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銀色の虹の果てに  作者: ぺんぎ
第二章
17/24

第一話:『兄と姉』

 嘗ての災厄より生き残った世界、エルスペロ。

 五つの大陸に分かれたこの世界の中心、分断した二つの世界に生命(いのち)の力を送っているとされる大樹セフィロト。それを囲うように発展した学園都市、『学びの庭(ガーデン)』の一角にある施設に設置された転移装置が、光と共に唸り声を上げた。

「やはり、長距離転移というのはいつまで経っても慣れないな……」

 軽い転移酔い(・・・・)に顔を顰めながら、見た目二十歳前後にして荘厳さを纏った青年が、台座に敷かれた魔法陣から一歩踏み出した。

「仕方ありませんよ。こちらに設置された装置は随分古い型の様ですし」

 同じく台座から降りた気品溢れる女性が、困ったように苦い微笑みを浮かべた。歳は青年より上だろうか、落ち着いた物腰が板に着いていた。

 そんな、自分とは違い至って平然とした(・・・・・・・・)様子の女性を見た青年は、彼女の八面玲瓏さを改めて実感したことで生まれた微小の感情を、転移酔いで顰めたままの顔の中に紛れ込ませた。

「では参りましょうか、姉上。この時間なら、昼時には間に合うでしょう」

「えぇ、一刻も早く」

 はきはきと返された台詞に、青年は首を傾げた。確かに時間を無駄にはしたくないが、別段彼らは一刻を争っている訳でもなかった。

 ふと、装置が置かれた部屋の出口へ向かう姉の足取りが、妙に軽いことに気が付いた。気の所為だろうか、彼女の気品さに合わせたドレスを纏った全身から、高揚感と期待感が滲み出ているようにも感じられる。

「……予め申し上げておきますが、移動はランドハウスではなく馬車です」

 ピタリと、女性の歩みが止まった。

 やはりか、と青年は少し嘆息する。

「あんな巨大な物が街中を走れる訳がないでしょう。さあ、参りますよ」

「………はぁい」

 打って変わって、女性の声はしょぼくれていた。



        †   †   †



 新入生クエストを終えた一年生と四年生達には、束の間の休息が与えられる。

 期間は最長一週間、短くても週末の三日間(クエストに掛かる時間がそれぞれ違う為生じる差だ)は休日となるので、彼ら彼女らはこの序盤にクエストのレポートを手っ取り早く片付けてしまい、残りの完全なる安息日を謳歌する。

 というのは、普段から一層真面目に勉学に取り組んでいる一部の者達の話。多くの場合その安息日は、或いは普段の学園生活よりも、目先の娯楽から堅忍不抜の心を以て机に噛り付かねばならない日となる。

 休み明けには、中間試験が待ち構えているのだ。

 魔法学部の試験は筆記・実技・実習に三分されており、先の一週間で前者二つ、その翌週から実習を行う。

 実習は科目別の試験とは違って学科毎に形式が異なりそれぞれに掛かる時間もバラける為、より難易度の高い内容が指定される期末試験では、準備期間を含めると実習だけで二週間も設けられている。

 とはいえ、中間試験での実習は長くて一週間。つまり筆記・実技を合わせた二週間が試験期間となり、実習を終えるとまたすぐに通常授業に身を投じなければならない。勿論赤点など取ろうものなら容赦なく放課後の休息が補習地獄へと早変わりだ。

 その為生徒達は、日中は教室の机に噛り付き、夜は学園北部の大図書館や各校舎にある訓練室などで、これまで学んだ講義内容の復習といった試験対策に余念がなかった。

 アレン=レディアントもその一人で、この期間は夜遅くまで自室の明かりを落とさなかったのだが、妹のイリスや幼馴染みのシャルが軽いおさらい程度に夜を更かしたのとは、些か以上に理由が違っていた。

「ふぁ……っ」

 大きな欠伸に、目から涙を浮かべる。

「試験、どうだった?」

 と覗き込むように訊ねたのはイリス。こちらは別段寝不足という訳ではないようで、両手を後ろで組みながら、ふくらはぎ辺りまで伸ばした銀髪を揺らしていた。

「んー、まあまあかなー」

 目を擦りながら、気のない返事を返した。所々撥ねている黄金色の髪の前側だけ奇妙に癖が付いているところを見るに、時間が余ったので寝ていたらしい。

「ノートとかちゃんと取ってるんなら、いい加減普段からきちんと勉強したらいいのに……」

 とは言うものの、口調には諦めが色濃く浮かんでいた。

 アレンは、筆記試験を全て一夜漬けで乗り切っている。一応ノートは自分で取っているのである程度は記憶にあるが、不足分や要所はシャルやノアの手助けを借り、残りはヤマを張って(このヤマ張りがどういう訳か百発百中なのだ)凌いでいた。

 その甲斐あって(?)、試験の順位は毎回学年上位――学内掲示板に貼り出されるのは上位五十名まで――という、教員達にとっては手放しで喜べない事実が出来上がっていた。

「まっ、考えとくよ」

「『考えとく』とか『善処する』って、絶対そうしない人が言うんだよ?」

 やはり気のない言葉に、イリスはジトッとした視線を送った。確かに、その気があるなら「そうする」とでも返すだろう。

 痛いところを突かれたアレンは、乾いた笑いを零すことでこの場を誤魔化そうとする。

 もっともそれで誤魔化されるイリスではないので、

「そういや、シャルは?」

 話題転換の意味合いを強く込めて訊ねた。

 幸い、それにはあっさりと応じてくれた。

「先生に用事があるから、先に行っててって。ご飯も食べてていいって言ってたよ」

「ふーん、なんの用事だろな」

「試験のことじゃない? 資格の」

「うへっ、中間試験の真っ最中にかよ」

 魔導師、と広義に言っても、その種類は実に様々だ。

 代表例としては魔導術師、魔導技師、魔導医師、魔導学師などがあり、その他にもあらゆる分野に携わる魔導師が存在する。しかし勿論、志を持つ誰もがなれる訳ではなく、現代の基準に則った実力を備えていなければならないのは、何も魔導師に限ったことではない。

 その実力を明示するものが、各職業に沿った資格試験という訳だ。

「シャル、なんの試験受けるって?」

「うーんと、確か『第一級火属性魔法』と、『第二級魔導師型』、あと『第四級開拓魔導術師』だったかな?」

 相変わらずの気のない声に、イリスは指折り数えて答えた。ちなみに正式には全ての末尾に『資格』と付く。閑話休題。

「三つも受けんのかよ!? ってか同時に受けれんのか?」

 予想外の回答に、アレンは思わずイリスに顔を向けた。

 驚嘆の眼差しを受けるイリスも、困ったように息を吐く。

「だよねぇ。『属性魔法』と『戦闘型』は筆記と実技だけだけど、『職業資格』って実地試験があるでしょ? 開拓魔導師のやつだとクエスト受けなきゃいけないし、来週から中間試験の実習もあるのにシャル大丈夫かな」

 資格試験の日程は多少のバラつきがあるが、一月や二月も間隔がある訳でもない。しかも今は中間試験の真っ只中だ。さらに言えば、アレン達魔法学科の実習は学園指定のクエストとなっている。

 一体何を焦っているのかと、二人は揃って溜め息を吐いた。

 が、彼女の事情を鑑みれば、気持ちが解らない訳ではなかった。

 ほんの数日前まで、シャルは魔法が使えなかった。正確に言い表すなら、不完全な魔法しか、だ。

 六年前の事件が切っ掛けで魔法を失い、その数ヶ月後に僅かながら『力』を取り戻したものの、以来五年間(正確には五年と五ヶ月)、ずっとその状態で過ごしてきた。それが、つい数日前の新入生クエストの折、紆余曲折を経て、ようやく完全に『力』を取り戻したのだ。今まで出来なかったこと、やりたかったことを自由に出来る喜びは、計り知れない。

