菫の栞5 -事件篇-
「じゃあ何?その殺傷犯がここを窺ってたって言うの?」
依子の美味い食事を終えた俺達は事務所に戻った。コーヒーを片手に残りの仕事を片付けながら、俺はさっき見た人影の話をすると香里がデスクに肘をついて顎を支えるようにもたれた。
「多分ここを窺ってたと思う」
「本当に犯人と同一人物なんですか?」
応接間でパソコンを開いている裕貴が顔を上げずに尋ねる。
「ああ。あの時見たのと同じ腕時計してたから間違いない」
俺は自分の腕時計をトントンと指で叩いて伝えた。
「真人の記憶力は信じるわ。でも何で事務所の様子見に来るわけ?」
「少なくとも…その共通点は、裕貴と依子ちゃんだよな」
「そうですね。あの大学で起きた事件。そこに通ってるのは僕達ですから」
「男なの?女なの?」
「細身で身長が裕貴くらいだったと思うけど、前進真っ黒の出で立ちで性別は不明。ただ、着けてた腕時計…あれは多分女物だな」
「僕…167ですけど…女性でも僕より高い人は沢山居ますからね」
「じゃあ、女って事?その浩美って子が虐めてた子かしら」
「聞いただけでも絞れるような人数じゃないですよ。千葉さんに虐められてた子」
「あいつ等の話。ちょっとだけ聞いてたんだけど…依子ちゃんの事が嫌いだったみたいだな。散々な事言ってたし…」
思い出しただけでも腹が立つ会話の内容。あの時もムカムカしたが、口を出さなかった俺エライと褒めてみる。
「男子の憧れの的ですからね。依子さんは」
「あんな可愛い子誰も放っておかないわよ。男ならねぇ」
香里の最後の“男なら”はどうやら俺にも向けられているようだ。
「しかし…もし犯人の狙いが依子さんなら事は重大ですよ」
「そう…だな」
「物騒な話ですね」
脱いだばかりのベルベットジャケットのコートを腕にかけた智孝が応接間を抜けて、俺達のデスクの奥にある社長席に重そうな皮の鞄を置く。
「お帰りなさい!」
「お疲れ様です」
「お疲れさまです」
香里は智孝の手からコートを受け取りハンガーにかけると、裕貴は奥の部屋に入って行った。
「詳しく話を聞かせてもらってもいいですか?」
社長椅子に座った智孝が肘掛にもたれて俺を見ると笑顔で首を傾げる。
「えっとですね…」
俺は今日大学で起きた殺傷事件からネットの掲示板の話と、さっきの人影の話を簡潔に智孝に伝えた。
暫く何かを考えるように黙っていた智孝は、裕貴の淹れて来たコーヒーを一口飲むと机に肘を着き手を組んだ。
「その“ヨシノ”と言う人の事も気になりますね」
「明日になりますけど、朝一番に大学の事務局で調べてみます」
「よろしくお願いします」
智孝の一言で裕貴は小さく手を上げた。
(俺の時とは大違いだ…)
口元を引き攣らせて、俺は裕貴に視線を向ける。
裕貴はツンと顔を逸らすと、またパソコンで何かかを打ち込む。
「進藤さんが居ないので、速水君には負担かもしれませんが真人君の通常業務を少し引き受けてくれませんか」
「大丈夫ですよぉ。真人の通常業務くらいなら負担にもならないです」
「ありがとうございます」
香里は鮮やかに笑うと「ねっ」と俺の肩を叩く。
「相手の目的が分からない以上、依子が巻き込まれてしまうかもしれない可能性が大きいようですから…真人君には依子の警護を集中してしてもらいたいのですが」
「はい」
「教室まで付き添いができるように、大学の方には僕が連絡をしておきますので」
「分かりました。でも、今の段階で依子ちゃんはこの事を知らないですよ?依子ちゃんには何て伝えるんですか」
「依子には何も伝えないでくれると助かります。あの子の事だから、自分が狙われているからと引き篭もってしまうかもしれません」
