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銀色の虹の果てに  作者: ぺんぎ
第二章
19/24

第三話:『ヘスティア』

 一部学内施設は、夜間利用が認められている。

 申請は必要だが、各学部の訓練・実習室の他に北の大図書館や闘技場も許可されており、特に試験期間は膨大な量の申請書が各学部から『本棟』学生部に届けられる。

 学園の外で魔法を使っても特に処罰は下らないが(校則違反の対象領域はあくまで学内なのだ)、道端で練習していてうっかり通行人に当たりでもしては大変なので、中規模以上の魔法を使う者などまずいない。

 なので、実技試験の一日目が過ぎたこの日の夜も、魔法学部では例に依って訓練室、実習室共に全ての扉に「使用中」の赤灯表示が点いていた。

 そのうちの一つ、個人用訓練室では、他の訓練室の入口から僅かに漏れる魔法の爆発音や衝撃音の代わりに、耳が痛くなるほどの静寂が行き渡っていた。

 その中心に佇む、一人の少女。

 (あか)い長髪を金色の髪留めで束ねる少女は、瞼の内側に双眸を秘めながら、静かに呼吸を繰り返す。

 ――一息。

「っ!」

 少女の周囲に、炎が舞った。

 優雅ささえ纏い、一瞬にして舞い上がった緋色の炎がゆったりと広がる様は、さながら蓮の開花を思わせる。

 花開いた火弁はそのまま部屋の四隅へ行き渡り、波を打って大気へと還っていった。

 小さく、今度は柔らかく息を吐く。

〈だーかーらーッ、それじゃダメなんだってばー!〉

 そこへ張りのある声が飛び掛かってきて、いじけたように眉根を寄せた。

 そのままの表情で、少し後ろを振り返る。

〈……今のはまだマシだったじゃない〉

〈ダメッ、ぜーんぜんダメッ! 赤点補習モノですよシャーロットちゃん〉

 両腕を正面で交差したそれ(・・)は、これ以上ないくらい力強く首を往復させた。その際に、まるで背中から直接生えているかのような炎が小さく火の粉を散らした。

 ――否、本当に背中から、翼のような炎が生えていた。どころか、手乗り人形のようなサイズの身体は宙に浮いてさえいた。

 燃え盛る炎がそのまま纏わり付いたような、どこかの民族衣装にも見える衣服に、フサフサの羽毛を生やしたような炎の翼。片側で纏めて肩から胸の辺りに垂らした長い髪も、少し吊り上がった大きな眼も、シャルと同じ緋に染まっている。

〈なっ、そこまで酷くないでしょ! ヘスティア、あんたちょっと辛口過ぎよ!?〉

〈なーに言ってんのよ! ヘスティアちゃんはいつだって公明正大を信条としてるのが売りなんだからねッ。あっ、この持ち前の可愛さは大前提だから〉

 ニコやかに頬を指差したそれ(・・)から、シャルは視線を逸らす。

〈精霊に売り(・・)もクソも無いでしょ。生殖機能も無いのに〉

〈んまっ、シャーロットちゃんたらお下品~。ファンクラブも真っ青な発言ね〉

〈……黙りなさい〉

〈大体、生殖機能はなくたって私たちにだってオスメスの性くらいあるんだから。そんなことも知らないなんてシャル遅れてる~ッ〉

〈だ・ま・り・な・さ・いッ!!〉

 業を煮やしたシャルの周囲から再び炎が舞い上がり、襲い掛かった。

 正面、上、下、右、左。背後からと見せ掛けて上下の挟み撃ち。

 無数の大蛇を象って唸りを上げる炎は、明らかに数日前までとは動きが異なる。

 『力』を完全に取り戻したからこそ、可能な動きだ。

 動きだけではない。炎の勢いも増しているし、今までのシャルは炎の動きを単純化してようやく矢や球の形を保てていたが、今はこれほど複雑な動きをしながらも炎が大蛇の形を全く崩していない。完璧な形状変化が出来ているという証拠だった。

 その、万全な状態のシャルの攻撃を、一見して小さな(過ぎる)少女然としたそれ(・・)は宙を飛び回って易々掻い潜る。

〈ほらほら、まーた戻ってるよーッ?〉

 迫りくる火の手を躱しながら、陽気な声が放られる。炎を全く意に介していない様子はおちょくっているようにさえ見え、実際そう感じたシャルは、

〈このっ……!〉

 怒気とも苛立ちとも思える表情で、操る炎に一層力を籠めた。

 瞬間、飛び回る少女目掛けて、大蛇が八方から同時に襲い掛かった。

 が、

〈はい、しゅ~りょ~ッ〉

 少女の小さな身を喰らう直前で、八つの炎蛇は牙の先から消滅していった。

 霧散した魔力の残骸が、火の粉となって部屋を舞う。

〈もぉ~、シャルってばやる気あるの? それとも遊んでるの? ねぇどっち?〉

 全く平然とした様子で、宙舞う少女は手を当てた腰を前屈みに折って頬を膨らませた。プンプンという擬音が聞こえてきそうな様が、凄くムカつく。

〈……あるに決まってるでしょ。だからこうして毎日――〉

〈だぁーったらなんで三日前と同じことしてるのかなぁー?〉

〈そ、そんな簡単に言わないでよ! こっちは六年もブランクあるんだから……〉

〈甘い、甘過ぎるッ!〉

 たじろぎぎみの台詞に、少女はビシィッと指差した。

〈ブランクがあるからこそなんだよッ。今のシャルは『力』が戻ったから全体の能力値は上がってるけど、しょーじき昔のシャルのが『力』自体は使いこなせてたんだからッ。シャル、あのとき(・・・・)みたいに樹の根だけを焼くなんてできないでしょ?〉

