業に明け暮れて引き締まった体躯に赤銅色に日灼けした顔と腕をしていた。
「子供たちだけで田舎へ帰らせるなんて、お前たちのお父さんとお母さんは随分と荒っぽい無茶をするんだなあって、ゴツゴツした大きな手で頭を撫でてくれたんだ」
そう言った亮の声は涙を含んでいるようだった。
孫たちを出迎えた私の父も、既にこの世を去っている。
この世は仮の住まいだ。誰しもが年をとり、年老いてこの世から消えてゆく。
「亮がお祖父ちゃんを憶えていてくれて、父さんは嬉しいよ」
そう言って、私は向かいのガラス窓に映る亮の顔を見た。
どことなく目加田家の者がその容貌に宿す律儀で頑固者の面長な風貌が亮にも見て取れた。首都圏に生まれ育っても根の部分ではしっかりと山口県の片田舎に繋がっているのか。
「うちは毛利家々老の血筋だって、お祖父ちゃんが言っていたけど」
亮はそう言って向かいの窓ガラスに映る私に問いかけた。
父は決して血筋や家柄にこだわる人ではなかった。私が美佳と結婚するに際してもその旨を電話で報告すると、相手の家柄はおろか顔写真さえも見ないで即座に了承してくれた。その父が孫の前で家系について語り、誇りにしていたとは意外だった。
「お祖父ちゃんの言葉は半分嘘で半分本当だ。確かに藩の家老だったけど毛利本藩のではなく、吉川岩国支藩の家老だ。それも木谷目加田家といって江戸時代の早い時期に、領地開墾のために本家の目加田から辺境の地へ分家した目加田の末裔だ」
私は亮の問い掛けにかこつけて、家のルーツを語って聞かせた。
こうした機会でもなければ、子供に家の由来を伝えることはないだろう。
「戦国時代に安芸毛利家は勢力を伸ばし中国地方を制覇して百二十万石もの大々名になっていた。しかし西軍の総大将として臨んだ関ヶ原の合戦に敗れ、毛利家は三十六万九千石に版図を削られて本州西端の防長二州に封じ込められた。狭くなった領地では大勢の家臣を抱えていけないため毛利輝元は累代の家臣に暇を与えたが「無禄にてもよろしゅうございます」と殆どの家臣がついてきた。恩顧の情に厚い家臣の気持ちは胸に突き刺さり痛いほどだが、背に腹はかえられない。ついに輝元自らも浪人する覚悟で領地返上を決意し、福岡の黒田如水を通じて幕府に申し出た。しかし、徳川家康はそれを無視した。この機に乗じて毛利輝元から領地を取り上げれば万を超える浪人が出て大坂方に加勢しかねない。それよりもこのまま放置すれば長州毛利藩は身動きできないばかりか、幕府が軍勢を差し向けるまでもなく逼塞のうちに滅亡するだろうと考えた。実際に長州藩は困窮と飢餓に見舞われ、生き延びるために田畑の開墾が領国経営の至上命題になった、」
と続けていた言葉を切って、私は向かいの窓ガラスを流れる朝景色に浮かぶ亮を見た。
いつのまにか亮は膝の抜けたジーンズの両足を投げ出し、腕組みをした肩の間に首を埋めて目を閉じていた。徹夜で対戦したゲーム疲れが出たのか、いつしかぐっすりと眠りこけていた。その寝顔を見ていると不意に若い頃の父がそこにいるような錯覚を覚えた。それほど亮は私の父を良く写していた。
東京駅に着くと人込みを縫うようにして、長い通路を通って新幹線ホームへ上がった。
新幹線に乗り込む前に会社の上司に電話したが、急に休まれては困ると言われなかった。親会社から定年後の数年間だけ出向してくる社員を受け入れるのは子会社にとって迷惑でありこそすれ、歓迎される存在でないのも確かだろう。大卒初任給程度に減給させられた報酬で針の筵のような職場へ通うのは心楽しいものではないが、規則正しい暮らしを続ける健康のためと割り切って定年後の職場へ通う仲間をたくさん知っている。体力や能力がそれほど衰えたわけではないのに、年齢で一律に線引きされるのに割り切れないものを感じているのは私だけではないだろうが、不平を言っては罰が当たる。子会社へ出向できた私はたぶんサラリーマンの中でも恵まれた方なのだろうから。
プラットホームの電光時刻表を睨んで、田舎の駅に最も早く着く新幹線を選んで乗った。
私の郷里は空の利便が極端に悪い。東広島市の広島空港と宇部市の山口空港の中ほどにあり、空港へのアクセスを勘定に入れれば家に辿り着くのは新幹線の方が速かった。
「父さんが就職した頃、新幹線は岡山までしかなくて、在来線に乗り換えたものだ」
空いた自由席に腰をかけて、荷物を金属製の網棚に上げた。
「オレの記憶にある限り、いつも新幹線を広島で乗り換えていたような気がする」
亮の記憶ではひかりで広島まで行き、各駅停車のこだまに乗り換えていたと言った。
確かに亮の憶えている通りだ。結婚してまもなく新幹線は博多まで開通し、子供を連れて帰省していた頃は広島でこだまに乗り換えた。それは健が大学受験勉強に追われるようになって帰省が取りやめになるまで、毎年盆と年末年始の恒例行事だった。
その年中行事が取り止めとなってから十数年も経っている。いや、帰省をやめたのは健の受験勉強のためだけではなかった。両親が年をとり帰省した私たちの面倒を見るのが重荷になってきたのも大きな理由の一つだった。
私の新婚時代には父が三十キロもある米袋を担いで度々上京してきたものだ。東京でも米は売っているから持って来なくてもいいといっても、父は自分が作った米を嫁と孫に食わせたいと言って聞かなかった。
「お祖父ちゃんは癌だったんだよね」
列車が熱海を過ぎて長いトンネルに入ると、亮がポツリと言った。
地獄の底へ向かって疾走するような轟音に身を委ねながら私もゆっくりと頷いた。
そうだよ、お祖父ちゃんは肺癌で亡くなったんだ。長年喫煙したタバコが命を縮めた。
夏の日に取り乱した母からの電話で帰省してみると、父は病に蝕まれてハリガネのように痩せ衰えた身体を病院の白パイプのベッドに横たえていた。すでに癌は末期の段階で主治医から半年後の生存率は五十パーセントといわれたが、その宣告通り七ヵ月後の早春の夜明け前に亡くなった。せめてもの救いは臨終まで激痛に苦しまなかったことだろう。
父の死後、私は母にどうするかを聞いた。田舎にこのまま独りで暮らすのか、それとも東京のマンションで私たちと一緒に暮らすのかと。当時すでに母はO脚が進行して膝の痛みが激しく、歩行に杖が手放せなくなっていた。よたよたと杖に縋って歩く母を独り田舎に残すのは忍びなかった。運転免許を持たない母は誰かの世話にならなければ日々の暮らしにすら不自由する。
私は東京に呼び寄せたかったが、母は田舎で暮らす方を選んだ。六十余年も前に世話する人がいて、見合いにより岩国市内から嫁いで入った目加田家を放擲するわけにいかなかったのだろうか。それとも慣れない大都会で嫁に気兼ねしつつ、狭いマンションで暮らすストレスを考えてのことだったのだろうか。
「呼吸が苦しくなって診療所でレントゲンを撮ると肺に水が溜まっていた。さっそく医師の紹介で中央病院に検査入院して詳しく調べてもらうと、肺癌の末期だと分かった。しかし、お祖父ちゃんは八十一歳と高齢の上に衰弱していて手術に耐えられる体ではなかったんだ」
亮にそう言って唇を噛み、顔を上げて目を閉じた。
年甲斐もなく嗚咽で胸が詰まり、不意に涙がこぼれそうになった。
無駄な贅肉のない引き締まった体躯に頑健な意思を宿した父は私にとって常に大きな存在だった。その父がこの世からいなくなった、今でもとても信じられないことだが。
人の一生は一瞬の光芒だ。誰しもがいつか死ぬ。人だけではない、命あるものはすべていつの日にか死を迎える。そして私の年老いた母も病に倒れた。父のいなくなった田舎を独りで守ってきた母を失えば、連綿と続いてきた家も人と同じように滅ぶのだろうか。
