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銀色の虹の果てに  作者: ぺんぎ
間章
15/24

其之一:『雨明けの陽射し』

 ――目の前が、真っ赤に染まっていた。


 それは、天を衝き、地を()く炎。


 それは、地に伏す少年の背中。


 それは、少年の血に染まった小さな両手。


 見るのが辛くて、


 失うのが怖くて、


 少女は、拒絶を選んだ――





 円を描くように広がった学園都市、『学びの庭(ガーデン)』の中央区。生命(いのち)の樹セフィロトとその森を囲う神殿の裏手には、この街の墓地が在る。

 アレン達が新入生クエストを終えてガーデンに帰還した翌朝、雨雲としとしとと降り注ぐ地雨に包まれたそこに、一人の少女がいた。

 普段の制服とは違い、ほんのりと淡い色のワンピースという私服姿の少女は、長い緋色のポニーテールに被さったファッション重視の傘の(もと)、ただ一点を見つめ続けていた。

「シャル」

 ふと、少女に声が掛かった。

 視線を送ると、動き易そうな服装をした金髪の少年が、腕に花束を一つ抱えて、どこにでもありそうな紺色の傘を差しながらやってきた。

「ここにいたのか」

「アレン……」

 傍にやってきたアレンは、その黄金色の瞳をシャルが見つめていたところへと向けた。同じように、シャルも再びそちらへ視線を落とす。

「昨日」

 徐に、シャルが口を開いた。

「電話でお母さんに力が戻った事を話したら、『真っ先に報せる相手がいるでしょう!』って叱られたわ。まったく、どこの親が娘の吉報に怒鳴り付けるのよ……」

「……おばさんらしいな」

 ムスッとした声に、アレンは苦笑を返した。

「で、もう話したのか?」

「まだよ。ちょっと、懐かしんでたところ」

 傘の下にちらりと見えたシャルの表情は、一転して穏やかなものになっていた。

 同じように、アレンの顔にも懐古の色が生じる。だがそれは、シャルとは違い少し曇ったものだった。

「懐かしい、か……」

 雨粒が、傘の上で踊り続ける――



    †   †   †



 ――それは六年前、アレンとシャルが基礎学院四年生の二学期を迎えた日だった。

 まだ残暑の厳しい中、あっという間に過ぎてしまった夏休みから抜け出せずにいた子供達は、昼休みを挟んで現れた睡魔と悪戦苦闘を繰り広げた末、本日最後の授業である魔法学に挑んでいた。

「それでは今日は夏休み明けという事なので、一人ずつ前に出て一学期のおさらいをしましょう」

 階段状に広がった大きな教室で、白髪混じりの蒼髪の女性教諭が、小さな杖を持ちながら朗らかな笑みと共に言った。

 教諭の言葉に、長机の席に腰掛ける子供達から、不安と興奮とが入り混じったざわめきが広がった。不安はきちんと習ったことを出来るかという心配、興奮は他の生徒よりも上手くやってみせるという自信の表れであり、少なくともこの授業に限っては、子供達は夏休み明けであろうと真剣に取り組んでいるようだった。

 徐々にざわめきが大きくなり始めたところで、女性教諭は三回ほど手を鳴らして注目を集める。すると不思議なことに、生徒達はたいして大きくもない音に反応してすぐに落ち着きを取り戻した。

「はいはい、静かに。それでは前から順に出てきてくださいね。えぇ、貴女からよオリヴィア」

 教諭が一番手前の席で自分を指差している青紫色のおさげの少女に頷くと、少女は緊張した足取りで壇上の教卓の前にやって来た。

「落ち着いて、一学期にやった事を思い出して。まずは精霊に呼び掛ける所からよ」

 囁くような声に頷くと、少女は目を閉じてゆっくりと(ことば)を紡ぎ始めた。

 教室中が、緊張に包まれる。

 しばらくすると、少女の周囲に柔らかい風が集まり、肩に凭れた髪で愉しげに遊び始めた。途端に、教室に感嘆の息が漏れた。

 (くすぐ)ったそうにする少女に、女性教諭も笑顔を向ける。

「はい、良く出来ました。だいぶ上手くなったわね、オリヴィア。席へ戻って良いですよ」

 教室中からの拍手に照れて顔を赤くしながら、少女は席へと戻っていった。

「へぇ~、すごいねオリヴィア。前はあんなに上手くなかったのに」

 中程の席でそれを眺めていた金髪の少年が、感心したように言った。

「練習したんだろ。なんだよアレン、お前もしかして……」

「違うって。やめてよ、ロイ」

 それでも机に肘を突いてからかうように赤銅(しゃくどう)色の視線を向けてくる枯茶(からちゃ)の短髪少年は無視して、アレンは引き続き前で行われているおさらいに目を向ける。

「ふん、あのくらいたいした事ないね。ただ微風(そよかぜ)が吹いただけじゃないか」

 と、すぐ前の席から尊大な声が聞こえた。

「そう?結構すごいと思うけどなぁ……」

「君だってもう下級魔法は使えるんだろう?それに比べたら、精霊に呼び掛けるだけなんて誰だって出来るさ」

 前に座る首が金髪で覆われた少年は、そう言って少し長い前髪を得意げに掻き上げた。

「だったらアルベルト、お前はもっとすごいことするんだろうな?」

「言われなくてもするつもりさ。せいぜい見ていると良いよ、オルブライト」

 挑発するようなロイの笑みに不敵なそれを返して、自分の番が来たアルベルトは壇上へ向かった。

「アルベルトは確かもう下級魔法が使えたわね。大丈夫かしら?」

「はい、ブロウズ先生」

 頷いて、アルベルトは一度目を閉じて短く深呼吸する。

 そしてスッと目を開くと、右の掌を上に向けたまま前へ差し出した。

「幼き光の友よ。其が輝きを以て、我が行く手を照らす道標と成らん。【陽光の道標(ソルクス)】」

 詠唱を終えると、アルベルトの足元に白に近い金色の魔法陣が現れ、掌に人の頭大の光球が力強く浮かび上がった。

 おぉ、と歓声が沸き起こり、アルベルトはさらに得意げな顔で前髪を掻き上げた。

「はい、大変良く出来ました。随分魔力を籠められるようになったわねぇ。でもアルベルト?」

 ブロウズ教諭はニッコリ笑いながら、そっとアルベルトに顔を近付けた。

「あまり無理をしてはいけませんよ?」

「――っ!」

 バッと顔を向けると、教諭は困ったように微笑を浮かべていた。

 途端に顔を赤くしたアルベルトは、その場から逃げるように席へ戻った。

「………アル……?」

 荒々しく隣に座った少年を見て、黒髪を背中まで伸ばした少女が不思議そうに小首を傾げた。

「何でもない……!次はお前だろう、アリス。さっさと行け!」

 悔しそうな声色だったが、アリスは言われた通りに席を立った。

「うーん、やっぱりアルベルトはすごいなぁ。あんなでかいの、僕じゃ作れないよ」

 やはり感心したようなアレンに、ロイは変わらず肘を突きながら返す。

「のわりに本人は悔しそうだけどな。なに言われたんだ?」

「別に……」

 アルベルトは前を向いたまま、ただアリスが精霊に呼び掛けるのを眺めていた。

「それでは次の人」

「あっ、僕だ」

 呼ばれて、アレンは席を立った。

「頑張れよー」

 応援するつもりがあるのかないのか、やる気のない声でヒラヒラと手を振るロイに苦笑いを浮かべて、アレンは階段を降りていった。

 壇上に立つと、他の生徒同様ブロウズが気持ちを落ち着かせようと声を掛けてきた。

「アレンも下級魔法が使えたわね?さあ、一学期にやった事を思い出しながら」

 不思議と心地の良い声に耳を傾けて、アレンは目を閉じた。

 ゆっくりと呼吸をしながら、右手を差し出して瞼の裏に世界を創る。

 描くのは、雲一つ無い青空の中で、燦々(さんさん)と照り付ける太陽。

「……【陽光の道標(ソルクス)】」

 名を紡ぐと、身体の内側から掌へ向けて、魔力が集まるのを感じた。

 少し遅れてどよめきにも似た歓声が聞こえたところで、閉じていた目を再び開く。

「ふぅ」

 右の掌の上で、太陽のような輝きを放つ光球が周囲を照らしていた。大きさはアルベルトが見せた物よりも二回りほど小さかったが、他の生徒達の驚きはその時以上に大きいようだった。

 それはブロウズも同じようで、皺の入った瞼の奥で輝くサファイアの瞳を僅かに揺らめかせながら、少し口を開け放っていた。

「あらあら……!アレン、貴方、いつの間に詠唱破棄を?」

 問われたアレンは、光球を消して照れたように短い金髪の後頭部を掻く。

「えっと、できるようになったのはホントにこないだなんです。でもやっぱりまだ上手くは……」

「いいえ、そんな事はありませんよ。その歳なら充分過ぎるくらい、良く出来ていたわ。さあ、もう席へ戻って良いですよ」

 やんわりと暖かい笑顔を向けられて少し恥ずかしくなったアレンは、再び後頭部を掻きながら教壇を降りた。

「おい、アレン!いつの間にあんなのできるようになったんだよ」

 席に座ると、早速とばかりにロイが身を乗り出してきた。

「だからホントにこないだだってば。家でコツを教えてもらったんだよ」

「コツって、おばさんにか?昔すげぇ魔導師だったんだっけ?」

「えーっと……まぁ、そんなとこ」

「……?なんだよ、ビミョーな――」

「ロイ=オルブライト?聞こえているでしょう?」

「やべっ……!」

 少し言い淀んだアレンに眉を寄せたロイは、ブロウズの強調するような声が聞こえて慌てて席を立った。



「ねえねえ!アレン君、すごかったね!」

 一方、アレン達から離れた席に座る女子の一団は、前方で唸り声を上げながら精霊に呼び掛けるロイには目もくれず、声を潜めて先程の光景について騒ぎ立てていた。

「詠唱破棄って、上級学院から習うらしいよ?」

「ほんとに?すごぉい!」

 その言葉に驚いた少女の隣で、別の少女が恍惚そうに目を瞑って胸の前で手を組んだ。

「はぁー。やっぱりアレン君、かっこいいなぁ」

 うっとりとした表情をする少女に、後ろの席の少女が身を乗り出す。

「アレン君はカッコイイっていうよりカワイイでしょ」

「そうそう。あの綺麗な金色の瞳に見つめられたらこう、胸がキュン、って」

 それに便乗して、心臓でも射抜かれたように、別の少女が胸を押さえた。

 さらに、別の少女が顎に指を当てる。

「んー、わたしはアルベルト君派かなー」

「あたしもあたしも!あのキザなとことか意外と好き!」

「ロイ君は?」

「バカロイは問題外。それよりもう一人いるじゃない、ほら」

 いつの間にか「自分は誰派か」という論議へと話向きが変わっていた女子達の目に、壇上に上がった、漆黒の髪で少し目が隠れた少年が映った。

「さあ、それじゃあやってみましょうか」

 ニッコリと微笑むブロウズの言葉に、少年は小さく頷きもせず口を開いた。

「【宵闇の導き(オブスクリタス)】」

 僅かに耳に届いた呟きと共に、少年の足元に漆黒の魔法陣が現れた。

 黒い光に包まれた少年は、目に掛かる前髪を靡かせる魔力の波動にも顔色一つ変えず、髪と同色の感情の希薄な瞳から放たれる視線を宙へと漂わせ続ける。

 すぐに、足元の魔法陣から影のようなものが飛び出し、少年の目の前でアルベルトの光球と同じくらいの大きさの黒い球を創り上げた。

 教室が、沈黙に包み込まれた。

 アレンと同じく詠唱破棄で魔法を発動した上に、アルベルトと同程度の大きさの黒球を創り上げた少年に、生徒達は驚愕を通り越して呆然としていた。

「本当に、今年は豊作ねぇ……」

 驚いたような嬉しいような、ブロウズの声はそんな風だった。

「……先生」

 と、まだ黒い球を浮かべる少年が、瞳と同じく感情の籠っていない声を発した。

「あ、えぇ、もう結構ですよノア。大変良く出来ました」

 教諭が慌てて返すと(それでも微笑む事を忘れはしなかったが)、少年は黒球を消して無造作に席へと戻っていった。

「お疲れさま、ノア君」

 少年が自分の席に着くと、その隣に座る紺青色の髪の少女が、にっこり微笑みながら労いの言葉を掛けてきた。

「……別に」

 たいした労力は使っていない、と少年はただ事実を示す意味で返した。それでも隣の少女の微笑みは一切崩れなかったが。

 その後ろ姿に、他の生徒同様言葉を失っていた先程の女子の一団は、揃って視線を送る。

「……やっぱり、ウチのクラスってレベル高いよね。っていうかノア君はすご過ぎ」

「でもわたし、ノア君ってちょっと苦手かな。なんか近寄りづらくて……」

「そのクールさがカッコイイんじゃない。他の子供っぽい男子たちと違うっていうかさ」

 その一言を契機に、再び先程と同じように声を潜めながら騒ぐ少女達。

「ねぇ、シャルは誰が一番だと思う?」

 ふと、赤の混じったオレンジ髪の少女が、前の席に座る女子生徒へと声を掛けた。

 綺麗な緋色の髪の後ろ側を黒いリボンで纏めた少女に向けられた言葉に、別の少女が答える。

「ダメダメ、シャルに聞いたって。どうせアレン君に決まってるし」

「そうそう。他の男子が割り込む隙間なんて、これっぽっちも残ってないよ絶対」

 もはやお決まりのように、少女達は揃ってやれやれと息を吐いた。

「わかってないなぁー。そこをあえて聞いて恥ずかしがるシャルが見たいんじゃない」

「あぁ~」

 ちっちと人差し指を立てるオレンジ髪の少女の言葉に、友人達は得心がいったように頷いた。

「で、どうなのシャル?観念しなさい!」

 ニヤニヤと笑みを浮かべるオレンジ髪の少女は、再びシャルに問い掛けた。

 しかし、緋色の少女はそれに答えず、変わらず背を向けたままだった。

「シャル?おーい、シャールー?」

「えっ?」

 少女が肩を叩くと、そこでようやく振り返った。幼くも整った顔、特に髪と同じ綺麗な緋色の瞳には、僅かに動揺の色が浮かんでいた。

「どしたの、ぼーっとして?」

「う、ううん、何でもないわ。それで、何?」

 シャルはすぐさま笑顔で訊き返したが、普段の彼女を良く知る少女は、その取り繕った笑顔に違和感を覚えた。

 それでも敢えてそれ以上は突っ込まず、

「だから、シャルは誰が――」

「次はシャーロットね。前へいらっしゃい」

 もう一度問おうとしたところを、ブロウズの声に遮られた。

「ごめんなさいマリー、行かなきゃ」

「あ、うん……」

 謝りながら、シャルはすぐに席を立った。

「どうしたのかな、シャル?」

「さあ?頭の中で復習でもしてたんじゃない?」

「…………」

 肩を竦める友人達の言葉を耳にしながら、マリーは壇上へ向かうシャルの背中を見送った。



「……ぶ……きる……いく……よ」

 教卓の前に立ったシャルは、思い詰めた表情で呟き続けていた。

「シャーロット、大丈夫かしら?」

「は、はい……!」

 問われて、慌てて答えた。そして顔を前に向け直す。

 幾つもの視線が、シャルにのみ注がれていた。先程のアレン達のこともあり、自分にも何かを期待しているような、そんな視線を特に感じる。

 実際、シャルの一学期の成績は学年次席で、アレン達と同じく既に簡単な下級魔法程度なら一学期のうちにやってみせているし、自分が他の大多数の生徒よりも魔法の才に秀でていることを、シャルは慢心ではなく事実として自覚していた。さらにそれが人の力では抗えない偶然の産物だということも理解しているので、普段からの努力も怠りはしなかった。

 そしてそのことは、彼女の周囲も理解していた。彼女が決して自分の力を鼻に掛けず常に自分を厳しく律していることも、基本的に他者に優しい彼女が時に厳しく接するのは相手を想っての行為だということも。故に、そんな彼女を慕う者は(恋慕の情にせよ友愛の情にせよ)男女問わず多く、今この場でこのような眼差しが向けられるているのは、才色兼備にして緩急剛柔、大胆不敵にして確乎不抜(かっこふばつ)という彼女の人間性の証明に他ならなかった。

 通常なら、このようなプレッシャーを受ければ無意識的に余計な力が入り、自分が理想とする実力はまず発揮出来ないのだが、十歳(彼女の誕生日は一月なので、正確に言えば九歳)の少女とはいえ、シャルはこの世界に名を連ねる大貴族、『火の一族』の一人娘。衆目に晒されることなど言葉を覚え始めたのと同じくらいの時期から経験しているので、彼女にとってこの程度のものはプレッシャーと呼ぶに値しない。

 だというのに、シャルが先のような表情で何かを呟いたり、ブロウズの呼び掛けに慌てて応じたのは、彼女が現在、通常(・・)とは全く掛け離れた状態にある為だった。

(大丈夫、いざとなったらきっとできる、上手くいく、大丈夫よ……!)