〈うっ……〉

 的を射た言葉に、反論出来ずに詰まった。

 そう、『力』を失って以降、シャルは昔のように望んだものだけを燃やすなどという芸等は出来なくなっていた。

 それが実はかなりの高等技術であると知ったのは上級学院に上がってからだが、嘗て出来たのだから出来ない道理はないのだと、躍起になったこともある。しかし、『力』が戻った直後に一度だけ成功させてはいるものの、火事場のなんたらだったのか、その一度以外はどうにも上手くいった例がなかった。

 それはつまり、嘗ての自分が『力』を使いこなしていたという証。そして、今の自分があの頃の自分とは違うという証だった。その所為で、先のクエストのように苦渋を舐めたこともある。

 その様を見てきた(・・・・)からこそ厳しい現実を突き付けた炎の少女は、ほんの僅かに心情を面に出して、シャルに気付かれないうちにまた引っ込めた。

〈……だから! 四の五の言わずにやるのッ。わかった?〉

〈………分かったわよ。やれば良いんでしょ、やれば〉

〈よろしいッ〉

 観念したように息を吐くと、小さな少女は満足げに頷いた。まるでいじけた子を諭す親のようだ。

 いや、その感覚はあながち間違いではないのかもしれない。何せ彼女は―ヘスティアは、シャルがこの世界に生まれ出でた、いやそのさらに前、母の腹の内にいた頃から、ずっとシャルを見守ってきたのだから。

 生き残ったこの世界を、そしてそこに住む人間という種を見守る存在、精霊。

 ヘスティアは、そのうちの火を司る精霊であり、シャルに加護を与えている存在だ。この世界に生命(いのち)として誕生した時から共に生き、一方的に拒絶してしまってもなお長い間呼び掛け続けてくれた彼女はシャルにとって親も同然であり、また掛け替えのない友でもある。

 新入生クエストから帰って毎日、シャルはそんな彼女から取り戻した『力』の扱い方を学んでいるのだが……。

〈でも、ならもっとちゃんと説明してよ。「がぁーッ」とか「ぬごぉーッ」とかじゃなくて〉

〈しょーがないなぁー〉

 ヘスティアはやれやれといった風に息を吐いた。あんな本人の感覚でしか解らない説明で上手くいくと、本気で思っていたのだろうか。

 宙に留まりながら、小さく細い人差し指が立つ。

〈いい?『力』を失う前のシャルと失った後のシャル、それから完全に取り戻したシャルだと、それぞれ魔力の扱い方が違うの。特に『力』を失った後と、他の二つね。シャル今まで――『力』を失ってから今まで、魔法を使うときどうしてた?〉

〈どうって……まずイメージしてそれから……〉

〈そうじゃなくて、魔力を練るときどんな感じでやってた? 感覚でいいから〉

 結局感覚かと思いながら、シャルはこめかみの辺りに手をやってその時の感覚を思い出す。

〈んーっと、自分の胸の辺り……かしらね? そこら辺に意識を傾けて、そうしたらそこに塊みたいなのが出来るのよ。いえ、塊っていうか、渦みたいなのかしら。それをそのまま上に押し上げる感じ、だと思うんだけど……〉

〈けど?〉

〈何て言うか、『力』が戻ってからはその渦に別の何かが入ってくるっていうか、そこに溶け込むっていうか……何か変な感じがするのよ。別に気持ち悪いとか、そんなのは無いんだけど〉

 寧ろシャルは、それに暖かみさえ感じていた。ただ、どうにも以前と感覚が違っていて、自分が思い描いたものの数倍くらい魔法の威力が上がってしまったり、逆に極端に弱かったりと、調節に相当苦戦しているのだ。今日の実技試験でも調節を誤って訓練室に施されている諸々の結界を使い物にならなくさせてしまい、おかげで部屋から出た後の好奇や愕然とした視線が物凄く痛かったりもした。

〈んと、まず言っておくとね、その渦の中に何かが溶け込む感覚っていうのが、人間が魔法を使うときの普通の感覚なの。今までそれがなかったのは、シャルとわたしの間にある繋がりがすごく弱々しくなってたからだね〉