広島で六両編成各駅停車のこだまに乗り換えて、一つ目の駅で降りた。そこは岩国市の中心部から随分と離れた山間部の盆地に造られた新駅だ。いまでは古びた巨大な筆箱のような建物の横に無造作に開いた玄関を出ると階段下のロータリーの片隅で妹の夫、つまり私の義理の弟に当たる藤田良平が出迎えた。
妹は地方都市の高校を卒業して地元の農協に就職し、間もなくそこで知り合った同じ集落に住む藤田良平と職場結婚をした。若い頃の妹夫婦は何かと六反百姓の父を頼りにして、農繁期には手伝ったりしていたようだ。藤田良平は私より二三歳年下のはずだが貫禄のついた体躯に脂ぎった大きな四角い顔の、エネルギッシュで押しの強い農協の理事のような男になっていた。
短い挨拶を交わして藤田良平の古びた小型国産車に乗り込み、市の中心部へ向かった。
「牛乳配達の友田さんが異変に気づくのが早くて、幸い大事には至りませんでしたがね」
と、藤田良平は母が重篤な状態でないことを教えてくれた。
私はいくらか安堵するものを感じた。
「ただ、今後の様子を見なければ分からないのですが、何らかの後遺症は残るだろうと。退院しても独りで暮らすのはまず無理だろうと」
そう言って、助手席の私を覗き込んだ。
つまり、そういうことなのだ。脳梗塞で倒れたこともさることながら、母の今後の介護について話し合わなければならない事態に追い込まれているのだ。
私は黙り込んで一つ頷いた。直感的に妻が予想した通りだと思った。
「とりあえず症状がある程度回復して、リハビリをしてみなければ分かりませんが」
藤田良平は私の心配を和らげるように言葉をかけた。
自動車は山峡の谷間を流れる錦川に沿って県道を下り、錦帯橋の少し上流で土手道を離れて家並みの間を走る国道へとハンドルを切った。
この近くに私が三年間通った高校があったため、岩国藩城下町の面影を宿した落ち着いた佇まいの家並みに深い懐かしさを覚えた。しかし、回顧の念に身を浸して町をゆっくりと眺める余裕はなかった。
間もなく戦後新たに発展した錦川下流の平野部に広がる街並へ入り、市の救急病院に指定されている中央病院の駐車場に着いた。その病院は父が死の病にとり憑かれて入院し、最後の日々を過ごした場所でもあった。
玄関ロビーの雑踏に五十代半ばの婦人が心配顔に立っていた。人混みの中でもひときわ目立つ長身痩躯、年を取るにしたがって祖母の面影を色濃く映すようになっている。
「兄さん、お母さんが脳梗塞で倒れて、」
と言うなり、顔をくしゃくしゃにして両手で覆った。
「とにかく、病室は何処だ」
私は妹を促すようにエレベーターホールへ歩きながら聞いた。
妹は病室の階数と部屋の番号を言った後に、
「幸い発見が早く、すぐに搬送したから大事には至らなかったの。今は血栓を溶かす薬を投与しているって。年寄りだから進行が遅かったのも幸いしたって。そういえば、ここ一月ばかり手が痺れると言っていたの。言葉も少し縺れていたけど、年をとったから仕方ないと思っていたの。私は迂闊にもそれが脳梗塞の前兆だと気づかなかったの」
と、妹は身近にいて母親の異変を見逃した自分を責めた。
私は妹を慰める言葉もなく、沈痛な面持ちで階数のボタンを押した。
母は新館の五階の四人部屋に入っていた。
妹が案内した部屋の奥のベッドに寝かされ、点滴針を腕に差されていた。脳を切開されるような外科手術をうけていないのを見て、母の病状が軽くて済んだのだと思った。私は仕切りのカーテンを開けてベッドの傍に寄った。気丈だった母が市松人形のようにこじんまりと縮まっているのに胸が痛んだ。ベッド脇の椅子に座ると、母の顔の上に屈み込んだ。
母は目を開けていた。力のない目だった。入れ歯をはずした空洞のような口が小さく開かれ、八十六歳の老婆そのものになっていた。
「誰か分かる」と、私は屈み込んだまま母に聞いた。
「すぐる、」
舌が縺れるような不明瞭な声でそう言って、母はかすかに微笑んだようだった。
私は名を目加田優といった。
母の意識がはっきりしているのに私は深い安堵を覚えた。
「あれは、」と、母は亮を見た。
「孫の亮だよ。母さんのお見舞いに一緒にやってきたんだ」
私は傍らに立つ亮の腕を引き寄せた。
「あきら、」と、縺れる舌で名を繰り返したが、母には亮が自分の孫だとは分からなかったようだ。とにかく多少の障害は認められるものの、意識もあり自分が見分けられたことに私はほっと一息ついた。
対面を済ませるとすぐに廊下へ出た。妹がそうして欲しいような素振りを見せた。ロビーの広場で立ち止まると、私の後をついて出た妹が主治医から聞いた病状を詳しく語った。
「午前中の検査で分かったことだけど、お母さんはこれまでも小さな脳梗塞を何度か起こした痕跡があるの。そして心臓も弱っていて、いつ止まってもおかしくない状態だって」そう言ってから、「どうするの」と付け加えた。
――どうする、とはなんだろうか。急に聞かれても何をどうすれば良いのか、実のところ妹の言葉の意味が良く分からなかった。私は言葉に詰まりながら、
「とにかく、症状が落ち着くまで待つしかないだろう」
と言って、私は妹の次の言葉を待った。
どうする、と妹が私に訊いたのは母の症状のことだけではないような気がした。
「退院しても母が独りで暮らすのはもう無理だから、母の介護のこともあるけど。それより目加田の家屋敷や田畑のことなど、これからどうするのかってことよ」
じれったそうに言って、「私は藤田の家に嫁いだ人間だから、目加田の家のことであてにしないで頂戴」と突き放すように言った。
妹の用件はそれだったのかと、私の中で頷くものがあった。
四百年近く続く仕来りにより、父の死後に木谷目加田家の家屋敷から田畑の名義はすべて私に移された。戦後の民法に照らせば母と妹にも法定相続分があり、ことに母には全財産の半分の権利があるはずだ。しかし、木谷の集落では嫡男が家屋敷のすべてを相続するのを習いとしていた。私も家屋敷の名義が私へ移されるのに何ら疑問を抱かなかった。しかし、実際に目加田の全財産といっても谷間の山麓に二反余りの敷地と、そこに建つ母屋と納屋と物置場に作業小屋などの五六棟ばかりだ。田畑といっても屋敷の周囲の六反ばかりの棚田と屋敷の入り小口に五畝ほどの畑があるだけだ。財産価値としては二十数年前に購入した東京郊外の空中に浮かぶ八十数平方メートルの古びたマンションの一室の評価額にも及ばないだろう。しかし、妹が「目加田家」と言ったのは不動産鑑定評価による財産価値について触れたのではない。それなりの意味があるのだ。
私の生まれた目加田家は地域の古老たちから『領家』と呼ばれている。その昔、木谷に棲みついたのは辺境の地の開拓に岩国藩主から命じられて移ってきた家老の分家とその家臣たちだ。彼らは血よりも濃い団結で山林や荒地を開墾して田畑を造り、沢から水を引いて米や野菜を作った。それは長州毛利家とその家臣たちが生き延びるための戦いだった。
そうした遺風は私の幼い頃までしっかりと木谷に根付いていた記憶がある。しかし、平成の御代になった今はどうだろうか。すでに岩国藩が存続していた江戸時代は歴史の彼方に消え去り、藩主だった吉川家そのものも東京へ移り住み、岩国で旧岩国藩の財産管理をしているのは執事だ。私が何の躊躇もなく木谷目加田家の屋敷を解体して原野に戻し、今まで通りに東京で暮らす人生を選択したとしてもそれほど非難されることはないだろう。少なくとも法的に問題はないはずだが、しかし何故だかそうすることがためらわれた。
私は集落の人たちから「領家の坊っちゃん」と呼ばれていた。記憶にある限り物心ついた頃から高校を卒業して集落を離れるまでそう呼ばれた。幼い頃は何とも思わなかったがその意味が分かってくるにつれて厭になり、大学に入るとそうしたしがらみの一切合財が疎ましく耐え難いものとなり、ついに就職に際しては父に逆らって郷里を後にした。
