菫の栞4 -事件篇-
依子を後部席に乗せて車椅子をトランクに直し、運転席に乗り込むとバックミラー越に見えた依子が何か言いたそうにこちらを見ているのが分かった。
「どうした?」
「えっ…」
「いや。何か言いたそうだから」
「えっと…」
体ごと振り返った俺はもじもじと指を動かす依子の返事を待つ。
「少し買い物に…」
「お?寄り道か。どこ行くんだ?」
「スーパーに…」
何故かどんどん声が小さくなっていく依子に、俺は首を傾げた。
「近所のスーパーでいいのか?」
「はい。お願いします」
「お安い御用で」
俺は依子のリクエスト通りに、事務所の近所にあるスーパーに向かう事にした。
駐車場に車を止めて車椅子をセットすると、依子は俺の肩に掴まり車椅子に移動した。俺は車椅子のグリップを握ってゆっくりと歩き出す。
「何買うんだ?」
「ゆ…夕食の食材を…」
「本当に香里にハンバーグ作るのか?」
「はい。こう見えてお料理はそこそこ出来るんですよ」
振り返った依子ははにかんだ笑顔で俺に訴える。
「こう見えてって…依子ちゃんは普通の女の子だろ」
「真人さん…」
依子は驚いたように目を大きく開くと、綿菓子みたいにフワッと笑う。
「もちろん、俺にも食べさせてくれるんだよね?」
スーパーの入り口でカゴを掴むと、依子が手を差し出してきた。
「はい。もちろんです」
「愉しみだなぁ」
依子にカゴを渡すと、膝の上にそれを乗せた。
ビルに戻ると住居階北側の端に位置する20畳程の食堂に、買ってきた食材を運ぶ。
「お帰りなさいませ」
広めの厨房に立っている歩美が、依子に頭を下げた。
「ただいま。歩美さん」
「た…ただいま」
今朝の事もあり、俺は少し歩美を警戒してしまう。
「俺は事務所で書類の清書してくるから」
「はい。出来上がったら呼びに行きますね」
俺は依子の肩をポンと叩くと、下の事務所に向かう。
事務所の扉を開けると、正面の受付に郵便物が山のように置かれていた。左手の部屋では裕貴がパソコンに向かっている。
「お疲れ様です」
「お疲れ~」
こちらを振り返り挨拶をした裕貴は、大学で見た美少年の姿は何処にも無く、残念な感じの陰気臭い男に戻っていた。
「新しい無線出来たから、明日テストさせてください」
「ん?了解」
部屋から腕だけを伸ばした裕貴の手にある幅が太めな皮のベルトを受け取ると、裏や表にして見ながら腕サイズなんだと分かり腕時計の横に着けてみる。邪魔にもならないシンプルなデザインだ。
「そうそう真人さん。今日の学内での殺傷事件なんですけど、ネットに犯行予告らしきモノが上がっているのを発見しました」
「犯行予告?」
「はい。見てください」
裕貴の言葉に俺は部屋を覗き込みパソコンのディスプレイに目を向ける。
「色んな大学の悪口を書き込む掲示板型のサイトなんです。殆どは教授の悪口や学食のマズさや評価が書かれた小者サイトなんですけど、最近少し過激な内容がアップされていて」
過去二ヶ月分くらいの書き込みがダラダラと流れていくと、ある日を境に個人名や画像がアップされるようになっていた。
「ここ見てください」
裕貴の指した内容を読むと、今から3日前の日付で今日の事件を仄めかすような書き込みを見つける。
「私は許さない。近々浩美に天罰を…」
「浩美って今日刺された、千葉 浩美ですね。漢字も同じだし、この粗いモザイクの写真は彼女でしょう」
掲示板に貼り付けられている目元だけモザイクをかけられた女性の写真を裕貴は指す。
「怨恨か。あの浩美って子は何か恨みを買ってんのか」
「まぁ…僕の知ってる限りでは援交の斡旋だとか、人の彼氏を横取りしたとかイジメもあったみたい…」
「ははっ…」
俺は乾いた笑いしか出てこない内容に、掲示板を更にスクロールしていく。
「なぁ。この“ヨシノ堕ちろ”は関係ないのか…」
今日の日付で書かれた書き込みを指した。
「ヨシノ…苗字でしょうか、名前かな?」
「あの大学には居ないのか?苗字でも名前でもヨシノって奴」
「学生全員の個人情報を僕が知ってるわけないでしょう…それにこれは仕事じゃないんですよ。依頼も来てないのに動けません」
「何だよ。今日の事件気になったから、調べてこの掲示板見つけたんだろ」
「僕は探偵助手です。警察でも警備員でもないんですから、今から起こるかもしれない事件に関わる気はないです」
「ったく…じゃあ時間があって、気が向いたら調べてくれよ」
俺は裕貴が頑なになってしまう前にこの話題を終わらせる。
「明日も真人さんが護衛するんですか?」
「ああ。進藤さんの話だと早くて一週間長くて10日って言ってたからな」
「真人さんなら依子さんに対しては安心かもしれないけど…別の意味で不安だなぁ」