 言葉の後半で、シャルは気付いた。

〈って事はあれって……〉

〈そう。精霊の、わたしの魔力だよ〉

 途端に、ヘスティアの頬が優しく緩んだ。

 加護を与える精霊と授かる人間との間には、見えない糸のような繋がりがある。その糸が太い者達ほど強固な繋がりを持っており、世に名を連ねるほどの魔導師達なら、会話は出来なくとも精霊の存在を感じることくらいは出来るそうだ。

 しかしシャルとヘスティアのそれは、一度切れ掛かるくらい細くなってしまった。だから姿や声を認識するどころか、本来誰もが受け取れる筈の精霊の魔力さえも受け取れなくなっていたのだった。

 だが、今は受け取れている。それがどういうことなのかを理解したシャルは、胸の内側が熱くなっていくのを感じた。

〈今までのシャルは自分の魔力だけを変質させてたけど、本来の『力』を使うにはわたしの魔力も一緒に変質させなきゃいけないの。昔なら意識しなくてもそれができてたんだけど、六年も、しかも成長期に自分の魔力だけでやってたもんだから、『力』が戻った今は二つを別々の魔力として意識しちゃってるってわけ〉

 なるほど。確かに自分の中に違う魔力が入り込んでくるような感じがするし、幼い頃はそんな風に思うことはなかった。というか、こういう説明が出来るなら初めからして欲しかった。いきなり「魔力をがぁーッてやってぬごぉーッてするの」とか言われても困る。

〈つまり、それを一つの魔力として変質させろってことでしょ? でもそれが難しいのよね……〉

 別々の魔力を完全に同調させ、変質へと至る。口で言うのは簡単だが、両者の割合が少しでも食い違えば先のように予想外の結果を生んでしまう。だからつい、自分の魔力だけを(・・・)変質させる今までのやり方を取ってしまうのだ。

 ようやくまともな説明を聞けたところで、シャルはもっと具体的な、出来ればコツのようなものを期待するが、

〈だから、そこをぬごがぁーッと――〉

〈だからそれが解んないっつってんのよ、この感覚馬鹿〉

 結局最初と変わらない答えを放り投げてきたので、考えるより先に打ち返した。

〈あっ、ひっどいんだぁー! バカって言った方がバカなんだよ? やーい、シャルのバーカ〉

〈あんたも言ってるじゃない……もう良いから、ちょっと静かにしててちょうだい。集中したいから〉

〈あ~ッ、そういうこと言うんだ。じゃあわたし知ーらないッ〉

 付き合ってられないとばかりに息を吐くと、先程とは逆にいじけた様子で頬を膨らませたヘスティアは、スィーッと宙を進んだ。

 行き着いた先は、シャルの左肩だ。

〈……ちょっと、重いんだけど〉

〈ツーン〉

 別にそこまで重いわけでもないが、肩の上で翼を休めた精霊に視線と声だけを向けると、プイッと顔を逸らされた。口で言う辺りがまた癪に障る。

 相手にするのも馬鹿らしいと割り切って、シャルは鍛錬を再開することにした。

(まずは……)

 浅く呼吸して、意識を自らの内側へと向ける。

 頭から爪先まで、全身を廻る血流の如く流れる魔力を、小川のせせらぎを耳にするように感じ取る。

 それを、ゆっくりと胸の辺りに掻き集める。集まった魔力が渦を巻いて次々と集まる魔力を取り込み膨らんでいき、 肉体から僅かに漏れる魔力の波動で髪が靡き始めた。

(……来た)

 渦の中へ、他とは違う感じのする魔力が流れ込んできた。これがヘスティアの魔力なのだろう。剥れていても一応魔力は貸してくれるらしい。

 その流れ込んできた魔力を、上手く渦の中に溶け込ませる……のがこの鍛錬の目的の一つなのだが、

「ん、っ……」

 思わず力んで、息が漏れた。

 シャルの魔力が緩やかに流れる巨大な炎の運河なら、ヘスティアのそれは猛々しく荒ぶる炎の嵐だ。それを自分のものと同じように扱うには、相当な集中力が必要となる。

 まさに荒馬の手綱を握っている気分でいると、 ふと頬に何かが触れる感触があったので視線向けた。少し、内側に集う魔力が揺れたのを感じる。

 肩から足を放り出したヘスティアが、シャルの頬に身を預けていた。目を閉じた表情は、なにやら嬉しそうだ。

〈……何よ?〉

〈べっつにー?〉

 怪訝な声には、どこか弾んだような、そんな声色で返された。

 心中で肩を竦めて(実際に竦めるとヘスティアが落ちるので)、視線を外す。

 幼い頃、『力』を失う前のシャルは、ヘスティアという存在がいつも傍にいてくれたことなど知りもしなかった。『力』を失った後もずっと傍にいてくれたことさえ、知ったのはほんの数日前のことだ。

 だから『力』が戻った直後、あの火山でアレン達と合流するまでの間や、クエストが終わって宿に帰った夜などに、シャルは自分のことを沢山話した。

 自分の大切な仲間や家族のこと。仲の良い友人や鬱陶しい金髪のクラスメイトとその従者のこと。学園でどういう風に過ごしているのか、休みの日は何をするのか。今まで体験した面白可笑しい出来事や、ちょっと思い出したくないことまで。傍にいたのだからみな知っていると分かっていたが、空白の六年間を埋めるように、沢山、沢山話した。