かつて、領家は開墾地のすべての行事や農作業などの取り決めを行う評定の場だった。私の知る限り農作業や入会地の管理や山々の伐採などといった重要な話し合いには各集落のオトナたちが十人ばかり目加田家に集まって諮り、最後に祖父の差配を仰いでいた。私の記憶に間違いがなければ、今もそうした寄り合いは細々と続いているはずだ。
「結はまだ続いているのか」
と、私は何かを畏れるように妹から目を逸らして聞いた。
すると妹は逸らした私の視界に入って来て、あきれたような眼差しで私を見上げた。
「集まるオトナも三人ほどになってしまったけど。お父さんが亡くなってから、お母さんが兄さんの代理で寄り合いを仕切ってきたの」
――そうしたことも分からないでいたの、と妹の鋭い視線が私を責めた。
長い歳月、連綿と受け継がれてきた慣わしが今の世にも生き残っている。それをこれからどうするのか、すべては私の意思にかかっているのだ。
「しかし、この時代に集落を挙げての共同作業もないだろう」
と、私は同意を求めるように妹に頷いて見せた。
しかし、妹はニコリともしないで私を睨みつけた。
「それならそれで、目加田家の当主は兄さんだから、ちゃんとオトナたちに話して下さい」
取り付く島のない言い方をして、妹は非難めいた眼差しで私を見た。
大学に進学する折、父は地元の大学でなければだめだと強く念を押した。東京の大学へ進学させると、二度と地元へは戻って来ないと思ったからだろう。私は父から命じられるままに岩国市内の高校を卒業して地元の大学へ進学した。就職に際しても父は市役所か県庁にしろと勧めたが、学生運動の洗礼を受けた私は父に反抗して東京に本社のある家電製造会社に就職した。一時は父と不穏な仲になったが就職して数年も経つと諦めたのか、父から地元へ帰れと言われたことはなかった。
もう一度病室に母を見舞ってから、私と亮は藤田良平に木谷の屋敷へ送ってもらった。
錦川に沿って曲がりくねった県道を五十分ばかりさかのぼり、錦川に流れ込む五間川といわれる木谷峡の入り口に差し掛かった。両側を切り立った柱状節理の巨岩で狭められた峡谷に岩を食む清流が流れている。明治になるまで木谷へ通じる道路は整備されず川原の岩肌を伝い歩く杣道があるだけだった。そのため錦川へ流れ込む峡谷を見た者はその奥に肥沃な土地が広がっているとは誰も思わなかったという。しかもいったん雨が降ると狭い峡谷を激流が荒れ狂い他国者の侵入を阻んだ。木谷だけでなくこのような隠し田と呼ばれる開墾地は藩内の方々にあって、幕末期に長州藩の実石高は百万石にも達していたといわれている。
錦川沿いの県道から右折して巾着のように窄まった五間川と折り重なるように続く市道を十分も進むと、急に山肌が遠ざかって視界が開ける。これが私の生まれ育った木谷村だ。紡錘形のような平野部に点在する集落が田畑の中に見え隠れし、ぐるりと周囲に屏風を巡らすようになだらかな山々が聳えている。
私は新緑に覆われた連山を眺めて、その景色が少しばかり変なのに気づいた。
「杉山が随分と竹林に侵食されてしまったね」
私が問いかけると、藤田良平が「手入れする者がいなくなりましたからね」と呟いた。
「何もかも荒れてしまって。猪や猿の害が深刻になって、手の施しようのない地区もありますよ。入会地の手入れをする者がいなくなって、獣の生息する土地と人間の暮らす土地との境界がなくなってしまった。この春も植林地に入り込んだ筍を蹴り倒して歩くのに十日ばかり出役をやりましたよ」
藤田良平はひとしきり嘆いて首を横に振った。
連綿と受け継がれてきた秩序が崩れて、人の営みが消え去ろうとしているのだろうか。
自動車は盆地の低地を東西に走る幅十メートルほどの五間川に沿って二キロほど遡り、やがて向きを変えて北の斜面を登りだした。梅雨に入る前に田植えを終えるのがこの地の慣わしで、すでに薄緑の苗が規則正しく田に植えられている。しかし、ざっと見渡したところ田圃の半分以上が耕作放棄地となり、田植えにより整然とした新緑の耕作地と雑木が生い茂った荒地が交雑していた。私はその寒々とした光景に目を疑ったが、それは耕作地だけではなかった。自然の木々や草叢に覆われ屋根の崩れ落ちた廃屋が散見された。
「目加田の義父さんが行政の推し進める圃場整備事業は祖先が血と汗で築き上げた野面石組を壊すとして反対されていたが、ついに集落の大方の者が自己負担十分の一のニンジンに惑わされ合意してしまった。それから間もなくだったな、減反が実施されたのは」
問わず語りに藤田良平は言った。すると妹が遮るように、
「愚痴はこぼさないの、もう終わったことだから」と、夫を嗜めた。
個人の分担金が工事費の十分の一とはいえ現金を支払わなくてはならず、減反政策で収入が減少したため村人は街の海岸部のコンビナートへ働きに出るようになった。それが時流というものかもしれないが、労働を金銭で換算する習慣が身に付くと人々は四季折々に行われる村の共同作業に顔を出さなくなったという。
衰退する地域社会はある限界点に達すると一気に崩壊する。木谷集落もかつては「木谷千軒」といわれるほど人々の活気に満ちていた。それが戦後の経済成長でまず若者が木谷を去り、働き盛りの者たちも必要から現金収入を求めて岩国の石油化学工場へ働きに出るようになった。そして、いつの間にか子供たちの声が集落から消えて小学校の木谷分校が廃校になり、五間川沿いを一日数便走っていたバス路線が廃止になり、バス停脇のうどん屋が看板を下ろし、村に一軒だけあった雑貨屋が店を閉じた。もはや木谷集落から外へ出ないで暮らすことは困難だ。
藤田良平は還暦前だが、集落ではいまだに若手扱いだ。その藤田良平の家の前で自動車を止めて、妹が降りた。そこから私の生家までは四半里ばかり九尺幅の一本道だ。
「村人が町へ働きに出始めると、村落共同体の崩壊は早かったな。止めは農協の合併で統廃合が進み、木谷支所が廃止されたことですよ。木谷郵便局も民営化で廃止になったし。企業の経営原則で組織を合理化すれば、木谷は切り捨てられるだけですよ」
そう言い終ると同時にアクセルを踏み込み自動車は音を高めた。
学校卒業後にも木谷に残った藤田良平の無念さが私の胸に突き刺さった。私は村を出ていった大勢の若者の一人だ。車体を震わして車は短い坂を登って石柱門の間を屋敷へ入った。
玄関前の車回しに止まると、藤田良平は「よいしょ」と掛け声をかけて車を降りた。私もそれに倣って降りたが、玄関前に立って家が意外と小さく古ぼけているのに驚いた。幼い頃には近所の仲間とかくれんぼしても容易には見つからないほど広かった記憶がある。山全体が唸りを上げるような嵐が来ても、谷間を稲妻が走って雷がゴロゴロと鳴っても、家の中にいさえすれば守ってくれるような堅固な頼もしさを感じたものだった。
「アンティークな民家といった風情だな。引き戸もアルミサッシじゃないや」
亮は元気を取り戻したように戸を開けて先に入った。
入った所は昼間でも薄暗い土間だ。その突き当たりに一抱えほどの大黒柱が礎石の上に据えられ、梁を支えて屋根裏まで伸びている。その横の障子を開けると囲炉裏の間だ。
亮は靴を脱ぐと土間から座敷に跳び上がった。すると私が案じて声をかける間もなく、上背のある亮は鴨居に頭をぶつけて大袈裟に悲鳴を上げた。
「亮ちゃん、気をつけてね」と、妹が玄関先から声を掛けて助手席の荷を引き出した。
囲炉裏で鍋物でもしようというのか、家から材料を持ってきたようだ。
「家から乗ってきた軽トラを置いて帰るから、兄さん足代わりに使ってね」
私に声をかけると、妹は両手に目一杯膨らんだレジ袋を下げて勝手口へ向かった。
田舎で暮らすには何はともあれ自動車は移動手段に必要不可欠だ。