「まぁ、あいつのやりたいようにやればいいのかもな」

 言って、アレンは視線を空に向けた。

 晴れた空には、雲が大きな塊を作って点在している。

 将来的に何になるかは知らないが、取れるものは取っておいても問題はないだろう。無茶なスケジュールを省みないのはともかくとして。

 それにそう言ったのは、なんとなく、シャルの思惑が理解出来たからでもあった。主に『第四級開拓魔導術師資格』辺りから。

 だから、ついなんとなく、

「俺もなんか取ろっかなぁー……」

 と呟いてイリスに驚愕されたのは、仕方のないことだった。

「お兄ちゃん、どこか打ったの!? それとも何か拾い食いでもした!?」

 鳩が豆鉄砲を喰らったと言うよりは雀が上級魔法を喰らったような様子に、アレンは目を細める。

「……一応聞くけど、どういう意味だ?」

「えっ? あっ、いや、別にお兄ちゃんが『資格取ろっかなー』なんて言い出したことが今後十年はないくらい驚いたとか一瞬真剣に病院に連れていこうか迷ったとかじゃないんだよっ? ただちょっと、ほんのちょびっとだけ、本当にこれくらいだけ意外だっただけで……」

 慌てて弁明するイリスは、片目を瞑って摘まむように人差し指と親指の間隔を狭めた。

「……もういい、お前が俺をどう見てたのかがよぉくわかった」

「ちょっ、待ってお兄ちゃん、謝るからぁっ!」

 涙目で引き留めるイリスに、足を速めたアレンの口元は意地悪そうにニヤ付いていた。

 そんな他愛のないやり取りをして歩いていた二人は、行く手にあった大きな植樹が視界に入った辺りで、ふと足を止めた。

 植樹に注目がいったというよりは、それを見上げている人物に意識が傾いたのだ。

 見慣れない、貴族が着用するスカート部分の少し膨らんだドレスを纏った女性だった。豪華、きらびやかではなく、華麗と形容した方が正しいドレスを、あくまでも自らの引き立て役として着こなしている。

 少し、風が凪いだ。

 胸の辺りまで伸びた癖の強い栗色の髪が靡き、耳の後ろに掬い上げたことで見えた少し大人びた横顔を見て、

(綺麗な人だな……)

 素直に、アレンはそう思った。それを目敏く察知したイリスの視線には気付かなかったが。

 と、女性がこちらに気付いて柔らかく微笑んだ。

「こんにちは」

「あっ、と……こんにちは」

「こんにちは」

 突然話し掛けられて、アレンは慌てて挨拶を返した(最後の挨拶は勿論イリスだ)。

「自然が多いというのは、()いものですね」

「はぁ、まぁ……」

 三人がいるのは魔法学部と武術学部の校舎間に設けられた広場で、その前後の道沿いには街路樹のように木々が植えられている。

 要領を得ない言葉に何と答えれば良いのか判らず、アレンはつい曖昧な声を返してしまった。「そうですね」とでも言っておくべきだったかと、若干後悔する。

 しかし、栗色の女性は特に気に障った様子もなく、変わらず笑顔を向けていた。

 髪よりも少し濃い色の瞳が、じっとアレンを見つめる。

「えっと、何か……?」

「……いいえ、何でもありません」

 所在無げに訊ねたアレンに、女性はゆっくり首を振った。とてもじゃないが、何でもないとは思えなかった。

「実は、連れと逸れてしまいまして。申し訳ないのですが、案内して頂けませんか?」

 困ったような口調なのに、どうにもそうは見えない。

「はぁ、別にいいですけど。どこにですか?」

 後頭部を掻きながら訊ねると、女性は柔らかい微笑みを、ニッコリとしたものに変えた。

「食堂」



 魔法学部新入生の一学期は、とにかく忙しい。

 まず他の学部に先駆けて入学式が始まる二週間前から寮に入り、一週間掛けて身体測定を含めた様々な能力測定を行う。その後一週間以内に測定結果が通知されるのでその間に身の周りのものを整え、通知を参考にしながら入学式の直後から行われる公開授業を見学し、授業を選択する。

 授業が始まると、入学試験の結果に依って振り分けられた小規模クラス(と言っても五十名ほどだが)の必修、自由に選択可能な学年指定がされた中規模クラスの選択授業では初日のみ授業の説明と簡単な自己紹介――以前アレン達がダグラスにやらされたアレだ――だけで終えたが、上級生も受ける大規模クラスの選択授業では、初日と言えどカリキュラム通り授業内容が進行する。その苛酷さは、基礎学院(若しくは基礎学校)上がりの新入生達に放課後の安息を許さなかった。

 そのような酷烈な環境に慣れる間もなく訪れるのが、五月の頭から行われる新入生クエストだ。

 毎年四月末週から四年生と共に準備を行い、長ければ一週間は掛かるこのクエストは、殆ど魔物を見た経験のない一年生達が、野外実習のノウハウを習得する目的で執り行われている。難易度としてはそれほどでもないのだが(ただし一部(・・)を除く)、慣れない野宿や魔物との戦闘に、魔導師見習いとしても新米な新入生達は気力体力共に疲弊することとなる。

 しかし、彼ら彼女らに気の休まる暇は与えられない。新入生クエストが終わると、その直後に中間テストが控えているのだ。

 次々と繰り出されるペーパーテストを呻吟しながら三日で終わらせ、残りの三日で実技試験を終わらせると、次の一週間に腕を組んで待ち構えている学科別に指定された実習を撃破しなければならない。

 それらを刻苦勉励の末クリアしてもすぐさま通常授業が再開されるのだが、それでもとりあえずこの地獄の一端を乗り切ってみせたと、過密にスケジュールされた筆記試験を終えたばかりの初々しき一年生諸生徒達は、心の底から歓喜に身を震わせた。――傍から、期末試験という名の悪魔が高笑いを上げながら炎天下に待ち構えていることを担当教諭から何気なく伝えられた瞬間の、幼さの抜けきっていない顔に浮かび上がった表情を絵で表現するなら、劇画調が最も適合していただろう。

 以上のような経緯にも拘らず、それでも魔法学部新一年生達の心は折れない。どころか、試験に対するその威勢――姿勢ではない――は、よりヒートアップの一途を辿ることとなった。一部、し過ぎて壊れ掛けてもいたが。

 正直そんなにしょっちゅう試験やらクエストやらをするのはどうかと思うし明らかに他の学部よりきついですよねと抗議の念を抱きもするが、彼ら彼女らにとってはとりあえず元の放課後を取り戻すことこそが現状に於ける最重要事項なのだ。それにこの苦行を乗り越えれば一つのイベントが待ってもいる。些か学園側の良いように操られている気がしないではないが、都合の悪い真実よりも目先の安息であるうら若き少年少女達は、放課後のあるかどうかも定かでないほんの僅かな休息を悪魔の手先(補習)から護るべく、この期間に全霊を込めて挑むのだった。

 そんな生徒が、ここにも一人。

「にしたって、詰め過ぎだと思うのはアタシだけじゃないと思うんだけどなぁ」

 ミリアム=リーラ=ガーフィールド、愛称はミリーだ。相も変わらず癖毛なのか意図的なのか判別が付かない少し赤み掛かったオレンジのショートヘアを、ぐったりと下に向けている。入学前から続くハードスケジュールに、疲弊以上に辟易としているようだ。

「ですが、あとは実技と実習だけですし、頑張りましょう?」

 そんな少女に苦笑ぎみな笑顔を向けたのはステラ。こちらも疲れてはいるようだが、彼女ほどではなさそうだ。

「……ステラ、さっきの試験どうだった?」

「うーん、多分赤点はないと思いますが……」

 ということは学年上位には確実に入っているのだろうなと、ミリーは羨ましげに溜め息を吐いた。謙虚な性格というのは、時として嫌味にしか思えないこともある。

 そんな少女に首を傾げて、ステラは隣に視線を向ける。

「リオン君はどうでした?」

「まぁ、普通かな? いつも通りだと思うよ」

「……リオン君、それって嫌味?」

「まさか」

 見上げる形で答えた暗緑色の少年は、続いて向けられたジロッとした視線に肩を竦めた。ちなみに彼の成績は意外なことに(?)学年トップなので、ミリーが睨むのも詮無きことなのだが。