 ヘスティアもまた、自分のことを語ってくれた。精霊とはどういう存在なのか。人間と精霊とはどのような関係なのか。シャルと自分にはどんな繋がりがあるのか。……この六年間、どれほど寂しい想いをしていたのか。

 言葉を交わした時間は短くとも、それだけで二人は、長年肩を並べて歩いてきた親友のように互いの心を通わせることが出来た。そして、他の者達には当たり前である魔力の供給が、二人の繋がりをより確かなものとしてくれる。

 それが、どうしようもなく嬉しいのだ。

 隠しようがないくらい口元が緩んでいるのを見て、シャルの頬もつい緩む。身体の内側で魔力が混ざり合うのを、木陰で添い寝する心地でゆったりと感じる。

 ゆったりし過ぎて変質に失敗して、また口喧嘩が始まった。



        †   †   †



 鍛錬を終えて帰宅したシャルは、ひとまず荷物を置いてから、遅めの夕食を摂る為にアレンの部屋へと訪れた。

「ただいまー……ってアレン、あんたも今からご飯?」

 不用心にも鍵の掛かっていない玄関を抜けてリビングへ入ると、食卓に着いているアレンが目に入った。

 もう日が沈んで結構な時間が経っているので、てっきり先に食事を済ませていると思っていただけに、シャルは軽い驚きを覚えていた。

「ん……あぁ、お帰り」

「?」

 どこか呆けたような声に首を傾げたが、構わず自身の分を用意する。と言っても、予めイリスが用意してくれていた物を箱型の魔導式加熱機――通称『レンジ』――で温めるだけなのだが。

「そういえば、あんた実習決まった?」

「あぁ、Bクラスでアトニアって街の近くにある森で薬草採集だった。メンバーはアルベルトとアリス」

「また鬱陶しいのと……あんたホントにくじ運無いわね」

 アトニアと言えば、確か『学びの庭(ガーデン)』からランドハウスで東へ数時間いったところだったかと温まり終わるのを待つ暇潰し程度に考えながら、鬱陶しい名前が聞こえて顔を顰めた。

「シャルは?」

「私は一人で西の街までお遣いだったわ。なんだか、正直拍子抜けした気分」

 つい先日死に掛けるような体験をしたばかりだった所為か、多少なりとも身構えていたところにただのお遣いときたものだ。少々面倒な道程とはいえ、その程度の課題では折角取り戻した『力』の錆落としにもなりはしないだろうと、シャルはレンジの蓋に映った自分の不満顔と睨めっこした。

〈拍子抜けねぇ……〉

 不意に、呆れたような声が呟かれた。ヘスティアだ。

 じろりとした視線を蓋の向こうに映る肩辺りに送りながら、声なき言葉を念じる。

『……何よ』

〈べっつにー? 誰かさんがあんなの(・・・・)で自信ありげなこと言ってるから、ちょっとビックリしちゃっただけ。気にしなくていいよー〉

 肩の上で嫌みったらしく手をひらひらさせた小人に、シャルは一層顔を顰めた。

 そりゃ確かに、あの後も結局上手くいかずに訓練室の使用時間が終わってしまったが、別に全く成果がなかった訳ではない。ヴリトラを倒した時とまではいかないが、ちょっと威力を抑えぎみにしてやれば、きちんと『効果』を乗せた炎だって創れるようにはなったのだ。

 だというのにこの精霊ときたら、「あんなの」呼ばわりだ。どこか小馬鹿にした態度だって癪に障る。

 なので、肩を軽く払った。

〈わ、ちょッ!? 急になにすんのさ!〉

『人間ってのはね、楽する事を覚えるとどんどんサボっていくもんなの。あんたも楽ばっかしないでちゃんと自分で飛んでなさい』

〈……わたし、精霊なんですけど?〉

『知能の高い生き物に変わりは無いじゃない』

 突然落とされたことに炎の翼を広げて抗議の声を上げたヘスティアに、シャルはしてやったりといった顔をした。

「……どうかしたのか?」

「何でもないわ。ちょっと肩に()が止まってただけ」

 眉を寄せたアレンに事も無げに返しながら、丁度温まり終わった料理を取り出した。〈蚊ってなによ、蚊ってーッ!〉とヘスティアが喚いたが、それは無視する。

 言葉とは裏腹の妙に楽しげな声にアレンは一層眉間の皺を深めたが、それ以上訊いても答えは返ってこないと解っていたのと、そもそも他の事柄に思考が引っ張られていたので何も言わなかった。

(それにしても……)

 手を合わせ、作ってくれたイリスに感謝を籠めて一言呟いてから食事に取り掛かる傍ら、シャルは引き続きどこか呆けたような表情で料理を食べ始めたアレンをちらりと窺い見た。