「ああ、済まない。助かるよ」とこたえて、私は妹の後姿を見た。
妹が両手に下げ持つビニール袋の異様な大きさに嫌な予感がした。四人で食べるには食材の量が多過ぎる。私は靴を脱いで上がり、囲炉裏端に座って種火をほじくった。
「誰を呼んでいるんだ、今夜は」
松葉をくべて、燻り出したところで息を吹きかけて火を熾した。
そうした呼吸は身に沁みついている。炎が燃え上がったところで小枝を細かく折って松葉の上にくべた。亮は面白がって子供のような眼差しで私の手元を覗き込んだ。
「今も屋敷に出入りしてくれている親しいオトナたちだけよ」
妹は土間の窓際に作られた台所で鍋に入れる食材の獅子肉の筋切りをしたり、白菜や葱などの野菜を刻みながら囲炉裏端の私へ声を励ました。
やはりそうだったかと頷くものを覚えながら、私は薪を燃える火の上に置いた。人が暮らして手を入れている限り家は百年でも二百年でも持つが、人が棲まなくなるとものの十年も経てば朽ちて崩れ落ちるのだ。
自在鍵に鍋を掛けて味噌を溶いた頃に木谷のオトナたちが三人ばかり訪れた。いずれも八十台の矍鑠とした老人たちばかりだった。
別にこれといった懸案事項のある寄り合いではないが、母が倒れたことが知れ渡っているため人々は沈痛な面持ちをしていた。昔でいえば彼らは目加田家の家之子郎党なのだろうが、この時代にそうした言い方は通用しない。
妹が獅子鍋を用意してあるから食べながら話そうと水を向けたが、談笑は弾まなかった。
「坊っちゃん、これから目加田家をどうされるのかの。時代が時代じゃから屋敷を解くといわれても、儂らに文句は言えんのじゃが」
そう言ったのは集落でも取纏め役の家格、昔でいう畔頭役の藤井昭一だった。
亡くなった父より五歳年下だが、私にとって父親の世代であることに変わりない。四六時中彼らから「坊っちゃん」と呼ばれ、辟易していた往時が昨日のことのように甦った。
長年に亙り、藤井昭一は目加田家に詰めて会計役のような働きを勤めてくれた。
戦前から終戦後にかけて、目加田家は地域をひとまとめにした合資会社の事業本部のような役割を果たしていた。祖父が陣頭指揮に立ち木谷でとれる米を使って酒造業や味噌製造に乗り出して、かなり手広く事業をしていたのだ。近くに広島という百万都市の大消費地があるため作る端から売れていたようで、狭い村道を荷を満載した馬車が鉄の轍を軋ませて行き交った。私も腕白仲間と一緒になって馬車の後ろに飛び乗ったりしたものだ。
しかし、繁栄は長く続かなかった。世の中が落ち着いてくると大資本による大量生産が始まり、製造と流通とで差をつけられ赤字を出すようになって撤退した。世代でいえば祖父の目加田修が事業拡大に乗り出し、父の世代が目加田家を破産させないように合資会社を縮小して清算した。その難しい経営の補佐役を立派に務めたのが藤井昭一だ。
「勝さんと綱渡りのような取引もしたが、もう博奕をうてる齢でもない」
そう言ったのはかつて渉外役を勤めた田口弥平治だった。
記憶にある限り、田口さんは何時でも誰かと話をしていた。統制経済が始まり次第に事業がやり難くなっていく時代にあって、田口さんは役場へ出向いたり実地検分に来た役人と折衝したりと、困難を極める話し合いでも持ち前の粘り強さを発揮したものだった。
木谷に大勢の人が暮らしていた当時、この土地から生み出される農産品をすべて活用して自立できる木谷集落を作るのが祖父の信念だった。戦後の物資不足の社会情勢下で合資会社を作り、農産品の生産を木谷集落の振興策として辣腕を振るった。その祖父の下で若手として父とともに汗を流した木谷の功労者たちだ。
「できれば目加田領家をこのまま遺して木谷地域の大黒柱としてお屋敷を守っていただきたい、というのが我等の偽らざる本心じゃがのう、坊っちゃん」
最後に口を開いたのは三人の中でも最年長で、亡くなった父と同じ年の友田半次郎だ。
家格からいえば三人の中で最も高い。目加田家側人の立場で父を支え、しばしば出張で家を留守にした父に代って目加田家の重石として事業の隅々に目を配っていた。
今朝のこと母が倒れているのを発見したのも友田半次郎で、いまも地域で牛乳配達をしながら自分のことのように常に目加田家のことに気を配ってくれていた。
私はまだその礼を言っていなかったことに気づき、慌ててお礼を言って頭を下げた。
「いやいや、儂も年を取ってしまい、牛乳を届けることぐらいしかできんようになって。しかし、偶々それがお役に立って良かったと思うておる」
友田半次郎はすっかり禿げ上がった頭をつるりと撫でた。
今夜の寄り合いが鍋をつっついて旧交を温めるだけのものでないことは分かっている。その眼目は目加田家の今後のことなのだろう。本音をいえば父が亡くなった折に、彼らは葬儀に帰った私を木谷に縛り付けたかったはずだ。しかし母が「優には優の人生があるからのう」と困り果てたように眉尻を下げて頼み、葬儀の夜に集まったオトナたちに頭を下げた。
私が東京へ帰った後でそうした話し合いが持たれただろうと想像に難くなかった。しかし、私は会社で責任ある立場にいたこともあって仕事にかまけて田舎のことに心を割く暇もなく、目加田家がどうなっているのかと考えたことすらなかった。しいていえば私の人生は私のもので、他人に干渉される筋合いのものではないと開き直った気持ちを抱いていた。しかし、それがいかに思い上がったものだったか。私が領家の嗣子としての役割を放擲したため、母が私の代理となって寄り合いを取り仕切り日加田家を守ってきたのだ。私は改めて放擲してきた長い歳月と向き合い、これからも目加田領家を守ってほしいというオトナたちの言葉に黙って頷いた。
これから二十年も経てばここに集まった彼らはおそらくこの世にいないだろう。私だって二十年経てば八十だ。何歳まで生きられるか分からないが、二十年後の更に先のことを見通すことは出来ない。私は今のところまだこれといった持病もなく健康だが、冬の夕暮れに足元から忍び寄る冷気のようにいつの間にか老いが私にも忍び寄っている。朝の洗顔で鏡を見るとそこに私に似た老人を見つけて軽く驚き、それが自分だと認めて歳月の経過を思い知る。人はいつまでも若くはない。地域社会を保つには老若各世代がともに暮らしてこそだ。ごっそりと若い世代の抜け出た地域に確かな未来はどこにもない。
「私が帰ってきたところで、大した働きが出来るわけでもありません。役所が弾いた平均余命が私にも当てはまるとして、目加田家の存続が二十年ばかり延びるだけですがね」
二十年とは四百年近く続いてきた木谷目加田家の歴史と比べればほんの一瞬だ。私にできることといえばその程度のささやかなことなのだと自嘲的な気分になった。
それからも沈痛な雰囲気のまま囲炉裏端の寄り合いは終わった。ただ、亮だけがせっせと獅子鍋に箸を伸ばして一心に食っていた。
翌朝、病院に母を見舞ってから東京へ帰ることにした。
主治医の話では血栓を溶かす薬を投与しているから症状は少しずつ改善されている、ただ言語と左半身に障害が認められるため、リハビリをしてみてから退院後にどのような措置が望ましいか話し合おうという結論だった。亮も帰るものと思っていたが、
「オレは残るよ。別に東京に決まった仕事があるわけじゃなし。お祖母ちゃんを毎日見舞ってやるよ」と、言い出した。
病院の玄関ロビーで突然に亮の意思を知らされて、私は驚いて傍らの倅を見上げた。
「なにを言うかと思ったら、」と、私は亮を見上げたまま言葉を失った。
頼りない子供だと思っていた亮が一人前の分別を備えた大人の顔をして私を見詰めていた。随分と優しそうな眼差しに「領家の坊っちゃん」と呼びかけたくなったほどだった。
しかし、そうした印象を与えたのはほんの一瞬のことだ。亮は表情を崩すと間の悪そうにぼさぼさと長髪の頭を右手で乱暴に掻いた。そしてぶっきらぼうに、
