第三話
取り返しのつかない勘違いを起こすも気が付かず
☆
「……やっぱり、駄目か?」
警戒しているかのようにぴくぴく動くウサミミ様に威圧されつつ、女の子の口元に差し出した匙に目線を落とす。
どこもかしこも棒の様で、こんなに弱っているのに。
このまま粥も食べてくれないなら俺にはどうしようもない。食べられなければ点滴もないこの世界では餓死するしかないだろう。
少なくとも飴は食べてくれた。よくよく考えれば、あの飴は玄米を発酵させて使用するタイプの水飴がベースになっているはずなので米アレルギーでもないはずだ。
とすれば、極限状態でさえ飴を一粒だけ食べておいて粥を食べてくれない理由は違うところにある。
飴を受け取った以上、毒見するパフォーマンスをしておいてなんだが、俺の容姿から来る恐怖などで拒絶しているわけではないだろう。
飴は薬と考えれば別だが、どこまでいっても嗜好品の域を出ることはない。生きるための糧ではなく、あくまでも楽しみなのだ。およそ一般的な主食を中心に構成される食事とは異なり、生きることを目的として摂取する栄養にはなりえない。
食事を拒む女の子にもう一度目を向ける。
どうしてこの子は生きようとしてくれない。
硝子玉みたいに生気を無くしたような目になっても、初めて食べたであろう飴に驚く感性を持っているのに。
俺のような見ず知らずの怪しい男さえ信じようとしてしまうのは、生きたいからではないのか。
部外者の勝手な言い分だとわかっているが、いつの間にかこの子には生きていてほしいと、幸せになってほしいと思うようになっていた。出会って二刻ほどしか経っていないのに不思議なものである。
「なあ、どうしても食べたくないのか?」
思わず懇願するように尋ねる。
硝子さながらの無機質さを残しつつも、その瞳が揺れたのがわかった。
「頼む」
卑怯かと思ったが、畳み掛けるように言った。
女の子は薄く荒れた唇を噛みしめ俯いてしまったが、数分と経たぬうちに顔を上げて口を開いた。
「……まな、なまえ、なまえをください」
会ってから初めて聞く女の子の声はかなり掠れていたものの、鈴を転がすような高くて子どもらしく可愛い声音だった。
疲れのせいか緊張のせいか舌がもつれているようで舌足らずな口調だが、言ってることは十二分に聞き取れる。しかし、名前をくれという言葉の意味がわからず一瞬固まってしまった。
「まだわたしなまえないから、たべれないです」
……お、おう。
そういうものなのか?
国が違えば文化も違うと言うが、獣人は食事を貰うにもなにかしらの規則でもあるのかもしれない。
ってこてはあれ、今まで粥を食ってくれなかったのって名前がなかったから、なのか……?
「名前か、了解した……少し待て、考える」
目の前の子が生きたくないと思っているのではなく、戒律かなにかのせいだと思うと急に安心して気分が上昇してきた。
なんだか娘に名前を考える父親はこんな気持ちになるんではないかというくらいには浮かれて、沢山の名前が脳裏を過って収拾がつかなくなってしまう。
「あー、すまないが、名前というのは、どのようなものが好ましいのだ?」
俺が生まれた大陸の辺りではメジャーな女の子の名前、アリエッタ、ベルガ、キャサリ、ダイアナ……思い付く限りの名前が次々出てくるので、口から溢れないように訊くのは大変だった。
「そのものの、ほんしつ、をしめすのがなまえ」
予想外の変化球だった。
え、ほんしつ?
今目に見える本質って言ったら……
「ウサミミ?」
さっきまで気を付けていたのに。
ポロリと、ええそれはもう、バラエティーのはや着替えのポロリのようなお約束っぷりでウサミミという言葉が溢れ落ちました。
名前、名前がウサミミって!!!
こちらの方で兎の耳という単語は「アシュド ダウ」なので、日本語である「ウサミミ」という言葉はない。
が、だからと言って許されるものでもない。
慌てて訂正しようとすると、女の子はウサミミ様をぴくりと揺らしてから緩やかに頷き、復唱してしまった。
「ウサミミ……わかりました。これより、わたしのまなはウサミミです」
っぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
勇者ウサミミが誕生しちゃうううぅううぅうう!!!
やばい、これヤバい感じじゃないか?!
頭から血の気が引くのを鮮明に感じつつ、思わず差し出していた匙を引っ込めて説明しようとした時だった。
「ではガイルさま、わたしのことはシイラとおよびください」
と、衝撃の発言が投下された。
……ん?
ちょ、どういうこと?
丸っきりスルーされたのか、ウサミミはスルーされたのか。
「……何故、シイラと?」
自分でウサミミはどうかと思うし、別にそうしたかったわけでもないのだが。
お父さん、名前を決めろと言って、決めたら決めたで無視ってどうかと思います。
「ウサミミはよんではならぬなまえです。シイラとよんでください」
ウサミミはよんではならぬなまえか。
うん、そうだとは思うよ。
兎の耳って意味だしね!
むしろ、結果オーライだもんな?