「確かに…」
「私事で真人君に動いてもらうのは本当に申し訳ないのですが…」
「いやっ!何も問題ないですよ!俺ももう一回学生気分できるし。へへっ」
「ははっ。ありがとうございます」
申し訳無さそうに頭を下げる智孝に、俺は慌てて首を降るとおどけた様に笑う。
「あっ。再来週の土曜日曜と大学の学園祭なんですよ。依子ちゃんが吹奏楽サークルでフルートを吹くらしいんで、智孝さんも行けたら行きましょうよ」
「それは楽しみですね。今から仕事の調整をしてみます」
「私も行くぅ」
香里が張り切って手を上げると、「みんなで行きましょうか」と智孝が優しく微笑んだ。
*
欠伸を噛み殺しながら俺は依子の部屋の扉をノックする。
「おはよぉ」
「おはようございます」
タイミングを見計らっていたかのように扉が開くと歩美がスッと部屋から出て来た。
「おはようございます」
歩美が扉の脇に寄ると後ろから依子が車椅子に乗って出てきた。
フワッと鼻を掠めた優しい香りに目を細める。
「いい匂い」
「あー香里が頑張って味噌汁作ってたからなぁ」
「楽しみだわ。歩美さんありがとうございました」
依子は歩美に頭を下げると食堂に向けて進んでいく。
歩美は丁寧にお辞儀をして、部屋に戻っていった。
俺は依子の後を追うように食堂に向かって歩いて行く。
大学の駐車場に車を止めると、トランクから車椅子を出して依子の移動を手伝う。
「あっ…」
差し出した俺の手を掴んで車椅子に移動しようとした依子は、バランスを崩して体がグラリと揺れた。
「おっと…」
直ぐに依子の手を引き上げて腰を引き寄せると、必然的に抱き締める形になった。思っていたより軽かった依子は地面から浮いてしまう。
「あれ…こんなに軽かったっけ?」
出逢って間もない頃に背負った彼女より軽く感じた俺は、軽い気持ちで疑問を口にした。
「まっ…まな…」
目の前の依子が目を伏せたまま顔を真っ赤にして今にも泣きそうな顔をしている。
「ん?…あ…ごめん」
俺は慌てて依子を車椅子に座らせると、ブランケットを手渡す。
「ありがとうございます…」
顔を伏せたままモソモソとブランケットを膝に掛けて呟いた。
事務所に入ってから暇があれば地下のジムで遊んでいたから、知らない間に体が鍛えられたのかもしれない。俺は自分の掌を見つめて首を傾げる。
(うん…可愛いよな)
俺は一人で納得して、車椅子のグリップを握りゆっくりと歩いて行く。
「今日は午前と午後で1講義ずつだったよな?空いた時間は何するんだ?」
「午前は図書館に行きたいのですが。よろしいですか?」
「ほい。了解」
昨日の今日だ。出来るだけ辺りに視線を送り気を配りながら構内を進む。
午前の講義も終わり、依子のリクエスト通り図書館に向かう事にした俺達。
「まさか一緒に講義を受けるとは思っていませんでした」
依子は文字通りクスクスと笑っている。
「久しぶりに大学の講義が見たくなってな」
「随分熱心に聞いてらしたから、本当に愉しそうでしたね」
「ははっ。初めて聞く講義だから面白かったよ」
談笑しながら歩いていると、大学の構内には似つかわしくない強面の男を二人見かけて俺は眉を上げた。
「山路のおじ様?」
「え?」
依子が俺の声にソッと指を指したのは、強面男の背を向けていた男だ。
「おっ」
男がこちらに気付いたのか、手を上げて近付いて来る。
「ああ。警部補か」
近付いてきた男を改めて見ると、“立て篭もり&高城事件”の時に会った刑事だった。
「おはようございます」
「おー。何で依子ちゃんがここに?」
「私。ここの生徒ですから」
事件の時とは違う山路の優しい瞳に、俺は少し驚きを隠せない。