「ただ、パソコンは置いて帰ってくれないかな。電話回線と電気があれば何処でだってゲームはできるから。叔母さんが軽トラを貸してくれるのなら足にも不自由しないし」
そう言ってから「オレの帰りの新幹線代だと思って、いくらかくれないかな」と済まなさそうに付け加えた。そして亮は頭を掻いて右手を差し出した。そのちゃっかりとした仕草に私は大きく心を揺さぶられ心底から後悔した。もしかすると私は長い歳月亮の本当の姿を知らなかったような気がした。
下の子が根気強く一心に勉学に励むタイプではないため彼の人生に多くを期待できないと私は勝手に決め付けていたようだ。そして彼の大事な成長期に深く関わりを持って来なかった私の方こそ、父親として間違っていたのではないかと自責の念が湧いた。
きっと亮はいい加減な少年ではなかったのだ。他人に精神的な負担をかけまいと気配りのできる子供だったのだ。彼が小学生から中学生へと人間として成長する大事な時期に母親は上の子の勉強に掛かりっきりになり、父親の私は会社で責任ある役職に就き胸突き八丁の仕事に没頭して家庭を顧みる余裕がなかった。しかし亮は拗ねるでもなく反抗するでもなく、精一杯スポーツに寂しさをぶっつけていたのだ。
大学を卒業してから五年余り、まともに就職しないで過ぎしてきた生き方は私たちの世代の常識からすると世間でいう負け犬の人生だろう。しかし、若者にそうした分類を当て嵌めることにどれほどの意味があるというのだろうか。亮はこれからも亮らしく人生を生きてゆくだろう。私は無関心をやめてしっかりと見守り、せめてもの償いにこれからは亮を応援する側に回ろうと心に決めた。私は小さく頷いてポケットをまさぐって亮にいくらかの紙幣を差し出した。亮は戸惑ったように私を見上げたが、すぐに笑みを浮かべた。
母の症状が落ち着くまで二三週間はかかるだろう、その間に私は東京で仕事のことや今後のことを考えて始末すべきものは始末しなければならない。余り役に立たないだろうが亮が母の近くにいると思えばいくらか気休めにはなるだろう。
「そうか、何かあったらすぐに知らせるんだぞ」
そう言って、私は亮と肩を並べてざわめく病院を後にした。
新幹線から中央線と乗り継いで、町の駅に辿り着いた頃には夜もすっかり更けていた。
なぜかバスに乗る気がしなくて行列から離れ、二つばかりのバス停を私は一人で歩いた。
昼間に蓄えられた熱がアスファルトから放出されているのだろう、冷えた夜風は頬に心地よかったが、足元から立ち上る厭な温みがカプセルのように身体を包み込んだ。
生きるとは何だろうか。
この世に生まれて六十年余り、私は何をしてきたのだろうか。
アスファルトの舗道に靴音が寂しそうにして、傍らを自動車が急ぐように通り過ぎる。私たちがこの町にマンションを購入した当時は都心から大学が移転しだしたはしりで、駅頭からの眺めもまだ空き地や畑で広々としていた。それが今では景色が一変している。
この町に暮らして田舎の土の匂いや昆虫や木々のそよぎを感じられたのはほんの数年だけだった。あっという間にコンクリートの塊が建ち並びアスファルトが地面を覆った。私もコンクリートの塊で造られた鳥の巣箱のような家に棲んでいる。
私の気持ちはこの一時間余りの徒歩による帰宅の間に定まった。
マンションに帰ると、すべての電気が消えて妻は寝ていた。
「亮はどうしたの」
入浴の支度をしていると起きて来るなり、母の容態よりも先に亮のことを聞いた。
そういう人なのだ、自分の関心と親しさの度合いによって思考の優先順位も現金なほど比例している。悪い人ではないが、気遣いの欠如には時として閉口させられる。
「亮は母の付き添いに残った」
服を脱ぎながらそう言うと、妻は「何なの」と眉間に皺を寄せた。
「まあ、あの子に年寄りの介護をさせるの」
私の前に立ち塞がって、妻は吼えるように言った。
私は辟易しつつ、化粧を落とし齢相応の皺が刻まれた浅黒い瓜実顔を見下ろした。
「冷静に考えろよ。亮に介護が出来るのか。せいぜい母の病状の連絡役だよ」
私は溜息をつくように言ってから、妻の脇を通ってシャワーを浴びに行った。
シャワーを浴びている間、居間で動く妻の気配がしていた。
拭いながら戻ると妻はビールの支度をして私を待っていた。忙しく働いていた頃にはよくあった光景だが、私が閑職に追いやられてからこうした好遇は絶えて久しくなかった。
「さあ、田舎でどんな話があったのか、教えて頂戴」
私の右手の両肘付のソファーに座って、妻はグラスを手にした私を見詰めた。
「何もないさ。母の症状はそれほど重くはないが、後遺症として少しばかり左半身に障害が残るだろうと。つまり、退院してから独りで暮らすのは困難なようだ」
そう言って、私は苦いビールを一気に飲み下した。
いよいよややこしい話をしなければならないのか、と空になったグラスを置いた。
もしもオトナたちの話から先にすれば、妻は即座に田舎の屋敷を処分しろと言うに違いない。その意見の相違は高くて到底超えられない、私と妻と間に横たわる大きな断層だ。懐古趣味かもしれないが、私には田舎を処分しかねる。もしかすると、そのことを巡って私と妻とは決定的に深刻な事態を迎えるのではないか、との危惧が先立った。
「それで、退院後は誰がお母さんの身の回りの面倒を見るの」
――私は嫌よ、との余韻をにじませて妻は聞いた。
眉間に縦皺を寄せて、妻は息を潜めて私を睨んだ。
「症状が安定してから、病院のケア・マネイジャーと相談することになるだろう」
私は役所の人間のような紋切り型の返事をして、不確定な予見を排除した。
「それじゃ、まだ何も決まっていないということね」
安堵したように吐息をついて、妻は大きく頷いた。
妻は従順な子供のように自分の言葉を守った夫に満足しているようだが、私はビールよりも苦いものを噛み締めていた。結婚して以来、私は大事な局面では常に妻の意思を尊重してきたつもりだ。このマンションの購入に際しても、健の中学受験や高校進学に結婚相手に関しても。そして亮の進学にしてもなにもかも、すべて最終決定を妻が下してきた。
私は妻の意思に逆らわず、一歩退いている方が家庭は揉めないで良いだろうと思ってきた。しかし、それが間違いの元だったと、深く反省している。妻は常に自分の意見が用いられるものと思い込み、今では私や健が異論を挟んでも耳を傾けなくなっている。おそらく、それは私が妻ととことん話し合う煩わしさから逃れて、束の間の平穏な暮らしを手に入れてきた私への報いなのだろう。
これまでそうであったように、これからも妻は誰にも煩わされず穏やかな日々をこのマンションで過ごすつもりだ。近所に暮らす友達とおしゃべりを楽しんだり、肥満を気にしながらもプチ・グルメのランチを楽しんだりするだろう。そうした妻の暮らし方も悪くないと思うが、それは妻の選ぶ選択肢であって私のものではない。私は田舎へ帰って先祖から受け継いだ田畑を耕し屋敷を守る選択肢を選ぼう。それが義務とも勤めとも思わないが、私の自然な気持ちがそうしたいと願っている。私は自分の気持ちに素直になろうと思った。この機会を逃すと、終生私があの谷間の集落に帰ることはないのではないかと怖れた。
翌日の夕方、私は会社からの帰りに健と連絡を取った。そして、街のコーヒー・スタンドで待ち合わせた。同じ町に住んでいると、こんな緊急のときに便利だ。健は母親に似たのだろう、顔の輪郭は瓜実顔で上背は私より少しばかり低かった。
夕暮れの大学町のスターバックスは若者たちで込み合い、私たちは隅の席で向き合った。
「お母さんが携帯に電話してきたけど、お祖母ちゃんが脳梗塞で倒れたんだって」
と、座るなり健が聞いた。