 心の中で何度も復唱しながら、嫌に速い鼓動を落ち着けようとする。普段ならば気にもならない他人の視線だが、今は僅かな不安要素も消し去りたいので、目を瞑ることで取り除いた。

 深く、一度だけ深呼吸をして、右手を差し出す。

 これも、普段とは違う行為。だが、確率は高いに越したことはない。躊躇わず、口を開いた。

「幼き、我が燃ゆる友よ」

 詠唱破棄など、初めから試みるつもりはない。そんな不確実なことをする余裕は、今の自分にはないのだから。

 ゆっくりと言葉を紡ぎ、はっきりと想像する。ただそれだけに、シャルは全ての意識を集中させる。

「我が声に応え、冷たき暗闇に、安らぎの灯火を」

 暗い、闇の世界に、小さな火種を一つ、投じる。

 黒の海に飛び込んだ火種は、周囲の闇を取り込み、徐々に、大きく成長していく。

 やがてそれは、(くら)い世界の中に在ってなお強く輝く灯火へと、姿を変える。

 その灯火を、差し出した右手の上で踊らせる、イメージ。

「【安寧の灯籠(ソルブレイズ)】」

 小さく、強く、名を紡いだ。

 すぐに、彼女の魔力が力強い灯火へと姿を変えてその右手に顕現する。

 その光景を見ていた誰もが、そう思っていた。

「…………」

 シン、という音が、聞こえたようだった。

 誰も、何も音を発しない。生徒達も、ブロウズ教諭も、シャル自身も。

 みなが、ただシャルの右手に向けて視線を送り続ける。

 だが、いつまで経っても、何も起こらなかった。

「……失敗?」

 誰かが、呟いた。

 それを皮切りに、徐々にざわめきが拡がる。

「あらあら……」

 ブロウズの声も、動揺を隠せていなかった。

「シャーロット、どうしたの?さあ、もう一度?」

 ブロウズは再び心地の良い声で促した。

 しかし、シャルは動かない。差し出していた右手を下げ、無言のまま俯いていた。

 その様子に、ブロウズは眉を寄せる。

「シャーロット?もう一度やってみま――」

「できません……」

 声が、震えていた。

「そう……そうね、誰にだって調子の悪い時はあるもの。席へ戻って良いですよ」

 心配そうに頷きながら、教諭はシャルを席へと促した。

 だが、それでもシャルは動こうとしない。

「シャーロット?どこか具合が悪いの?」

 不審に思い、ブロウズが腰を屈めてシャルの顔を覗き込んだ。

 教室のざわめきが、一層大きくなっていた気がした。

「……せん、せえっ」

「っシャーロット……!?」

 ポタッ、ポタッ、と、教壇に何かが落ちる音が聞こえた。

「わた、し……まほ……つかえなく、なっちゃっ……!」



 その日は、嫌に暑いというのに、土砂降りだった。



    †   †   †



 噂というのは、どこからともなく拡がっていくものだ。

 例えどれほど固く禁じようとも、それを防ぐことは不可能に近い。人間という生き物は困ったことに、噂話というものが大の好物なのである。

 「シャーロット=フラム=エル=イグニスが魔法を使えなくなった」という噂もまた、当然のように翌日には基礎学院中に知れ渡っていた。

 元々『火の一族』として有名だったのも手伝ったのだろう。「一族を追われた」だとか「実は拾い子だった」だとか色々尾鰭(おひれ)は付いていたが、噂の根幹は無駄にきっちりと伝わっていた。

「でもよ、なんで急に使えなくなったんだ?夏休み入る前は普通だったよな?」

 本日最後の授業である武術の実技を終えて教室へ戻る道すがら、頭の後ろで両手を組んだロイが言った。

「わかんないよ、僕も詳しくは聞けてないから……」

 眉を(ひそ)めながら、アレンは首を横に振った。

 本当のところを言うと、心当たりはあった。

 この夏休みに遭遇した、小さくも大きな事件。その渦中に起きた、『力』の暴走。あの日以来シャルが魔法を使うところを見なかったことから、あれが今回の件に関わっているのだろうとは思った。

 ただ、あの事件は他人には話せないし、そもそも暴走の何が原因でああなったのかが判らないので、下手なことは口に出来なかった。

 そういえばと、その事件以来一つ屋根の下で暮らすようになった少女のことを思い出した。あの銀髪銀眼の少女は、相当に魔法に詳しいらしい。詠唱破棄のコツも彼女から教わったものだし、もしかしたら何か判るかもしれない。

 さっそく今日この後にでも訊いてみようと一人で頷いたアレンの隣で、ロイが不思議そうに首を傾げた。

 そこへ、

 バンッ、と勢い良く教室の扉が開き、誰かが飛び出してきた。

 その人物は、突然のことに驚いて立ち止まっている二人には気付かないまま、逆方向へと走り去っていってしまった。綺麗な緋色のポニーテールを跳ねさせながら。

「………シャル?」

 見間違えようのない(あか)い髪を目で追いながら、アレンは再び眉を寄せた。確か彼女は今日、病院で検査する為に授業を休んでいた筈だ。教室にいたということは、検査が終わったので少しでも授業に参加しようとしたのだろう。

 だが、それにしては飛び出してきた彼女は様子がおかしかったように感じられた。何と言うか、走り去っていく後ろ姿が、まるで何かから逃げ出すかのように見えたのだ。

「なにかあったのかな?」

「さあな」

 問われたロイは、肩を竦めて開け放たれた教室へと入っていった。

 しばらく立ち止まっていたアレンもかなり間を空けてそれに続いたが、

「おいアレン、これ!」

 今度はロイの叫び声が飛び出してきたので、慌てて駆け出した。

 教室に入ると、ロイの姿は見当たらず、代わりに奥の方に出来上がった人垣が視界に入った。

 不審に思ったアレンは、そちらへと近付いていく。

(あそこって、確か……)

 何故か、胸がざわついた。

 群がる同級生達を掻き分け、その中心に向けて身体を捻じ込む。

 人垣の終わりに、ロイの背中が見えた。一気に、アレンは人の海から飛び出す。

「ぷはっ!ロイ、どうした――」

 水面に顔を出した時のように息を吐き出すと、友人の顔を見るより先に視界に映った物に、黄金色の瞳が揺れた。

 そこに在ったのは、一つの机だった。堅い木材で造られた、どの教室にも置かれている三人用の長机。ただそれは、明らかに他の物とは様子が違っていた。

 正確に言い表すなら、まるできちんと仕切りでも敷いたかのように、三人席のちょうど真ん中の席だけが、ナイフか何かでズタズタに切り刻まれていたのだ。

『おめでとう、加護落ちクン!』

 中心にはでかでかと、そう彫られていた。

「酷いよね……」「ボロボロじゃん」「誰がやったんだろ」「ウチのクラスの奴かな?」「やめてよ」「さっきまで授業だったし違うだろ」「加護落ちって?」「さあ?」

 周囲のざわめきが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って耳に入ってくる。

 心臓が、異常に速く脈打っているのが解った。

 思考が、巡る。

 つい先程教室を飛び出していった少女。

 その際に見えた、何かを必死に堪えているような横顔。

 そしてここは、彼女がいつも、好んで座る席だった。

「―――ッ!!」

「あっ、おいアレン!?」

 弾けるように、人垣から飛び出した。

 そのまま教室を出て、少女が去った方角へと全力で駆ける。

 当てなどない。ただ手当たり次第に、緋いポニーテールを探した。

 廊下から見える場所には見当たらない。

 実習室にも、保健室にも、図書室にも姿はない。

(シャル……)

 食堂にも、講堂にも、訓練室にもいない。

 中庭でも、玄関でも、植物園でも飼育施設でも見付からない。

(シャルッ!!)

 長く続く螺旋階段を、ひたすら上へと走り抜ける。

 その終わりに立ち塞がった扉を、殴り付けるように乱暴に押し開いた。

 膝に手を当てて、息を吐き出し続ける。

 駆ける鼓動を、無理矢理押さえ付ける。

 まだ肩を上下させながら、アレンは顔を上げた。

「……ッ!!」

 その先に待っていたのは、未だ降り続ける豪雨だけだった。



 屋上から教室へ戻ると、悲鳴のような叫び声が上がった。

「アレン君!?」

「おまっ、びしょ濡れじゃねぇか!?」

「ロイ、オリヴィア……」

 力なく応えたアレンに、二人が慌てて駆け寄る。

「なにやってんだよ、そのままじゃ風邪引くぞ!オリヴィア、タオル!」

「えっ?あっ、うん!」

 透き通った萌葱色の瞳に動揺を隠せずにいたオリヴィアは、慌てて教室を出ていった。

 その後ろ姿を目で追いながら、ロイはやれやれと息を吐く。

「ったく、こういう時にシャルでもいればな、っと……!」

 つい漏れてしまった失言に、慌てて口を覆った。しかしアレンが特に反応を見せなかったので、心中で胸を撫で下ろした。

 暫し、沈黙が流れた。

 既に放課後ということもあって、教室には二人以外誰もいなかった。やけに広く感じるその空間に、水が滴り落ちる音だけが響き続ける。

 どうしたものかと、ロイが所在無げに傍にあった机に腰掛けると、

「……ねえ、ロイ」

 不意にアレンが口を開いた。

 蚊の鳴き声のようだ、とは良く言ったものだと思いつつ、ロイは視線を向けずに応える。

「なんだよ」

「みんなは?」

「もうクラス中誰がやったかで大騒ぎ。誰かが先生呼んできて、今日は帰れってさ」

 返事はなかった。

 それ自体は特に気にしない。何をするでもなく、ロイはオリヴィアの帰りを待ち続ける。

 しばらくして、

「ねぇ、ロイ」

「なんだよ」

 再びのやりとり。

「『加護落ち』って、なにか知ってる?」

 間が、空いた。

 互いに視線は外していたが、アレンはロイが顔を顰めたのを感じ取った。

「……上級学院にさ」

 次に耳に届いた言葉は、一層重い空気を纏っていた。

「毎年、授業に付いていけなくて、魔導師としての適性能力?ってのが基準値より低い連中が出るらしいんだ。どの分野でもな」

 いわゆる落ちこぼれってやつさ、とロイは続ける。

「そいつらは、基礎学院までは他の奴らと同じで普通に魔法が使えてたんだけど、上級学院で一年、また一年って過ごすうちに、段々他の奴らと差が開き始めるんだ。最終的には卒業しても基礎学院の頃とほとんど能力が変わらないらしくて、大抵の奴らは早いうちから別の学部に移るらしいんだけど、中には諦め切れずに六年間ずっと同じ学部に通う奴もいるらしい」

 この世界には、魔法を必要としない職業も山ほど存在する。寧ろ、専門職以外は使えた方が便利程度の認識しかされていないし、魔法に長けた物が必ずその道を行くとも限らない。だから、魔導師としての能力に長けない者が魔法以外の分野を専門に学ぶことは珍しくないし、その方が賢明だと誰もが思うだろう。

 だが、中には自身の前に立ち塞がった現実を直視出来ず、いつまでも立ち止まったまま無為に時を過ごす者もいた。

 気持ちは理解出来なくもない。それまで自分が憧れ、夢見ていた未来への道程が、突然暗い闇に閉ざされたのだ。口で言うほど、簡単に割り切れるものではないのだろう。

「なんでそういう連中が出るのかってのはわからねぇんだけど、元々の精霊の加護が弱い、それか途中から弱まったっていう説が有力なんだとさ」

 故に、『加護落ち』。精霊から見放された落伍者。

 シャルは、その烙印を押されたのだ。心ない何者かの手に依って。

「誰が、そんな……!」

 ギリッ、とアレンは手を強く握り締めた。

 心の中で、ある感情が渦巻いているのが解る。どろどろで、酷く黒ずんだ暗い感情が。

「あーあ、やだやだ」

 顔を俯かせるアレンを横目で見ていたロイが、突然溜め息と共に言った。

「どいつもこいつも暗い顔ばーっか。こっちまで暗くなるっつーの」

「ロイ……?」

 机から跳び下りた(と言うほど地面から離れてはいなかったが)ロイは、自分の鞄から鉛筆を幾つか取り出すと、腕を組んで曲げたり伸ばしたりしながらシャルの机に向かった。

「見てろよ」

 ニヤリ、と笑った。

 ズタズタに切り刻まれた机の上に鉛筆を置いたロイは、それらを囲うように両手を添える。

「―――っ!」

 短く息を吐くと、鉛筆と机が茶色の光に包まれた。

 ロイの短い茶髪が、魔力の波動で僅かに揺れる。

 一瞬、その光が強く輝くと、やがて髪の揺らめきが収まった。

「――ぶはぁーっ!やっぱ陣なしじゃきついわぁー!」

 一気に息を吐いて、ロイは後ろの机にへたり込んだ。そのまま、横目でアレンを見る。

 来てみろ、ということだろう。

 促されて、アレンはそちらへ向かった。

「あ……」

 呆けたような声が、口を衝いて出た。

 ズタズタに切り刻まれていた筈の机の中心が、鉛筆の芯のみを残して直っていた。色は違うし、木目も綺麗とは言えなかったが、でかでかと刻まれていたあの文字の痕跡はもうどこにも見当たらなかった。

