菫の栞 -調査篇-
バイクのエンジンを切ってフルフェイスを脱ぐと、胸ポケットから手帳を取り出して住所を確認した。
「ここか…」
2階建ての木造アパートを見上げて、俺はバイクから降りる。
「高橋 泉…」
1階奥の角部屋の表札に書かれた名前を指でなぞって、チャイムを押した。
3回目のチャイムでこの部屋の住人ではなく、隣の部屋から40過ぎくらいの女性が顔を出す。
「高橋さんなら居ませんよ」
「あー外出中ですか?」
「いえ。実家に戻るとかで引っ越しされました」
「実家…どこだかご存知ですか?」
「さぁ…そこまでは」
「いつ引っ越しされたか解りますか?」
「二ヶ月前ですよ」
いつでもドアを閉めれるように半分しか顔を出さない女性が、俺を値踏みするように視線を上下に動かす。
「ありがとうございました」
「貴方も借金取りなの?」
「借金取り?いえ。申し遅れました。こう言う者です」
俺はポケットから名刺を取り出す。情報収集用の偽名の名刺だ。
「興信所…だから高橋さん捜してるのね」
「あの…さっき借金取りとおっしゃいましたが…高橋さんは借金取りに追われていたんですか?」
「ん~いつもえらく若い男が2~3人、ドアをドンドン叩いて『金払え~』って」
「それはいつ頃の話しですか?」
「確か…今年入って直ぐくらいだったかな。引っ越したのも夜逃げみたいな感じで挨拶も無かったからねぇ」
「何歳くらいの男か解りますか?」
「髪の毛がキンキンしてて子供臭かったから二十歳過ぎくらいじゃないかなぁ」
「頻繁に訪れてきたんですか?」
「いやっ。だいたい月末だったね」
「なるほど…」
「高橋さんて大学生だったんでしょ?」
「そうですね」
「その借金取りが来るようになってから、身なりが派手になってね…あれは風俗で働いてたんじゃないかしらね」
話し出したら止まらないのが、この位の女性の特徴なんだろう。
情報収集にはありがたい。
「もし、何か他に思い出した事があればこちらにお電話下さい。ありがとうございました」
俺は営業スマイルで名刺を指して足早にその場を立ち去る。
(実家なら学生記録に残ってるだろう…)
もう一人の退学者である小野 菜摘の自宅に向かう為、バイクに跨がる。
携帯でさっきの情報をメールで送ると、エンジンをかけてアクセルを回した。
俺は手帳に書かれた住所と、更地を何度か見比べる。
「無いな…」
もう一度辺りを見回すが、確かにこの場所だ。
「あの。すみません」
俺は犬の散歩をしている30代の女性に声をかけた。
「はい?」
「ここって“小野”さんの家じゃなかったですか?」
「そうですよ。でも3ヶ月前に火事で…」
「家の方は?」
「夕方の火事だったから、ご主人は会社で共働きの奥さんも帰っていなかったみたいで…一人娘の菜摘ちゃんが…」
「娘さんだけ…?」
「ええ。大学を中退してからずっと家に引き篭もっていたんですよ…虐めにでもあってたのかしら…」
女性は小型犬を胸に抱えて頭を撫でながら更地を見つめる。
「虐めですか」
「今年の初めくらいに、煩い車に乗った若い子が何人か菜摘ちゃんに会いに来てたみたいで」
「友達や恋人じゃないんですか?」
「毎回来る子は違ってたし…友達とか恋人って…感じじゃなかったわね…」
何か考えるように女性は目を伏せたが、直ぐに俺に向き合うと耳打ちをするように口元に手を添えた。
「ここだけの話…ご両親には言ってないんですけど。菜摘ちゃん家で何かイケナイ事してたみたい」
「イケナイ事とは?」
「一回ね、気になってこの辺に壁があって…ここからリビングを覗く事ができたんです。ちょっと好奇心で覗いてみたら…部屋の中で何か焚いてたみたい。煙がね…」
(好奇心で覗き…それも十分犯罪だからな…公に言えないよな)
女性が人差し指を口の前に立てて“内緒”と言うポーズを見せる。
「はい。なるほど…ありがとうございました」
俺は営業スマイルで丁寧にお辞儀をした。
「ところで、何か事件なんですか?」
「え?何故ですか?」
「あの火事の時は勿論毎日のように刑事さんが来たけど、この間も同じ話を聴かれたから…あら。あなたは刑事さんじゃないのかしら…」
「警察の方が…申し送れました。こう言う者です」
興信所とかかれた偽名の名刺を差し出して、俺は頭を下げた。
「御用のさいは…」
俺は犬の頭を一撫でして、その場を後にした。
(既に警察の捜査もここまで伸びてるか…さすが)
角に停めてあったバイクに跨り、簡潔な報告メールを送る。
