菫の栞7 -事件篇-
現場に通り縋った生徒が数人集まって悲鳴を上げて震えている。
俺は視界に裕貴を捉えて駆け足で近付いた。
「戻ってきたんですか?」
「ああ。依子は教室にちゃんと居る」
「そう言う問題じゃないでしょう!依子さんから離れたら…」
「あっ!?」
裕貴の小言に顔を背けると、壁に隠れるように現場を覗いている女を見つけて俺は咄嗟に駆け出していた。
『最後まで人の話聞いてくださいよっ!』
「あの女!さっき屋上からこの男を見下ろしてたんだよっ!」
『なっ!?捕まえて下さい!!』
無線に向かって怒鳴っていた裕貴は、急げと腕を回している。
「分かってるっ」
向かってくる俺に気付いた女が、まるで化け物でも見たかのような怯えた顔で逃げようと走り出す。
「逃がすかっ!」
俺は小さな花壇を飛び越えて角を曲がった瞬間女の腕を掴んだ。
「いやぁぁぁあっ!?止めて!?殺さないでっ!!」
「はぁ?」
崩れ落ちた女は腕を掴む俺を見上げて、悪魔にでも縋るような狂気を孕んだ目をギラギラさせていた。
「お願い!!殺さないでぇ…私は何も知らなかったの…本当に…」
「馬鹿っ!殺すとか物騒な事言うな!お前何で屋上にいたんだよ!あの男が落ちる所見たんじゃないのか?」
「見たわ!見たけど…私は何も知らない!彼が勝手に落ちたんだからっ!」
「この時計…」
叫ぶ女の手首に光る華奢な腕時計を見て俺はその腕を引き上げる。
「杉崎!何やってんだ!離せっ!」
涙や鼻水で顔をグシャグシャにした女が泣き叫ぶと、誰かが俺の腕を掴んで女から引き離す。
「刑事さん…」
「まったく…無線が入って聞いてみたらこの大学だ…何が起きてんだ」
この少し冷えてきた時期に不釣合いな汗を額に浮かべて、山路が俺を女から更に引き離した。
「角曲がったら飛び降り遺体がある。この女はその屋上でそいつが飛び降りた時に覗き込んでたんだよ」
校舎の屋上を指して俺が説明すると、山路は佐々木に顎で指示を出すと佐々木はすぐさま現場に向かって行く。
「お嬢さん。済まないが署まで同行してもらうよ。杉崎君。君も後で来てもらうかもしれんが」
「その時は行くよ」
山路は女の腕を掴んで立ち上がらせると、ガクガク震えた女は項垂れたまま山路に着いて歩いて行った。
「こっちです!!」
佐々木が叫んで救急隊と警察を呼んでいる。
*
事務所に戻ると、智孝が珍しくラフな格好で社長席に座っている。
「山路さんから話は聞きましたよ」
「何かややこしい事になってるんですけど…」
「そうですね」
智孝は手を組んで机にもたれる。俺は自分のデスクに座り、裕貴は香里のデスクの隣にあるパイプ椅子に座った。
「事件の情報は一般公開されていません。ですから、これは企業秘密ですよ」
パッとパソコンのディスプレイに写真と学生証や経歴などが映し出される。
「投身された男性は吉野 浩平22歳。経済学部2年。現在休学中。」
「吉野…」
ディスプレイに映し出された男の顔と学生証を見て、俺は眉を寄せた。
まさか調査中の男が死んでしまうとは。
「真人君が取り押さえた女性は、加藤 由紀。21歳同じく経済学部2年」
食堂で俺と依子を見ていたあの濃い茶色の髪を一つに結った神経質そうな女がディスプレイに写る。
「留年してんだな」
「何だか揃っちゃいましたね…」
ポツリと裕貴が呟くと、智孝は無言で頷いた。
「森下君が言っていた“聖夜祭”の話を、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
「はい…去年の12月23日の聖夜祭の時…」
裕貴は思い出すようにゆっくり口を開いた。
俺は地下に設置されているジムのコンビネーションベンチでトレーニングをしながら、さっきの裕貴の情報を一人で考えてみた。
裕貴の話によると、自称“聖夜祭”と呼ばれる生徒主催のイベントが開かれた。
そのイベントは生徒自身がパーティー券を売ってその売上げで開催されている、所謂自転車操業だ。
主催者にチケットを渡された人は1枚8,000円で買取り、最低一人10枚がノルマになっていた。
普通の大学生からしたら80,000円の出費は痛い。意地でもチケットを売っていただろう。売れなかったチケットは自腹買取になるのだ。少しでも売ろうと半額以下でも売っていた奴もいたと言う。
実際そのパーティーは一人8,000円も払うような食事が出るワケではなく、紙コップに500mmのジュースを注いで渡したり、紙皿に出前のピザやレンジで温めただけの冷凍食品が並んでいたと言う。
そして、毎年恒例のミスコンと呼ばれるメインイベントの内容は酷いものだ。
チケットを売り捌けずに自腹も出来なかった人を壇上に上げて、見世物にした上に罵声を浴びせ生卵や食べかすなどを投げつけての“制裁”をしていたと言う。
裕貴自身、それ以上見ていられなくて会場を出たらしいが…その後にもきっと悲惨な扱いを受けたんだろう。彼女は。
原田の他にも3人壇上に上がっていたと言うが、その聖夜祭の2日後に原田が医学部校舎から投身自殺をして同じく制裁を受けた二人は一週間以内に大学を退学した。
よほど辛い目にあったんだろう。
明日は依子の講義がない為、俺はその退学した二人の行方を捜す事になった。
今回その主催者だった千葉が刺され重体。吉野は投身自殺(?)。加藤はほぼ精神が壊れている。
俺が今一番気になっているのは、加藤のしていた腕時計。
千葉を刺した黒尽くめの人物、ビルを窺うように暗闇に立っていた人物と同じ物だった。
加藤が千葉を刺して。吉野を突き飛ばして死に追いやったのか…
まだ、山路からの情報が入って来ない。これ以上考えても空回りしそうだし、先入観は危険分子だ。
俺はトレーニングを終えて、持ってきたタオルで汗を拭く。
「雲行きが怪しくなってきたらしいじゃない」
「お。お疲れ。そうだな…目の前で人が死ぬのは寝覚めがいいもんじゃないな」
香里がリラックスモードのジャージ姿でジムの入り口に立っている。俺はジムの電気を消そうとスイッチに手を伸ばす。
「私も今抱えてる仕事が終わったら参戦するから。頑張りなさいよ」
「頑張るって言ってもなぁ…で。何しに来たんだ?トレーニング?」
伸ばしていた手を止めたまま香里
「社長が“La Luceに食事に行くから真人呼んで来て”って」
「それ早く言えよっ!汗だけ流して行くから先に行っててくれ」
「は~い」
俺は急いで階段を駆け上がると、一目散に部屋に飛び込んだ。
『俺が探偵になった理由 菫の栞 ―事件篇―』 【完】