 すぐさま、アレンは後ろを振り返った。

「全部は無理だったけど、とりあえずこれで勘弁してくれー。あー疲れたぁー」

 だらけながら、ロイは天井を仰いでいた。

「……授業で使う魔法より調子いいんじゃない?さすが工房の息子」

「るせぇー、こっちとあっちじゃ勝手が違うんだよー。それに魔法陣描きゃもっと綺麗にできるっつーのー」

 負け惜しみっぽく返したロイは、とうとう机に寝そべってしまった。そんな少年に、思わず苦笑が浮かんだ。

 ふと、アレンはいつの間にか先程の暗い感情が吹き飛んでいることに気付いた。

 もう一度、机に視線を向ける。

「………ロイ」

「あぁー?」

 気怠そうな声が返ってきた。

「ありがとう」

「……あいよ」

 応えたロイの顔が、少し笑っているのが解った。

 二人が息を切らして保健室からタオルを借りてきたオリヴィアに首を傾げられたのは、その直後だった。



    †   †   †



 雨が、降り続ける。

 どこへ向かっているのか、自分でも解らない。どころか、ここがどこなのかさえ解っていない。

 豪雨の所為か、道には誰もいない。もしかしたら、元々人通りの少ない場所なのかもしれない。ただ、それが余計に孤独を感じさせた。

 服も髪も、身体全体がびしょ濡れだが、構わずふらふらとした足取りで歩き続ける。

 ふとした拍子に、自分のものではないように重くなった足に躓いて転けた。

 盛大に、水が撥ねる。

 痛い。

 どうやら膝を擦り剥いたようだ。

 寒い。

 降り注ぐ豪雨と冷たい空気が休まず襲い掛かってくる。

 けれど、

 この痛みと、この寒さは、別のところからやってきているのが解った。

 雨に紛れて、一筋、頬を伝う。

 立ち上がれないのは、膝の怪我の所為ではなかった。



    †   †   †



『――恐らく、後天性不完全魔法症かと思われます』

『魔力の性質変化が正常に作用しなくなる病状で、お嬢さんの場合、属性、効果のどちらもが全く機能しなくなっています』

『完治の例が無い訳ではありませんが、何分非常に稀に見る病なので、現状、明確な治療法は判明しておりません』

『こんな事を告げるのは酷かも知れませんが、最悪、一生このままという事も覚悟してください――』



「――ん……」

「あら、目が覚めたみたいね」

 目が覚めると、心地の良い声が聞こえてきた。

「……先生?」

 ブロウズ教諭だった。傍に腰掛け、湯気の立ったマグカップを持っている。

「何で、先生が……」

「あらあら、起きちゃダメよシャル。熱が出ていますからね」

 ベッドから身を起こそうとしたシャルを、ブロウズが透かさず制した。

「熱……?」

 言われて、妙に頭がぼーっとすることに気が付いた。

「ここは――っくしゅん!」

 どうやら本格的に風邪を引いてしまったらしい。

「ほらほら、しっかり被って」

 可愛らしいくしゃみに苦笑しながら、ブロウズは布団を肩まで掛け直した。差し出されたティッシュで鼻を噛んだシャルは、埋もれるようにそれを引き上げる。

「ここは私の(うち)よ」

「先生の?」

「ええ。心配したわよシャル?道端で誰か倒れていると思ったら貴女だったんだもの。どうしてあんな所で倒れていたのか、憶えているかしら?」

「わたし……」

 すぐに、思い出した。

 病院から戻り、少しだけ顔を出そうと向かった学園。

 教室に入った後で今日最後の授業が武術の実技だったことに気付き、蛻の殻となったそこで皆の帰りを待とうと、自分が普段使っている席に腰掛けようとした。

 そして、見た。あの光景を。

 初めは、何がなんだか解らなかった。何かの冗談だとか、そんなことさえ思い付かなかった。

 授業を終えて教室に戻ってきた友人達がそれに気付いて騒ぎ始め、そこでようやく、目の前の光景の意味を理解した。

 その後のことは、良く憶えていない。とにかく走り続けたのは憶えているが、自分が今どこを走っているのかは解っていなかった。

 それでも、走り続けた。あそこから遠ざかりたくて、逃げるようにひたすら。

 すっかり黙り込んでしまったシャルに少し目を細めて、ブロウズはその頭を優しく撫でた。

「嫌なら無理に話す事はないわ。それじゃあお母様に迎えにきて頂くよう連絡してくるから、今はゆっくりお休みなさい」

「あっ……」

「ん?」

 部屋を出ようとするブロウズを、シャルの声が留まらせた。

 教諭が振り返ると、シャルは隠れるように両手で布団を引き上げたまま視線を逸らした。

「どうかしたの?言いたい事があるなら、遠慮なんてしないで言ってごらんなさい」

「ん……」

 ニッコリと促されたシャルは、視線を外したまま布団の中でもじもじする。そしてもう一度、視線を戻した。

 柔らかい笑みを浮かべたまま首を傾ける老女(老婆と言わないのは、彼女の口調や仕草が見た目からは想像出来ないほどの若々しさを放っているからだ)は、無言のまま言葉を待っている。「怒らないから」と聞こえてきた気さえした。

「……先生」

「なあに、シャル?」

 柔らかく、早くも遅くもない応答。相手の発言を急かすことも、無駄に間を作ることもしない、絶妙なタイミング。自然と、口から次の言葉が出てきた。

「今日は、帰りたくない……」

 それでも、気恥かしさからモゴモゴとしていたが。

 少し顔を赤らめて再び視線を逸らしたシャルに、ブロウズはあらあらと困ったように微笑んだ。

「仕方ないわねぇ、お母様には私から言っておくわ。大丈夫、倒れていた事は話さないから」

 再び口を開こうとした少女を遮って、教諭は部屋の扉を開けた。

「ただし、」

 部屋を出て、扉を閉め切る直前で、

「熱がある事はきちんと伝えておきますからね。生徒の様子を伝えるのも先生の役目だもの」

「うっ……」

 今度は少し茶目っ気のある笑顔でそう言って、扉を閉めた。

「………はぁ」

 小さく、溜め息を漏らした。

 正直、熱があることも黙っていて欲しいというのが本音なのだが、我儘を言っている自覚はあるのでそうすることで諦めを付けた。彼女にも彼女の事情があるだろうし、心配してくれているのは解っているのだから。

 とはいえ、憂鬱さは晴れてはくれないのだが。

 寝返りを打って、正面に現れた小さな右手を見る。

 今は、誰にも会いたくない。友人達にも、母にも、アレンにも。本当はブロウズにだって、こんな情けない姿、見られたくなかった。

 数回咳をして、鼻を啜った。

 あの後教室ではどうなったのかとか、これからどうしようかとか、学園に行くの嫌だなとか。色々な考えが、ぼーっとしたままの頭に浮かんでくる。

 そのうち、段々と瞼が重くなってきた。

 少しだけ、目の前にある右手に、辛うじて起きている意識を集中させる。

「――――」

 閉じ掛けの口から微かに言葉が漏れたが、何も起こらなかった。



「――えぇ、今はぐっすり眠っていると思うわ」

 リビングのテーブルに腰を下ろしたブロウズは、湯気の立ったマグカップを片手に受話器を耳に押し当てていた。

 電話越しの相手からの謝罪と感謝の言葉を苦い微笑みで受け取りながら、教諭はちょうど良い温度になったホットチョコレートを口にする。

「気にしないで、私にとっては孫みたいなものなんだから。何ならこのまま家に住まわせても良いくらいよ」

 結構本気で言ってますよね、と呆れた声が返ってきた。実際その通りなので、教諭は愉快そうに笑う。

 一頻り笑うと、ブロウズは不意にその表情を曇らせた。

「それで、不完全魔法症、だったかしら?あまり聞かない病名だけど、どうなの?」

 どう、とは、治るのか治らないのか、である。

 電話の相手はくぐもった声を返した。

「そう……やっぱり厳しいのね……」

 事実を再確認して、悲痛な声を零した。

「一応、魔法学に関しては筆記のみでパス出来るよう学院長にも進言しておいたから大丈夫だとは思うわ。もちろん、他の生徒と同様に、とはいかないけれど。でも、フェルナ?」

 マグカップを置き、居住まいを正して腕を組む。

「問題なのは、別の所よ。上級学院への進学もそうだけど、貴女達の――、ごめんなさい、わざわざ言うまでもなかったわね」

 少し強めの声色で遮られて、老婆心が過ぎたことに謝罪した。

 そう、本当に、態々言うまでもなかった。彼女が言及しようとした事柄について、この電話越しの女性が無関心でいる筈がないのだから。

「けれど……」

 それでも、老女はもう一度言う。

「あの人は間違いなく、選択する筈よ。あの娘にとって辛い道を、迷う事なく」

 今度は、老婆心ではなく忠告を。

「それが全てではないけれど、あの娘にとって失って良いものでもない。私達は、それを護らなければならないわ」

 その選択の未来(さき)を知っているかのように、憂いと、悲しみを織り交ぜて。

 組んでいた腕を解き、ブロウズは再びマグカップに手を伸ばす。

「私も出来る限りフォローはするけれど、こういう時に必要なものを、決して欠かしては駄目よ?それは、貴女にしか出来ない事なんだから」

 一口飲むと、もう一度テーブルに置いた。

 湯気は、もう消えていた。



    †   †   †



「――ぶぇっくしょん!!」

 豪快なクシャミが飛んで、身震いを起こした。

「あぁ~、やっぱり風邪引いちゃったかなぁ……」

 鼻を啜って、アレンはまだ乾き切っていない髪をバスタオルで掻き乱す。

 オリヴィアがタオルを持ってきてくれたとはいえ、ずぶ濡れになった服がすぐに乾く筈もなく、家に帰るとさっそくとばかりに母に叱られてしまった。そしてそのまま風呂場直行の命を受け、今に至る訳だが……。

 小さいとは言えない溜め息を、僅かに下を向いた口から零した。

 結局、シャルは見付からなかった。帰り道でも捜してみたが、こう豪雨に降られては捜せるものも捜せず、いよいよ本格的に身体が冷えてきたので寄り道も諦めざるを得なかった。

(どこ行ったんだろ、シャル……)

 もしかしたら、学園のあちこちを走り回っている間にとっくに家に帰ったのかもしれない。それならそれで良いのだが、とにかく一度会って様子を見ておきたい。

 夕飯を食べたら家に行ってみよう、と決め、脱衣所から出た。

「あらアレン、もう上がったの?」

 リビングに入ると、オープンキッチンの奥から綺麗な黒髪の女性が声を掛けてきた。アレンの母、セフィーナだ。同時に、香ばしい匂いが嗅覚を刺激した。

 つい数十分前に落とされた雷は、どうやら収まってくれたらしい。いつもと変わらぬ様子の母に、アレンはつい胸を撫で下ろした。

「もうすぐお夕飯できるから、イリスを呼んできてちょうだい。部屋にいるから」

「はーい」

 少し面倒臭いとも思ったが、実際に文句を垂れて雷の再来を招くほどアレンは馬鹿ではない。ここは大人しくリビングを出る。

「あ、お母さん」

「んー?」

 その直前で振り返ったアレンに、セフィーナは声だけを向けた。

「ご飯食べたら、ちょっとシャルん家に行ってくるね」

「別に構わないわよ。でもさっきシャルちゃんのお母さんから聞いたんだけど、今日はシャルちゃん、ブロウズ先生のところにお泊りするらしいわよ?」

「先生のとこに?」

「なんでもシャルちゃん、熱があるらしいのよ。それで近くにいた先生のお宅に運んで頂いたそうよ」

「……ふーん、そっか」

 素っ気ない返事に、セフィーナは顔を上げた。

「何かあったの?」

「ううん、なんでもないよ。じゃあやっぱりやめとくね」

 それだけ言って、さっさと二階に上がった。



 アレンの自宅は二階建ての一軒家で、二階には四つの部屋がある。その内の一つ、自分の寝室へと、アレンは足を向けた。

 扉の前に立つと、軽く二回、ノックした。自分の部屋なのだからそのまま入っても問題ない筈だが、一応の動作だ。途端に、扉の向こうからガタガタと慌ただしい音が聞こえてきた。

「イリスー?入るよー?」

 それに少し眉を寄せたが、アレンはお構いなしに扉を開いた。

 部屋に入ってまず目に付いたのは、正面の二段ベッド。本来はアレンの一人部屋なのだが、イリスがアレンと同じ部屋が良いと言って聞かなかったので、急遽用意した物だ(イリスと暮らすようになったのがつい二週間ほど前なので、アレンは自分の母の行動力に内心かなり驚いていた)。

 そして周囲の箪笥やら乱雑に放られた鞄やらが視界に入り、視線を左手に移すと、

「なっ、なに、おにいちゃん?」

 長い銀髪の少女が、さも「ちゃんと勉強してました」という風に机に噛り付いていた。

 その様を、アレンはジトッと見つめる。

「い、いりすさぼってないもん!ちゃんとおべんきょうしてたよっ?」

「……まだなにも言ってないんだけど?」

「ふむっ!?」

 突然弁明し始めたイリスは、アレンの指摘を受けてしまったとばかりに両手で口を覆った。やっぱりサボっていたのか、とアレンは溜め息を吐いた。

 二学期が始まる直前に字が読めないことが発覚したイリスは、当初の予定であった飛び級編入を延期、来年の四月に向けて現代文字の勉強を(半ば強制的に)始めたのだが、どうやらことはそう上手く運んではいないようだった。

「サボるのは別にいいんだけどさ、ちゃんと勉強しないと学校行けないよ?」

「さ、さぼってないもんっ!」

 あくまでも認めないつもりらしいが、机に広げられたノートに真っ白な世界が描かれているのが見えた。

「はいはい。どっちでもいいけど、そろそろご飯できるから降りてきなさいって」

「しょうがないなぁ~」

 耳に届いた台詞とは裏腹に、机を離れるのに微塵の躊躇いも感じられなかった。やれやれと首を振って、アレンは我先にと部屋を出たイリスに続く。

「あっ、イリス」

「なに?」

 ふと、訊ねたいことがあったのを思い出して引き留めた。

「イリスはさ、魔法に詳しいんだよね?」

「うんっ。どうして?」

 階段を下りようとした身体をアレンに向けて、少女が問い返した。

「実はさ、シャルが急に魔法が使えなくなっちゃったんだ」

「しゃる?」

 イリスはその名に首を傾げた。

「あぁ、えっとほら、イリスと初めて会った時に一緒にいた女の子。赤い髪の」

「ん~……」

 説明してやると、腕を組んで難しい顔をしながらうんうん唸り始めた。どうやら記憶にないらしい。

 その様子に苦笑して、アレンは話を続ける。

「まぁいいや。それで、どうして急に使えなくなっちゃったのかなって。みんなが言うには、精霊の加護が弱くなったかららしいんだけど……」

「かごが?」

「うん。どうしてそうなったのか、なにかわからない?」

「かごはよわくなんてならないよ」

「えっ?」

 思わず、アレンは訊き返した。

「せいれいはいつもちかくにいるもん。だからかごがよわくなったなんてうそだよ」

「でも、シャルは……」

「もしほんとうにまほうがつかえなくなったんなら、それはそのしゃるってこだけのせい。せいれいはわるくないよ」

 それだけ言うと、イリスはアレンの言葉を待たずに階段を下りていってしまった。

「ちょっ、待ってよイリス!」

 まるで責めるような言い方に、一人残されたアレンは呼び止めた姿勢のまま呆然とする。

(シャルだけの、せい……?)