「はぁ~あ、頭のいい人たちはうらやましいですねぇ~」

 やってられないとばかりに頭の後ろで両手を組んで、ミリーは空を仰いだ。

 そんな彼女に、二人は困ったような表情をする。

「そんな事は……」

「ミリーだって、まさか赤点はないだろ?」

 なんやかんやと、彼女も必修では二人と同じクラスなのだ。言うほど成績が悪いとは思えないが、

「…………」

 天を仰いだまま固まった表情に、何も言えなかった。

「そ、そう言えば、二人とも実習のクエスト決まった?」

 何とも言えない空気が流れ始めたので、リオンが透かさず話題転換を試みた。

「んーん」

「私もまだです」

 二人もこの空気は耐え難かったようで、余計なことは言わずに大人しく便乗した。

 新入生クエストとは違い、来週から始まる学科別の実習は内容、メンバーなど全てが学園側から指定される(内容、メンバー共に複数いる学科担当教諭達が協議して決める)。その為、毎回誰とどのようなクエストを受けるのかというのが一つの楽しみでもある。

「アタシ誰とかなぁー。二人とならいいのに」

「そうなると良いですね。お二人となら楽しそうですし」

「あぁいや、二人となら楽できるかなぁーって……」

「ミリー、君って……」

 不純な動機に、リオンはやれやれと額に手を当てた。

 その隣で、ステラも苦笑を浮かべる。

「多分週末までには通知が来ると思いますが、一緒になっても楽かどうかは保証出来ませんよ?」

「ふぇ?」

 途端にステラとリオンの表情に影が差した。

「……問題用紙を提出した時、クライヴ先生から仄めかされましたから」

「『準備はちゃんとやっとけよー、心の』だってさ……」

「うわ……」

 数日前の新入生クエストで、二人は難度Sクラスの内容に挑戦し、見事達成した。

 パーティーを組んだ四年生五人の力が大きかったのは言うまでもないが、それでも初めてのクエストで最上難度のクエストを成功させた事実は、他の一年生達だけでなく、教師陣をも驚かせた。

 とはいえ、純粋に驚いている生徒達と違い、教師陣は直後にあるこの中間試験で二人の実力のほどを測ってやろうと画策しており、あれでもないこれでもないあっちの方が面白そうこっちの方が面白そうと、小躍りしながら二人に放り投げる予定の無理難題を模索していたのだった。

 はっきり言っていい迷惑な二人は当然ながら必修担当であるクライヴに異議を申し立てたのだが、やる気の欠片も感じられない応答文からするに、不発に終わってしまったのは明々白々たる事実だった。

 そんな訳で、パーティーを組むかどうかはともかく、二人が再び難題に飛び込まされるのは確定事項となっていた。

 ガックリと項垂れる二人に、ミリーは引き攣った笑顔を浮かべる。

「ま、まぁまぁ! ご飯でも食べて元気出しなよっ」

 いつの間にか慰める側と慰められる側が入れ替わっていたが、暗い表情の二人が不憫過ぎて、ミリーは甘んじてその役を引き受けることにした。内心で「二人と違う組になりますよーにっ!」と合掌しながら。

 そうこうしながら辿り着いたのは、学園内で最も飲食店が集まるエリアだ。

 ステラとリオンは、アレン達と同じ授業の時は彼らと食事を摂るが、そうでない時は態々待ち合わせてまで場所を同じくはしない。彼らにも彼らの付き合いがあるし、それは二人も同じなのだから。

 そういう訳で、今日の昼食の面子はこの三人。少し早足で来たので、幸いまだ席は空いている。

「おっ、やーっぱ早めに来て正解だったねぇ」

 遠くを眺めるように手を翳したミリーの溌剌とした声は、それでも混雑ぎみの雑踏の中に埋もれそうだった。

「じゃあ席取っとくから、先に並んでて――」

 効率良く役割を分担し、テーブルに荷物を置きにいこうとしたリオンが、急に言葉を切った。

「リオン君、どうかしたのですか?」

「いや、誰かなって……」

 首を傾げたステラは、その視線を辿った。

 見ると、店に並ぶ学生達も、一様にある一点へ視線を向けている。

 その中心、多くの学生達の視線を一手に引き受けていたのは、褐色の髪を持った一人の青年だった。

 五月も中旬に差し掛かる今日。四季があるこの大陸では春の陽気も徐々に熱を帯びてきているというのに、白を基調としたコートに身を包み、白い手袋までしている青年は、周囲の視線など意に介さず優雅にティーカップに口を付ける。その仕草の一つ一つが、育ちの良さを明確に知らしめていた。

「ありゃっ、誰かなあの人? なーんか貴族っぽいけど」

 同じくその人物に気付いたミリーが手を翳したまま言ったが、実は彼女も貴族の末娘である。もっとも、ステラやシャルのような高位の貴族ではないのだが。

「ガーデンの人じゃないよね。ステラ、知ってる?」

 (恐らく)同じ貴族のステラに訊ねはしたが、リオンは特に回答を期待した訳ではなく、単なる間の繋ぎとしての意味合いが強かった。

 なので、その固まった表情と、僅かに開いた口から聞こえた単語は、全くの予想外だった。



「………兄様」



        †   †   †



 先に述べた通り、筆記試験は最初の三日で全て終わる。

 普段は七限まである授業を全て試験に廻すので学生達の精神的疲労は極限にまで達するのだが、今日この三日目のみ、試験は午前中で終えることとなる。故に、まだ実技と実習があるというのに、四限目終業の鐘が鳴った途端教室が歓声に包まれたのは、無理からぬことだった。

 今日の午後は授業もなく、殆どの学生は明日から始まる実技試験に向けての復習時間に割り当てるのだが、学内で魔法の使用が正式に許可されているのは、個人用、複数人用とある訓練室と実習室の他には闘技場だけと場所が限られており、魔法学部に在籍する生徒の総数から言って、必然、部屋の予約は一杯になる。

 規模の小さな魔法程度なら教室でも使用が許可されているが、生憎と四年生が指定されたのは掌に光球を浮かべるような簡単な魔法ではないので、アレン達も早くから起きた予約競争に便乗し、六限から複数人用の訓練室に赴く予定だ。

 という訳で、連日とは違い余裕を持って昼食にありつけるアレンとイリスはこれからまさしく空腹を満たしにいくつもりだったのだが、ひょんなことから思わぬ客人と連れ立つことになってしまっていた。

 一口に「食堂」と言われたのだが、ガーデンで昼食を摂れる場所は多い。しかも学内の至るところに散らばっている為、この栗色の女性が思うところの「食堂」がどこなのか、見当が付かなかった。

 それを説明すると、

「まあ、そうなのですか? それは困りました」

 と軽く口を手で覆ったのだが、やはり言葉ほど困ったようには見えなかった。

「でしたら、一番人が集まる所にお連れ頂けますか? 多分、連れの者もそちらにいると思いますので」

 とのことなので、結局三人は、広い学内で最も飲食店の集まるエリア、通称『食堂』に向かっていた(アレンが前述の説明をしたのは、栗色の女性が学園内で使われているこの通称を知っていよう筈もなかったからだ)。

「何分こちらの大陸に来るのは随分久しぶりなものでしたので、つい周りの景色に魅入っているうちにいつの間にか一人になっていて、正直途方に暮れていたのです。ですが、お二人とお逢い出来たのは(わたくし)にとって幸運でした」

 向かいがてら楽しそうに二人に経緯を話す女性は、やはり笑顔を絶やさない。どう見ても「途方に暮れていた」ようには思えなかった。

「はぁ、そうなんですか……」

 随分呑気なんだな、と内心で苦笑いを浮かべるアレンは、よくマイペースと言われる自分以上にマイペースな女性に、曖昧な言葉しか返せないでいた。

「どこの大陸からきたの?」

 小首を掲げながら訊ねたイリス。口調は普通だったが、アレンの隣で少し隠れるように女性を覗いているところを見るに、少なからず人見知りが発動しているようだ。

 そんな少女が可愛らしいのか、女性はますます笑顔に華を咲かせる。

「地の大陸です。あちらはこちらほど自然が多くありませんので」

 質問に答えるついでに、景色に魅入っていた理由も説明してくれた。

「どうしてこっちに?」

 これはアレン。質問ばかりでなんだか申し訳ないとも思ったが、知り合ったばかりの間柄で自然とこうなってしまうのは仕方がないとも思った。

「少々人に会いに。妹なのですが、今年からこちらに入学した子でして」

「へぇ~、じゃあもしかしたら知ってる子かもしれないねっ」

 新学期が始まって既に一月半、当然ながらステラとリオン以外の一年生とも顔見知り程度にはなっているので出た言葉だったが、二人はこの少し前に『食堂』で起きていたことも、この女性がその場で紅茶に舌鼓を打っていた青年の姉であることも知らない。