ウサミミはどうかと思ってるんで、別に……別に気にしてないし寂しくないし。 そんなに完璧に流さなくてもって思ってないから。
まあ、うっかり喋られても困るから俺も本名は名乗ってないからな、お互い様と言えばお互い様だ。何がお互い様なのかわからないけど。
「そ、そうか……よろしく、シイラ」
「こちらこそ、よろしくおねがいします、ガイルさま」
食器を脇に寄せて改めて挨拶をすると、女の子……いや、シイラはまだ硬い表情ながらも挨拶を返してくれた。
言葉が通じるというか、会話のキャッチボールが出来るって幸せ。
くだらない当たり前のことだけど妙に嬉しくて、そのままシイラの頭を撫でてやる。
相変わらず無表情だけれど、なんとなく雰囲気が和らいでいるような感じがする。まだまだ荒れてる髪ですぐ絡まりそうだから豪快に撫でることは出来ない。街に出たら、シャシカの油でも買ってやろう。
いつの間にか手放すという考えが無くなっていることにも気付かずに撫でていると、くぅ、と可愛らしい音がした。
「ああっ、と、その、すまないな、シイラ」
血色の悪い目元を微かに赤くしたシイラに平謝りしつつ、椀と匙を取り直して口に運んでやる。
お腹を空かせている子どもにご飯もあげずにぼやっとしてしまったのは保護者としては失格だろうが、思わず頬が緩んでしまう。
お腹を鳴らしてしまったのは多分気が緩んでしまったからだろうし、小さな口を一生懸命開けて食べる様は餌付けされる雛のようでやっぱり可愛い。
胃に負担がかからないよう、ゆっくりと粥を食べさせながらしばらくぶりに人と過ごす幸せを噛みしめるのだった。
色々と時間のかかった夕食も終わり、あとは寝るだけだ。
魔法石を使うので火の番は必要ないし、魔除けと知らせの陣は入念に敷いたので一応不寝番は要らない。
まあ、長年の訓練もあるし熟睡することはまず無い。もし何かあり、慣れぬ気配があれば起きれるだろう。
ということで、就寝タイムである。
シイラにはありったけの毛布と未使用の衣類で寝床を作ってやった。
しっかりと魔除けなどの安全対策については説明したから、シイラも安心して寝れるだろう。それにしても、6歳で魔法石にも魔方陣にも理解があるとは驚きだ。口調が年のわりに丁寧すぎるくらいなのも含むと、シイラの出はそれなにいい家なのかもしれない。
俺はいつも通りに愛刀を抱えて近くの木を背に座り込んだ。死角については議論も多いことだろうが、こうして寝るのが野外での基本的なスタイルだ。
「おやすみ、シイラ」
どこか不安気に毛布にくるまるシイラの頭を一つ撫でてやると、その手をきゅっと握られた。
「どうした?」
力ない細くて小さな指。
ヘンゼルとグレーテルでは、魔女に食べられない為に鳥の骨を指の代わりに差し出したという。それを久々に思い出してしまうほど、細くて硬い指。
本当に骨と皮しか残っていないのだと思った。
今まで何度も餓死者や飢えた人を見てきたが、触るのは初めてだった。
彼らは、こんなにも軽くて固くて、そして冷たかったのだろうか。
体温を調節するだけの栄養を摂っていなかったのだから当然なのだが、酷く困惑してしまった。
「……ないの?」
彼女の小さくてまだ短い腕では、自分の腕に手を回すといっぱいいっぱいになる。それでも腕に手を回してすがりつくように見てくるシイラ。
そうか。
色々あって、つっぱってもまだ小さな子どもだもんなぁ。
この年頃であれば、夜寝るときは母親に抱えられて寝るか、藁のベッドに家族揃って寄り添って眠るはずだ。
警戒心はあっても人肌が恋しくて寝れないのだろう。
馬鹿にしてると思われないように笑いを噛み殺してシイラを毛布からすっぽりと引き上げて、抱えてやる。そして、肘の辺りに頭が乗るように抱き直してから毛布をかけた。
普通の母親や父親がするような腕枕とは違うが、これなら寂しくないだろうし、俺も動けないほどではない。
「大丈夫だ、今はゆっくり寝ろ」
改めて片手で愛刀の位置を調節しながら、反対の抱えてる腕でゆっくりと背中を叩いてやる。母親の胎内にいる時を思い出して安心すると聞いたことがあるので心音と同じようなリズムになるようにトントンと叩いていると、シイラはすぐに寝入ってしまった。
栄養不足でストレスもかかっていたのだ。
疲れていないはずがない。
かすかな寝息を立てて静かに眠るシイラは、子どもの柔さかの欠片もなく骨ばっている。針金みたいに細くて、硝子細工のように脆そうに見える。
体重も本当にこの腕にいるのか不安になるほど軽くて、体温も低い。
否応なしに、ここに彼女が生きていることが奇跡なのだと思い知らされる。
アルビノのような現実味のない異様な白さと見慣れない兎の耳。それに頬が痩けていてもどこか品があって整っている小さな顔もどこか浮世離れした印象を醸し出していた。
煙も音も出さない魔法石の橙色の光はゆれることもなく獣医をぼんやり照らす。
ピクリとも動かずに眠るシイラ。
ふとこの子どもが消えてしまうのではないかという意味のない不安が過り、腕のなかの小さな命を抱き締める。
夕食の時に気が付いたよりもずっとこの兎の獣人である子どもが気に入ってしまってるらしい。
もうどこかに預けようとかいう発想は何処にもなくなっていた。自分から手放す気なんてちっとも起きないし、それにこの子が幸せになって、顔一杯に笑顔を浮かべているのを見たくなってしまっていた。
全く、我がことながら、馬鹿だと思う。
子育てなんかしたこと無い上に、住所不定無職で知り合いもいない大陸を放浪中。何処をどう見ても不安要素しかない。
けれど、こんな穏やかな気持ちになるのはここ三ヶ月で初めてのことだった。
シャシカの油
要するに椿油。この世界で髪に使う香油のうち最も高いものの一種。主人公……そろそろギルティなのか。花の色は赤と白と金があり、精油しても何故か色が残る。それに合わせてボトルの色も花と同じにしてある。特に日本で販売しているシャンプーとは関係ない。関係ない。関係ない。