 その言葉だけが、頭に残り続けた。



    †   †   †



「おいーっす、アレン」

 翌々日学園に行くと、いつもの通りにロイが手を挙げてきた。

「ロイ。おはよ」

「もう治ったのか?」

 というのは、実はあの後やはり本格的に風邪を引いてしまい、翌日の授業を休む羽目になったのだ。

「うん、まだちょっと咳は出るけど」

「おいおい、頼むから移すなよ?」

 少しおどけた風に、若干本気を混ぜつつ。

 そんな友人に軽い苦笑を返して、アレンは教室を見渡した。

「……シャル、昨日きた?」

「ん?あぁ、来てたぜ。ちょっと調子悪そうだったけど、授業は全部出てた」

「そっか……」

 それだけ言って沈黙したアレンにロイもそれ以上何も言わなかったので、二人はなんとなしに席へと向かった。

「おはよ」

 と、そこでシャルがやってきた。噂をすれば何とやらだ。早速とばかりに、アレンはシャルの席へ向かう。

「シャル」

「アレン。おはよ」

 いつも通りだ。さりげなく机を見ると、例の傷もロイが直した跡も、綺麗さっぱりなくなっていた。どうやら新しい机と取り換えたらしい。

「昨日も授業出たんだね。熱出たって聞いたからてっきり休んだのかと思った」

「当たり前よ。わたし、皆勤賞なんだから」

 何を言うのかと、シャルは呆れたように返した。

 ますますいつも通りだと、アレンは少しほっとした。本当は家が隣なので一緒に学園へ向かう途中で話そうと思ったのだが、アレンが家を出た時には既にシャルも家を発っていたのだ。

「今日さ、一緒に帰らない?話したいことがあるんだ」

「なぁにアレン君、デートのお誘い?」

 そこへ茶々を入れてきたのはマリーだ。実際に話そうとしているのはそんな華やかな内容ではないのだが、詳しく話す訳にもいかずに口籠った。

「なっ、やめてよマリー!あとアレン、悪いんだけどしばらくは――」

 机に教科書を仕舞いながら少し顔を赤らめて文句を言ったシャルは、そこで言葉を切った。

「シャル?」

「――悪いんだけど、しばらくは用事があるから一緒に帰れそうにないの」

 眉を寄せたアレンに、シャルは何事もなかったかのように言い直した。

「ほら、もう先生来るわよ?」

「あ、うん……」

 追い払うように手を振られたアレンは、本当に教壇側の扉が開いたので渋々自分の席へと戻っていった。

 その背後で、机の中にあったシャルの片手が、何かを握り締めていたとも知らずに。



    †   †   †



 それからしばらくは、これといった騒動はなかった。

 シャルは変わらず授業に参加したし、例の机のような事件も起こらなかったので、他の生徒達の関心も、毎年秋にある上級学院の魔法闘技大会だとか、そういったものに自然と移っていった。子供心(・・・)など、そんなものだ。

 ただ、それまでの日常からの変化は、確実に存在した。

 まずあれ以来シャルは、朝はアレンよりも早く家を出て、放課後は夜遅くまで帰らなくなった。

 何をやっているのか訊いてもみたがはっきりとは答えて貰えず、なんやかんやと二人きりで話す機会を得られなかったアレンは、結局イリスの言葉を伝えることも出来ずにいた。

 結果、元々(シャルが)茶化されるのが嫌だからという理由で学園内ではそこまで積極的に接していなかった二人は、何故か生まれた気拙さの所為で、園内外問わず、接する機会そのものが減ってしまっていた。

 それでも、偶に見掛けるブロウズの研究室へ向かう後ろ姿から、魔法を取り戻す為に何かをやっているのだろうと当たりを付けていたアレンは、今シャルに必要なのは自分と話す時間ではないと考え、無理に話し掛けることはしなかった。それがとんだ見当違いだとも気付かずに。

 そして、表面上はシャルが魔法を使えないこと以外なんら変わらない学園生活の裏で起きていたことにも気付かないまま、例年の如く熱気と闘気に包まれた魔法闘技大会も終わり、十一月も残り一週間となるところまで、時が流れた。

「さあ、もう一度意識を集中してみて?」

 しっかり鍵の掛かった部屋で、床に腰を下ろしたシャルは、額に汗を浮かばせながら意識を自らの内側へと集中させた。

 出来るだけ明るい風景の中に、蝋燭のように小さな灯火を思い浮かべ、それを、徐々に大きく、強くイメージしていく。

 が、

「――うっ、あぁあああっ!?」

「シャルっ!!」

 そこに割って入った映像に、意識が苦痛へと持っていかれた。

 すぐに駆け寄ったブロウズは、頭を押さえて蹲る少女を抱きながら、治癒魔法を掛ける。

「……今朝はこのくらいにしておきましょうか。授業の前にシャワーも浴びなくちゃ」

「……っ、はい……」

 サファイア色の光に包まれながら頷いたシャルは、息を整えて立ち上がると備え付けの浴室へ向かった。

 ここは、ブロウズの研究室だ。あれからブロウズが魔法を取り戻す方法を色々調べてくれて、以来約三ヶ月、シャルは毎朝授業が始まる前に、放課後は夜遅くまで、この部屋でリハビリを行っていた。

 大量に汗を吸ったシャツを脱衣所の籠の中に脱ぎ捨て、頭の後ろで髪を纏めている黒いリボンを解き、浴室の扉を開けた。

 ガーデンの教員は授業の合間を縫って自分の研究を続ける者が多く(殆どの場合授業はその一環だ)、研究室にはある程度寝泊まり出来る設備が整っている。

 とはいえ、流石に浴槽を置けるほどのスペースはないので、浴室は簡素なシャワーホースがあるだけの、風呂場というよりはシャワールームと呼んだ方が相応しいものだった。

 蛇口を捻ると、最初に飛び出した冷水に身体が跳ねた。徐々に温かいものへと変わっていき、思わず息が漏れ出る。

 この三ヶ月間、ブロウズが調べてくれた方法を参考にしながら色々と試してみたが、結果は伴わなかった。魔力をコントロールするしない以前に、魔力を練ろうとすると、例の映像(・・・・)が頭が割れるかと思うほどの激痛を引き起こすのだ。

「っ、………!」

 思い出してしまって、お湯に濡れた身体を抱き締めた。



 浴室から出ると、自分の机の上で分厚い本を開いていたブロウズが、難しい顔をしながら拳に額を乗せていた。

「先生」

「あぁ、シャル。気分はどう?」

 濡れた緋色の髪をバスタオルで揉みほぐしながら、シャルは机の上に置かれたグラスを取る。ブロウズが予め淹れておいてくれた、冷たいジュースだ。

「だいぶ良くなりました」

「そう、良かったわ。でもやっぱり、今回の方法も上手くはいかなかったわね……」

 色々調べると言っても、不完全魔法症というこの病自体が奇病のようなもので、数少ない完治した患者の資料を見ても、これといった手掛かりは見付けられなかった。そこでブロウズは、病を治す方法ではなく、魔力をコントロールする技術を向上させることに着目したのだが……。

「ごめんなさい、あなたばかり苦しい思いをさせて」

「そ、そんなことないです!先生が色々調べてくださって、わたし、すごく嬉しいです!」

 本心からの言葉に、ブロウズは皺の入った顔に柔らかい微笑みを浮かべた。

「ありがとう。でも、続きはまた来週にしましょうか。今日は午後から予定があるのでしょう?」

「はい。お婆様のところへ行くって、お母さんが……」「…………」

「先生?」

 急に黙り込んだブロウズに、シャルは首を傾げた。

「シャル」

「はい?」

 応じたシャルに、ブロウズは目を細めた。なんだか、辛そうに見える。

「………頑張るのよ」

「? はい……」

 言葉の意味が解らなかったシャルは、不思議そうに頷いた。



「あっ、シャル。おはよ」

「おはよ、マリー」

 ブロウズの研究室を後にして、いつも通り時間ギリギリに教室へ入ったシャルに、いつも通り、マリーが声を向けた。

 挨拶を返しながらいつも通りその隣席に座ったシャルは、朝歯を磨くのと同じように、教科書を机の中へ入れていく。

 そこで触れた非日常に、暗い気持ちが心を満たしていった。

(……また、か)

 例の机の一件以来、シャルの周辺では色々と面倒なことが起きていた。

 羽根ペンに使うインク瓶の蓋をしっかり閉めて鞄に入れた筈なのに、家に着いて見てみると蓋が緩んで開いていて中身をぶち撒けていたり、武術の授業を終えて着替えようとすると、運動着の袋の中に入れていた服が袋ごと見当違いな見付け難い場所に移動していたり、それはもう、色々だ。この机の中に突っ込まれている紙も、あれ以来週に一度は必ず置かれていた。

 だがこれらの事実を、シャルは誰にも言っていない。余計な心配をさせたくないし、騒ぎになれば犯人を喜ばせるだけだからだ。幸いにも目立つようなことはされていないし、程度としても身体的な被害のあるものは一切ないので、例え誰かに目撃されても自分さえ黙っていればほんの少しドジを踏んだくらいにしか思われないだろう。

 それに今では、インク瓶は帰る直前に再確認したり、服を入れた袋は訓練室の目の届くところに置くようにしたりと対処しているので、先に挙げた被害もそれ以外のものも、殆どなくなっていた。この紙にしても、初めの物以外は目を通してすらいなかった。

 そのおかげで、決して慣れた訳ではないが、ただ暗い気持ちが先行くだけだった最初に比べると、うんざりした気持ちが入り込む隙間くらいは出来ていた。

 とはいえ、

『加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ加護落ち帰れ……』

 と黒々延々続いた中身を見た時は、不覚にも悲鳴を上げてしまった。ブロウズとのリハビリを始める前だったし、偶々一番乗りだったので誰かに見られることはなかったが。

 もっとも、相手側も今のシャルの対応を予見していたからこそ、初めの紙に(恐らく)一番精神的にきつい内容を書き込んだのだろう。

(これで良いのよ。弱いところを見せたら、それこそ連中の思う壺だもの)

 連中、と頭の中で呼んだが、嫌がらせをしているのが複数人と思っている訳ではない。ただなんとなく机を切り刻んだ人物とは別な気がしたので、そう仮称しているだけだ。

 机の中で紙を出来るだけ小さく丸めて奥に押しやり、顔を上げた。

 大丈夫、今回も顔には出ていない筈だ。

 今日の一限目は早速魔法学。あれ以来ブロウズが実技でシャルを指名することはなかったので、ただの晒し物になるよりは良かったが、どちらにせよ惨めな思いは味わわざるを得なかった。友人達がみるみる成長していく姿をただ傍で眺めることしか出来ない自分が、歯痒かった。

(………集中しなくちゃ)

 再び暗い気分に沈み掛けて、気を持ち直した。

 魔法自体は使えないが、折角ブロウズの計らいのおかげで筆記を頑張ればパスさせてくれることになったのだ。例え条件が百点満点中九十八点以上だとしても、このままでは零点確実の実技をやらされるよりずっとマシだ。元々筆記にも自信があったし、何より、自分の為に寝る間も惜しんで協力してくれているブロウズの恩に報いたい気持ちが強かった。

「シャル、どうかしたの?」

「ううん、何でもないわ」

 いつの間にか視線を机に固定していた自分を気遣ってくれたのだろう。こちらを窺い見たマリーに首を振って、心中で頷く。

(負けて、たまるもんですか)

「…………」

 マリーの視線は、しばらく離れなかった。



    †   †   †



 基礎学院には、掃除当番が存在する。上級学院とは違い殆どの授業を固定の教室で行うので、子供達の教育の一環として取り入れられているのだ。

 当番になった子供達は大抵決まったようにめんどくさいと文句を垂れるのだが、その実少し待ち遠しく思っている者もいた。というのも、掃除は教室と外の指定された場所で、男女一人ずつのペア二組が取り組むからだ。

 当番はくじで決まる為(一度当番になったものはその月のくじからは外され、全員が終えたらリセットされる)、意中の相手と二人きりで共通の作業に取り組めるかどうかという毎朝のくじ引きは、一部にとっては死活問題と言っても大袈裟ではないだろう。――やはり大袈裟だが。

 そんな少年少女達の思い――想いでもあり、願望(おもい)でもある――を一身に背負って、本日、土曜日の午後の掃除当番に選ばれたのは、以下の四名だった。

 教室:ノア・マリー。

 裏庭(一部):アレン・アクア。

 何も起こらないことが確定しているような面子に陰ながらブーイングと安堵の溜め息が漏れたのは、言うまでもない。

 とはいえ、四人共がこの組み合わせを快諾していた訳でもなかった。無口無表情を貫くノアとペアになったマリーは特にだが、裏庭の当番になったアレンには、シャルと一緒になればついでにイリスの言っていた話を聞かせられるのにという思惑があったからだ。しかしこの約三ヶ月、結局シャルと当番になった日は一度もなかった。

 だから、つい地面を竹箒で引っ掻きながら溜め息を吐いてしまい、

「ごめんね、アレン君。シャルちゃんとがよかったよね?」

 見計らったかのようにアクアに言われて、狼狽えてしまった。

「やっ、ごめん、そんなつもりじゃ……!」

「遠慮しなくていいよ。最近ずっとしゃべってないの、わたしも気になってたから」

「………ごめん」

 今度のは、肯定の意味の「ごめん」。

 自分のことばかり考えていたことが、恥ずかしかった。

 アクアも、俯くアレンにそれ以上謝らせるような真似はせず、話を続ける。

「シャルちゃん、最近放課後になにしてるの?」

「わかんない。でも多分、魔法を使うためになにかやってるんだと思う。だから、今はあんまり邪魔したくないんだ……」

「邪魔?」

「うん。僕と話してシャルの魔法が戻るわけじゃないし、シャルが頑張ってるんならそっちを優先させた方がいいと思って」

「………わたし」

「え?」

 突然アクアの声が硬くなって、顔を上げた。

「アレン君のこと、見損なったかも」

 怒っていた。あのいつも笑顔を絶やさない温和な紺青色の少女が、髪と同色の瞳に明らかな軽蔑の色を浮かべて、アレンを見つめていた。

 思わず、たじろいだ

「アレン君、本当は、気まずくなったシャルちゃんと話すのが怖いだけじゃないの?」

「そ、そんなこと……!」

「じゃあどうして、三ヶ月近くもなにも言ってあげなかったの?どうして、シャルちゃんが辛い時に、傍にいてあげないの?シャルちゃんは、アレン君にとって大切な人じゃないの?」

 言葉が、次々と心に突き刺さっていく。

「シャルちゃんにとって、アレン君は大切な人で絶対間違いないんだよ?なのにアレン君は、シャルちゃんと話す機会がないって、ただ言い訳してるだけじゃない」

 何も言えない。言えないのは、それが真実だからかもしれない。

「独りは、すごく悲しくて、すごく辛いんだよ?大切な人が傍にいてくれないと、心なんて、簡単に折れちゃうんだよ……?」

 まるでシャル自身の痛みが伝わっているかのように、泣きそうな声を響かせながら、辛そうに幼い顔を歪ませた。

 少し、アクアは俯いて目の辺りに手の甲を押し当てた。

「……っ、アレン君が行かないなら、いまからわたしが行ってくる」

「――待ってアクア!」

「………なに?」

 走り出そうとして引き留めたアレンを、立ち止まった少女は、少し睨み付けるように見た。

 ほんの僅かな間だけ、沈黙が流れた。その間に、少女の言葉がもう一度心の中を巡っていく。

 そうだ、何を躊躇っていたのだろう。シャルに何が必要だとか、そんな理屈っぽい話ではない。話したいなら、話せば良いだけなのだ。

 目を閉じて、深く呼吸をして、もう一度開いた。

「僕が行くよ。行かなくちゃいけないんだ」

 黄金色の瞳から、迷いは消えていた。

「……うんっ」

 すっきりしたような顔に、アクアの表情に柔らかな微笑みが戻った。

「……にしてもさ」

「うん?」

「アクアって、優しいよね」

「そ、そんなことないよっ……!」

 先程の怒気から一転、アクアは顔を赤らめてぶんぶん両手を振った。

「だってさ、僕、シャルとアクアが話してるとこなんてほとんど見たことないのに、アクアがシャルのことであんな風に怒るなんて思わなかった。そんなに仲がいいわけじゃない人のためにあんな顔ができるんだから、やっぱりアクアはすごく優しいんだと思うよ」

