菫の栞2 -事件篇-
いつの間にか現れた歩美は、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
俺達は進藤の運転で依子の大学に向かう。車の中では大学での依子の生活をかい摘まんで聞いていた。
「学園祭が近々ありますから、みんな活気づいていますよ」
「あーあったなぁ!学園祭とか燃えるんだよなぁ。人一倍気合い入れて頑張ってた気がする」
「真人さんはどんな事をされたんですか?」
「普通だったけど…ヤキソバの屋台とか、軽音サークルの助っ人でギター弾いたり…お化け屋敷のお化けもやったなぁ」
「凄いですね…アクティブだわ」
俺の昔話に依子が後部席で少し興奮気味に聞いている。
「依子ちゃんは何やるの?」
「私は模擬店には参加出来ませんから、体育館で吹奏楽サークルのフルート演奏をします」
「おおっ。俺、時間あったら見に行くよ」
「本当ですか?緊張してしまうかもしれませんね」
「お時間の調整はさせていただきます」
進藤が大学の駐車場に車を停めると、いつもの優しい声音で気の利いた台詞をくれた。
「よしっ!愉しみにしてるから」
助手席から振り返り依子に笑顔を向ける。
「が…頑張ります!」
両手でグーを作った依子が小さく気合いを見せる。
進藤がトランクから車椅子を下ろすと後部席のドアを開けて依子の手を取り、車椅子への移動を手伝う。
「ありがとう。行って来ます」
進藤に礼を言った依子は膝にブランケットを掛けてハンドリムを握った。
「では、行ってらっしゃいませ」
綺麗にお辞儀をした進藤が、依子の背中を見送っている。
俺は進藤の替わりを勤めるべく、依子に着いて大学内に入って行く。
「最近では車椅子の生徒の為に、教室にも車椅子スペースなどを設けている大学が増えてきましたから少しは楽なんですよ」
どこか愉しそうに声が弾んでいる依子を見ると、俺は自然と顔が綻ぶ。
「進藤さんはいつもどうしてるんだ?」
「特に何かしているわけではないですよ。私が授業を受けている時は他の仕事をしているみたいですし…行き帰りと教室の移動や昼食の時に、何処からともなく現れます」
人差し指を顎に寄せた依子は、考える仕種を見せて返事をした。
「忍者みたいな人だな…」
「あれ?真人さん?」
苦笑を零すと、少し離れた所から聞き慣れた声に名前を呼ばれた。
俺は呼ばれた方向に視線を向けるが、見覚えの無い美少年が立っている。
最近はこんな小奇麗な男が増えているとは思ったけど、俺の知り合いにはジュノ○ボーイか?と思われる程の整った顔をした知り合いは居ない。
「誰って…僕ですよ」
肩に掛けた鞄から眼鏡ケースを取り出すと、黒縁の眼鏡をかけた。
「ゆっ…裕貴?!」
「そうですよぉ。知らなかったんですね…進藤さんは?」
さっきまで目の前に居た美少年が見慣れた陰気臭い裕貴に変身した。辺りを見渡した裕貴が眼鏡を外して鞄にそれを直す。
「明日からフランスに行かれるそうで、帰るまでの送り迎えを真人さんがして下さるそうなんです。私は一人でも大丈夫って言ったんですけど…」
「フランスか~いいなぁ…あ。依子さんが一人で外出はダメだよ!本当に自覚がないんだから…困っちゃうな…」
依子が説明をすると、裕貴は唇を引き締めて大きく首を振る。
「進藤さんの替わりかぁ…ちゃんと仕事してくださいよ…僕も出来る限り護りますけど」
「え?何?」
未だに裕貴のギャップから引き戻されていなかった俺は、裕貴の言葉に違和感を感じた。
「護るって?」
「あ。詳しくは後で」
俺の質問に裕貴が小声で返すと、車椅子のグリップを握って颯爽と押していく。
「真人さんはカフェで時間潰しててください」
「お仕事を優先してくださいね。行って来ます」
普段の陰気な黒縁野郎とは思えないくら、キラキラの王子様オーラを出した裕貴がニコッと笑うと依子も穏やかな笑顔を俺に送る。
「おー。学生は勉強頑張ってきなさい」
俺はヒラヒラと手を振って二人を見送った。
「しかし…女は化けるって知ってたけど…裕貴のアレも…」
遠ざかる二人の姿はよく見るとお似合いで、まるで恋人同士のようだ。
(あの二人って…)
ふと思いついた言葉を小さく首を振って振り払う。
「仕事しよ…」
俺は裕貴の言う通り視界に入ったカフェに足を向けた。
*
ノートパソコンを開いて事務的な作業を始めると、二つ隣の席に座った今時の女子大生が3人。愉しそうに談笑している。
「今日はお供連れてなかったのね」
「ただでさえ目立つのに、あんな素敵紳士が傍にいたらもっと目立つよ」