「あっ、あそこですよ」

 そんな当たり障りのない会話をしているうちに到着した『食堂』では、昼休みに入って三十分以上が経過していたこともあって、既に多くの学生達が共用のテーブルに着き、また周辺の飲食店の前では長蛇の列が群を成していた。

 魔法学部と武術学部、双方の校舎のちょうど中間に位置するここが最も人が集まるというのは、今が昼休みというのと、単純に二つの学部に在籍する学生数が他の三つの比ではないからだった。

「うわっ、やっぱり……」

 げんなりとした言葉を最後まで言うならば、「やっぱり混んでるよ」だ。

「アクアたち、いるかな?」

 こうなるともう微笑みの女神が先に席を取ってくれていることを祈るしかないと、イリスは辺りを見渡した。が、別段今日は待ち合わせていた訳ではないので、当然、その姿は『食堂』のどこにも見当たらなかった。

 代わりに、妙な雰囲気に包まれている席が目に入った。

 筆記試験からのようやくの解放に欣喜(きんき)しながら昼食を摂る周囲とは違い、そのテーブルの周りだけ、赤点補習が確定した憐れな学生達よりもさらに重苦しい空気が圧し掛かっていた。

 その席に腰掛けていたのは、奥から、目を閉じてティーカップに口を付ける見慣れない褐色の髪の青年、その右の席で、ちらほら見たことがある顔に僅かながら汗を浮かべているオレンジ髪の一年生、向かって左側で相変わらず弛めた表情を、しかし微妙に困ったものへと変えている暗緑色の少年、そして、青年の正面で居た堪れなそうに背中を縮めている、濃い茶髪の少女だった。

「……何やってんだ、あいつら?」

 状況がさっぱり読めないアレンは、迂闊に声を掛けることも憚られたのだが、

「あぁ、やはりこちらにいましたか!」

 非常に重苦しい雰囲気に構うことなく、栗色の女性がそちらへと近付いていった。

「捜しましたよ、マルス。もう、姉を置いていくなんて酷い弟ね」

「ッルナ姉様……!」

 突然背後から聞こえた声に振り向いて、その主を視界に入れた途端目を丸くしたステラに、女性はニッコリと微笑む。

「久しぶりね、ステラ。と言っても最後に会ったのが年明けだから、まだ半年も経っていないけれども。元気にやっているの?」

「あ、その……はい、それなりには……」

 はっきりとしない返事に、ルナは少し怒った表情をした。あくまでも、そのフリだが。

「もう、そこは嘘でも『はい、元気です』と言ってくれないと、折角会いにきた姉兄(きょうだい)に心配を掛けてどうするの。マルスはマルスで(わたくし)を一人置いて先へ行ってしまうし、本当に我が弟と妹は姉にばかり心配させるんですから」

「お言葉ですが姉上」

 と、ここでマルスと呼ばれた青年が口を挟んだ。

「私が『寄り道は所用を済ませてから』と再三申し上げたにも拘らず、フラフラと学内を彷徨(うろつ)かれたのは姉上です。それといつも心配する側に立たされているのは我々の方だという事には、どうやらお気付きない様で」

「あら、そうでしたか?」

 刺々しく放たれた皮肉に、ルナはキョトンと小首を傾げた。

 全く懲りていない姉に、マルスは溜め息と共に頭を振った。

「ところで、後ろの学生達は? まさかまた姉上の思い付きに振り回したのではないでしょうね」

「失敬ね、彼らには道案内を頼んだだけですっ」

 そこでようやく、ステラは頬を膨らませたルナの背後で呆然としている二人に気付いた。

「アレン先輩、イリスさん……!」

「よぉ、ステラ……」

「えっと、何が何やら……」

 やっと場が動くと、二人は苦笑いを返した。



「皆さん御紹介しますね。姉のルナと兄のマルスです」

 立ち話も何だからと ルナに(・・・)提案された一同は、傍にあったテーブルをくっつけて話を再開した(親切な一年生達が態々譲ってくれたので、なんだか申し訳なかったが)。

「ルナ=スィ=エル=ティエラと申します。自己紹介が遅れて申し訳ありません」

 柔らかな笑顔とやんわりとした口調で話すルナとは違い、

「マルス=ルィ=エル=ティエラだ。妹がいつも世話になっている」

 マルスはぶっきらぼう、或いは少し棘のある口調だった。表情にも笑顔など欠片も浮かんでいない。

 それに不満を感じたのは、明らかな不機嫌さをぶつけられたアレン達ではなく、何故か対面に座るルナだった。

「マルス。可愛い妹が取られて不満なのはわかりますが、もっと言い方というものがあるでしょう?」

「言い方も何も、これが私の精一杯なのは姉上こそが良く御存知の筈です。それよりも前半の部分に甚だしく異論を唱えたいのですが」

「あらごめんなさい、『可愛い』ではなく『溺愛する』でしたね。(わたくし)とした事がうっかりしていたわ」

「…………」

 「うっかり」格上げされてしまったマルスは、これ以上さらに格上げされては堪らないとばかりに閉口した。

 益々不機嫌そうな顔になった兄を見て、ステラは慌てて話題を変える。

「あ、あのお二人とも、今日は何故こちらにっ?」

「あらステラ、彼らの事は紹介してくれないのかしら?」

「あっ、えと、はい……!」

 しかしその試みがあっさりと挫かれてしまい、余計慌ただしく頷いた。どうにも、彼女の姉のペースから抜け出せない。

 気を取り直して、今度は姉達に紹介する。

「こちらがクラスメイトのリオン君とミリーさん、そちらが四年生のアレン先輩と、妹のイリスさんです」

 ちなみに座席はそれぞれ、両端にルナとマルス、ステラの左右にリオンとミリー、その対面にアレンとイリスが腰を降ろしている。

「リオン=ウィンジアです、初めまして」

「ミリアム=リーラ=ガーフィールドです。よろしければミリーって呼んでください」

 余談だが、ミリーが「よろしければ」などと言ったことにリオンが意外感を覚えたのは、本人の胸の内にひっそりと留められた。

「アレン=レディアントです。こっちこそ、自己紹介が遅れてすみませんでした」

「イリス=レディアントです。よろしくお願いします」

 いつも通りの口調で謝辞を返したアレンとは違い、イリスは少し畏まった風だった(彼女は普段、目上に対しても敬語は使わない)。ルナに対しては先程普段通りの口調で接していたので、恐らくマルスに対して人見知りが発動しているのだろう。

「…………」

 ふと、アレンはルナの視線がこちらへ向いていることに気が付いた。近い側に座るイリスにではなく、アレンにだ。

 そういえば会ったばかりの時も彼女は自分を注視していた気がすると、もう一度訊ねてみる。

「あの、何か……?」

「いいえ、何でもありません」

 が、やはり返ってきた言葉は変わらなかった。ニコニコとした笑顔も、何でもないようには見えないのも。

「それで、(わたくし)達が来た理由ですが……」

 何事もなかったかのように、ルナは話を戻した。

「もちろん貴女に会う為よ、ステラ。可愛い妹の制服姿を見るだけでも、遠路遥々やってきた甲斐があるというものです」

「は、はぁ……」

 惜しむことのない満面の笑みに、ステラは少し気圧されぎみな声を返した。

「姉上の冗談はさておき、我々がお前に会いに来たという点は事実だ」

「私は冗談など申しておりませんっ」

 さらりと言われて、ルナは再び頬を膨らませた。

「では、どのような御用件で……?」

「この場で話すには些か以上にプライベートな用件だ。場所を移そうとも思ったのだが、聞く所に依ると今は中間試験の最中だそうだな?」

「はい。ですが本日の分は全て終えましたので……」

「午後の予定は?」

 言い終える前に、言葉が被せられた。

 一瞬、ステラの視線が隣に座るリオンにいく。

「五限目に、リオン君達と訓練室で実技の復習を行う予定です」

「では詳しくは後程話す。限られた環境下での練磨を疎かにする訳にはいくまい」

 そう言うが早いか、マルスは椅子から立ち上がった。

「今晩、姉上と共に寮へ行く。それまでは気にせず、実技の復習に励むように」

 それだけ言い残して、さっさとその場を後にした。

「あっ、マルス待ちなさい! ステラ、また夜に会いましょう? 皆さんもお元気で。……時間が出来たのだから何と言おうと観光しますからねっ!」

 慌てて立ち上がったルナも、立ち去る背中に声を放りながら追い掛けていった。

 嵐のような女性(ひと)だな、と思ったのは、アレンだけではあるまい。

「なんか、ステラには悪いけど台風みたいな人だね……」

 実際、ミリーは口に出して言った。直情的というか、思ったことははっきり口にする性質(たち)なのだろう。

「でも、おもしろい人たちだったなぁ」

 弛い声を放ったのはリオン。春先にアルベルト達と初対面を果たした時も同じような感想を述べていたが、もしや初めて会う人物に対しては全てそう言っているのではないだろうか。