「………アレン君。あんまりそのこと、他の人には言わないでね?」

「へっ?うん、別にいいけど……」

 小首を傾げた少年に、こんなことを恥ずかしげもなく言ってのけるからクラスの女子が勘違いをするのではないか、と少女はやるせない溜め息を吐いた。

「じゃあシャルに会いに行く前に、これだけ片付けよっか」

「うん」

 既に粗方掃除は終えていたので、二人は掃除用具を所定の場所へ戻しに向かった。

 教室の方もそろそろ終わる頃だろうし、荷物を取りに戻ったら早速シャルに会いに行こう。いつもなら、この時間はブロウズの研究室にいる筈だ。

 そういえば、マリーは大丈夫だろうか。何せあの(・・)ノアと二人きりなのだ。明るい性格の彼女に、果たして一言も発さずひたすら掃除に取り組み続ける状況が耐えられるのだろうか。

 そんなことを考えて、アレンはふと思った。

「……アクアってさ」

「なに?」

「ノアと仲いいよね。いっつも一緒にいる気がする」

 誰とでも分け隔てなく接しているアレンから見ても、ノアはいつも無愛想で、感情を表に出さない印象しかない。本当に感情があるのかすら疑わしく思えるほどに。

 それでも機会があれば話し掛けているのだが、残念ながら会話が三往復以上した試しはなかった。

 そんな少年だが、何故かアクアとは常に連れ立っているのだ。不思議に思えてならない。

「うーん……」

 アクアにとっては全く脈絡のない言葉だったのだが、本人は少しも気にした素振りを見せず、塵取りを身体の前にぶら下げながら空を見上げた。

「いつも一緒ってわけじゃないけど、確かに他の人より仲はいいかも。同じ孤児院で育ったからじゃないかな」

「えっ?」

「えっ?」

 さらりと爆弾を投下されて思わず振り向いたアレンに、アクアも驚いたように顔を向けた。

「もしかして、知らなかったの?ファミリーネームも同じだし、てっきり知ってると思ってた……」

「いや、僕はてっきり、親戚かなんかだと……」

 アレンが二人と同じクラスになったのは、今年を含めてこれが二回目だ。丸一年と半年以上も同じ教室で過ごしたというのに、今更ながらの驚愕の事実だった。

(そっか……二人とも……)

「あっ、でも、だからって同情とか、そういうのはやめてね?わたしは別に、自分が孤児って意識したこととかあんまりないの。ノア君はどうかわからないけど、そういう風に見られるのが嫌いなのは確かだから」

 心を見透かされた気がして、ハッと思考を中断した。

「わかった。それで、二人はいつから一緒なの?」

 アクアから切り出した話なので、恐らくこの質問も想定済みだろう。下手な遠慮はやめて、話を続けた。

 何よりアレンは、二人のことをもっと深く知りたい、という想いに駆られていた。

 自分達のことを知って貰うのが嬉しいのか、思い出すように、アクアは再び空を見上げる。

「わたしが拾われたのは、物心付くずっと前、大陸の北側の海岸で。傍に船の残骸があったらしいから、たぶん乗ってた船が難破して流れ着いたんだろうって聞いてる」

 少し表情が暗くなったのは、何を、誰を想ってか。

「その時に、首飾りを持ってたらしくて……これなんだけど」

 首に提げた紐を引き上げると、服の胸元から銀色の首飾りが見えた。

 それは、美しい人魚が彫られた小さなレリーフだった。両の腕を頭上に掲げた人魚の身体には、蛇のような生き物が巻き付いている。

「水の精霊のシンボルなんだって。この裏に名前と誕生日が彫ってあったから、それだけはわかったの」

 見せて貰うと、確かにそれらが刻まれていた。この日付が誕生日という確証はないが、名前と一緒に彫られているのだから十中八九それで合っているのだろう。

「それからガーデンの孤児院に引き取られて、ノア君が来たのは、わたしの五歳の誕生日だよ」

 懐かしそうな横顔が、やんわりと微笑んだ。

 その深い夜空のような瞳には、恐らく当時の光景が映っているのだろう。

「初めて会ったとき、思ったの。『あぁ、すごく寂しい眼だなぁ』って。だから、少しでもそれをなくしてあげたくて、いっぱい話し掛けたんだけど……」

 一転、微笑みが少し苦いものに変わった。

「やっぱりノア君、話し掛けても全然相手にしてくれなくって。いつも一人でどこかに行って、夜になるとふらっと帰ってくる。しばらくはそんな感じだったかな」

 でもね、と続けて、

「半年くらい経った頃かな。急にね、話してくれるようになったの」

「どうして?」

「わかんない。多分、わたしが何回無視しても諦めないから、呆れたんじゃないかな」

 今度は苦笑しながら、紺青色の髪を揺らした。

 なんとなく、そんな理由ではなかったのだろうなと、アレンは思った。

「それからは、少しずつだけど院の他の子とも話すようになって、みんなもノア君のことを色々知るようになったの。ノア君、冷たいように見えるかもしれないけど、本当はすごく優しいんだよ?ただ、他の人よりもすごく不器用なだけなの。だからアレン君」

「なに?」

 アクアが不意に立ち止まったので、振り返る形で応えた。

 少しだけ、アクアは視線を逸らしながら、躊躇うように間を置く。

 やがて、意を決したようにアレンを見た。

「これからも……ノア君と、話してくれる?」

 声が、少し震えていた。良く見ると瞳も僅かに揺れている。

 真剣に、不安げな眼差しを向けてくる少女に、アレンは思わず、

「………プッ」

 吹き出した。

 当然、アクアは狼狽える。

「わ、わたし、なにか変なこと言った?」

「い、いやごめん、そうじゃなくて……」

 あわあわと慌てる様子がおかしくて、同時に可愛いとも(不覚にも)思ってしまった。

「やっぱり、アクアって優しいなって」

「?」

 訳が解らないといった風に眉を寄せるアクアは置いて、アレンは再び足を動かすことにした。



「だからさ、言ってやったんだよ」

 掃除用具置き場の手前の角で、そんな声が聞こえてきた。

 どこか聞き覚えのある声だったアレンは、少し嫌そうな顔で角の先を覗く。

(うわ、やっぱり……)

 声の主を見て、隠すことなくげんなりとした。

 瞳に映ったのは、掃除用具置き場――倉庫と言った方が良いかもしれない――の前でたむろする、三人の上級生。竹箒を肩に担いだりスイングしたりしている彼らは、基礎学院では名の知れた不良達だった。

 名の知れた、と言ってもその内容は「関わると面倒だから近寄らないよう気を付けよう」という程度のもので、また不良と言っても、授業をサボるとか掃除をサボるとか、せいぜいその程度の非行ぶりであり、どうやら今もまさしく、掃除をサボっている最中のようだ。

 正直アレンは、このまま回れ右をしたい衝動に駆られていた。特に三人のリーダー格、六年生にしては大柄で、貴族の裕福さを存分に体躯で表現している赤茶の短髪少年は、上級貴族の息子である自分は他の子供よりも偉いと信じて止まない、性格も言動も嫌味ったらしく、その癖実力は然して高くない馬鹿息子で、関わった分だけ人生損する(とロイが鼻で笑っていた)ような奴なので尚更だった。

 先に教室に戻ってからもう一度返しに来ようと決めて、アレンはアクアに振り向こうとした。だが、

「『加護落ちがいつまでここにいるつもりだよ』って」

 耳に届いた単語が、身体を引き留めた。

「で、あの女どうしたの?」

「それがさ、それっきり黙っちゃったんだよ。下向いたまんまなんもしゃべらねぇの」

「あ~、泣いたねそりゃ。カワイソウに」

 ケラケラと、他の二人が笑う。

「いい気味だぜ。いっつも偉そうで目障りだったんだよ、あいつ」

「貴族なのに魔法が使えない落ちこぼれのくせにな」

「知ってる?あいつ実は拾い子だってうわさ」

「あぁ、知ってる知ってる。どうせそこらのゴミだらけで野垂れ死にかけてるガキでも拾ってきたんじゃねぇの?」

「うへっ、きったねぇ~」

 再び、今度は耳障りな笑い声が上がった。

 何が可笑しいのか、三人は腹を抱え、箒を地面に叩き付け、これ以上愉快なことなどないかのように、目に涙を浮かべる。

 それを目にしながら、アレンは拳を震わせた。

 誰のことを言っているのかなど、はっきりと名前を聞かなくても明らかだった。

 あの時(・・・)と同じ暗い感情が、アレンの心を支配していく。

 一頻り笑うと、再び三人のうちの一人が口を開いた。

「……はあ~っ。で、その後どうなったの?だんまりしたまんま?」

「ああ。だから『お前なんか誰も必要としてないんだよ』って言ったら、走って逃げちまった」

 決定打だった。

 感情のままに、アレンは角から飛び出す。

「そもそも、俺はあいつの実力を疑ってたんだよ。どうせなんかズルでもやってたんじゃ……あ?何だお前」

 ――より前に、三人の前にいつの間にかアクアが立っていた。

「…………い」

「はあ?聞こえねぇよ」

 俯く少女に、赤茶の少年が脅すように問い質す。

「シャルちゃんに、謝ってください!」

 顔を上げて、先程アレンに見せた表情を、今度は敵意と共に向けた。

「シャルちゃんのこと、なにも知らないのに!どんなにがんばってるかも、どんなに苦しいかも知らないのに!謝ってください!!」

 目に涙を浮かべて、それでもアクアは視線を逸らさない。三人の上級生達を、力の限りぐっと睨み付ける。

 突然張り上げた声に固まっていた三人は、一斉に我を取り戻した。

「はあ!?ふざけんじゃねぇぞ!」

「何で俺らが謝らなきゃいけないんだよ!」

「っつーかお前、誰に向かってそんな嘗めた口利いてんだよ!」

 勢いを取り戻した三人は、三者一様にアクアに詰め寄った。

 それでも、アクアは一歩も退かない。

「ん?こいつ確か……」

 ふと、一人が何かに気付いた。

 じっくりと、アクアを観察する。

「やっぱり。こいつ、孤児院の奴だ」

「ああ?」

「ほらあれだよ、神殿の近くにある」

「……ふーん」

 何を思ったか、赤茶の少年はニヤリと笑みを浮かべてアクアに歩み寄った。

「おいお前、何いやしい孤児の分際で貴族様に偉そうな口利いてんだ?」

「ここじゃ身分なんて関係ないはずです。早くシャルちゃんに謝りにいってください」

「このっ……!」

 あっ、と声に出したのは、赤茶の少年の仲間だった。

 アクアの頬を、膨れた拳が打った。

 突然のことに反応出来なかったアクアの身体が、打たれた方向に引き摺られていった。

「アクア!」

 今度こそ、アレンは硬直していた足を駆り出した。突然角から現れた少年に三人の視線が向いたが、構わずアクアに駆け寄る。

「アクア、大丈夫!?」

「………謝って、ください」

 地面に伏しながら、それでもアクアの言葉は変わらなかった。

「誰が謝るか、ばーか」

 それをニヤニヤ見下ろしながら、赤茶の少年は聞えよがしに拳を鳴らした。

「ま、まずいってユーグっ」

「ああ、何がだよ?」

「あの孤児院、学園長が建てたんだよ。そこの奴に手ぇ出したなんて知られたら……」

「関係ねぇよ、んなもん。孤児が貴族に楯突く方が問題だろ。それより……」

 常識を語るように言葉を返して、ユーグはアクアの傍にしゃがみ込んだアレンに近付いていく。

「お前、レディアントだよな?四年生の」

「……だったら?」

 見下した視線に、アレンも睨み返して反問した。

「お前も前から気に入らなかったんだよ。平民のくせに親の七光で目立ちやがって。そもそもお前の親自体が平民のくせにそこらの貴族より偉いってのが気に喰わねぇ」

「親の七光はそっちだろ?たいした実力もないくせに威張るしかできないってみんな言ってるよ?」

「んだと!?」

「だいたい、この街に身分差なんてないのに貴族だからってだけで偉そうにしないでよ。同じ貴族でもシャルとあんたたちとじゃ大違いだ」

「ハッ、あんな『加護落ち』と一緒にすんじゃ――」

 鼻で笑い飛ばしたユーグの言葉が、そこで途切れた。

 風も吹いていないのに、アレンの黄金色の髪が靡き始めたのだ。

「……もう一度、」

 アレンが、ゆっくりと立ち上がった。

 土埃が、僅かに放射状に拡がっていく。

「もう一度言ってみろ!!」

 言葉を待たずして、ユーグの顔面に拳が減り込んだ。

 二人の体格差からは考えられないほどの力で、ユーグの身体が吹っ飛んだ。

「――はッ、あぐぁ、ッ!?」

「「ユーグ――ッ!!」」

 頬に手を当てて身をくねらせるユーグに仲間の二人が慌てて駆け寄ろうとしたが、背後に感じ取った気配に、ギクリと振り返った。

 視線を伏せたまま佇むアレンの身体を、白い湯気のようなものが覆っていた。

「こ、こいつ……!」

「うそだろ?四年生で、なんでこんな……!」

 肉体から溢れ出るようなそれに、上級生達の表情が凍り付いていく。

 その正体は、魔力。

 まだ本格的に魔法を習い始めて一年と経っていない少年が、視覚に捉えられるほどの魔力を帯び始めたことに対する恐怖と驚愕が、魔法を二年半以上習った少年達に戦慄を与えていた。

「………っきの、」

「ユーグ、大丈夫?」

 まだ頬に手を当てたまま身を起こしたユーグが呟いた。どうやら殴られる直前で咄嗟に肉体強化を発動したらしく、普通に殴られた以上の痛みは免れたらしい。

「さっきの、肉体強化が間に合わなかったら、やばかった……あいつ、俺を殺そうとした!」

 一歩間違えれば、死にはしなくとも頬骨が砕けていたかもしれない。それほど、魔力を帯びた攻撃というものは危険なのだ。

 その「一歩間違えた未来」に慄き、表情を凍て付かせたユーグは、身の危険を発する本能の赴くままに、右手を突き出した。

「うあぁああああああ!!」

 怯えるような叫び声と共に、炎がアレンに襲い掛かった。

 形も何も成していないただの炎の塊は、無抵抗のままのアレンを瞬く間に飲み込んだ。

「ハ、ハハハ……どうだ、ざまあみろ」

 引き攣った声で笑いながら、ユーグは顔に滲んだ汗を拭う。

 だが、

「ゆ、ユーグ……」

「―――!!」

 炎が晴れた先には、何事もなかったかのように、顔を伏せたアレンが佇んでいた。

「な、なんで!?」

 仮にアレンが肉体強化を使っていたとしても、今の攻撃を受けて完全に無傷である筈がない。三人共、少なくとも火傷は負っていると確信していた。

 しかし、下級生である筈の少年は、平然とそこに立っていた。

 事実、もしユーグが放った炎が定義された通りの魔法であったならば、アレンは火傷どころか重症に至っていた筈だった。だが恐怖に焦ったユーグは、詠唱も魔法名を唱えることも忘れていた。結果、魔力が本来の半分も練れていない状態で放たれた炎は、中身が空っぽのままだったのだ。

