菫の栞3 -事件篇-
依子を吹奏楽の練習場に送った俺は、その部屋の出入り口が見える場所に丁度良い芝生を見つけて座ると雲一つない空を見上げた。
さっき聞いた裕貴の話を思い出すと、進藤や智孝がどれだけ依子を大事にしているのかが伝わった。
8年前。まだ智孝が父方の野間口を名乗り、警視総監の長男として恥じる事のない成績や人徳を得て学生生活を送っていたある日。当時12歳の幼い少女だった依子が学校からの帰宅途中に何者かに誘拐されてしまった。
身代金の要求は5千万。そして、その身代金を運ぶ役に抜擢されたのが野間口家の跡取りである智孝。
父親である野間口氏は長男にもしもの事があったらと最後まで反対していたらしいが、智孝本人が受け渡しの役を受けて5千万と言う大金を抱えて指定された日曜の遊園地にいく事になった。
当時から依子を溺愛していた智孝は、何があっても依子だけは護ろうと心に決めてボストンバックを握り締めた。
そんな智孝もまだ高校生と言う幼い少年だ。恐怖を感じないわけもない。
勿論誘拐事件だ。遠巻きに警察の護衛も付き智孝が連絡用に持っている携帯にも盗聴器が仕込まれてある。
しかし、連絡用の携帯が使われる事は無く。遊園地内に設置された公衆電話が鳴り、智孝はその公衆電話で指定される場所を転々と歩きまわされた。
最初の指定から3時間。散々歩き回された結果、誘拐犯は「刑事が張ってるな。今日の取引は無しだ」と一言残してその日の取引は中止になってしまった。
落胆した智孝はボストンバックを抱えて、遊園地の外で待機している警察の車に戻ろうとしたその時。
遊園地の出入り口の前で急停車した黒のミニバンに智孝は引きずり込まれた。
警察も智孝自身も油断していた一瞬の隙をつかれた犯行だ。
智孝は着ている物を一度全て脱がされ、盗聴器は発信機などは全部取っ払われてしまった。目隠しをされて後ろ手に縛られた上に脇腹にゴツゴツとした鉄の塊が突きつけられ、祈る想いで深呼吸を繰り返していた。
「お兄ちゃん!!」
「…よ…依子?!無事か!?」
「うるさいな。口塞いどけって言っただろうが」
悲痛な少女の声が反響して聴こえたが、それは間違いなく依子のものだった。
「上手くいったな。息子と5千万ゲットだ」
「これで後1億は下らないな」
くぐもって聞こえ難いが二人の男の話し声が聞こえる。
思い切り背中を突き飛ばされたと思うと、コンクリートの壁に体をぶつけた。
「お兄ちゃん…」
「依子?大丈夫か?」
倒れた智孝の頭上で弱々しい依子の声が智孝を呼ぶ。
今の反動で目隠しがずれたのか左目の視界が明るくなった。
何処かの廃墟ビルの一角だろう剥きだしのコンクリートの壁や床。割れた窓ガラスが散乱している。
目の前の依子の様子を見ると、手錠で自由を奪われた手を伸ばし智孝の肩を掴む。スカートから伸びた右膝を擦り剥いたのか薄く血が滲んでいた。
「おい。野間口の奴…後5千万しか用意できねぇとか言ってやがる!」
パソコンに向かっていた細身の男が小声で長身の男に報告する。
「5千万じゃ一人分だ。二人を無事に返して欲しかったら1億だ」
パソコンの通信機能を使った通信をしているんだろう、微かだが父親の声がパソコンから聞こえた。
『息子だけでも…』
それは、耳を疑うような言葉だった。
「ふざけるな。1億用意しないなら二人とも殺す」
長身の男がそう言い残すと、パソコンの通話状態を切ってしまった。
依子に寄り掛かるように体を起こした智孝は、壁にもたれると目の前の5千万の現金に歓喜している覆面の男達を見た。
「進藤さんが…何とかしてくれるから…信じるんだ」
「…うん」
智孝は依子を元気付けるように耳元で囁く。
「何だ?ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇよ」
長身で体格のいい男が俺達の前に歩いて来ると、依子を舐めるように見下ろしている。
「よく見るといい顔してんなぁ」
「おい。まだガキだぜ」
「どうせ殺すなら…男ってのを知ってからでも悪くないんじゃないか」
男は依子の腕を掴み引き上げた。
「依子を離せ!!汚い手で触るなぁ!?」
智孝は必死に肩から男にタックルをするが、男が持っていた拳銃のグリップでこめかみを強打された。
「ぐっ!?より…こっ!?」
激痛に膝を折った智孝はそのまま床に倒れこむ。そのまま依子は部屋の隅に置かれた汚いソファーに放り投げられる。
「いやっ!?いやぁぁっ!!」
「うっせぇ!!」
依子の悲鳴。肌を張られた乾いた音。男の怒声。ベルトのバックルを外す音。気持ち悪いくらいはっきりと耳に流れ込んで来る。
「やっ…やめろぉぉぉぉぉぉ!!」
内臓が焼かれるように熱くなり、智孝はふらつく足取りで長身の男に向かって行く。
依子はソファーの上で抵抗するように足をバタつかせて男を蹴る。
「いてっ!いてぇ!?足癖の悪いお嬢様だな!」
跨るように乗りかかった男は下腹部を蹴られたらしく、瞳に怒りの色を見せた。
「大人しくしてりゃ優しくしてやったものを」
パァン!!