『ホントに見えてないのね、あんたのこと』

〈だから言ってるでしょ。もう五回目くらいだよ、そのセリフ?〉

 感慨深げにさえ思える言葉を向けられたヘスティアは、聞き飽きたとばかりの声を返した。

 アレンには、ヘスティアの姿が見えていない。姿どころか、声も気配も、ヘスティアという存在そのものを、他の者は認識出来ていないのだ。

 それが出来るのは、彼女と直接繋がっているシャルだけだ。先程の二人のやり取りも、アレンからすれば突然シャルが一人で肩を払ってニヤ付いたようにしか見えていなかった。

 その為、他人に聞こえないので気を遣う必要がない為常に言葉を声に出して喋っているヘスティアと違い、シャルは二人きりの時以外は、二人の繋がりを利用した念話のようなものを使って会話している。

 その際二人が使っている言語は、人間が古くから古代語と呼ぶ、人外の者達が使役する言葉だ。

 本来、扱う条件として一定量以上の保有魔力を必要とするこの言語を、他の魔法生物と比べて遥かに魔力の少ない人間がこのように自在に会話に用いることは出来ない。だがシャルは『力』を取り戻した直後から、自然とヘスティアと古代語で話せるようになっていた。

 とはいえ、シャル自身には古代語を扱っているという感覚はない。言うなれば、ヘスティアと話す時だけ、言葉が喉を通って空気を振動させる際に(或いは念じた言葉がヘスティアへ届く際に)自然と古代語へと変換されているようなもので、古代語の知識そのものを獲得した訳ではないのだ。故に魔物の声を聴いても、シャルには彼らが何を話しているかを理解は出来ない。

 何故『力』を取り戻しただけでこのような変化が訪れたのか。ヘスティア曰わく『力』を失う前よりも二人の結び付きが強なくなったかららしいが、詳しいことは彼女にも説明出来ないそうだ。

 シャルは別にそれでも構わないと思った。この変化のおかげでヘスティアと話せるのだから、特に不都合などはないのだ。だったら別に、原因を突き止める必要性は低いと考えた。

 それに、当初は――と言ってもごく最近だが――そんな余裕がなかったのも理由の一つだ。何せ会話の手段に声に出す言葉と念じる言葉の二通りがあり、さらにそこに単なる心の声まで加わってごっちゃになってしまうので、それらを使い分ける訓練をしなければならなかったのだ。

 幸い、声に出す方は勝手に変換されるし、念じる方は通常の念話と似た感覚だったので、苦労したのは念じる方と心の声を使い分けることだけで、五日もすればその苦労もなくなっていた。

 おかげで今では、

『そりゃそうだけど、やっぱりなんか変な感じなのよ。だって――』

「悪いシャル、お茶取って」

「はい」

「サンキュ」

『……だって、今こうしてる目の前にも他の精霊がいるって事でしょう?』

 とこのように、お茶の入ったポットをアレンに手渡しながら、何の支障もなく頭の中でヘスティアと話すことも出来る。

〈んー、なんて言うのかなー。精霊(わたしたち)は確かに一つの生命としてこの世界にあるけど、人間や魔物とは違う括りになるし、かと言って、エルフとかと同じ枠組みってわけでもないの〉

『どういう事?』

 問いの答えからはかなり距離の開いた言葉に、シャルは思考だけで首を傾げた。

〈魔物はまぁそのまんま、魔の神が創った生き物でしょ? で、エルフや聖獣、非魔法生物なんかは聖の神が創った生き物。亜人や獣人は種族によって魔の側だったり聖の側だったり。人間は完全に両方〉

『えぇ』

〈そういう意味だと人間が一番近いんだけど、そもそも精霊は「王」以外は特定の形を持たない、生命力と魔力の集合体だから〉

『えっ? じゃああんたって精霊の王様なの?』

 思わぬ言葉にシャルはつい視線を向けてしまったが、どこかうわの空のアレンは気付かなかったようだった。

 別に話そのものを疑っている訳ではない。疑ってはいないが、今の話が本当ならこうして少女のような外見を取っている彼女はそういうことになる。容姿的には女王の方が適切か。

〈まっさかぁ。わたしが生まれたのシャルのちょっと前だよ? 人の話はちゃんと最後まで聞く〉

 馬鹿らしそうに笑ったヘスティアは、シャルがいつもアレンに言っていることを言った。

〈この世界を満たすくらい大きな生命力と魔力の集合体、あるいは奔流。そこにあるすべての生命を育むために『力』を与える存在。それが精霊の本来の姿。そこには無数の意識があるし、その意識たちを一と見ても全と見ても、生命としてなら個体としての形があるかどうかの違いだけで人間や魔物とたいして変わらないとは言えるよ。自我はないけどね〉

 炎の翼から火の粉を散らして、料理を食べるシャルの視界に映る位置へと現れた。

〈でも、精霊の本質はそれとは別にあるの〉

 少女然とした炎の化身が、見上げる形で緋い瞳を見つめる。そこに、先程までの冗談めいた雰囲気はない。

〈精霊っていう存在は、そこに世界の理を内包してるの。理そのものって言ってもいいかもね。「理」自体を見たり触ったりはできないでしょ? だからいまこの場にいる形のない精霊たちを、シャルたちは見ることも触ることもできないの〉