 冷静に考えればすぐに思い至ることなのだが、しかし恐怖と驚愕と焦燥でパニックに陥っている中、魔導師見習いとしてもまだ駆け出したばかりの彼らには、目の前に佇む下級生の少年が、何か得体の知れない魔物――未知と恐怖の対象という意味での――に見えていた。

 一歩、アレンが前に踏み出した。

 同時に、三人が二歩半後退った。

 一番後ろにいたユーグが、手前でたじろいでいる二人を睨み付ける。

「な、何してんだ、行けよ!」

「で、でもあいつ、なんかおかしいよ……!」

「相手は年下で一人なんだ、一斉に掛かれば勝てっこないって!お前ら、俺の言うことが聞けないのかよ!?」

 凄みを聞かせて喚き散らすユーグに、仲間の二人は顔を見合わせた。

「う………うわぁあああああ!!」

 最後の脅し文句が決め手となったのだろう。一人が悲鳴にも近い雄叫びを上げながら、形振り構わずアレンに突っ込んだ。それを見たもう一人も慌てて後を追う。

 先に走り出した少年は、突進しながら両腕を広げて掴み掛かろうと迫った。しかしアレンが大きく横に跳び退いて躱すと、勢い余って前につんのめって転けてしまった。

「こぉのおおお――!!」

 もう一人が、同じように青ざめた顔をしながら襲い掛かった。構えも何もあったものではない拳が、アレンの顔面に襲い掛かる。

 しかし今度は一歩分身を反らされたことで、拳が空を切った。その際に差し出された足に躓いて、その少年も仲間と同じ結末を辿った。

 土埃が、その場に舞う。

 いとも簡単に上級生二人が下級生にあしらわれてしまい、ユーグの目は大きく見開いていた。

 アレンの視線が、二人からユーグへと移された。ユーグの身体がビクリと跳ね、顔が益々強張る。

 再び、アレンがそちらへと歩き出した。

「く、くるな!くるなよぉ!?」

 アレンとの距離を少しでも遠ざけるように手を前に出しながら、ユーグは震える声を上げて後退る。その背が掃除用具置き場の倉庫の壁に着き、慌てて後ろを確認して、すぐに振り返った。

 既に二人の距離は、五メートルと離れていなかった。



    †   †   †



 疲労ではなく感情の昂りから、アレンは短く呼吸をする。

 激しい動悸の音が頭に響き続け、まだ拳の先に殴打に因る痺れを感じた。

 気付いた時にはあの時と、シャルの机が切り刻まれた時と同じ感情が、理性を抑え付けてアレンの身体を突き動かしていた。憤怒を越えた憎悪へと姿を変えたその激情の眼差しのまま、目の前の『敵』を睨み付ける。

 そう、これは、怒りではなく憎しみ。

 怒りこそすれ、誰かを憎いとまで感じたことは、アレンにとって初めてだった。

 感情が、抑え付けられない。

 身体の底から溢れようとする何かを、押し留められない。

 一歩踏み出すと、目の前の三人の『敵』が、それよりもさらに後ろに下がった。

 一番後ろで顔を引き攣らせている『敵』の親玉が、狂ったように何かを喚いている。

 その手前でたじろいでいた『敵』達が顔を見合わせたと思ったら、片方が叫びながら走りだした。もう一人も、慌てたようにそれに続く。

 先頭を走る『敵』が、両腕を広げて迫ってきた。だが、速度は遅い。遅く感じる(・・・・・)

 『敵』が腕を交差させる直前で、軽く横に跳び退いて避けた。すると、自分が思った以上に大きく跳んでしまい、少し面喰ってしまった。その間に、勢い余ったらしいその『敵』は無様にも前のめりに転げていた。

 すぐに、新手がやってきた。今度は右腕を振り上げている。殴り掛かるつもりらしいが、こちらも同じく、随分とゆっくりだ。

 先程と同じように跳び退いて避けようかとも思ったが、なんだか体力の無駄なような気がしたので、少し身を反らすだけで躱した。ついでにつま先を差し出すと間抜けにも引っ掛かって、仲間と同じように地面に突っ伏した。

 良い気味だと心の中で嘲笑って、視線を前に向ける。

 『敵』の親玉が、滑稽な表情でビクリと身体を震わせた。図体はデカイくせに、まるで小動物だ。

 再び一歩前へ進むと、残った『敵』は手を前に突き出しながら必死に喚いて後退っていく。すぐに後ろの倉庫に背が着いて、それでもなお後ろへと下がりたいらしく、足は止まらない。

「……シャルは」

 ゆっくりと近付きながら、アレンは呟くように言った。

「確かにちょっと自分勝手で、しょっちゅう人のことを振り回すけど」

 いつも自分に頭を抱えさせる普段の悪戯や横暴さは、最近めっきり見えなくなった。

「勉強の才能も魔法の才能も、他の子よりもずっとあるけど」

 魔法学で新しく習った魔法を飽きるくらい自分に見せてくる姿も、見なくなった。

「その何倍も努力してて、それを見せびらかしたりもしなくて」

 代わりに、休み時間にずっと机にしがみ付いている姿が増えた。

「自分より何かが苦手な人のことを、見下したりなんかしないし」

 そんな余裕はない筈なのに、それでも他の子が解らないところを訊ねてきたら、嫌な顔一つせず丁寧に教えてあげていた。

「魔法が使えなくなったからって、それを言い訳なんかにも、絶対しない」

 この約三ヶ月、シャルが弱音を吐いたところなど、見たことがなかった。

「シャルのことを何も知らないくせに、いや、もし知ってたって」

 優しいけど、自分にも他人にも甘えは許さなくて、強いけど、その強さにいつか押し潰されてしまいそうな気がして。

「シャルを落ちこぼれだなんて、『加護落ち』だなんて言う奴は」

 だからアクアの言う通り、自分が傍にいるべきだったのだ。

 そうしていれば、シャルは傷付かずに済んだかもしれない。傷付いても、一人で苦しませずに済んだかもしれない。

「僕が許さない」

 一番憎かったのは、自分自身だったのかもしれない。



    †   †   †



「ふ、ふざけんなっ!」

 後ろへ進もうとする足を止めて、ユーグが震える声を上げた。

「おまっ、お前なんかが、『許さない』だって?この俺を?冗談じゃねぇ!」

 恐怖よりも怒りが勝ってきたのか、徐々に声の震えが収まっていく。

「俺は貴族だ!どこに行ったって、貴族は平民より偉いんだ!この街でだって、本当ならお前らは俺達に頭を下げるべきなんだ!」

「なら、シャルの方があんたより偉いってことになるけど?」

「あいつは違う!貴族のくせに魔法が使えない落ちこぼれが俺より偉いわけがねぇ!」

「――また……ッ!」

 再び聞こえた単語に、アレンは拳をよりきつく握り締めた。

「こ、来いよ!お前なんか、返り討ちにしてやる!」

 それを見たユーグがまたしても身体を震わせたが、こちらも両の拳を構えた。

 だが、アレンは動かない。拳を握り歯を軋ませたまま、ただユーグを睨み付ける。

 今すぐにでも、この膨れた顔面に拳を捻じ込みたかった。だが、僅かに残った理性が、それを懸命に引き留めていた。

 彼らの行為は、決して(ゆる)せない。赦して良い筈がない。だが、怒りや憎しみのまま振るう拳は、単なる暴力だ。自分自身がこの暗い気持ちを発散させたくて放つそれは、もはやシャルの為でも何でもない。それでは、目障りだからとシャルに心ない言葉を放ったユーグやシャルの机を切り刻んだ連中と、何ら変わらない。

 だから、ここは抑えろ。

 そう、必死に働き掛けていた。

 いつまでも動かないアレンに、ユーグが怯えながらも虚勢を張る。

「な、なんだよ、怖気付いたのか?ハッ、情けねぇな。所詮『加護落ち』の仲間――」

 ――プツン、と何かが切れた。

「――うあぁああああああ!!」

「あ゛ぁあ゛あ゛ぁあ゛あ゛あ゛あ゛――ッ!?」

 鬼の形相とも言える表情で拳を振り上げて走り出した途端、絶叫が上がった。

 五メートルと離れていなかった距離は、三秒掛からず限りなくゼロに近付いた。

 きつく締められた拳が、肩口から僅かに弧を描き、恐怖を貼り付けたユーグの顔面目掛けて飛んでいく。



 鈍い音が、響いた。



「――あ、あ……」

 悲鳴を上げた顔のまま石像のように固まったユーグの口から、悲鳴の残り滓のような音が漏れ出た。

 アレンの拳は、そのこめかみの真横を掠めて、後ろの壁に減り込んでいた。

「……僕は、あんたたちなんかとは、違う」

 殴り付けた姿勢のまま目を伏せたアレンは、絞り出すように呟いた。

「気に入らないからって、誰かを傷付けたりなんか、絶対しない。それが、あんたたちみたいな、最低な人間でもだ」

 ユーグにではなく、自分の本能に言い聞かせるように。

「もうシャルに謝らなくてもいい。だから……お願いだから、これ以上シャルを、傷付けないでッ……」

 壁に減り込んだ拳を引いて踵を返すと、アレンは座り込んだまま一連の流れを見ていたアクアの方へと歩き出した。

 ――ドクン、

「――うっ!?」

 突然心臓が大きく脈打ち、膝を着いた。

「アレン君!?」

 離れたところから、アクアの声が届いた。

 だが、大きく脈打った鼓動がどんどん速度を上げて息を詰まらせ、視線を向けられない。

 すぐに、心臓だけでなく頭にも激痛が走り始めた。

「あ、ああ、あ……がッ」

 胸と頭を押さえ、苦しげな声を漏らしながら蹲る。

「ぐっ、ああぁああああ――!!」

 苦痛の叫び声を上げたのと同時に、アレンの身体を包んでいた魔力が勢いを増して迸った。

 大気を巻き込み、蹲るアレンを中心にして、小さな竜巻のように魔力が渦を巻く。

 周囲の木々が葉を揺らし、目を見開いているアクアやユーグの髪が強く靡いた。

 すぐにその竜巻は勢いを失っていき、やがて地面に倒れ伏したアレンと共に、完全に沈黙した。

「……な、なん、だったんだ、いまの?」

 呆然としているアクアの視線の先で、恐る恐る、ユーグがアレンに近付いていった。

「生き、てる……?」

 そおっと、アレンの顔を覗き込んだ。

 うつ伏せに倒れたアレンは、顔を歪めて短く呼吸をしていた。

「ハ、ハハ……なんだ、虫の息じゃねぇか、よっ!」

「う゛っ!?」

 ニヤリと引き攣った口角を吊り上げたユーグは、アレンの脇腹を思い切り蹴り上げた。

「このっ、野郎っ」

「やっ、やめて!」

「うるせぇ!」

「きゃっ!?」

 慌てて駆け寄ったアクアを、再びユーグの拳が打った。

「何がっ、『謝らなくてもいい』だっ!お前にんなことっ、決める権利なんかっ、ねぇんだよっ!」

 今までの鬱憤を晴らすように、何度も何度も蹴り続ける。

「お前もっ、あの『加護落ち』もっ、どいつもこいつも気に入らねえっ!落ちこぼれや平民はっ、大人しく俺にっ、頭下げてりゃいいんだよっ!」

 一際大きい一撃を入れて、一旦脚を止めた。アレンの口から唾と共に苦しげな息が飛び出した。

「ハァッ、ハァッ……おい、お前らも来いよ!」

 蹴り疲れて息を切らせながら、ユーグはまだ地面に突っ伏していた仲間を呼んだ。

「う、う~ん……」

「痛ってぇ~……」

 身体を擦りながら起き上がった仲間の二人に、ユーグの顔が益々ニヤ付いた。

「おら、さっきやられた仕返しさせてやるよ」

 促された二人は、アレンを見下ろす。

「………この野郎」

「さっきはよくも……ッ!」

 再び、今度は三人掛かりのリンチが始まった。

「やめて……やめてぇ!!アレン君が死んじゃう!!」

 涙を浮かべながら、アクアはユーグにしがみ付いた。

「うるせぇっつってんだろ!………待てよ」

 鬱陶しそうに振り解くと、何かを思い付いたユーグは手を挙げてリンチを止めた。

「お前ら、こいつ捕まえてろ」

「な、なに?いやっ、やめて!」

 両腕を掴まれて無理矢理立たされたアクアは必死に振り解こうとしたが、上級生の、それも男子の力の前では無駄な抵抗だった。

「ユーグ、どうするんだ?」

「なあに、この孤児が二度と貴族様に逆らえないよう、ちょっと教育(・・)してやるんだよ」

「教育?」

「ああ。お前らもウチのアレ(・・)、見たことあるだろ?こいつもおんなじようにしてやるんだよ」

「あぁ、アレ(・・)ね」

「でもいいのかよ?さっきも言ったけどあの孤児院学園長のだし、バレたらやばいんじゃ……」

「ばーか、それも含めて教育(・・)するんだよ。他に言いふらさないよう、徹底的にな」

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、ユーグはアクアへと近付いた。

「な、なにをする、つもりなの……?」

「言っただろ?教育(・・)だよ、奴隷としてのな」

「―――!?」

 目を見開いたアクアに、ユーグは愉しそうに語る。

「親父は『俺にはまだ早いから』って言って家じゃ作らせてくれないけど、俺もあんな風に奴隷飼ってみたかったんだよなー。だからお前を俺の『学園用奴隷第一号』にしてやるよ。孤児のお前が貴族様の奴隷になれるんだ、感謝しろよ?」

 狂気が、笑みを浮かべる少年の瞳に宿っていた。

「いや………いやぁ!!」

「うおっ、暴れるなっての!」

「大人しくしてろ!」

 泣き喚くアクアを両脇の二人がしっかりと押さえ付け、ユーグが目の前で立ち止まった。

「まずは奴隷の刻印を刻んでやらないとな。ちょうど昨日そのやり方が載った魔導書を家で見付けたんだよ」

 その手が、ゆっくりとアクアの身体に伸びる。

「大声なんか出すなよ?うっかり失敗でもしたら、大変なとこに刻印が付くかもしれないぜ?」

「いや……ノア君……」

 抵抗すら出来ず、ただ涙を流しながら、アクアは届く筈のない名前を呼んだ。



「――子供の考える事とは、とても思えんな」



「!?」

 突然割って入った声に、ユーグ達の肩が跳ね上がった。

 振り返ると、少し目を隠した漆黒の髪の少年と短いオレンジ髪の少女が、いつの間にかそこにいた。

「ノア=レヴィウス!それに……!」

「――っ」

 睨まれたマリーは、慌てたようにノアの背に隠れた。

「ノア、君……」

「中々戻ってこないので様子を見にきたつもりだったんだが……犯罪未遂の現場に赴く事になるとは思わなかった」

「………何のことだ?」

 淡々とした言葉に、ユーグが僅かにたじろいだ。

「惚けても無駄だ。ちょうど(・・・・)録音機器を持っていてな。先程の会話は全て録音させて貰った」

「―――ッ!!」

 三人の顔が、一気に青ざめた。

 奴隷所有は、ガーデンのみならず、世界中で禁止されている重犯罪行為だ。その決定的証拠となる会話を聞かれ、あまつさえ録音されてしまった。子供の会話といえど、出るところに出ればまず間違いなく、ユーグの実家はその栄光に幕を下ろすこととなる。

 脂汗が、ユーグの全身から溢れ出す。

「これは後で学園長に渡すとして……」

 ポケットを軽く叩きながら話を続けるノアの無表情が、視線のみ鋭利な刃物の如き鋭さを帯びた。

 直後、

「貴様ら、覚悟は出来ているな?」

「―――ッ!」

 冷徹な瞳と同じ漆黒の光が、ノアの身体を包み込んだ。

 それと同時に、まだ十歳にも満たない少年とは思えない、闘気ではなく殺気が、それだけで人を殺せそうな視線が、三人に襲い掛かる。

 異質。

 本当にこの少年は、自分達よりも年下なのか?