**
ある会社役員の変死事件を追って原田 絵里子に辿り着いたが、そな絵里子も去年亡くなっていた。
絵里子の自殺を洗い直す為に彼女が通っていた大学に足を運ぶと、まさかの斉藤の娘も通う大学だったとは。
斉藤 真由美彼女の母親とは幼なじみで、警視総監と結婚した時には驚いた。
銀行頭取の娘で、あまり身体が丈夫ではなかった真由美は一度他の男性と結婚したが跡取り息子が出来ない事を理由に離縁。
その後すぐに、以前から真由美の事を気にかけていた警視総監の求婚を受けて結婚したらしいが…子供達が巻き込まれた、あの事件が原因で二人の子供を連れて警視総監の家を出て実家に戻った。
一年足らずで真由美は亡くなってしまったが、あんな素晴らしい子供達に囲まれて幸せだったに違いない。
目の前の依子が柔らかく微笑むのを見ると、あの事件から立ち直ったんだと安心する。
「おっ。宜しく」
カフェの精算を佐々木にさせて、俺は他の大学生にも話を聞いて回る為に席を立つ。
「お疲れ様です」
依子が小さく頭を下げた横で、杉崎もペコッと頭を下げた。
二人で一緒に回っていては時間が足りないと、俺は佐々木と手分けして聞き込みに回る事にした。
しかし、見事に原田 絵里子に関しての情報は少な過ぎる。
誰に聞いても口を揃えて“話した事もない”“大人しくて真面目な子”と言った、曖昧な答えばかり。
余程目立たず友達も少ない女性だったんだろう。
そろそろ腹も減ってきたし、これ以上の情報も見込めないのが分かってきた。
佐々木を呼戻そうと中庭に向かおうとしたその時。
「きゃぁぁっ!!」
南側の校舎から何人かの悲鳴が聞こえた。
『山路さん!投身です!!』
「なんだと…」
佐々木からの無線に俺は小さな人垣を見つけ、そこまで走って行く。
「…お願い殺さないで!!」
建物の壁に反響した女の悲鳴に俺は急ぐ。
「見たわ!見たけど…私は何も知らない!彼が勝手に落ちたんだからっ!」
見覚えのある男が座り込んだ女性の腕を掴んでいる。
「杉崎!何やってんだ!離せっ!」
俺は一気に杉崎に詰め寄ると、その手首を掴んで女性から引き離す。
「刑事さん…」
「まったく…無線が入って聞いてみたら。どうなってるんだこの大学…何が起きてんだ」
少し肌寒く感じる季節に嫌な汗が伝う。
「角曲がったら飛び降り遺体がある。この女はその屋上でそいつが飛び降りた時に覗き込んでたんだよ」
校舎の屋上を指して杉崎が憔悴した顔を見せると、俺は後から息を上げて走って来た佐々木に顎で指示を出す。
「お嬢さん。済まないが署まで同行してもらうよ。杉崎君。君も後で来てもらうかもしれんが」
「その時は行くよ」
俺は項垂れた女の腕を掴んで立ち上がらせると、駐車場に停めたパトカーに乗せるため寄り添うように歩く。
「こっちです!!」
佐々木が叫んで救急隊と警察を呼んぶようにオーバーに動いている。
署に連れ帰った女性の調書をする佐々木が、顔に疲労の色を見せて取調室から出てきた。
「山路さん…参りましたよ…」
「どうした」
「加藤 由紀ですが…何を聞いても“私は知らない”の一点張りで…」
佐々木はデスクに座ると、お手上げと言わんばかりに両手を上げた。
「でも屋上から覗き込んでたんだろう」
「はい。屋上に行った事は認めています。しかし、屋上の扉を開けた途端に吉野が飛び降りたんだと言ってます…」
「加藤は何の為に屋上に言ったんだ?」
「吉野本人に呼び出されたそうです。吉野の携帯の発信記録を調べました。最後に電話していた相手は加藤ですね」
「呼び出しておいて飛び降りる瞬間を見せたかった…って言うのか」
「解らないです…吉野は二ヶ月前から大学を休学してたみたいなんですけど、それが急になんで投身なんて…」
「自殺を謀る人間の理由なんて、その本人しか解らない事が多いからな…俺達にはたいした事なくても、その人にとっては“死”と言う解決策しかなかったのかもしれない…」
「分かってやれる人間が傍にいれば…他の解決策も見つかったんですかね…」
二人で肩を落としてデスクの資料をめくる。
「明日は夕方から杉崎に話を聞きに行く。それまでに別のルートから調べていくぞ」
「杉崎は昨日あそこで起きた殺傷事件の時も現場に居合わせたらしいじゃないですか…あそこの学生でもないのに…怪し過ぎませんか?」
「杉崎には接点がない…それに殺傷犯は杉崎じゃない」
「疫病神じゃなきゃいいですけどね」
「言い過ぎだ」
「すみません…」
俺は佐々木の発言を諌めて書類に目を通す。