「ああ。だけど幸い発見が早くて大事には至らなかった。しかし、治ったとしても後遺症が残って、独りで暮らすのは無理だということだ。それで相談がある」
と私が言うと、聡明な健はすべてを察知したかのように頷いた。
「田舎へ亮がついて行ったと、お母さんが言っていたけど」
健はそう言ってコーヒーを啜った。
「ああ、どういう風の吹き回しか亮は田舎の家に残ってお祖母ちゃんに付き添っている」
私は怪訝な思いにとらわれて、健を見た。
普段、兄弟の仲は余り良いとはいえない。生き方がまったく違う二人が親密になる方が無理なのだろう。ことにまともな就職もしないで実家にパラサイトしてフリーターのような日々を過ごしている無目的な亮を健は嫌っていたはずだ。普段健は私や妻に電話してきても用件だけを手短に話して切り亮の近況に及ぶことはなかった。それがなぜ唐突に亮のことを聞いたのか。すると私の怪訝そうな眼差しに答えるように、
「お祖父ちゃんが言ったんだ。優は都会に取られたけど、孫の健か亮のどちらかに木谷へ帰ってきて、屋敷を守ってもらえると嬉しいんだがなって」と、呟くように言った。
――だから亮が田舎に帰ったのか、と私は大きく目を見開いた。
私は驚いて健の双眸を見た。すると健は一つ頷いてから口を開いた。
「そうなんだよ。いつだったか兄弟二人だけで帰郷したときがあったけど、その時にお祖父ちゃんと亮は約束したんだ。だが亮はまだ中学生になる前のほんのチビで、田舎を嫌っていたお母さんにそのことを言い出せずにいたんだ。いい加減な弟だと思っていたけど、あいつは本気だったんだな」
フリーターを決め込んでまともに就職活動をしなかった亮の気持ちを推し量るように、健は遠くを見る眼差しをガラス越しの雑踏へ向けた。
十数年も前に、私の知らないところで亮は父と約束していたのだ。
「そんな約束をしていたなんて、父さんは知らなかったぞ」
私はやや心外そうに、声を尖らせた。
「お父さんは勝手に田舎を出て都会で暮らしたけど、ずっと家を守ってきたお祖父ちゃんの気持ちを考えたことがあったの」
健は非難するような口吻で言った。
そういわれてしまえば、私には黙るしかない。しかし、高度経済成長期に田舎から都会へ出た若者は私だけではなかったはずだ。今も毎年のように全国各地から大都会を目指す若者は後を絶たない。しかし、確かに私には非難されるだけの資格がある。父の気持ちを痛いほど知っていながら、自分の意のままに田舎を捨てたのだから。
「健のいう通りだ。父さんは若いときに田舎を捨てた。だがこの齢になって遅ればせながら木谷へ帰ろうと思っている。そこで相談だが、」
と、私は本題に入るべく声を落とした。
「亮が木谷へ帰ると決めているのは計算外だったが、いずれにせよ父さんは田舎へ帰ろうと思っている。ただ、母さんは田舎へ行くのを嫌がるだろうから、お前たち夫婦がマンションで一緒に暮らすというのはどうだろうか」
私は哀願するような眼差しで健を見た。
妻の両親は終戦直後に東北から着の身着のままで上京してきた。身を粉にして懸命に働き、私の暮らす町の駅より二つばかり都心に近い駅のある町に、敷地二十数坪の良く似た家が線路沿線に並び立つ建売住宅の一つを購入して暮らしていた。結婚した当初はちょくちょく健を連れて行っていたが、妻の弟が結婚して狭い家に同居すると私たちが訪問する余地はなくなった。十年近く前にすでに妻の両親は亡くなっているが、弟夫婦と家族の暮らす実家との行き来は疎遠になったままだ。
妻もいつまでも若くない。近所の仲間と元気に飛び跳ねていられるのもここ十数年ほどのことだろう。やがて体が弱って歩行が辛くなり、そしていよいよ自由が利かなくなったら、木谷の屋敷へ引き籠るのも良いだろう。
「そういうことか。お父さんの臍の緒はまだ木谷と繋がっていたんだね」
健は了承したように微笑んだが、それも一瞬のことですぐに顔を曇らせた。
「だけどお母さんにはいつ、どのように話すんだ」
囁くように言って、健は私を見詰めた。
いつまでも子供だと思っていたが、大人の英知を窺わせる眼差しから私は目を逸らした。健から指摘を受けるまでもない、私に課された最大の懸案事項はそれだ。
「いずれにしてもお祖母さんの病状が安定し、退院後の措置をどうするかが問題となったときに、話さなければならないだろう。その前に予め母さんに話してわざわざ険悪な状態を早くから作らなくても良いかと。しかし、父さんがそうした心積もりだということを健には知っていてもらいたいと思ってな」
そう言って、私は軽い自己嫌悪に陥りながらコーヒーカップに視線を落とした。
人は誰しも自分自身をまともだと思っている。少なくともそうだと思い込みたいものだが、実は様々な歪みを抱えた存在だと気付くことがある。長年夫婦として暮らしてきた妻と田舎へ帰るか否かの対話を避けて、一日伸ばしに結論を先送りする私は潔くない、男の風上にも置けないヤツだといわれればまさにその通りだ。自分ではそうではないと思っているが、客観的に見ればたぶん私は女々しいほどに優柔不断なのだろう。
「ああ、良く分かった。茜にもお母さんと同居する覚悟をしておくように伝えるよ」
そう言うと、健はコーヒーを飲み干した。
その夜、亮からインターネットで母の様子が送られてきた。
どうやって亮が目加田の家の電話回線の設定をADSにし、誰からビデオカメラを借りUSBカメラの段取りをつけたのか、病室の母を動画で流した後に自分が画面に登場した。
「叔母さんから借りたビデオで病室のお婆ちゃんを撮った。このUSB映像は家にあった古いデジカメにそうした機能が付いていたからそれを小さな三脚に据えて写している」
と、亮は得々として解説してみせた。
「今夜の報告はお祖母ちゃんが惚けたと叔母さんが心配していることから。お祖母ちゃんが変なことを口走って暴れる、ということからベッドに縛り付けられている」
そう言って、拘束帯で胸の辺りをベッドに縛り付けられている母を映し出した。
一緒に見ていた妻は「まあ」と驚きの声を上げて液晶画面から顔を逸らした。
「オレが見る限り、叔母さんが大騒ぎするほど惚けたとは思えないんだがな」
そう言ってから、亮はビデオ画面からUSBカメラの画面に切り替えた。
「亮はどうして田舎に残ったの、早く帰っていらっしゃい。仕事に出ないと登録している派遣会社を馘になってしまうわよ」
妻はデスクトップPCの横に設置されているUSBカメラに向かって叫んだ。
「ちゃんと聞こえているよ。そんなに叫ぶとノート・パソコンの小さなスピーカーの声が割れて聞き取り難いから止めてくれ。仕事だけど派遣会社の一つのコマとして働くより、オレはここで何かを始めようと思っている」
そう言って、画面の中の亮は笑った。
「なにかって何よ。そんな田舎にどんな仕事があるっていうの」
妻は声を裏返して絶叫し、舞台女優のように大袈裟な身振りをした。
「お母さん、叫ばないでくれよ。オレはもう餓鬼じゃない。話を聞いて欲しいんだ」
辛そうに眉尻を下げて、亮は妻に落ち着くように声をかけた。
「オレは半日でホームページを立ち上げたんだ。『囲炉裏のある田舎暮らし』って題で。宿泊して田舎体験をしたい者は来いってページだ。広い屋敷の囲炉裏端で田舎の鍋料理を食べたらご機嫌だぜ。早くも予約を申し込みたいとメールが来ている」
亮は朗らかに言ったが、私はある種の危惧を覚えた。
「おい亮、宿泊施設として営業するのなら行政の指導を受けなければならない。そして基準を満たす設備をして営業許可や消防署などの防火検査を受けなければならないぞ。田舎料理を食べさせるのなら保健所の許可も必要だ。そうしたきちんとした手続きを経なければ営業をしてはだめだ。そうだ、橋袂の田口のおじさんに相談してみろ、詳しく手続きについて教えてくれるから」