「お嬢様なら家で家庭教師でも雇って篭ってたらいいのに」
「ほんと…目障り」
詰まらなそうに茶色の巻き髪を指に巻きつけて遊ぶ女がタバコを咥えた。
「森下もお嬢様にべったりだしさぁ」
黒髪に赤メッシュを入れたパンキッシュな女がホットドックにマスタードをべったり塗りたくっている。
「あいつって入学してきた時、めちゃくちゃダサかったよねー」
ショートボブの気の強そうな女が鏡を見て化粧を直す。
「そうそう。黒縁眼鏡でオタク丸出しって感じだった!あんなカッコよくなるんだったら優しくしていけばよかったぁ」
「あの。“私は何も知りません”って顔が嫌なんだよね」
「ああ言う清楚なお嬢様が男覚えたら恐そうだよねぇ」
「意外とあっちこっちで股開いてるかもよ!ぎゃははは」
口に食べ物を含んでゲラゲラと笑う下品な女達の会話に、俺は軽く眩暈を感じ目頭を押さえて重たく深い溜息を吐いた。
「きゃあっ!!」
「何よっ!!あんた!!」
「浩美っ!!」
ガタンと何かがぶつかる音と耳を劈くような悲鳴が響く。
俺は音のした方に顔を向けると、さっきの女子大生が二人。席から慌しく立ち上がり後ずさっている。
二人の足元を見ると茶髪の女性が床に倒れていた。その向こう側に黒いパーカーにフードを被った人物が見えた。
何気なく視線を流して、立ち上がりその席に近寄る。
俺に気付いたのか、黒尽くめの人物は一目散に逃げ出した。
女物の華奢時計がチラリと見えたが、それ以上は確認できない。
「おい。大丈夫か!」
逃げ出した相手の手に握られていたのが、赤く染まったナイフだと気付いた俺は床に倒れこんでいる女に駆け寄る。
「浩美ぃ…」
「何…何なの…」
震える手を握り合った二人の女は顎をカクカクと震わせながら、ヘタリと座り込む。
「刺されたのか…動くなよ。おい!救急車呼べ!怪我人だ!」
二人は使い物にならないと判断した俺はカフェの店員に叫ぶと、簡単な止血作業を始める。
「浅いな。大丈夫だ死にはしない。しっかりしろ」
遠めに見たナイフの刃渡りと傷口の具合から俺は軽傷だと判断した。
傷害事件だ。警察の立会いで事情聴取をされた俺は冷ややかな裕貴の視線を痛いくらい浴びている。
「真人さんって…アホですよね」
「なっ…怪我人助けたのにアホ呼ばわりかよ!」
今日最終の授業を受けに行った依子を待つ為に中庭のベンチに腰を下ろした俺の隣で、裕貴が缶コーヒーを片手に同じように座る。
「アホじゃないですか。真人さんの仕事は他の女性を助ける事じゃなくて、依子さんの護衛ですよ?」
「護衛って…大袈裟な」
「大袈裟って言いますけど、実際真人さんの目の前で傷害事件が起きてるんですよ?危険な刃物を持った人が大学内にまだ居るかもしれないんですよ?次は依子さんを狙ったらどうします?」
「それは…じゃあ、お前は目の前で刺されて倒れてる人無視して依子ちゃんの所に駆けつけるのか」
「進藤さんや僕ならそうします。何より大切なのは依子さんですから」
「おいおい…それは極論すぎやしないか…」
裕貴に渡された缶コーヒーのプルトップを開けながら俺は大袈裟に苦笑した。
「依子さんの足。何で怪我したか知ってますか?」
「いや。聞いてない」
「ですよね…幸い時間もありますから、僕の知ってる限りでお話します」
俺の知らない饒舌な裕貴が、小さく息を吐くとゆっくり話し始める。
「今から8年前の話です。僕も聞いた話だから何処までが脚色されてない話か知らないですけど」
と前置きをした裕貴に、俺はゆっくり視線を向けた。
俺は依子の授業が終わったのを確認して、教室に入って行く。
「お疲れ~」
「ありがとうございます」
一角だけバリアフリーになっている机の上に広げられたノートと筆記用具を鞄に直した依子が、俺に向かって車椅子を進めた。
「今日は吹奏楽の練習に参加しますから…少し帰りが遅くなるとお伝えしたんですが」
「うん。聞いてる」
俺は車椅子のグリップを掴んでゆっくりと進みながら、返事をすると依子が振り返る。
「俺。女の子待つの好きなんだよなぁ」
「まぁ…」
少しおどけて見せた俺に、依子は満面の笑みを浮かべた。
「真人さんの恋人は幸せでしょうね」
「えっ…」
突然の依子の言葉に俺は歩みを止めてしまう。
「だって、こんな素敵な方なんですもの」
俺を見上げる依子の目はキラキラと透き通るように輝いている。
「いや…どぉなんだろぉな…そう言えば大学卒業してから女性と縁が無かったなぁ。バイトばっかりしてた」
何をどう見て“素敵”だと言ったのか、その真意は依子の中にしかないが俺はガラにもなく恥かしくて目を逸らしてしまう。