「ステラ、どうかしたの?」

 ようやく見知った顔だけになり緊張の糸がほつれたイリスが、視線を膝の上の拳に向けたまま動かないステラに声を掛けた。

 反応のない少女に、全員の視線が注がれる。

「……………っはあぁ~~」

 これでもかというくらい溜め込んだ息を、一息に吐き出した。

「大丈夫か?」

 なんだか尋常ではない溜め息に、アレンは眉を寄せた。

「大丈夫です。少し緊張してしまって……」

「あぁ~、知り合いの前で家族が会いにくると変に緊張しちゃうもんね~」

 それにしたって緊張し過ぎだろうと思いつつ、ミリーが頭の後ろで手を組みながら「わかるわかる」といった風に頷いた。

 しかし、ステラは遠慮がちに首を横に振る。

「いえ、そうではなくて……その、実を言いますと……」

 言おうか言うまいか一度逡巡して、結局ステラは胸の内を明かすことにした。

「苦手なんです、姉様も、兄様も」

「えっ? でもステラ、お姉さんたちのこと小さい頃から自慢だったんじゃないの?」

 心底困り果てたように肩を落とした様子に、リオンが首を傾げた。新入生クエストが終わったすぐ後、リオンも多少なりとも彼女の身の上話を耳にしていたのだ。

 ステラの話に依れば、ルナは地の大陸の医療学院を歴代で最も優秀な成績を以て卒院、兄のマルスも、現在最終学年として、同期の中で最も期待されているそうだ。

「勿論、お二人は今でも私の自慢ですし、尊敬もしています。ですが年が離れている所為か、姉兄としてよりも尊敬する人物として見てしまうのです……」

 そんな二人を前にして畏縮してしまったのだろう。もしかしたら、医療学院の試験を放ってこちらへ来た後ろめたさもあるのかもしれない。

「それに……」

 と、さらにステラは困ったように頬に手を添えた。

「ルナ姉様は独特というか、非常にマイペースな性格でして、いつも私や兄様の予想の斜め上を空中浮遊しているような方なのです。マルス兄様はマルス兄様で正直あの不機嫌そうな表情以外を見た憶えがなくて、つい何かにつけてお叱りを受けるのではないかと考えてしまうのです。結局、性格は真逆なのに、お二人とも何を考えていらっしゃるのか解らないという点は同じでして……」

「あぁ、それは……」

 なんとも気苦労の絶えない話だと、他の四人の顔に同情の色が浮かんだ。

「ま、まぁでも血の繋がった姉兄なんだし、腹割って話せば大丈夫だって! ……多分」

「そっ、そーそー! 今回のをいい機会だと思えばなんとかなるよ! ……きっと」

 台詞の末尾に全く説得力を感じないレディアント兄妹(きょうだい)だった。

「うぅ、頑張ってみます……」

 縮むように項垂れたステラ。心の底から夜が待ち遠しくなさそうだ。

「血の繋がったキョウダイだから、ねぇ……」

「え?」

 天井を仰いだままボソリと呟いたミリーに、リオンが訊き返した。

「んーにゃっ、なんでもないよーっ。それよかそろそろ昼休み終わるし、訓練室行こっか」

 ミリーはそれを快活な笑顔で受け流すと、常の通りの跳ねるような声色で立ち上がった。

「……そうだね、遅れても時間がもったいないし」

 さらりと躱されたリオンも、特に追求はしなかった。相変わらずの弛い表情のまま立ち上がる。

「俺たちはもうちょいゆっくりするか?」

「うん、まだお昼全然食べてないもん」

 話を再開する折に昼食も運んできたのだが、やはりと言うか、大食少女の胃袋は満たされなかったらしい。もっともアレンもあの空気の中まともに食事を摂れる程神経が図太くはなく、結局飲み物しか頼んでいなかったので、イリスの予想通りの回答には肯定的だった。

「じゃあ二人とも、また。ステラ、行くよ」

「はい……お二人とも、さようなら……」

 伏せぎみの視線で会釈をしたステラの声は、本当に今生の別れのようだった。



        †   †   †



 試験期間ともなれば普段は人が疎らな北の大図書館と言えども人口密度が急激に高まるのだが、それも筆記試験が終わるまでの話だ。昼休みを終えた今頃は、どこの学部でも明日からの実技試験に備え、代わりに訓練室や実習室が人で埋め尽くされていることだろう。

 故にこそ、普段疎らな大図書館には殊更人影がなく、いるとしても、実技に使えそうな魔法を今更探している魔法学部の無謀な一年生や、実習室が空くまでの時間潰しに仮眠を取りにきた上級生といった顔触れだった。

 その中、ノア=レヴィウスは一人真剣な眼差しで書物に目を通す。

 明日は実技試験だと言うのに、机に山のように積まれている本の背表紙に、それに関連した題名は見当たらない。やけに綺麗に積まれた本の山々は、『魔法構成理論 初級編』や『詠唱基礎I』などの基礎的な物から『多様化された魔法、その理由とは』や『魔法と魔導』といった専門的な物まで、教本論文随筆自伝お構いなしに実に様々な内容が揃えられていた。

 そこから取り出され、机に広げられた『世界の魔導師を辿る』という題名の本に、髪と同色の漆黒の眼差しを走らせる。



『―世に名だたる魔導師を幾人か挙げるとすれば、真っ先に思い付くのは、初代イグニスを始めとする「先導者」達だろう。神の加護を授かる偉大なる魔導師達は、その力を以て大陸分断の絶望に伏した人々を―』


『―また、現代では大司祭アブラムもその例に漏れない。神聖魔法の使い手でもある彼は神殿騎士団に於ける―』


『―最も近年に名を知らしめたのは、地の大陸の魔導科学者、エインズリー博士だ。古代の魔導機械を研究するついでとばかりに「失われし魔法(ロストスペル)」を解析―』



 軽く息を吐いて、顔を上げた。

 両目の間の辺りをグッと押さえて、何度か瞬きを繰り返す。

(……いかんな)

 どうにも当初の目的から逸れていると、積み上げられた山々がもう一度積み直されて数十分経ってから、ようやく気付いた。

 近くの掛け時計に視線をやると、既に夜の七時を回っていた。昼休みを挟んですぐここへやってきたことを考えると、どうやら相当深く集中していたようだ。

 とはいえ、それで調べ物が捗ったかと言われれば、正直首を横に振らざるを得ないのだが。

 目的のものに関連しそうな本を片っ端から机に積み上げて目を通してはみたが、 様々な本を調べるうちに関係のない項目にまで興味をそそられ、気付いた時にはこの時間だったのだ。

 もっとも、そもそもこの本の山々が本当に目的のものに関連しているかどうかすら定かでなかったことも原因の一つだった。今開いているこの本も、名だたる魔導師達を良く知れば何か手掛かりを掴めるのではないかと思って調べていただけで、確証があった訳ではない。……そのままのめり込みそうになったことは否定出来ないが。

(流石にこれは的外れだったか……)

 視線を再び本に落として、やれやれと心中だけで首を振った。

 魔法や詠唱の構成理論が書かれた本には、基礎部分から目を通した。それで見付からなかったからこういったものから何かしらのヒントを得ようと考えたのだが、流石にこの本は見当違いだったようだ。世界的に活躍した魔導師の名前とその時代、後はその功績を簡単に纏めただけで、何か手掛かりの一端がある訳でも、彼らの得意とする魔法が分かる訳でもなかった。