『じゃあ、あんたは?』

 精霊が理そのものなら、そして理自体を見ることも触れることも出来ないのなら、シャルにヘスティアの姿が見え、頬を寄り添うことが出来るのはどういうことか。そもそも、本来彼女らの「王」とされる者以外自我も形もない筈の精霊が、こうして他の生命と同じように一つの個体として存在するのは何故なのか。

〈本来、集合体としての精霊には意識はあっても自我はない。それは世界が三つに分かれる前の世界から変わらないことで、わたしも本当ならこの世界を廻る意識の一つとして生まれるはずだったんだけど、いつからか無数の意識の中に一際強い意識が芽生え始めたの。それが時間が経つにつれて自我を、形を得て、最終的に他の生命と変わらないものにまで変化していったってわけ。進化、って言った方が正しいかもしれないね〉

 それは間違いなく進化なのだろう。 或いは、新たなる生命の誕生と言っても良いのではないだろうか。

〈まぁそこらへんに漂ってる『力』の弱い精霊は昔のまんま、形もなけりゃ自我もない存在だし、自我があるのだってみんながみんな強い『力』を持ってるわけじゃないよ。人間に加護をあげてる精霊には多いみたいだけどそれでも動植物みたいなのが大半だし、わたしみたいな人型っていうのは珍しい方なんだよ。でもそうやって姿形を得ても、本質が変わったわけじゃないから、他の人は存在を感知できないの〉

『存在が感知出来ないから、見ることも触れることも出来ないってこと?』

〈そういうこと。シャルがそうできるのは前話した通り、わたしたちの繋がりが強くなったからだよ。で、理そのものの精霊は、他の生命とはカテゴリからして違うってこと〉

『ふーん……』

 サラダを口に含みながら、シャルは納得したかどうか微妙な声を返した。今の話が実は世にいる考古学者や精霊学者といった研究者達がその身を捧げて調べていることだとは、夢にも思っていない。

『あんたさ、さっき生まれたのは私のちょっと前って言ったじゃない?』

〈うん〉

 食べ終えて食器を洗った後、まだ自分の皿にすっかり冷めた料理を乗せているアレンは放って部屋へと戻る道すがら、思い付いたように言った。

『その割にはやたら色々詳しくない? 他の精霊から教えて貰ったりしてるの?』

〈そういうんじゃないよ、精霊同士はあんまり干渉し合わないし。ただなんとなく生まれたときから知ってたの。わたしっていう存在が意識の海の中で生まれたとき、その過程で精霊たちの記憶が知識として刻まれたんだと思う〉

『それもなんとなく知ってたこと?』

〈そゆこと〉

 訓練で『力』の扱い方を教える時、やたらと感覚的な説明が多い理由が判った。はっきりとした知識はあるのに、それ自体を本人がなんとなくでしか捉えていない所為だ。

「あ、シャル。帰ってたんだ」

 一旦部屋の並ぶ廊下へ出たところで、イリスと出会(でくわ)した。

 数時間前には帰宅していた筈なのに未だ黒の制服に身を包み、しかも自分の部屋から廊下へ出たのではなく階段のある方向からやってきたことにシャルは小首を傾げる。

「ただいま。どこか行ってたの?」

「えっ? あ、うん。ちょっとね。それより今日の試験どうだった?」

 なんだか引っ掛かる反応だったが、不完全魔法症が治って初めての実技試験という意味を理解して肩を竦める。

「んー、まあまあね。ちょっと失敗しちゃったけど」

〈どこがちょっとなんだか〉

『黙ってなさい』

 透かさず隣から浴びせられた呆れ声に、実際に踏んでやりたいと心底思いながら頭の中で足を踏ん付けた。

「…………」

「イリス?」

「あっ、ううん、なんでもない。わたしもう寝るね? なんだか試験勉強ばっかりで疲れちゃった」

 おやすみと言って、イリスは足早に自分の部屋へと引っ込んでいった。

「……どうしたのかしら?」

 アレンといいイリスといい、揃って心ここに在らずといった感じだ。イリスのあんな様子はあまり見たことがないし、普段ぼけっとしているアレンにしてもなんだかそんな風ではなかった。物思いに耽る、という言い回しが適当に思えるような呆け方だ。

 首を捻りながら、いつまでもそこに留まる訳にはいかないので、シャルも自室の扉を潜る。

 そういえば今日からは実技なのだから、イリスが勉強疲れするというのもおかしな話だと思ったが、筆記試験の分が溜まっているのだろうと深くは考えなかった。

 シャルが声に出した呟きは古代語となって届いていた筈だが、ヘスティアからは何も返ってこなかった。



        †   †   †



 夜の街並みは、昼間とはまた違った景観を魅せてくれる。

 それが昼間と違い少し高いところから眺めるとなると、単に街中を歩くのとはさらに異なる趣があるというものだ。

「えぇ、はい。部屋は取ってありますし、一応来週まではこちらに留まるつもりです」

 ガーデンで最も高級な宿(外観としてはホテルと言った方が適切だが)の一室から、肩と頬で受話器を固定しながら、街明かりと不思議な感じのする淡い金色(こんじき)の光に煌めく夜景を眺める。

