菫の栞 -事件篇-
俺が“斉藤探偵事務所”で働き出して1ヶ月。
社長の斉藤 智孝は海外出張や、どこぞのお偉い方とのパーティーにご多忙の様子で事務所に居る事が少ない。
秘書兼ドライバーの速水 香里は智孝が国内にいる時は、運転手やパーティーのアートナーとして同行しているが、それ以外では地味な迷子ペット探し地道な浮気調査に東走西奔している。
情報収集やメカニックの森下 裕貴は現役大学生の為、大学に通いつつ空いた時間に通勤して来ては俺のサポートをしてくれる。
社長の妹で同じくサポートの斉藤 依子も現役大学生だ。足が不自由な事もあり進藤が大学まで送り迎えをしている。根っからのお嬢様。
斉藤家に勤めているとしか聞いていないが多分、進藤は斉藤家の執事と言うやつだろう。
一般庶民の俺からしたら執事と言う職業の人に会う事なんて無いと思っていた。
*
一日に何件もの相談や依頼メールが飛び込んでくるが、どれも人探しやペット探しが主だ。中には所謂ストーカーの類の調査などと最悪な依頼もある。
依頼や相談のメールを処理して、受けた依頼を俺達に振り分けてくれるのは智孝と進藤の仕事だ。
今日はまだ俺の元に依頼受領の連絡が来ない処を見ると、のんびりできそうな予感がする。
事務所の3階にある自室のベッドでゴロゴロしていると、携帯に進藤からの着信が来た。
「ほぁ~仕事かぁ」
一つ大きな欠伸をすると、携帯の通話ボタンを押す。
「もしもし。お疲れ様です」
『杉崎さん。お疲れ様です』
俺はベッドサイドのメモとペンを引き寄せて用意をした。
『今日はお仕事では無いのですが、杉崎さんに頼みたい事がありまして』
「はい?何ですか?」
仕事だと思っていた俺は空振りを食らい、ペンを置いてベッドに寝転んだ。
『本来でしたら私がいつも行っている業務なのですが。明日から暫くの間、お嬢様の送り迎えをお願いしたいのですが』
「送り迎えですか?」
『はい。お忙しい所…本当に申し訳ないのですが。急に社長の代理で渡仏する事になりまして』
「なるほどぉ。大丈夫ですよ?時間ややる事さえ聞いてたら俺が代理で送り迎えします」
『助かります。杉崎さんでしたら安心してお嬢様をお預けできます』
珍しく嬉しそうな柔らかい進藤の声に、俺はかなり戸惑ってしまったが送り迎えくらいなら俺じゃなくても安心だろう。
「ははっ。大袈裟な」
『今からお迎えに上がりますので、お嬢様と外出の準備をお願いいたします』
「あー了解です」
進藤の電話を切ると俺は歯を磨いて顔を洗い、朝食用のジャムパンを一つ咥えた。
12畳のワンルームに小さなキッチンと備え付けの小さな冷蔵庫とシャワーのみのバスルーム。ベッドやソファーやテレビは前の部屋から持ってきたが元々荷物の少なかった俺の部屋は殺風景だ。
元々住居用の建物じゃないのを改造しているから、これでも生活するには十分すぎるだろう。
最後の一口を口に放り込むと同時に、何処からか硝子の割れる破壊音が聞こえた。
今この住居階に居るのは俺と依子のみ。と考えると依子に何かあったと言う事だ。
俺は急いで部屋を飛び出すと、斜め向かいにある依子の部屋の扉をノックする。
「依子ちゃん?どうした?大丈夫か?」
ノックしながら中に居るだろう依子に声を掛けた。
「はっ…はい…」
「開けてもいい?」
どこか上擦った声で返事が帰って来たが、俺はノブに手を掛けて扉を開けようとする。
「あっ…」
依子の返事を待たずに開けた俺は、目の前の惨事に目を瞬かす。
バスルームの前に頭からバケツ一杯の水を被ったようにびしょ濡れで座り込んでいる依子。着ていたワンピースが体に張り付き見てはいけないと思いつつも透けた下着に視線がいってしまう。
(おっと。馬鹿。俺の馬鹿)
「ちょっと入るよ」
髪も濡れてしまっていつもの少女のような幼さは無く、目が眩むような色香が漂っている。
「急にシャワーが…」
「あ…」
バスルームを覗き込むと蛇口と壁の接続部分から大量の水が噴出していた。
「工具あるのか…ちょっと待ってな」
「あっ…真人さんも濡れてしまいます…」
「着替えたらいいだけだから気にしない」
びしょ濡れで座り込んだままの依子を出来るだけ見ないように意識しながら抱き上げて部屋の中央に置かれた椅子の上に依子を座らせると、ベッドに綺麗に畳まれたバスタオルを手渡す。