「おじ様はお仕事ですか?」
「ああ。だから今日は、おじ様は無しだ」
「ごめんなさい」
かなり親しいらしい二人のやり取りを見ていた俺と、もう一人の刑事も唖然としている。
「ん。ごほごほ」
誤魔化すように咳払いをした山路が、直ぐに刑事の顔に戻った。
「杉崎君だったかな?斉藤の事務所に入ったとは聞いてたけど本当だったんだな」
「はい。おかげさまで」
「俺は何もしとらんがな。この大学の学生なら、ちょっと話を聞かせてもらっても構わないか?」
眉間に皺を寄せた山路が、俺と依子を交互に見る。
依子は俺を見上げて様子を窺う。
「依子ちゃんがいいなら付き合うよ」
「ありがとうございます。私は大丈夫ですよ」
俺が小さく頷くと、依子は笑顔で山路に答えた。
殺傷事件があったカフェに入ると、依子は紅茶俺はコーヒーを頼んだ。
(どうしよう…依子ちゃんは事件を知らない。知ったら気にするかな…)
「早速ですが…」
山路が内ポケットに手を差し込むと、部下の佐々木が警察手帳を開きペラペラと捲り出す。
「これを見た事はないか?」
ポケットから出した透明の袋に入った紙を俺達に見えるようにテーブルに置く。
「…いや。知らないですね」
「あ…」
俺は直ぐに首を横に振って答えると、依子はそれを手に取り小さく声を上げた。
「知ってるのか?」
「はい…これと同じ物か分かりませんが、菫の栞…知ってます」
驚いたように聞き返す山路に、依子ははっきりと頷く。
「何処で見たんだい?」
「お友達が持っていました」
「友達?名前を教えてもらってもかまわないか?」
「はい。原田 絵里子さんです。図書館でよく会いました」
依子はビニールに入った栞を見つめて、少し悲しそうな顔をした。
「なるほど…その原田さんはどんな人だった?」
「とても物静かで優しい方でした。本が好きで毎日図書館に通ってらしたんです」
二人の会話に違和感を覚えた俺は、コーヒーを飲みながら依子の手の中にある栞を見つめる。
「何度か彼女の本をお借りした事もあります。後、お香が好きだと言う話も聞きました」
「お香?」
「アロマテラピーです。純粋に香りを楽しんだり香りの種類で効果も違うんですよ」
「なるほど…」
「いつも甘い香りがしていましたよ」
「なぁ。その子ってもしかして、亡くなってるのか?」
俺は二人の会話に口を挟むのはどうかと思ったが、疑問をそのままにする事が出来ず聞いてしまった。
「はい…昨年の聖夜祭の二日後に…」
悲しそうに目を伏せた依子。
「知らない相手なのに良く分かったな」
「ずっとその子の話を過去形でするからおかしいと思ったんだ」
「それだけで亡くなったに繋がるか?」
「普通に考えて、警察がこんな所まで乗り込んで聞き込みしてるんだから事件絡みなんだろう。失踪ならこれ程目立つ動きはしないだろうし…その過去形が加われば自ずと亡くなっているって答えに辿り着くと思うけど…あー事件性のある失踪なら別か…」
「分かった分かった。斉藤が雇っただけあるな。いい目といい勘をしている」
俺の説明に山路はニヤッと笑うと、依子の手から栞を受け取った。
「その原田さんが亡くなった時の話を聞かせてもらってもかまわないか?」
「…私はあまり…裕貴さんなら何か知ってるかもしれませんね」
「森下か。あいつもこの大学なのか?」
「はい」
「じゃあ後で事務所に寄らせてもらおう。その時にもう一度話を聞かせてもらえるかな?」
「分かりました。裕貴さんにもお伝えしておきますね」
「お。よろしく」
「お疲れ様です」
佐々木がカフェの精算を終えると山路は「じゃあ」と手を上げてカフェを出て行ってしまった。