「はい、はい……いえ、別にマルスは関係ありませんよ。単に(わたくし)が――もう、わかっておいでなら妙な事は仰らないで下さいな」

 火照った裸体にバスタオルを巻いただけの蠱惑的(こわくてき)な格好をしたルナは、艶美に湿った栗色の髪を別のタオルで揉みほぐしながら若干の溜め息を吐いた。

「今ですか? お湯を頂いていたところです。いえ、ちょうど上がろうと思っておりましたので」

 社交辞令的な謝辞を断って、受話器を逆側へと持ち替える。

「ああ、ですがバスルームだけは今すぐにでもそちらの物を使わせて頂きたいですね。このホテルの物ではやはり窮屈ですし、色々と限界を感じてしまいました。まあ、それも仕方のない事なのですが……」

 やり切れないとばかりの口調だったが、言葉を向けられた相手からしても、やはり例に依ってそんな風には思えなかった。

「わかっておりますっ。ただ私だって年頃の女なのですから、そういった部分に贅沢さを欲するくらい許されても良いと思うのですが?」

 受話器の向こう側でやれやれといったように肩を竦めた相手に頬を膨らませながら、窓に背を向けて部屋を進む。十分贅沢な部屋にいるだろう、と相手側から呆れた声が届いた。

「男性の飲酒や喫煙と同じなのです。飲むなら美味しいお酒を、吸うなら自身に合った煙草を選んでストレスを発散させるではないですか。私にとってのそれが入浴というだけで、この欲求は至極当然というものです。そもそも協定の規制が厳し過ぎると以前から思ってはおりましたが、もう少しなんとかならないものなのですか? いくらなんでも差があり過ぎです」

 一通り水分を拭き取った長髪を纏めてバスタオルを頭に巻く傍ら吐き出された先程と似たような不満に、電話の相手は無茶を言ってくれると乾いた雰囲気の無言で反駁(はんばく)した。

 その無言を内面通り受け取ったルナは、それでも納得する訳ではない。この場で抗議することを時間の無駄だとも思わない。その気になれば幾らでも改善出来る筈なのだ、この受話器の向こう側にいる男は。

 とはいえ、いつまでも不満をぶつけようとも思わない。どうせ全て聞き流されるだろうし、何よりそろそろ終わらせなければ湯冷めしてしまう。

「とにかく、そちらへ向かうのは来週という事で。必要な物は後で纏めて持って参りますので、最低限の準備だけお願いします。……心配せずとも仕事はきちんとこなします。私にとっても必要な事なのですから」

 途端に、受話器の向こう側が真剣さを帯びたのを感じた。

 しかし耳に届いた声はどこかニヤ付いたようなもので、それに釣られてルナの口元にも小さな笑みが浮かぶ。楽しんでいるようにさえ聞こえてくる声とは違い、陰険味のない、微笑みとも思える笑みだ。

「いえ、今回はとりあえず(・・・・・)です。本願が叶うのはまだまだ先でしょうし、それほど簡単なものでない事くらい承知しておりますので。ではそろそろ失礼させて頂きます。これ以上この格好のままだと湯冷めどころか風邪を引いてしまいますし」

 思い出したような謝辞をまた断って、受話器の電源を切る。

「……ああ、それとバスルームを――」

 直前で言い忘れていたのに気付いてもう一度持ち直したが、耳元から等間隔に無機質な音が聞こえてきた。あちらは切ってしまったようだ。

「……もうっ」

 受話器を見つめて口を尖らせた。

 もしかしたら、こちらの行動を読んでいち早く受話器を置いたのかもしれない。彼なら電話越しだろうとそれくらいはやってのけそうだ。

 まぁ、あれだけ言っておけば問題はないだろう。あったらあったでその時にどうにかすれば良いだけで、今これ以上どうこうするつもりはない。

 本当は、現状を変えられるのが一番望ましいのだが。

 受話器を置いて、まだ湿った髪を乾かす為の魔導機械を手に取った。

 スイッチを入れた折り畳み式の送風機が、内側に取り付けられた魔石の力を借りて、長細く造られた送風口から温風を放出する。が、如何せん出力が足りず、勢いは弱々しい。

「………はぁ」

 一度スイッチを切って、肩を下げた。

 やはり、このホテルの設備では限界がある。これで最高級というのだから本当にどうしようもない。こちらの生活に慣れていればそれほど気にならないのかもしれないが、魔導科学の先進国であるアルドハイナで育ったルナからすれば、十年二十年遅れの技術を使ったものに満足出来る筈がなかった。