「なっ…」
「改めて言いますけど。真人さんの仕事は依子さんの身辺警護です。他の事に気を取られて依子さんを危険な目に合わせないでくださいよ」
「分かってるよ」
裕貴の説教を背中で聞きながら応接間を抜けて自分のデスクに座ると、パソコンを立ち上げた。
裕貴の言う事は真っ当な事なんだろう。俺が今与えられている仕事は依子の護衛なんだ。
あの殺傷犯もまだ捕まっていない状態で、依子の安全を第一に考えるのは普通だよな。
「っし…」
全く進んでいない今日の事務仕事を手早く片付けようと、俺は気を取り直してパソコンに向かう。
どれくらい集中して書類作成をしていたのか。事務所の扉を豪快に開けて香里が帰って来た。
「お疲れ様です」
「あぁぁぁっ疲れたぁあっ!!」
裕貴の挨拶も適当に交わした香里は、応接間のソファーにドサッと飛び込んだ。
「お疲れ~」
「真人~コーヒー」
「…このっ…」
ヌッと腕を伸ばして奥の部屋を指差した香里。俺は引き攣る口元を抑えて奥の部屋に入っていく。
「1つしか違わないのに何だ、あの横柄な態度は…」
仕事上でも先輩なわけだが、香里は俺をこき使う。
外回りで疲れているのは分かっているから俺もそれに気を悪くはしないが、ちょっとは可愛い所を見てみたいものだ。
「真人ぉ~やっぱコーヒー後で!依子ちゃんのハンバーグ食べてからにするー!」
香里の叫び声にコーヒーメーカーに粉を入れようとした手を止めて、粉を戻しながら小さく溜息をつく。
「あー癒されるぅぅぅ」
「きゃ…香里さん」
「出来たのか」
香里と依子の声を聞いて俺が応接間を覗き込むと、香里がエプロン姿の依子の腰に抱きついて胸元に頬摺りしている。
「…でっ…出来ましたよぉ」
依子は頬を染めて困ったように両手を上げていた。無防備な依子に香里はひたすら頬摺りをしていた。
(なんと…羨ましい…)
「(じゃなくて)…飯っ!飯っ!」
思わず心の声が漏れてしまいそうになったのを押し戻す。俺は依子の“助けて”と言わんばかりの表情を見て苦笑すると、香里の首根っこを掴んで依子から引き離すと車椅子の進行方向を出口に向ける。
「もぉ…癒されてたのに…」
「依子ちゃんが困ってんだろうが」
「とか言って。本当は羨ましかったんでしょう。このス・ケ・ベ」
「ぐっ…」
エレベーターまでの短い距離。香里とのそんな会話に後ろから出て来た裕貴から冷たい視線を頂きました。
「真人さんて…」
「何だよっ!!変な空気で止めんな!」
「依子さんに変な菌が移ったら大変だ」
裕貴が俺を押し退けて車椅子のグリップを握ると、開いたエレベーターに乗り込んで行く。
「真人さんは階段で来て下さい」
「ぷぷっ。食事前の運動よぉ~」
「あっ…そのっ…」
香里がエレベーターに乗り込むとエレベーターの扉が閉まっていく。依子が落ち着き無く困った顔をしていたのが可愛かった。
「くそっ…」
俺はポケットに手を突っ込んで事務所の扉の鍵を閉めると、廊下の突き当たりにある階段に向かった。
“羨ましい”と思ったのは事実だ。俺も今までそれなりに女の子と付き合ってきたけど、依子みたいな正真正銘のお嬢様を目の当たりにしたのは初めてで、もっと依子を知りたいと思うのは好奇心なんだろう。
今朝、依子の女性的な部分を垣間見た時。俺は正直ときめいたんじゃないだろうか。
だって男の子だもん…。
小さく溜息を吐きながら何気なく窓に視線を流すと、電柱の横に人影が見えた気がした。
このビルを見上げるように立っている人影。俺は気になって暫くその様子を見てみる。
仮に下の飲食店の様子を伺っている。否。飲食店の入り口は反対側だ不自然過ぎる。
仮に事務所への仕事依頼。否。ウチは突然の訪問を断っている。常客の紹介であれ、事務所に来て貰うことはない。指定日の指定時間に指定の場所での面談が基本の業務。
気になった俺はそのまま階段を下に降りて行くと、裏口のドアを開けて人影の見えた電柱に足を向けた。
視界に捉えたのは黒いパーカーに黒いキャップを目深に被った人影。まるで昼間の殺傷事件の犯人のようだ。
「っ!?」
裏口から出て来た俺に気付いたその人影は、驚くような速さで走り去ってしまった。
「あいつ…」
俺は走り去っていく影の腕に光る華奢な腕時計を確認した。同一人物だ。
PiPi…
『拗ねてないで早く来て下さい』
「えっ?」
不意に聴こえた電子音と裕貴の声に振り返ると、3階の窓で手を振っている裕貴。
『明日テストしようと思いましたけど、大丈夫みたいですね。早く上がってこないと無くなりますよ』
腕時計の横に着けた皮ベルトから聴こえる事に気付き、俺はベルトを見ながらビルに戻っていく。