 三人にはまるでノアが、先程のアレンとは全く別種の、形容し難い化け物のように見えた。

「ひっ、うわぁあああ――!」

「た、助けてぇえええ――!」

「お、おいお前ら!?」

 明確な殺意に気圧されたユーグの仲間達が、恐慌をきたして逃げ出した。

 ジャリッ、と土を踏む音が聞こえて、ユーグは振り向いた首を戻した。

「―――ッ!?」

 同時に、その顔面に拳が減り込んだ。

「あ、が……ッ!」

 あっさりと吹き飛ばされたユーグに馬乗りになって、ノアはさらに拳を振り下ろした。

「貴様らの罪は、奴隷を作ろうとした事などではない」

 抵抗の声を上げる暇すら与えず、鈍い音が響き続ける。

「況してや、下級生を袋叩きにした事などでもない」

 二十発は殴っただろうか。ようやく、ノアの腕が止まった。

 片側の拳からのみ、血が滴り落ちる。

「……あ……も、ゆるし………っ!」

 顔が別人のように腫れ上がってしまったユーグの真上で、血の滴る左手に漆黒の光が集まり始めた。

 そこから取り出されたのは、光と同じ色合いの、身の丈に不釣り合いな異様に長い刀。

 それが、止めとばかりに突き立てられた。

 頬に飛び散った血はそのままに、冷たく尖った視線がその先を射抜く。

「あいつに涙を流させた、それが貴様らの罪だ」

「やっ、やめ――!」

 ザクッ、と小気味好い音が、響いた。



    †   †   †



 目が覚めるとそこには、見慣れない天井があった。

「あっ、気が付いた?」

 声が掛かって隣を見ると、マリーが椅子に腰掛けてこちらを窺っていた。同時に、アレンは自分がベッドに横たわっていることに気付いた。どうやら保健室らしい。

「マリー……?」

「よかった。先生が『喧嘩両成敗』とか言って最低限しか治療してくれなかったから、ちょっと心配したんだよ?」

「喧嘩……?」

 自分の身に何が起こったのか、良く思い――

「―――ッ!!」

 ――出した。

「アクアはっ!?それに……ッ」

「お、落ち着きなよっ。アクアは大丈夫。怪我もたいしたことなかったから先にノア君と帰ったよ」

 本人は最後までアレン君の目が覚めるまでここに残るって聞かなかったけどね、と付け足しながら、マリーは結局ノアに引き摺られる形で保健室を後にした少女の姿を思い浮かべた。

「……あの三人は?」

 アレンの意識がある時にマリーはあの場にいなかったが、アクアのことも知っていたので、あの三人の行く末も知っていると思って訊ねた。

「……仲間の二人は逃げちゃったけど、ユーグ……は、ノア君がボコボコにして置いてきた」

「ノアが?」

 そういえば、いつの間にか話の中にノアの名前も加わっていることに気付いた。マリーと一緒に掃除をしていたのだから、マリーがことの顛末を知っている以上、彼があの場にいても不思議ではないのだが。

「うん。……ちょっと、怖かったかな。ノア君があんなに怒ってるの、初めて見たから」

 思い出して、マリーは自分の身体をギュッと抱き締めた。

 瞳だけに怒気を孕んで、無表情のまま馬乗りになった相手を殴り続ける光景には、鬼気迫るものを感じた。

 最後の瞬間には、思わず顔を逸らしてしまった。

「……それでね、保健の先生には今回のこと、『アレン君とノア君が喧嘩して、ノア君がアレン君をボコボコにした』ってことにしてあるの。アクアの怪我はその巻き添えね」

「――なんで!?」

 途端に、アレンが声を荒らげた。

「あいつらはシャルを傷付けたんだ!アクアだって殴られた!それなのにどうして……!」

 そこで、一旦言葉が途切れた。

「……あいつらが、貴族だから?」

「アレン君?」

「あいつらが貴族で、それで仕返しが怖いから!だからあいつらとはなにもなかったことにしたの!?」

「――違うよッ!!」

 マリーが立ち上がった拍子に、椅子が床にぶつかる硬い音がした。

 泣きそうな顔が、アレンを見る。

「……事情はアクアから全部聞いたよ。だからアタシもノア君も、あいつらが何をやったのかは知ってる」

「だったら――」

「シャルのためなのッ!」

 再び反論しようとして、もう一度張り上げられた声が遮った。

「本当のことを話したら、あいつらは当然、先生たちに呼び出されるよ?もともと授業サボったりしてる連中だし。でもね、そしたら絶対、噂が拡がっちゃう。どんなにあいつらが悪くても、噂の矛先はあいつらじゃなくて、力を失くしたシャルに行っちゃうんだよッ。それに、シャルも今回のこと、絶対自分が原因でアレン君やアクアが怪我したんだって考えると思う。そしたらシャルが、また傷付いちゃうよ……ッ!」

 遂にその頬に伝った涙を見て、アレンは自分のとんでもない思い違いを自覚した。

「………ごめん、マリー」

「……ううん。アレン君が怒るのも、無理ないから」

 一度気持ちを落ち着けて、マリーは椅子に座り直す。

「それで、あいつらの弱みは握ったから、二人が喧嘩したことにしとけばあいつらもこの件については何も言ってこないだろうし、シャルも傷付かずに済むだろう、ってノア君が提案してくれたの。自分が先生に怒られるのに」

「………そっか」

 意外だった。まさかあのノアが、自分を犠牲にしてまでシャルを護ってくれたなんて。

 それはマリーも同じだった。だから本当に良いのかと何度も訊ねたらアクアが、

『ありがとう』

 とただ犠牲になってくれることに対してだけではない、二人の間でしか通じ得ない感謝の言葉を述べた。

 同時に、最後の一撃を放った直後の彼の言葉を思い出した。

『――ウソ?』

『ああ。都合良く録音機器など持っている訳が無いだろう』

『あきれた……』

『第一、そんな暇があるならもっと早くアクアを助ける』

『……そっか、そうだよね――』

 ノアと一緒にあの場に行ったのにいつの間に録音したのだろうと思っていたが、要はそういうことだった。

 結局彼にとっては、アクアが何よりも優先されるのだろう。喧嘩の件も、恐らくシャルの為ではなく、アクアがあの三人に罰を与えるよりもシャルが傷付かない道を望んでいたからなのだろう。

 と、顔の真横に刀を突き立てられて泡を吹いて気絶しているユーグの傍でしていた、今までで最も長い彼との会話に思っていた。

 一応、学園長に奴隷の件は伝えるらしい。それでどうなるかは知ったことではない、とも言っていたが。

 その言葉に、少しだけ、マリーは安堵を覚えていた。そしてそんな自分に、嫌悪を抱いた。

「………あのね、アレン君」

「?」

 アレンが視線を向けた先で、マリーは顔を俯かせる。

 しばらく、沈黙が流れた。

 やがて、

「ゴメン、なんでもないっ。アタシそろそろ帰るね?」

「あ、うん……」

 何かを誤魔化すように笑って、マリーは席を立った。

「じゃ、お大事にっ」

 返事を待たずに、部屋の扉が閉まった。



「………ッ」

 保健室から出たマリーは、突然走り出した。まるでそこから逃げるように。

 しばらく走って適当な角を曲がると、そこでようやく立ち止まった。

 息を切らせて、陽が傾き掛けた薄暗い廊下の壁に身を預ける。

 そのまま、引き摺られるように座り込んだ。

 アクアから聞いた、アレンがユーグ達に放った言葉が、頭の中に蘇る。

「………アタシ、最低だ」

 蹲った隙間から、そう、漏れた。



    †   †   †



 自宅に辿り着いたアレンは、肩で息をしていた。

 玄関に上がって、帰ってきたことを母に伝えもせず、自分の部屋へ向かう。

「あっ、おにいちゃんっ。おかえりなさーい」

 部屋に入ると、例に依ってイリスが勉強机の前に座っていた。今日はちゃんと勉強しているようだ。

「……ごめん、イリス。ちょっと一人にしてくれない?」

「えぇー?でもおかあさんがおべんきょうしてなさいって……」

「下でもできるだろ!?いいから出てけよ!」

「――ッ!?…………ひっく、おかあさぁあああん!!」

 突然怒鳴り付けられたイリスは大きく身を震わせると、泣きじゃくりながら部屋を出ていった。

 その泣き声を遮断するように扉を閉めて、アレンは自分のベッドに身を投げた。

(………なにやってるんだ、僕は。イリスに当たったってしょうがないじゃないか)

 小さな女の子に八つ当たりするなんて、なんて情けないのだろう。

 だが、今はそのことについてこれ以上考えられない。シャルに会うつもりだったのに、それも頭の中からすっかり抜け落ちていた。

 目を閉じると、先刻の光景が浮かんだ。

「――ッ」

 うつ伏せた顔に押し付けられた枕を、これでもかというくらい、握り締めた。

 ふと、部屋の扉が小さく二回、ノックされた。

「アレン、入るわよ?」

「…………」

 返事はしなかったが、それを肯定と受け取ったのか、それともどちらにせよ入るつもりだったのか、セフィーナが扉を開けて入ってきた。

 部屋に入って真っ先に目に入る、二段ベッドの下の方にうつ伏せになって寝ているアレンを見て、セフィーナは勉強机の椅子をその傍に移動させて腰掛けた。

「どうしたの?イリス、『おにいちゃんにきらわれた』って泣いてたわよ?」

「………別に、嫌いになったわけじゃないよ」

「なら、どうして出ていけなんて言ったの?」

「……本当はそんなこと、言うつもりじゃなかったんだ。ただちょっと八つ当たりしちゃっただけで、後でちゃんと謝るよ」

 だから今は放っておいてくれ、と雰囲気だけで醸し出した。

 しかし、それで「はい、そうですか」と部屋を出ていくほど、セフィーナは放任主義ではない。

「アレン、こっちを向きなさい」

「…………」

「……二度目はないわよ?」

「――ッ!」

 トーンの低くなった声に、アレンは慌てて身を起こした。

 身体の正面をセフィーナに向けて、自然と正座で座る。しかし、視線だけは逸らした。

「それで……」

 セフィーナの声は元の柔らかいものへと戻っていた。

「八つ当たりしちゃった原因は、分かっているの?」

「…………」

 アレンは答えない。原因が判らないのではなく、それに至った経緯を話して良いのか迷っていた。

「………今日、」

 だが、セフィーナなら他に言い触らしたりもしないと確信出来たので、結局放課後に起きた事件について話し始めた。

 事の顛末を聴く間、セフィーナは話が終わるまで静かに耳を傾けていた。

 何が起きたのか一息に話終え、アレンは少しだけ、息を吐いた。

「あいつらがシャルのことを馬鹿にするたびに、胸のあたりが気持ち悪くなるんだ。まるでもう一人の自分がいるみたいに、『殴れ』って、『シャルの仕返しをしてやれ』って、頭の中に響いてくるんだ。いままで誰かを殴りたいなんて思ったことないのに、自分だってシャルの傍にいてあげなかったくせに、それでも気付いたら、あいつらの一人に殴り掛かってた……」

 顔は伏せて、膝の上に置いた両手に視線を注ぐ。

「そしたら、いつの間にか頭の中が真っ白になって、あいつらを馬鹿にしてる自分がいたんだ。突っ込んできて転けた奴を笑ったり、デカイだけでなにもできない奴だって見下したり……あいつらと同じことを、してた……」

 次第に、声が震え出した。

「最後はなんとか抑えられたけど、胸のあたりは気持ち悪いままだった。そしたら帰り道にまたあの声が響いてきて、『誰でもいいから殴れ』、『そうしたらきっとスッキリする』ってずっと言ってくるんだ。僕、あのままじゃ本当に誰かを殴っちゃいそうで怖くて、家まで思いっ切り走って、でも部屋に入ったらイリスがいて、またあの声が聞こえてきて……!」

 手の甲に、ポツリと涙が落ちた。

「……だから、出ていけなんて怒鳴っちゃった?」

 小さく、頷く。

「嫌なんだ、自分があいつらと同じになるみたいで。途中からなったあの感覚、頭の中が真っ白になったあの時の、簡単に誰かを傷付けられる、そんな『力』が自分にあるんだって知って、いつか本当に、そうしちゃうんじゃないかって思えて……。だったら僕、あんな『力』、いらないよっ……!」

「アレン……」

 遂に嗚咽まで漏らし始めて、セフィーナは目を細めた。

 この歳で自分の『力』についてこれほど苦悩する子供など、殆どいないだろう。アレンがこれほど苦しんでいるのは、その生まれ持った『力』の強大さと、幼いが故に培われてきた心の強さが、自身の中で激しく対立しているからだ。

 「何かを傷付け得る力の強さ」と、「誰も傷付けたくない心の強さ」。

 相反する二つ強さは純粋過ぎる心をぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、それでも答えを出そうとする。そしてそれは、下手をすれば心そのものを壊してしまい兼ねない。

 だから、同じく『力』のある者として、母親として、アレンを導いてやらねばならないと、セフィーナは心を決めた。

「私たちが、あなたとシャルちゃんに魔法の訓練の仕方を教えた時に言った言葉を、憶えているかしら?」

 顔は伏せたまま、アレンは答える。

「……『「力」は、その使い方を誤れば、自己も、他者も、容易に傷付けてしまう。故に、「力」を扱う者が何よりも鍛えるべきものは、心の強さである』」

 昔の、どこかの偉い魔導師の言葉だと、言っていた。

 当時七歳にも満たない頃に、アレンもシャルも、二人の母親達に意味も解らず何度も復唱させられた記憶がある。いずれ解る時が来ると言われたが、その訓辞が意味するところを、心の強さとはどういったものなのかを、二人とも、まだしっかりと理解してはいない。

「そう。『力』は、あなたが望んでいなくても、大切な人を傷付けてしまうこともあるの。あなたたち二人に早くから魔法の使い方を教えたのは、それを防ぐ為」

「でも僕、またあんな風になったら今度こそ……!」

「だから、今からそうならない方法を教えます」

「ホントに!?」

 声と同時に、顔が跳ね上がった。

「ええ。でもねアレン、これは本当は、あなたが自分で出さないといけない答えなの。お母さんが口で伝えても、それをきちんと自分のものにできるかどうかは、あなた次第なのよ」