 五大陸とガーデンの間には、技術運用の為の協定が結ばれている。というより、協定の内容に技術運用に関する項目が含まれていると言った方が正しい。

 それぞれの国が保有する技術が突出しているが為に安定しているパワーバランスを保つ為に、各先進国が定めた規制に基づいたレベル以上の技術を、他国内では使用出来ない。先進国で最先端とされる技術が他国に流れるまでには、最低でも五年の月日を要さなければならないとされているのだ。

 ただし、この五年という歳月は、ガーデンを除く五ヶ国に於ける話だ。ガーデンにはさらに特殊な規定が組み込まれている。

 世界中から学生が集まるガーデンでは、技術漏洩阻止というのが特に難しい。況してや自己顕示欲の激しい十代に、自国の技術をひけらかさないほどの自制心は期待出来ない。

 だが世界繁栄の導き手として多くの才能を世に放つ学園としては、数年遅れの技術にばかり触れさせていて、いざ卒業した際に他国で役に立たないのでは意味がない。それでは態々大陸を渡ってまで学びにくる者もいなくなってしまう。

 依ってガーデンでは、学区内でのみ、最先端技術の運用が許可されている。

 技術制限を限定的とはいえ取り払うことで学生達の顕示欲を解消し、且つ世界中の先端技術を学ばせ、学内でも学生達の手に依って新たな技術を研究することが出来る。それはガーデンのみならず他国にとっても有益で、毎年秋になると、魔法闘技大会に合わせて各分野の研究成果を披露する為の展示会も催されている。

 しかし、学区内だけとはいえ世界中の最先端技術が一所に集まるのは、見様に依っては脅威の集合だ。中立にあるガーデンがひと度牙を剥けば、一国の技術力では太刀打ち出来なくなってしまう。

 なので代わりに、最先端技術を常時運用出来るのは学区内でもさらに学園敷地内のみ、学区全域での常時運用は最低三年が経過した技術のみと限定され、学区以外、周辺四区と中央区での技術制限はより一層厳しく設定されていた。

 その一層厳しく制限された技術が運用されたのがこのホテルであり、この送風機という訳だ。

 勿論時代遅れの技術ばかりが使われている訳ではない。ガーデン独自の技術はきちんとあるし、そういったものまで規制出来るほど一方的な取り決めではないのだ。

 とはいえ、流石に十年前の技術というのはどうかと思う。殆ど化石ではないか。なまじ魔導科学という生活に多く関わる技術が発展した大陸で育った為に、余計にそう感じてしまう。

 本当のところを言うとステラの寮にでも泊まりたいところだったが、一週間以上も世話になる訳にもいかないので、それは諦めた。慣らす(・・・)必要もあることだし、この際我慢を決意したうえでの先程の会話だ。……あの狭いバスルームだけはなんとかして欲しいが。

 それに、それらを差し引いても余るくらい、ルナにはここに宿を取った意味があった。

 振り返り、今一度月夜の街を眺める。

(ああ、やはり何度見ても……)

 美しい。既に何度目かになるが、それでもうっとりとした口から零れる感想はその一言のみだ。

 目の前の夜景ではない。それも確かに心を惹き付ける美しさがあるが、ルナの心を掴んで放さないのは、そういった表面上のものではない。

 商業区の活き活きとした華やかさ、工業区の熱気を帯びた活発さ、居住区の心地良い暖かさ、自治区の穏やかな静けさ。目新しい技術などなくとも、街の雰囲気、そこに住む人々の空気に、感動を超え、見惚れてしまうのだ。

 何よりもルナは、その中心に住まう彼らこそを賞賛し、羨望していた。

 学園都市ガーデンの本質を担う、若き学生達こそを。

 何者でもない彼らは、自身に秘められた可能性を追求し、何者かへと成ろうとしている。

 決して平坦な道程ではない。挫折し、道を変える者も大勢いるだろう。それでも、いずれは何者かへと成るのだ。

 その為の短くて長い時間を、彼らは懸命に生きている。或いはそれこそが、彼らの生命の輝きと言えるのではないだろうか。

 そしてそんな渦中に、今は実の妹もいる。

 ステラの成りたい者が何かは、ルナには分からない。だがどの道を選ぼうとも、行く先は他の学生達以上に過酷なものだろう。

 それは目指すもの以上に、彼女自身に課せられた運命がそうさせるのだ。

 現に今も、運命は彼女の前に立ちはだかっている。何者かへと至る道筋を潰さんと、腕を組んで仁王立ちしている真っ最中だ。

 運命を打破するのか、はたまたあの子も運命に打ち負ける者となるのか。どちらに転ぶのかは、神のみぞ知るか、それとも誰にも分からないのか……。

 けれど、光がない訳ではない。

 こちらにきて判ったが、ステラの周囲には光がある。手探りで進むしかない道を照らしてくれる道標がある。

 しかし、そちらはそちらで問題もある。光が強過ぎると、今度は眩しくて目を開けていられないのだ。

 指先が窓に触れる。髪より少し濃い色合いの瞳が、街全体を優しく照らすセフィロトの輝きに煌めく。

(さあ……)

 灯光か、閃光か。

 あの「光」は、果たしてどちらだろうか……。



今回は少し短めですw

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