「一回水道止めてくるからしっかり拭いて、着替えて待ってて…っぐ!!」
依子から離れようと立ち上がった瞬間、後ろから静かに伸びてきた腕に首を絞められて腕を捻り挙げられるとそのまま壁に押し付けられた。
「きゃぁ!?」
「ちょ…なんだ…っ」
「レディの部屋に入り込んで何をされているんですか」
「歩美さん!!その方はウチの従業員です!!離してあげてください」
壁に押し付けられた俺には話が全く見えず、後ろでは依子が慌てたような声を上げている。
「いくら従業員であってもレディの部屋に入り込んだのです。腕の一本くらい…」
「歩美。止めなさい。お嬢様の前でみっともない」
進藤の制止の声が部屋に響く。
「はい」
「ごほっごほっ!!」
腕を掴んでいた力と首を締めていた腕が離れると、俺は急に入り込んできた酸素に噎せてしまった。
「杉崎さん。申し訳ございません」
進藤が頭を下げて部屋に入ってくる。喉を擦って振り返り俺を押さえつけていたであろう女を視界に捕らえる。
「貴女の仕事は、お嬢様の身の回りのお世話でしょう。お嬢様がこんなに濡れていらっしゃるのも関わらずお嬢様より他を優先するのはプロの仕事ではない。体が冷えてしまっています。直ぐに部屋を温めてお嬢様の体を拭いて新しい服に着替えさせて差し上げてください」
「申し訳ございません。直ぐに」
普段怒る事のない進藤が早口に指示すると、歩美と呼ばれた女性は依子を抱えて部屋を出て行く。
「彼女は寺岡 歩美。お嬢様の身の回りの世話をしている侍女です。失礼があった事をお詫びいたします」
「いや…身の回りの世話してるだけの普通の女性じゃないでしょう…」
進藤に促されるように依子の部屋を出て、行くと進藤は優しそうな瞳に含みのある微笑を見せた。
「バスルームを修理してから下りますので、杉崎さんも着替えを済ませてお待ちください」
はっきりと俺の質問には答えなかったが、それなりの筋の人間なんだと分かった俺は少し背筋が凍る思いだ。
俺は進藤の言う通りに濡れた服を着替えて、事務所に下りる事にした。
事務所のデスクに座る前に奥のキッチンでコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
コーヒーを待つ間に軽くストレッチをしていると、デスクに置いた携帯が着信を知らせる。
「はいはい。おはよう」
『おはよう。今日のスケジュールが届いたけど15時の依頼人との面談は私じゃなくて裕貴の間違いじゃないかしら?』
「裕貴って面談とかできんの?」
『ああ見えて真人よりしっかり面談するわよ』
朝っぱらから女王様のような香里は、フンと鼻で笑うとスケジュールの調整を要求してきた。
「ちょっと待て」
パソコンを立ち上げて裕貴のスケジュールを確認すると、大学終了後15時に面談となっているが確かに依頼人が記入されていない。
「お待たせいたしました」
進藤が事務所に入ってくると、何処で作ったのか湯気を立てたスープをテーブルに二つ並べる。
「進藤さん。15時の香里の面談相手が裕貴の相手じゃないかって連絡来てるんだけど」
「おっと…それは大きな手違いを。申し訳ありません。本当ですね初歩的なミスをしてしまいました」
iphoneを取り出した進藤はスケジュールを書き換えて再転送された。
「書き換え完了。最終は20時かぁ~頑張れよ」
『はいはい。あ。夕飯はハンバーグがいいっ!』
「は?ハンバーグとか…香里って意外と子供な味覚なんだな」
『うるさい!不味かったら許さないからね!』
「だいたい何で俺が香里の分までメシの用意しなくちゃならんのだ」
『真人が一番仕事少ないからに決まってるでしょ』
「ぐっ…」
確かに二人に比べれば、こなせる仕事量はまだまだ少ないからぐうの音も出ない。
「夕食の支度でしたら、お手伝いしますよ」
いつの間にか応接間に来ていた依子がクスクスと笑いながらソファーに移動していた。
「さすが依子ちゃん。女の子はそうでなくちゃなぁ~」
『ったく…鼻の下伸ばしてんじゃないわよ』
若干の嫌味を含んだ俺に、舌打ちをした香里が通話を切った。
「何だよ朝から機嫌悪そうだなぁ」
「杉崎さんもご一緒にどうぞ」
携帯をポケットに直すと、進藤にソファーを薦められる。
「うわ。いただきます」
依子の向に座り俺はスープをご馳走になった。