金魚草を逃がしたのは誰
赤、オレンジ、黄色、桃色、黄色、白の花が花壇を彩っていた。
そんな花壇の前に、麦わら帽子を被った男が一人座りこんでいた。首からどこかの温泉で貰ったような白いタオルを引っ掛けてね。
彼は手を花壇に突っ込んで何かをしていたけれど、ボクに背中を向けていたからはっきりとは見えなかった。
ボクはそれをチラチラと気にしつつ、公園の大きな樹の下に出来た日陰の中で本を読んでいる振りをしていた。「あまりジロジロ見てはいけない」そう自分に言い聞かせながら。
どうしてボクがそんなに彼を気にしていたのか。まずはキミにそれを話さなくてはなるまいね。
そう、それは一週間前の事だった。
あの日もボクは、この公園でお気に入りのこのベンチに座って、本を読んでいた。暦は初夏だけれど木陰はひんやりとしていたし、なにより強い日差しを反射した紙が白く光って眩しくなったりしない。その時はY・I・スプリングの「金魚草を逃がしたのは誰」というミステリチックな題名の短編小説を読んでいたのだった。
物語の始まりは一匹の黒猫がレストランの裏手で残飯を漁ろうとしてシェフに追いかけられるところから始まった。黒猫かれはとてもお腹を空かせていたんだ。そうしてふらふらと街を彷徨っていたら、不思議なお婆さんに出会った。彼女は彼に植物の種をくれた。小さな小さな種だ。
お婆さんはそれをくれる時、彼にこう言った。
「彼らを決して逃がしてはいけないよ。蕾が付いたら決して目を離しちゃいけない」
彼はすぐにそれを植えてみたんだ。不思議なことに、その種はするすると成長した。六日で大きく成長したその植物は、お天道様の方を向いてすっくと伸び、そして花の蕾を付けた。
花の名前はスナップドラゴン。日本語では金魚草。
彼は落胆した。それは、豆の種でもなく果物の種でもなかったのが分かったからだ。彼は食べ物でないことに気が付いて、つい目を離してしまったんだ。お婆さんの言葉を忘れてね。その視線の先に何があったのかは分からない。だけど、きっと小鳥だとかビスケットを齧りながら歩いている子どもなんかを見ていたのかも知れないね。
彼が目を離している最中、何が起こったと思う?
それは読者だけが知っている。
金魚草の蕾が花開くと、そこには不思議な光景があった。
赤やオレンジ、黄色、ピンク、白……鮮やかなレースにも似たひらひらしたヒレを揺らして、丸々と肥えた金魚が口をパクパクさせて生っていた。もちろん人間は金魚は食べない。だけど、彼は猫だったね。
そうして落胆した彼が目を離している隙に、幾つかの金魚は茎を噛みちぎってフワフワと飛んで逃げたんだ。そいつらは、あっという間に手が届かないくらい高く飛んだ。残りの金魚は、あっという間に枯れて不気味な形の莢さやを残していった。それは茶色くて、孔が三つ開いていて、まるで髑髏しゃれこうべのよう。
再び彼が金魚草に視線を戻した時には、全ての事は終わっていたんだ。
そして、おそらく彼は餓死して死んだんじゃないかな。
ボクは作中の彼を「バカな猫だ」と蔑むこともできずに、何とも言えない読後感に苛まれながら本から目線をあげた。すると麦わら帽子に首からタオルのあの男が何処からともなくフラフラと現れたんだ。
そして嬉しそうに、公共の花壇であるのにも関わらず何かを土の中に埋めた。
ボクはそれを咎めるなんてことは頭になくて、ただそれを見ていた。
男はゴミ箱から空のペットボトルを拾い上げると、公園の水飲み場でそれを濯ぎ、水を汲んでその何かを埋めた場所に丁寧に水を掛けていた。
翌日もボクは同じ場所にいた。
ベンチに座る前にふと思い立って、昨日あの男が何かを埋めた場所を覗いてみることにした。すると、驚いたことに明らかに何かの花の双葉が出ていたんだ。雑草の芽ではないしっかりと太い茎の肉厚な双葉が空へ向けて両手を広げるように伸びていた。
ボクがベンチに腰掛けて本を読んでいると、あの男が今日も現れた。そして、あの双葉を見付けると、飛び上がらんばかりに喜んだ。その時、風が吹いた。風はボクの手の中にある文庫本のページをパタパタと捲った。そして、イタズラな風は彼の麦わら帽子をふわりと奪ったんだ。
そこにボクが何を見たか。
聡いキミならもう薄々勘付いているんじゃないかな。
そう、麦わら帽子の下には、彼の髪と同じ黒くて艶々した毛に覆われた、先が丸っこい大きな三角の耳があったんだ。
男は慌てて麦わら帽子を風から奪い返し、頭に戻した。
ボクは咄嗟に持っていた文庫本を顔の前に掲げ、表情を隠したよ。
胸はドキドキと早鐘を打っていた。
こんな事が本当にあるもんか。何度もそう自問自答したさ。
この日は男が花壇の前から居なくなるまで、ボクはそのベンチを離れることが出来なかった。
男が種を植えてから三日目。植物の芽は、本葉を伸ばし丈も大きく成長していた。
男は喜んでせっせと水をあげていた。そう、初日に拾ったペットボトルでね。
四日目。自分でも可笑しくなるけれど、ボクは毎日その公園に通い、いつものベンチに座って彼を待っていた。手には文庫本を一冊抱えているけれど、もはや視線を隠す為だけに用いられているようなものだった。
彼が植えた植物は大きく育ち、花壇の花の背丈を抜いていた。葉も茂り、びゅんと伸びた茎には、色こそ付いていないけれど小さな花の芽のようなものが見てとれる。
これは金魚草だって何故か直感的にボクは思ったんだ。これまで金魚草が花を咲かせる前の姿を見たこともなかったのにね。
五日目、男が花壇で育っている植物を見て、ウキウキとした雰囲気を醸し出していた。
おそらく花が咲くのを期待しているのだろう。目だけはキラキラとして、そして彼の身体は空腹の為かフラフラとしていた。金魚草の花蕾は大きく膨らみかけていた。
そして六日目。彼の見ている前で金魚草は花開いているはずだった。ボクの位置からはそれが見えないから、金魚草が普通の金魚草なのか、はたまたバカな想像とキミは笑うだろうけど丸々と肥えてパクパクと口を開けたり閉じたりしている金魚が生っているのか確認することは出来なかった。
彼は片時も目を離さず、そこに屈みこんで何かをしていた。
ボクは回り込んでその様子を見てみたい衝動を必死に抑えていた。
そしてしばらくすると彼は満足そうに花壇を離れて行ったんだ。
ボクは、彼が公園から完全に姿を消したのを確認してから、そうっと花壇に近寄ってみた。
するとそこには、花だけを毟られた金魚草の茎だけが何本も虚しく空に向かって伸びていたんだよ。