「ひっ!?…っうっ…ふぐっ…」
男の含み笑い。耳を劈く乾いた音。鼻を突く硝煙の匂い。口を大きな手で塞がれた依子の目は大きく見開かれ、大きな瞳からは次から次へと涙が溢れる。
「馬鹿か!?こんな所で撃ったらばれるだろうが!」
「直ぐに済ますよ。終わったら移動すればいいだろう」
細身の男が慌てたように長身の男に声をかけるが、長身の男は気にした素振りも見せず気を取り直したように依子の上に覆いかぶさった。
何が起きているのか理解できない智孝は、ただゆっくり一歩一歩と依子に近付いて行くしかできない。
ソファーから投げ出された依子の足からは真っ赤な血が床に向かってポタポタと落ちている。
パシュッ パシュッ パシュッ パシュッ
「っ!!」
「ぐぁっ!!」
小さく空気の切れる音が何回か聞こえたと思うと、細身の男が現金をばら撒いてゴトンと床に倒れた。
依子に覆いかぶさっていた男も力無く床に落ちていく。
「坊ちゃん!お嬢様!」
智孝の背後にある割れた窓から黒尽くめの男が入り込んできた。消音器を手早く外しホルスターに拳銃を直した男が智孝の肩を掴む。
「依子を…依子を助けてくれ」
フラッと床に突っ伏した智孝は、倒れる直前に支えてくれた進藤に呟く。
「はい」
智孝の体から手を離した進藤は、ソファーの上で驚愕に目を見開いたまま動かない依子に足にスカーフを巻きつけてゆっくりと抱き上げた。
「坊ちゃんは歩けますか?」
「大丈夫です…依子は…」
「足を撃たれたようですが弾は貫通しています。直ぐに病院に向かいましょう」
「頼みます…」
智孝は唇を噛み締めたまま俯いて進藤の後を着いて歩いて行く。
依子の手術が無事に済み、命に別状がないと分かり智孝の肩から少しだけ力が抜けた。
この後すぐ、智孝は依子と共に野間口の姓を捨てて母の家を継ぐ事を決めたのだ。
元々は斉藤家に仕えていた進藤は智孝の母親が亡くなってから、正式に後を継いだ智孝に仕える事になったらしい。
その昔、世界を飛び回っていた傭兵上がりだと言う進藤の過去にも驚かされたが、何故か納得してしまう。
無駄のない身のこなし。隙のない緊張感から、ただの知的な紳士だとは思っていなかったが間違っていなかった。
智孝の中の依子の存在と、依子の中の智孝の存在。それは引き離そうとしても引き離せない絆なんだと思い知らされた。
芦田の話では依子の足は完治しているが、精神的なショックで歩く事が出来ないって事だったな。
12歳の少女には本当に精神的なショックが大きかったはずだ。そして依子が傷付いた以上に智孝も傷付いたんだろう。
必要以上に過保護になるのは仕方ないんだな。
しかし。そんな心の傷を負ってでも依子のあの美しい瞳は人を信じる事が出来るんだろう。
あの瞳に真っ直ぐ見つめられると、自分の中のどす黒く濁った部分を見られるのが恐くなる。
少し肌寒いくらいの風に頬を撫でられて、俺はそのまま芝生に寝転んだ。
「何であれだけ綺麗でいられるんだろうな…」
「依子ちゃんの事?」
「なっ?!」
思わず洩らした独り言に答えた声に、俺はガバッと起き上がって声の主を見上げた。
「あ…芦田さん」
俺を覗き込むように前かがみになっていた芦田が、少年のような笑顔を浮かべている。
「杉崎君はこんな所で何をしてるんだい?」
「あー依子ちゃんの送迎です」
「あれ?じゃあ進藤さんいないんだ」
「はい。急な仕事で」
「依子ちゃんより優先する仕事なんて、よっぽどなんだね」
芦田は何処まで知っているんだろうと、純粋な疑問を持ってしまう。
「芦田さんは何で此処に?」
直ぐに何処かに行ってしまうのだろう、座るような素振りも見せない芦田に尋ねた。
「僕はここの医学部で会議に参加していたんだ。月に2回は来てるかな?」
手にした大き目の封筒を掲げて、芦田はレンガ調の壁を指差す。
「なるほど。大変ですねお医者さんって」
俺は指された建物を見て小さく頷くと、芦田を見上げて小首を傾げて笑いかけた。
「うーん…好きでやってるから苦ではないよ。他の分野を勉強するのも愉しいしね」
軽く伸びをした芦田は空を仰いで清々しそうだ。
「依子ちゃんの為に始めた心理学の勉強も。結局は僕がはまってしまって」
「依子ちゃんの為…」
「聞いてる?依子ちゃんの足の話」
「あーはい」
さっき聞いたばかりとは言えず、俺は小さく頷く。
「怪我の治療で通ってくれた依子ちゃんが僕に心を開いてくれた時は本当に嬉しかったんだ。それでさ、僕から智孝にお願いしたんだ“僕に心のケア”をさせて欲しいって」
思い出を語る芦田は本当に優しい顔をしていた。
「あの事件の直後に治療した時は大変だったよ…もうね…何度心折れそうになった事か」
へへっと笑った芦田の瞳は悲しそうな色が見える。
「まぁ…元々持ってた依子ちゃんの強さがここまで彼女を美しくしてるって事なんだけどね。おっと。長居しすぎた!じゃあ僕はこれで!」
時計台の時間を見た芦田は、俺に手を振って駆け足で行ってしまう。
「依子ちゃんの強さ…」
その通りだなと思った俺は、もう一度空を見上げてふっと笑った。