 一つ気になったと言えば、初代イグニスら『先導者』達の扱っていた『失われし魔法』の詳細が、何故現代に伝わっていないのか。そもそもいくら大陸分断で殆どが死に絶えたとはいえ、ここに記録されている者達以外に生き残りがいなかったとは思えない。

(まぁ、神の加護を持たない現代人に伝えた処で意味は無いと判断したのかも知れんが……)

 と、このように思考が横道に逸れていく所為で本来の目的が捗らなかったのだともう一度気付いて、再び思考を元の所へと戻す。

 今調べているのは、人間が扱う魔法に関することだ。

 だが、ただの魔法ではない……のだと思う。実を言うと、まずその段階からして不明だった。

 あの灰色の火山で見た、緋色の炎。詠唱も詠唱破棄も行わず、しかも魔法名すら唱えずに焔の蜥蜴を屠った少女の、圧倒的な『力』。あれは本当に、人間が精霊の力を借りた現代の魔法と同じものなのだろうか。

 そもそも魔法名を唱えない魔法(・・・・・・・・・・)というのが、人間の扱う魔法では有り得ないのだ。しかもあれは、強力な魔力に依って創られた炎の鎧を身に纏った魔法生物に、明らかなダメージを与えるほどの魔力を持っていたのだから尚更だ。指先に少し火を灯すのとは訳が違う。

 だからこそその正体を確かめる為に、クエストから帰ってほぼ毎日、こうして大図書館に通い詰めているのだった。試験など、普段真面目に講義を受けているのだから今更復習の必要はない。

 しかし、今のところ成果はなかった。相当な広さを有する大図書館には魔法関連の書物がまだまだあるが、授業で扱うような体系化された魔法に関するものにはあまり期待が持てない(実際の習得はともかく、理論的なものは既に最終学年の分まで読み終えているのだ)。となると、様々な魔導学者達の研究論文を中心に調べた方が良いのかもしれない。

 ――いっそ、イリスに訊いてみるのはどうだろうか。

(………いや)

 一瞬だけ考えて、すぐに心中で頭を振った。

 あの銀髪の少女は何故か自分を苦手としているようだし、クエストでの一件もある。訊ねに行ったところで逃げられるのは目に見えていた。それを承知で態々行って妙な罪悪感に苛まれるのは御免だ。

 それに、自らの手で探して知るからこその知的探究心だ。答えだけをすんなり聞かされても、正直言って何も嬉しくない。

 やはり時間は掛かっても自分で調べることにしよう。別段、この件は急を要している訳でもないのだ。

 拳に頭を乗せながらそんなことを考えていると、

「ん、……」

 隣から聞こえた声に、思考が途切れた。

 本の山に埋もれるように突っ伏す少女の寝顔が、身動(みじろ)いだことでこちらを覗いていた。どんな夢を見ているのか、随分と幸せそうだ。

 目に被さった紺青色の髪を、優しく払い除ける。

 新入生クエスト以降、アクアは妙に眠そうにしている。以前までなら月に二、三度程度だった朝寝坊は今では二日に一度のペースになっており、日中も常に目を擦っていた。今も昼休みの直後に来た急激な睡魔に抗えず、こうして机に凭れ掛かっているのだ。

 本人は暖かくなった所為かもしれないと苦い微笑みを浮かべていたが、よく言い訳に使われる間違った五月病などではないことは明らかだ。しかし、日中の行動を妨げるほどこうなった原因が解らない。

あれ(・・)か……?)

 一つ、思い当たる節があった。

 刻の止まった、灰色の渓谷を思い浮かべる。

 常の彼女では考えられない『力』の爪痕。その光景を、ノアは目の当たりにした。

 具体的にあれの何が原因かは解らないが、しかしこうなる前後に起きた特別な事柄が、あれ以外思い付かなかった。

 同時に起きた問題もあって、アレン達にあの光景は伝えていない。アクア本人も憶えている様子はない。

 知っているのはノアと、そしてシドだけだ。

 シドに伝えるかどうか、初めは躊躇った。いくら自分達を拾ってくれた張本人でも、いくらアクアが「父」と慕おうとも、ノアは彼女ほどにあの男を信頼している訳ではなかった。

 時折見せる背筋の凍るような冷たい笑みが、信用はしても信頼を許さないのだ。

 だが、あの時(・・・)見せた笑みを、今回彼は浮かべなかった。代わりにどこか物哀しげな表情で、「少し調べてみる」と言っただけだ。

 話を終えて学園長室の扉を閉めた直後、僅かに安堵している自分に気付いた。が、その安堵が何に対してのものなのかは解らなかった。アクアの身を案じるが故の安堵なのか、シドが自分と同じようにアクアを気遣っている様子を見れたことへの安堵なのか。

 それとも……。

 ふと落とした視線が、ある一文を捉えた。



『―これまで紹介した数々の魔導師達に匹敵する功績を持つのが、「学びの庭(ガーデン)」学園長のシド=ヴァン=レヴィウスだ。世界繁栄の礎として多くの有能な魔導師達を輩出してきたガーデンの長としてだけでなく、自身も一世を風靡する魔導師である彼は、開拓組織「明くる朝(ディスカバリー)」の幹部として世界を繁栄に導き、かの有名な「嘆きの丘の惨劇」では「四雄(しゆう)」の一人として活躍した。また―』



 そこまで読んで、本を閉じた。

 満ち満ちた沈黙の中、脳裏に蘇る。

 雷鳴轟く嵐の街が。当てもなく彷徨い込んだ路地裏が。目の前に現れた男の姿が。

 嵐すらも避けて通る男の声が、雷鳴を貫いて耳に届く。あの時、稲光に照らし出されたあの冷たい笑みを浮かべた口から零れた言葉は何だったか。

(確か……)



 結局その日は、思い出せなかった。



        †   †   †



 広大な学区の中を、生徒達は何も徒歩だけで移動しない。学区では、路線馬車の代わりに無人の路面電車(魔導電動式車両の略)が動いているのだ。

 これは何年も昔に技術学部の工学系を専攻する生徒達と魔法学部の魔導工学を専攻する生徒達とが卒業課題として合同で造った物で、以来最終学年が一年を通して取り組む卒業課題の候補には、路線の増築や車両の改良も加えられていた。またその整備管理が関連科目を学ぶ生徒達に課せられた使命でもある。

 ガーデンにはこのような学生主体で作り上げた物が分野を問わず多くあり、年々高まっているそれらのレベルは他大陸でも十分に通用する物ばかりだ。とりわけ魔導科学技術に於いては、それを主要研究対象としている地の大陸に追い付かんばかりの向上ぶりで、毎年視察にやってくる関係者諸氏を唸らせていた。

 張り巡らされた線路の上で、 学園北門から第三十八区画方面行きの大型の鉄箱が、ややゆっくりと車輪を滑らせる。

 細々と、時には大幅に加えられた改良のおかげで、嘗ては半日続けて駆動しただけで交換しなければならなかった動力(風の派生属性である雷属性の魔石を機械と組み合わせている)は、今では月に一度のメンテナンスと半年に一度の魔石の交換で済んでいた。無論、その他の部分はもっと短い間隔で整備しているが。

 振動は微弱。技術的には限りなく小さく出来るという話だが、風情か何かのこだわりらしくこの状態で保たれている。

 その中で横に広く備えられた座席に凭れながら、窓の向こうで過ぎ行く街灯を背に、ステラは憂鬱に揺られていた。

「はぁ……」

 外と同じくらい暗い表情で、数十度目の溜め息を吐き出した。

 気が重い。周りに大勢いる学生達の雑談が耳に届く前に押し潰されてしまうくらいに。

 あと数十分後に、再び姉達と会う。会わねばならない。それが嫌で嫌で堪らなくて、結局五限目の復習は身が入らなかった。

 姉達が嫌いなのではない。二人のことは先の通り尊敬しているし、何を考えているか解らなくてもルナがいつも自分を気に掛けてくれていることは感じており、いつも眉を寄せているマルスが実際に叱り付けてきたことなど一度もないのだ。

 それでもこれほどまでに気が進まないのは、後ろめたさの所為だった。医療学院の入学試験を放り出した、自らが誇りとしていたものから逃げ出した後ろめたさの……。

 家族には黙って出てきたのだから、こうなることは解っていた。寧ろ黙って出てこられたのは医療学院の試験日程が二月の中旬と遅かったからであり、本来ならばこれはガーデンへやってくる前に直面していた問題なのだ。そのツケが、時間の経過と共に増した後ろめたさを引き連れてやってきたというだけだった。