そう言って、私は画面の亮に頷いて見せた。
田口弥平治なら役場との折衝はお手のものだろう。年は取ったが私の父を助けて破綻寸前の合資会社を清算した男だ。私が更に何か言おうとするといきなり妻が凄まじい力で私を押し退けて、USBカメラの前に身を乗り出した。
「あなたは何を亮に吹き込んだの。都会育ちのウチの子に蝮や百足の出る田舎の暮らしは無理よ。亮、明日にでもそんな田舎から帰っていらっしゃい」
妻は私をなじってから、哀願するように亮に訴えた。
しかし、亮はヒラヒラと右手を画面の中で振って笑顔を見せた。
「いや、オレはここの暮らしが結構気に入っているんだ。明日は藤井のおじさんからウチの農機具倉庫にあったお祖父ちゃんのトラクターの扱い方を教えてもらうことになっている。耕作放棄されている田を鋤き起こしてみようと思ってトラクターのエンジンをかけて整備していたら、近所の人たちが驚いて駆けつけてきたよ。かえってオレの方が驚かされたけど、トラクターの運転免許が必要だから当分屋敷の周りで動かし方を習うんだ。それからサッカー同好会を作ってみようとも思っている。岩国は十五万人もの大きな市だが、プロ・サッカーチームもない。九州の鳥栖はたった六万余りの市でプロ・サッカーチームがあるんだぜ。いきなりプロは無理だろうから、まずはサークルから始めるつもりだ。ホームページを立ち上げればサッカー仲間を募るのは簡単なことさ。ここは気に入ったが、ただ皆から「坊っちゃん」と呼ばれるのには閉口するよ」
それだけ言うと、亮は問い掛けた妻を無視して一方的にパソコンのスイッチを切ってしまった。妻は逆上したように騒ぎ立てたが操作方法を知らないため、しばらくエンターキイを叩いていたがやがて諦めた。
それから数分後に電話が鳴った。
居間の子機で取ると、妹の綾からだった。
「母さんの様子がおかしいの。惚けが始まったようだし、昨夜は暴れてベッドから落ちたりしたから、可哀相だけどベッドに縛り付けているの。早く来て頂戴」
送話器の向こうで妹は泣き出さんばかりに取り乱していた。
微妙な気持ちのあり方までも何もかも分かり合ってきたはずの、母親が突然惚けたという。突然他人のような母を目のあたりにして妹は不安になったのだろう。
「母さんが惚けたって」
と、私は妹の言っている意味を図りかねて聞き返した。
軽度の脳梗塞で混濁していた意識が甦り、快方へと向かっていたものが突如として悪化して惚けるものだろうか。それとも新たな梗塞を発症して危機的な状況に陥ったというのだろうか。私は受話器を握り締めた。
「わけの分からないことを言って、左半身が麻痺しているのに暴れてベッドから落ちたの」
なおも、妹は同じ言葉を繰り返した。
すると、電話の遣り取りに聞き耳を立てていた妻が私に訊いた。
「お母さんが惚けたの、」
と、それはいかにも厭なことを確認するような口吻だった。
私は手を振って邪険に妻を追い払い、受話器の妹に落ち着けと叱った。
倒れた直後に見舞ったとき、母の意識はそれなりにしっかりしていた。確かに舌が縺れるのか言葉が不鮮明だったが、私との受け応えは充分に出来た。
それから治療が始まり脳梗塞の元凶となった血栓を溶かす薬を投与している。麻痺は残ったとしても当初より意識障害は改善されているはずだが、反対に再び脳梗塞を起こして意識障害が進行し惚けたというのだろうか。そうしたことはありえないと私は思った。そうではなく反対に意識が鮮明になってきたからだろう。妹にとって思いも寄らないことを母が言い出し、妹にとって意味不明のことを母が言い出したと受け止めて混乱し、母が惚けたからだと思ってショックを受けたとしても不思議ではないだろう。
受話器を握りかえして「明日、必ず病院へ行くから心配するな」と、私は言った。
受話器を置くと、驚いたような眼差しで私を見上げる妻と向き合った。
いよいよ妻と話さなければならない時がやってきたのだ。椅子に座るように促して、私もソファーに腰を下ろした。
「私は東京の暮らしに終止符を打って、木谷へ帰るつもりだ」
私が動かし難い事実のように静かに告げると、妻は絶望の色を浮かべて「何を言うの」と短く叫んだ。
これまでついぞ聞いたことのないような、寂しそうな妻の涙を含んだ声だった。
「このマンションはどうするつもり、仕事だってどうするの。年金はまだ戴けないのよ」
妻は動揺する気持ちを抑制するように、震える言葉でゆっくりと聞いた。
妻の気持ちを落ち着かせるように、私もゆっくりと何度か頷いた。
「年金支給開始を五年も勝手に伸ばしたこの国の示すモデル・ケースからいえば君の言うとおりだろう。六十五歳までは何とか子会社で働く方が健康のためだけでなく、経済的にも良いのだろう。しかし、母の容態はそんな悠長なことを許してくれる状態じゃない。これは私の勝手な願いだが、私は木谷の屋敷で暮らして母を看るつもりだ」
私がそう言うと、妻は飛び跳ねるように背凭れから体を浮かせた。
「私はどうなるの。私はあんな田舎へなんか行かないわよ。泥にまみれて畑や田に出るなんて考えただけでもぞっとするわ。紫外線で肌は荒れるし、そこらじゅうに蛇や百足がいて気色悪い」
強い口調で詰るように言って、不意に妻は泣きそうに口元を歪めた。
「あなたは私を捨てて、お母さんの許へ帰るのね。あなたはそんなにマザ・コンだったの」
涙声で言って、妻は私を恨めしそうに睨んだ。
「残っている退職金を折半しよう。健にはアパートを引き払ってこのマンションで君と一緒に暮らすように言ってある。君だってもうじき老人だ。独りで暮らすのは良くない」
私は諄々と説得するように言ったつもりだが、妻は怒ったように眉間に皺を寄せた。そして、握り締め拳で目元を拭うと、
「余計なお世話をしないで頂戴。健とは暮らせても、健の嫁とは暮らせないわ。いいわよ、私は亮と暮らすから、」
と言い掛けて、はっとしたように妻は言葉を切った。
「まさか、亮までも私を残して田舎へ行ってしまうのではないわよね」
と、哀しそうな声で聞いた。
日課のように亮と親子喧嘩を繰り広げていたのを忘れたかのように私を睨みつけた。
「亮は十数年も前に父と木谷の家を継ぐと約束をしていたようだ。それに亮だっていつまでも一人じゃない。遠くないいつの日にか最良の伴侶と所帯を持つだろう」
少し辛かったが、私はそう言ってソファーから立ち上がった。
妻を一人にするのは忍びないが、多分彼女には田舎暮らしでは納まりきれない元気な身体と人生を楽しむ貪欲さがまだ充分に残されているのだろう。マニュキュアをした指で畑の土いじりは無理だが、齢の近い仲間とショッピングを楽しむのに不都合はないはずだ。
「君の人生を選ぶのは君自身だ。田舎に来るも良し、健たちと一緒に暮らすも良し」
それだけ言うと私はジャケットを脱ぎ、シャワーを浴びにバスルームへ行った。
昼過ぎに新岩国駅に着くと、亮が軽トラで出迎えてくれた。
ジーパンにTシャツスニーカー姿の亮はこの地に暮らす若者のように景色に溶け込んで違和感はなかった。
「お祖母さんが惚けたと、叔母さんが電話で言っていたけど」
軽トラに乗り込むと、私は亮に聞いた。
「携帯でオヤジからそう聞かされたが、オレはお祖母ちゃんが惚けたとは思わないがな」
亮はハンドルを大きく切りながら、力の籠もった声でこたえた。
既に夏の日差しを思わせる六月の街を軽トラは全力で駆けた。スピードを上げると耳を劈くばかりの騒音で、六十数デシベルの静かさを競う高級自動車とは無縁な乗り心地だ。しかし、亮は全開の窓から吹き込む風に長髪を靡かせて、家にいたときとは別人のように生き生きとしていた。
「集落の人たちから坊っちゃんと呼ばれているんだってな」
私は揶揄するように亮を見た。