 どんなに溜め息を吐こうとも、逃げ出すことなんて出来はしない。それは理解しているつもりだ。それでもやはり、会いたくないという思いは消えてはくれない。

 そんなことを延々悶々考えているうちに、路面電車の揺れが収まった。窓の外を見ると、すっかり見慣れた通りが目に入った。

 ……このまま、もう一周してしまおうか。

 そんな考えが、一瞬()ぎる。

「ステラ、降りないの?」

「……いえ、今行きます」

 が、昇降口に向かうリオンが振り返る形で訊ねてきたので、諦めたように首を振って車両を降りた。

 ゆったりと走り去る駆動音を背後に、二人は同じく下車した学生達に紛れて目の前の通りを歩いていく。

 学生寮エリアは第一から第三十八までの区画に分かれており、一つの区画につきおよそ二十棟あまりの寮がある。当然ながら数が若い区画の寮ほど昔に建てられた物で、何度か補修を繰り返してはいるものの最初期に建てられた物は相当ガタがきているらしく、特に第一区画から第五区画までは、今年度から大々的な改築工事を行う為に全面立ち入り禁止の表札が貼られた仕切りに囲われていた。

 ステラとリオンは最も新しい区画、第三十八区画の同じ寮に住んでいる。そのことが入学してすぐ知り合った切っ掛けの一つでもあり、ステラが新入生クエストにリオンを誘ったことにも繋がるのだが、残念ながら二人の出逢いを鮮明に思い出すゆとりのない濃い茶色の瞳は、すぐ手前に現れ続ける歩道を眺めるばかりだ。リオンはあまり自分から喋る方ではないのでいつもはステラから話し掛けているのだが、今日はステラにそんな余裕がなく、かと言ってリオンも自分のスタイルを崩すつもりがないので、淡い夜道を進み続ける二人の間に会話はなかった。

 そうしている間に周りを歩いていた学生達が一人、また一人と自分達の寮へと帰宅していき、やがて二人以外道を歩く者がいなくなった頃、ようやく(とうとう)自分達の寮に着いた。

 十五階建てと学生寮にしてはかなり背の高いこの集合住宅は、最も新しいこの区画の中でも最近建てられた物だ。小耳に挟んだ話では一昨年の終わり頃だそうで、四月の終わりにお邪魔したアレン達の寮と比べると確かに少し内外装が綺麗に見えた。

 なので、必然的にこの寮に住む学生は二年生と一年生が中心となっており、二人以外にも知り合いがちらほら住んでいる。十五階もあるので、他大陸出身で部屋を示し合わせる相手がいなかった二人とは部屋の位置がバラバラだが。

 ステラの部屋はここの七階にあり、リオンの部屋は十三階とかなり上に位置している。寮の造りは概ね同じなので(あまり差を付け過ぎると後々の改築費用が(かさ)むからと専らの噂だ)、上り下りが面倒なことを除けば過ごし易さは他と然して変わらない。

 手動のドアを開いた先に待つ玄関ホールは、天井が高い造りの為か、少し広めの印象を与える。一階につき二十は部屋があるので、建物自体が大きいこともあるのだろう。来客用か学生達の為か、隅の方にソファとテーブルが幾つか用意されており、傍にはエレベーターが二基あった。

 最初期の寮と最近の寮で最も違うのは、何と言ってもエレベーターの有無だ。階層的に使う必要がなかったこともあるが、それよりもまずその技術がなかったのだ。

 この世界に於ける消費エネルギーの比率は、魔力に依るものが圧倒的に多い。特に魔力と機械を組み合わせた魔導科学が発達し出した近年では、その差は相当なものとなっている。

 魔力を活用しない自然科学(魔力も自然的なものなので、この分類方法は厳密には間違っていると言えるのだが)でのエネルギー生産方法も無論存在するが、コストパフォーマンスは雲泥の差だ。仮に街灯に使う電気を生産したとして、自然科学を利用した方法で十生み出さなければならないものを、魔力は一にも満たない量で賄えてしまうのだ。予め魔力を蓄えている魔石などの魔力的資源を用いれば、エネルギー生産の手間すら省ける。

 とはいえ、例えば路面電車のような大掛かりの物が欠片程度の大きさの魔石で半年間駆動し続けられるようになったのは、本当にここ数十年の話だ。造った当初は漬物石のような魔石をゴツゴツとした機械でがんじがらめにして動かしていたのだが、魔力の動力への変換効率の悪さと機械の工程の無駄の多さのおかげで、半日駆動し続けただけで魔石を交換しなければならなかったほど、その頃の技術力は低かったのだ。

 何度か装いを新たにしたとはいえ、ガーデンが造られたばかりの頃に建てられた寮などに魔石を動力としたエレベーターがあろう筈もなく、最初期でなくとも二十より若い区画の寮は未だにエレベーターが備わっていないまま、或いは増築工事の最中で、建物の背も高くて七階や八階といった物ばかりだった。

 それらとは違いきちんと備わったエレベーターで、二人は上階へと昇る。変わらず会話がないまま、七階へ到着した。

 重過ぎる足取りで、ステラはエレベーターを降りる。

「ステラ」

 不意に、後方から呼び留められた。

 振り向いた先にある暗緑色の視線は、こちらを直視しない。

 ただ、

「色々事情はあるかもしれないけど、話せる時に話した方がいいと思うよ」

 そう言っただけだった。掴みどころのない弛い顔には、少し憂いのようなものが窺えた気がした。

 なんだかいつもと違う様子に、首を傾げる。

「? あの、リオン君どういう――」

 訊き返したところで、エレベーターの扉が隔たった。



 取り残されたような感覚のまま、ステラは廊下の端の方に位置する自分の部屋へ向かって歩いていた。

 リオンは、何を言いたかったのだろう。単純に姉達ときちんと話すよう促してくれただけなのだろうか。

 いや、それにしては……。

 そんなことを考えつつも、足は自分の部屋へと近付いていく。

 刻一刻と、姉達に会う時間だけが背後に歩み寄っていた。

 アレン達は大丈夫だと言ってくれたが、どうやっても、陰鬱な気分は晴れてはくれない。

(うぅ……)

 胃がキリキリするのを感じながら、とうとう長い廊下の果てに辿り着いてしまった。

 もう成るようにしか成らないか、という若干の諦めと共に、扉の鍵を開ける。

「?」

 しかし、鍵が差し込んだ状態からそれ以上回らなかった。

 不審に思ってノブを回すと、扉が開いた。

 今朝出る時に鍵を掛け忘れただろうかと首を傾げながら、ステラは部屋に入る。

 玄関に入ってすぐ、いつもと違う光景が目に入ってリビングに駆け出した。

 まさかと思いながら、玄関とリビングを隔てる仕切り戸を勢い良く押し開く。

「む、帰ったか」

 リビングのテーブルで紅茶を啜っているマルスが、そこにいた。

「……あの、マルス兄さ――」

「マルスー? 何か冷たい飲み物を――あらステラ、お帰りなさい。遅かったのね」

 さらに、身体からホクホクと湯気を沸き立たせているルナが風呂場から現れた。

 入り口に立ったまま硬直しているステラに、ルナがキョトンと小首を傾げる。

「どうかしたの?」

「………お二人とも、いついらっしゃったのですか?」

「それがね、うっかりマルスが(・・・・)時間を伝え忘れたものだから、二時間は前から待っていたの。寮の場所は聞いていたからすぐに着いたのだけれど、そうしたらマルスったら、今度は部屋の番号を聞き忘れてしまったって言うのよ? 信じられる? 仕方がないから偶々通り掛かった子に部屋の番号を訊ねたの」

「……鍵は、掛かっていましたよね?」

「えぇ。だからどうしようかと寮の入り口で途方に暮れていたら、丁度管理人の方がお見えになって、事情をお話しして鍵を開けて頂いたのよ。本当に、一時はどうなる事かと思ったわ」

 全責任をマルスに押し付けながら困り果てたように頬に手を置いたルナは、やはり全くと言って良いほどそうは見えなかった。

「それで、今日は歩き回って汗も掻いてしまったし、ステラもまだ帰ってきそうになかったから、勝手にで悪いのだけれどシャワーを借りさせて貰ったの。もう暑くて暑くて。あぁ、着替えは自分の物だから安心して? いくら妹でも勝手に寝室に入る真似はしませんとも」

 寝室より先に勝手に鍵を開けることを気にして欲しかった、と言えればどれだけ良かっただろうか。

「私は勝手に家に上がるのはどうかと思ったのだがな。まぁ、お前の普段の生活態度を見る良い機会だと思わせて貰った。この部屋を見る限りでは、どうやらだらけた生活は送っていないようだな」

「と、当然ですよ……!」

 淡々と語るマルスの言葉に、ステラは普段きちんと掃除をしていた自分に心中でガッツポーズを取った。

「さて……」

 もう一口紅茶を啜って、マルスが徐に切り出した。

「そろそろ本題に――」

「そろそろお夕飯にしましょう!」

 ところを、ルナに遮られた。

 笑顔で両手を合わせた姉に、弟である兄がこめかみを押さえる。

「……姉上、話の腰を折らないで頂きたいのですが」

「あら、ですがもう夕食には遅い時間ですよ? ステラだってお腹が空いたでしょう?」

「えっ? と、あの……」

 確かにまだ夕食は摂っていなかったが、愉しげな笑顔を向けてくる姉と悩ましげに眉を寄せる兄とを見て、言葉に詰まってしまった。

 少しの間だけ、ステラは熟考する。それはもう、これ以上ないくらい真剣に。

「……姉様、申し訳ありませんが先にお話を済ませてから頂きませんか?」

「むぅ~。ステラがそう言うのなら、私は構わないけれど……」

 と言いつつ、大人びた気品溢れる端正な顔は子供のような膨れっ面になっていた。

 どちらが姉なのか疑いたくなる仕草に、マルスはやれやれとばかりに首を振る。

「では掛けろ、ステラ。姉上も、いつまでも剥れていないでお掛け下さい」

「別に、むくれてなどいませんっ」

 隣の椅子を引きながらした反論は、(彼女にとって)残念ながら受け取られなかった。

「さて……」

 それぞれに紅茶を淹れ直し(勿論淹れたのはステラだ)、気を取り直して話を再開する。

「我々がお前に会いに来たという事は、昼に伝えたな?」

「はい。それで、どのような御用件なのでしょうか?」

 正面に座るステラの言葉に、マルスの眉がピクリと反応した。

「どのような?」

 益々、眉間に皺が寄った。

「昼間も同じ様な事を言っていたが、我々が態々遠く離れたこの地を訪れた理由を、お前は本当に解らないと言うのか?」

「それは……」

 ギロリ、という効果音と共に睨まれて、身体が強張った。

 そう、態々問わずとも解っていた。決して暇ではない筈のこの姉と兄が、貴重な時間を割いて自分のところにやってきた用事とは何なのかくらい。

 敢えて訊ねたのは、そうでなくて欲しいというただの悪足掻きだ。それすら、一縷もない希望(のぞみ)だとも解っている。

 そんな心の内を見透かされた気がして、ステラは口の中が急速に乾いていくのを感じた。

「マルス、あまりステラを虐めてはいけませんよ? まぁ、好きな()ほど虐めたくなるという男子特有の心理状態は伺った事がありますが、実の妹に対してそれはさすがにちょっと……」

「その良く解らない心理状態が実在するのかはともかく、少なくとも私は実の妹に劣情を来す様な人格破綻者ではありませんし、まず第一にステラを虐めている訳でもありませんし、そして何より一々話を妙な方向に持っていくのはやめて頂けませんか」

 助け船と言って良いのか躊躇われるルナの台詞を、さらに眉を寄せたマルスが一刀両断した。

 だが、その程度で挫けるこの姉ではない。

「それで、ステラ?」

 全くお構いなく、話を横取りした。その隣で、マルスが悩ましげに掌を顔に押し付けた。

「医院から試験に来なかったと連絡を受けた時は、屋敷中大騒ぎだったのよ? お父様はもう怒り心頭といった風だったし、お母様なんてショックの余り倒れられてしまって……」

「……申し訳ありません」

 俯いて、ステラはばつが悪そうに視線を逸らした。

 やはり、用事の内容は予想通りだった。

 ステラの実家は、シャルの実家と同格に位置する、『地の一族』と呼ばれる貴族だ。特に医者として名を馳せたその一族の者は代々地の大陸にある医療学院に通い、医者を目指す事が通例化されている。

 ステラも本来であれば、彼女の姉兄と同じようにそこに通い、医者の卵として同期の者達と心身共に切磋琢磨する筈だった。

 だが、一年前のある事件を切っ掛けに自らが持つ『力』は人を救うに値しないと考え、医療学院の入学試験を放り投げてガーデンにやってきたのだ。

 この二人がやってきたのは、恐らく……。

「単刀直入に言おう。我々は、お前を連れ戻しに来た」

「えっ?」

 予想と真逆の台詞に、思わず顔を上げた。

「当初は父上もお怒りの余りお前の名前を口に出す事すら禁じられていたが、それでも最近は僅かにではあるが収まってきた御様子でな。今月に入ってすぐ、我々に迎えを指示された」

「医院の方でも、中途入学の手続きと試験にさえ受かれば九月から通えると仰ってくださっているわ。途中からのスタートになるけれど、貴女ならきっとすぐ同期の子達に追い付ける……いいえ、追い越せる筈よ」

「ま、待ってくださいっ」

「どうかしたの?」

 慌てて割り込むと、ルナがキョトンと小首を傾げた。

 今一度、確かめる。

「その、お二人は私を、連れ戻しに……?」

「そう言っているだろう」

「ですが私はその、逃げ、出して……」

 言葉が、途切れた。

 そう、自分は逃げ出してきたのだ。周囲から、一族から、誇りから、惨めにも情けなく背を向けたのだ。だからステラは、二人からの、一族からの糾弾を覚悟していた。

 だというのに、実際には予想と真逆のことを言われてしまった。こんな自分が何の罰もなく元いた場所に帰って構わないのかと、狼狽を隠せない。

「勘違いをするな」

 マルスが、冷たい声を発する。

「お前が何処に逃げようともティエラの人間であるように、一族の使命からは決して逃れられん。あそこはお前がいなければならない場所であり、拒否権など初めから存在しない」

 髪よりもほんの僅かばかり濃い色合いの瞳は、冷たく湿ってパリパリに乾いた土のようだ。ステラは急速に喉が渇いていくのを感じた。

 言葉を返せない。返す言葉が浮かんでこない。口の中がネバネバして気持ち悪い。思考がまともに働かない。

「咎には罰が必要だ。だが、お前への罰が追放と結び付く事は無い。或いはそれこそが罰だと思え」

 罰。罪人へ下される裁き。贖罪の為の苦しみ。

(罪……)

 そう、自分は罪を犯したのだ。だからそれを償う為に戻れと、マルスは言う。償うことが出来れば、ステラ自身も心に抱えた重石から解放される。

 でも……

「――テラ、ステラ!」

「!」

 ハッと我に返ると、ルナが慌てた様子で呼び掛けていた。

「あ……」

 いつの間にか両手で握り締めていたカップに、亀裂が生じていた。同時に、手の感覚が元に戻る。

「――っつぅ!?」

 突然襲い掛かってきた熱と痛みに、慌てて手を放した。その拍子にカップが倒れて中身がテーブルに溢れ、さらに熱湯を被った。

「きゃっ、マルス布巾を! ステラ、早く冷やさないと!」

 すぐさまオープンキッチンまで手を引かれ、蛇口から溢れ出した水に両手を突っ込まされた。

「……申し訳ありません」

「突然あんな話を聴かされたら動揺するのも無理ないわ。しばらくそうしていなさい」

 言って、ルナはテーブルを片付けに向かった。

「…………」

 リビングからの光で生まれた影の中で、ステラはその様に目を向けることなく視線を洗い場へと落とす。

 溢れ続ける水は、手の内側に籠もった熱を奪っていく。紅茶を被った瞬間の鋭い痛みは、今はない。

 代わりに、ジンジンとした痛みが拡がっていった。



今回から第二章突入です。

今後もこのくらいのペースで更新できたらいいなと思ってます。(願望)

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