「うん、誰も彼もがオレのことをリョウケの坊っちゃん、と呼ぶから「リョウケ」って何だ、と聞くと昔から伝わっている屋号でウチのことだって。木谷の人たちが一人残らずウチのことを知っているのには驚いたな。お父さんが田舎のことをあまり教えてくれなかったから、オレは故郷で面食らうことばかりだ」
ハンドルを握って前を見たまま、亮は満更でもなさそうに言った。
私は坊っちゃんと呼ばれるのを拒否して十八の齢に木谷を出たが、亮は二十七にして木谷の人たちから親しみを込めて坊っちゃんと呼ばれている。つまり亮が祖父と約束したのは自分のことを「領家の坊っちゃん」と呼ばれる約束でもあったのだ。
「小学生の頃からお祖父ちゃんと約束していたんだってな、お前が木谷の家を継ぐと」
私が聞くと、亮は「うん、お母さんやお父さんには黙っていたけど」と呟いた。
「儂の育て方が悪くて一人息子が木谷を出て行った。目加田家が自分の代で滅んではご先祖様に申し訳ない、とお祖父さんが泣きそうな顔をしたんだ」
亮はそう言って「本当にかわいそうだったんだから」と小さく言葉を足した。
父は自分の代で木谷目加田家が絶えるのを心底心配していたのだ。小学生だった亮が家を継ぐと約束してくれて、頼りない子供の言葉にもいくらか安堵したのかも知れない。そうした意味で亮は私がなしえなかった親孝行を私に代って果たしてくれたことになる。どうしようもない次男だと思っていた亮が頼もしく見えてきた。
マニュアルのミッションをこまめに切り替えて、亮は何年も乗ってきたかのように手馴れた操作で混雑する旧国道を市街地へ駆けた。
病院に着くと、母の病室へ向かった。
母がいた部屋へ入ろうとすると、亮が私のジャケットの袖を引いた。
「お祖母さんが暴れてベッドから落ちたから、怪我をさせてはいけないとナース・センターから見える部屋の入り小口に移されたんだ」
亮はそう耳元で囁き、先に立って歩き出した。
そしてナース・センターの廊下を挟んだ斜向かいの部屋へ連れて行かれた。母はその部屋の入り小口のベッドに寝かされていた。
拘束帯で縛られて母は虚ろに目を開けていた。ひどく不安そうな目だった。
妹が電話で知らせてきたように、母は惚けてしまったのだろうか。私は開け広げられたままのカーテンを入った。
「お母さん、分かりますか」
私はベッドの上の母に顔を近づけた。
すると、母は「すぐる」とたどたどしく言った。そして私が来たと分かると、
「お祖父さんは何処へ行った」と、覚束ない舌を操って訊いた。
母のいうお祖父さんとはおそらく私の父の父、目加田修のことだろう。明治二十八年に生まれて昭和五十三年に八十三歳で亡くなっている。私は母が何を言い出したのか理解に苦しみ、力のない双眸を覗き込んだ。しかしその瞳の底に正気の色を見つけて、私は母が何を考えているのか咄嗟に判断した。
「お祖父さんは目加田の家にいるよ」
私は母を安心させるように微笑んだ。
しかし、母はにこりともしないで「お父さんは何処にいる」と再び訊いた。
「お父さんもお祖母さんも、みんな木谷の目加田家にいるよ」
私がこたえると、母はやっと安堵の色を見せて「家におるかの」と呟いた。
そして不安そうな眼差しで、何かを訴えるように私を見詰めた。私は母の眼差しに応えて、二度三度と頷いた。
「お母さん、心配しなくて良いよ。お母さんの跡を継いで僕が仏壇をお祭りしていくし、僕の跡は孫の亮が領家を継いでちゃんとご先祖を祭っていくから」
私がそう言うと、突然母は顔をくしゃくしゃにして、不自由な手でシーツを目元に引き上げると嗚咽を漏らした。旧家に嫁いだ女として気丈に振舞ってきた母が泣くのを見て、私は心を強く揺さぶられた。長い年月、家のことで母の心に負担をかけてきたのは私だ。
「そうかい、安心した。嬉しい」
顔をシーツで覆ったまま、母は覚束ない声でそう言った。
涙を拭ってシーツから顔を出すと、母は力のある笑みを浮かべた。
「暴れてベッドから落ちたそうだけど、お母さんは木谷の家へ帰ろうとしたの」
そう聞くと、母はかすかに頷いた。
「木谷へ帰りたい」
母はそう言って、焦点の定まらない眼差しで私を見詰めた。
脳梗塞で倒れて病院へ救急車で搬入された当初、母は自分の身に何が起こっているのか分からなかったのだろう。しかし治療が始まり脳の障害が次第に回復してくるにつれて病院の一室に寝かされているのに気づいたのだ。ふと考えてみれば目加田の家には誰もいない。仏壇の開閉はもちろん、仏様の世話をする者もいない。正気づいた母は不自由な体で必死にもがき帰ろうとしてベッドから落ちたのだ。
「治療からリハビリに移って、目処がついたら退院だからね。もう暴れないように」
私は母に言い聞かせて病室を後にした。
私個人の気持ちとしては母を目加田の家に連れて帰りたい。しかし、それは介護に素人の者の抱く感情的な意見だ。ここは専門家の意見を聞かなければならない。母の障害がどの程度なのか、それに対してどのように対処するのが母にとって負担が少ないのか、ケア・マネージャーと退院後の母の介護について相談しなければならないだろう。
ただ、母が惚けていないと分かって、心の奥底に安堵するものがあった。
病院のケア・マネージャーとアポを取って病院を後にした。
亮の運転で目加田の屋敷に帰ると、私はすべての戸と窓を開けて亮と二人で大掃除をすることにした。せめて母屋だけでも締め切っていた家に風を入れ、埃っぽくなった板の間に雑巾掛けをしようと亮と手分けして取り掛かった。
すると間もなくオトナたちと数名の若者たちがやって来た。私が昔ながらの雨戸を開けて戸袋に押し込んでいるのを、田植えを終えて水廻りをしていた人が屋敷の様子を見て仲間たちに伝えたのだろう。代表格の田口弥平治が勝手口に顔を出すと、
「坊っちゃん、領家の大掃除を手伝わさせてもらいますよ」
と言うが早いか、ぞくぞくと上がって来て亮の周りで掃除を手伝い始めた。
私は怪訝な思いにとらわれながら数枚の雨戸を戸袋に押し込めると、腰を伸ばして集落の人たちを見守った。田口弥平治から坊っちゃんと呼ばれたのはどうやら私ではなく亮のようだった。
その呼び名を亮は抵抗なく受け入れて「ああ、田口さんお願いします」と雑巾掛けしていた手を止めて気軽に声を返している。誰とでも打ち解ける人付き合いの良さは子供の頃から自然と身に付いていたものだと、私は改めて亮の少年時代を思い出した。集落の数少ない若者たちといつ出会って話したのか、亮はタオルを頭に巻いた一人一人と談笑しながら井戸端で水を汲んで広い板の間に雑巾掛けをした。
母が倒れてから一週間、屋敷は一度も掃除されなかったのだろう、随分と埃が舞った。二時間ばかりかけて隅々まで磨き上げると、家は随分とすっきりしたように見えた。
掃除を終えると自然と全員が仏間に集まり、仏壇を開けて線香を供えた。そして父が亡くなった後母が独りで守ってきた先祖の位牌に向かって、銘々が両手を合わせて頭を垂れた。領家は私たちだけの家ではない、ずっと集落の象徴だったのだ。
夕方、妹から私の携帯に電話があった。
「昼過ぎにお母さんを見舞ってくれたそうね。先ほど行ってみたらお祖父さんは何処へ行ったかと変なことを訊かなくなって、お母さんがしゃんとしているのに驚いちゃった」
嬉しそうに、妹は言った。
私は妹の言葉を聞きながら「元々母は惚けてなんかいなかったんだ」と言いたかったが止めた。長年にわたって母や妹の心に家という重荷を負わせていたのは私なのだ。
症状が回復するにつれて、母は自分を取り巻く状況をはっきりと認識した。むしろ惚けなかったからこそ話がややこしくなっただけだ。これから母の余命が何年あるか分からないが、生ある限り私はこの木谷の地で暮らそう。亡父と息子が交わした約束は私と父との約束でもある。
終わり