「僕、次第……」

 言葉を繰り返して、自身の胸に手を当てた。心臓が、ゆっくりと脈打っているのが伝わる。

「アレン、さっきの言葉に、『「力」は、その使い方を誤れば』とあるけど、じゃあ、何が正しい使い方なんだと思う?」

「やっぱり、誰かのためにじゃないの……?」

 だが、セフィーナは首を横に振った。

「それじゃああなたは、一人で魔物に襲われた時に『力』を使わずにいられると思う?」

「それは……」

 答えに詰まった。それは確かに無理な話だ。

「何が正しい『力』の使い方なのかはね、はっきりと決まっていないの。これは『力』だけじゃなくて、物事すべてにおいて、何が正しいのかはその人によって変わるものなの」

「……じゃあ、あいつらがやったことも、もしかしたら正しかったって言うの?」

「いいえ。例えその子たちにとって正しくても、大多数の人たちにとっては、やっぱりそれは間違ったことよ。そういう、大多数の人がそう思う事柄が、世間一般に言う『正しい』と『間違い』なの」

「じゃあ、大勢の人たちが『正しい』って思うことに、使えばいいの?」

「それがね、そんなに簡単なことじゃないの」

 再び首を振ったセフィーナは、真剣な表情のままアレンを見据えた。

「例えば、もしシャルちゃんが、実際には何の罪も犯していないのに捕まってしまったとして、周りのみんながシャルちゃんの無実を認めなかったとしたら、アレン、あなたもシャルちゃんが『間違っている』んだと思う?」

「そんなの!シャルが間違ってるはずないよ!だって本当はなにもしてないんでしょ?」

「そう、実際には、何も間違ったことはしていないわ。でもね、真実と事実というものは、いつも同じとは限らないの」

「……どういうこと?」

 言葉の意味が良く理解出来なくて、アレンは眉を寄せた。

「みんなが『正しい』と思うことが、いつも本当に『正しい』というわけではないの。時には、みんなが『間違っている』ことだってあるのよ」

「なら僕、どうすれば……?」

 困ったような表情になったアレンの頭に、セフィーナの右手が優しく置かれた。

「何が『正しく』て何が『間違っている』か。それを見極めるのはすごく難しくて、お母さんでも分からなくなってしまう時だってあるの。だからアレン、それについては、もっとゆっくり時間を掛けて、一つ一つ、自分の目で見て、心で感じて、見極められるようになりなさい」

「自分の目で見て、心で、感じる……」

 素直に復唱して自分の中に噛み締める様子に、セフィーナは柔らかく微笑む。

「けれど、それだけじゃ今のあなたの心はとても不安定で、本当に次こそ誰かを傷付けてしまうわ。だから『力』を使う為の理由を決めるの」

「『力』を使うための、理由?」

「そう。あなたは、シャルちゃんの傍にいて何がしたいの?」

「傍にいて……えっと……」

 急な質問に、アレンは再び言葉を詰まらせた。

「ただ傍にいるだけじゃ、いないのとあまり変わらないわよ?傍にいて、アレンがしたいと思うことをしなくちゃ」

 しばらく、考えを巡らせる。

 シャルの傍にいて、何がしたいか。

 具体的なことを何も考えていなかったので、さっぱり見当が付かない。

「……なにがしたいとか、全然わからないんだけど、でも僕、シャルを傷付けたくない。もし傷付いちゃったら、それを少しでもなくしてあげたい」

「それはねアレン、シャルちゃんを『護りたい』ってことなのよ」

「『護る』?」

「そう。傷付きそうな誰かを助けてあげたり、楽しくさせたり一緒に悲しんだりして辛いのをなくしてあげるの。それが、『護る』ということよ。それが、あなたにとっての、『正しい「力」の使い方』」

 頭に置かれた手が、頬へと移る。

「もしまた誰かを傷付けそうになったら、『自分は大切なものを護る為に「力」を使うんだ』という想いを強く持ち続けなさい。そうすれば、あなたの『力』はあなたの大切なものを傷付けたりはしないから」

「………うん、わかった」

 アレンがしっかりと頷くと、セフィーナはその頬から手を放して立ち上がり、

「多分これから先、シャルちゃんは今まで以上に大変な目に遭うと思うの。だから……」

 離した右手を、正面に構えた。

「あなたに、これを渡しておきます」

 直後、掌に真っ黒な光が集い始め、そこから何かが抜き取られた。

 それは、一振りの剣だった。柄が黄金色に輝き、両刃の刀身の淵には何かの文字が刻まれている。

「これは、お父さんが使っていた剣よ」

「お父さんの?」

 予想だにしなかった持ち主に、アレンは少し驚嘆した。

「この淵のところの文字、これは簡単に言うと、『私が大切なものを護る為に、どうか光の精霊の加護がありますように』と記されてあるの。あなたのお父さんは、この剣ですごく沢山の人を護ったのよ」

 声と瞳に懐古の色を浮かべながら、セフィーナは剣をアレンに手渡した。

 金属の塊が生み出した重量が、アレンの小さな手を下敷きにして膝に伸し掛かった。刃は冷たく、しかしきちんと手入れが施されており、まだアレンには大きい筈の黄金色に輝く柄は、何故か妙に、手に馴染んだ。

「あなたにお父さんと同じことをしろとは言いません。だから、あなたはそれであなたの大切な人を、そして大切な人の大切なものを護りなさい」

「僕の、大切な人を……」

 アレンの頭に浮かんだのは、緋色のポニーテールが元気に跳ね回る姿だった。

 ぎゅっ、と柄を握り締めたアレンに優しい眼差しを向けて、セフィーナは腰を屈めて剣に手を伸ばす。

「少しそのままにしておいてね」

 そのまま何かを呟き始めたかと思うと、刀身の腹から柄の端に掛けて一度指を滑らせ、今度はアレンの手を取って、何かの文字を書くようにその指先を走らせた。

「はい、これでこの剣はあなたにしか出し入れできなくなったわ。出したい時は剣をしっかりとイメージして、仕舞う時は手に持って『消えろ』と念じるだけ。試しにやってごらんなさい」

 言われるがまま、アレンは剣の柄を握りながら頭の中で『消えろ』と念じた。すると、セフィーナの言葉通り、剣が金色(こんじき)の輝きと共に姿を消した。今度は剣の姿を思い浮かべると、手の先に同様の光が現れ、そこから先程セフィーナがやったように再び剣を抜き取った。

「簡単でしょう?さっ、それじゃあ下に降りましょうか」

「うん。……イリスに、ちゃんと謝らなきゃ」

 頷いて立ち上がるりながら、ふと思った。

「でも、なんで学園でシャルを護るのに剣を?魔物に襲われるわけじゃないのに」

「………いずれ解る時が来るわ」

 それ以上、セフィーナは答えなかった。



 一階に降りると、リビングの扉が僅かに開いていた。その隙間から、こっそりと誰かがこちらを覗き込んでいる。

 アレンがそれに気付くと、その少女は慌てたようにそこから離れた。

 完全に怯えられてるな、とアレンは困り顔で後頭部を掻いた。ただ、悪いのは自分だ。だから躊躇なく、リビングに足を踏み入れた。

 入ってすぐに、リビングを見渡す。すると、ソファーの影から銀色の髪がはみ出ているのが見えた。

「イリス、出てきてくれない?」

 ビクゥッ、と銀髪が跳ね上がった。

 恐る恐る、髪と同色の瞳がこちらを覗き込む。

「………だっていりす、おにいちゃんにきらわれちゃったから……」

「嫌いになんかなってないよ!っていうかその………ごめん!」

 突然頭を下げられて、イリスは目を丸くした。

「イリスはなにも悪くないのに、怒ったりしてごめん。もうあんなことしないよ、絶対に」

「………ほんとに?いりす、でていかなくてもいいの?」

「いいに決まってるよ!だからその、勝手かもしれないけど、もしイリスが構わないんだったら、許して欲しいんだ。……ダメかな?」

 しばらく、イリスから返事はなかった。

 やがて、

「いい、ゆるしてあげるっ」

 へにゃっ、とした笑顔を浮かべた。それを見て、アレンはなんだか心が楽になった気がした。

「さぁ、仲直りもできたことだし、おやつにしましょうか」

 廊下で二人の様子を見守っていたセフィーナが、一件落着とばかりに割り込んできた。そのまま、イリスの後ろに回り込んでその肩に両手を置いた。

「今日はなんと、イリスが自分で作ったのよ?」

「イリスが?」

 アレンが驚いて視線を向けると、イリスは嬉しそうにキッチンへと駆けていき、冷蔵庫から何かを取り出してきた。

 小さな両手に支えられた小皿に乗っていたのは、綺麗に型が取られたイチゴのショートケーキだった。

「うわっ、これホントにイリスが作ったの?すごいや!」

「おにいちゃん、たべてみてっ?」

 満面の笑みで差し出されたケーキを一緒に持ってきたフォークで掬い、一口、頂く。

 カッ、とアレンの目が見開かれた。

「おいしい!すごくおいしいよ、イリス!」

「ほんとにっ?」

「うん!すごいなぁ、こんなの作れるなんて……」

「えへへぇ~、おかわりもあるからいっぱいたべてね?」

 次々と口へ運んでいくアレンを見て、満面の笑みだった筈のイリスの笑顔がさらに綻んだ。

「さぁ、私たちも食べましょうか、イリス?」

「うんっ!」

 一家はこの日、少しだけ遅めの夕食を摂った。



    †   †   †



 王都アルモニア・貴族街。

 東の一般市街とは明らかに質の異なる大きな屋敷達が肩を(そび)やかすその区域には、殊更に広い敷地を持つ屋敷がある。

 その屋敷内に幾つも並ぶ扉の一つが、ゆっくりと四度(よたび)、ノックされた。

「お時間です」

 扉の外から聞こえてきた少女の声に振り返って、窓から外を眺めていた内側の者は扉を開けた。

 中から現れたその人物に、外側にいた少女は事務的に申し出る。

「参りましょう、シャーロット様。大奥様がお待ちです」



 『火の一族』本家の屋敷を歩くシャルの足取りは、ここ最近の中で最も重かった。

 燃えるような緋色の髪は、トレードマークのポニーテールではなく背中の中程までまっすぐに下ろされており、服装は(あか)が映えるスラッとしたドレスタイプのワンピース。

「……お母様は?」

 普段と異なる口調の言葉に震えた唇には、薄く(あか)が差していた。幼くも整った顔にも、普段は決してしないような薄い化粧が施されている。

 これは、シャルが本家に帰った時の正装のようなものだ。普段ガーデンで暮らすシャルは長期休暇と年始にしか本家に帰らないので、その間くらいはこのように身嗜みを整えるよう言い付けられていた。

 特に、祖母と面会する時は。

 「帰る」といっても、シャルにとっての家はガーデンの一軒家で、本家には「訪れる」という感覚しかない。ここで働いている使用人達の顔と名前さえ数が多くて一致し切れていないのだから、自分の家とは思うに思えないのだ。

「奥様は、一足先に大奥様とお話をしていらっしゃいます」

 前を歩く若い侍女は、視線をまっすぐ正面に向けたまま返した。そこに事務的、或いは義務的なもの以外の感情は含まれていない。

 使用人の顔と名前が一致しないと言ったが、この侍女のことは知っている。シャルが物心付いた頃から、本家に来た時は必ず世話係として付く侍女だからだ。名前は、ベルナデット=バダンテール。古くからイグニス家に仕える一族の一人娘だと聞いたことがある。歳は確か、今年で十四だった筈だ。

「どのようなお話を?」

「それは、(わたくし)の口から説明して良いというお言葉を頂いておりませんので、申し訳ございませんがお話し出来ません」

「そう……」

 やはり事務的な口調だった言葉ではなく、その内容について、シャルは少し眉を寄せた。

 昨晩突然王都の実家へ行くと言われ、午前中の授業が終わってすぐにガーデンを発つと、今度はいつも宛がわれている部屋で数人の侍女達に身嗜みを整えられた。

 化粧や服装は既に慣れてしまったので苦ではないが(それでも嫌だったが)、「しばらくお待ち下さい」という言葉を残して侍女達が去ってから数時間、その部屋の中で一人で待たされる羽目になったのは少し納得いかない。

 そのうえ自分を退屈で殺そうとしていた元凶である長話の内容を黙されたので、部屋に訪れた際のベルナデットの台詞に、待ったのは祖母ではなく自分の方だと言ってやりたい衝動を、シャルは懸命に抑える必要があった。言ったところで、この年齢に不相応の完璧な侍女に効果があるとは到底思えなかったが。

 だから、次の質問をすることにした。

「これから何を?」

「大奥様よりお話がございます。ですがその前に、お夕食を済ませて頂きます」

 大陸の中心に位置するガーデンから南西の王都までは、ランドハウスを使っても七時間は掛かる。シャルがガーデンを発ったのは昼過ぎなので、時刻は既に夜の八時を回っていた。

 正直今は何かを食べたい気分ではなかったのだが、それは通らないだろう。

「……お話の内容は、どうせ言えないのでしょう?」

「はい。元より、私などの耳に入れて良い事柄ではございませんので」

 要するに、彼女も知らされていないのだ。知っていたとしても、主人の断りもなく話すような真似を、彼女は決してしないのだろうが。

 予想通りの結果に、落胆はしない。視線を床に向けたまま、彼女の後ろを歩き続ける。

「ですが……」

 しかし、予想を反して言葉が続いたので、視線をその背中へ向けた。

「大切なお話とだけ、伺っております」

 相変わらず、彼女は前だけを向き続けていた。



 しばらく廊下を歩くと、ベルナデットが両開きの扉の前で立ち止まった。

 シャルを迎えに来た時と同じように、丁寧に四度、ノックする。

「シャーロット様がお越しになりました」

「入りなさい」

 扉の向こう側から聞こえた皺の入った女性の声に応じて、ベルナデットが扉を開けた。

 身体を脇に寄せて「どうぞ」とばかりに(こうべ)を垂れた侍女に促されて、シャルは部屋へと足を踏み入れた。

 広い部屋の中央には、これでもかというくらい長い食卓が置かれていた。

 普段は祖母と祖父しか使わないのに(使用人達には使用人用の食堂が用意されている)このような部屋を縦断しそうな長さのテーブルを使用しているのは、別に見栄だとかそういう理由ではなく、年に数度ある貴族の集まりや一族揃っての会食の度に出し入れする面倒を避けたからだ。

 その上座、シャルの正面遥か奥の席に、ブロウズよりもさらに歳のいった女性が腰を下ろしており、その右手(シャルから見て左手)に白髪の老人が、左手に髪を結ってドレスとドレスグローブを身に付けたフェルナが着いていた。三人共が、既に行儀良くナイフとフォークを繰っている。

「……お久しぶりです、お祖母様、お祖父様。ご機嫌麗しゅう御座いますか?」

 ドレスの裾を広げ、膝を曲げてする普段とは違う挨拶を、淀みなくこなす。その際にちらりと見たが、フェルナの視線はこちらを向いていなかった。

「おお、シャーロット、遠い所を良く来てくれた!さあ、こちらへ来なさい」

 仰々しい声を上げて促したのは、彼女の祖父、エドワード=ライアム=エル=イグニスだった。

 完全に白く染まった頭と気品のある口髭、紅に近い色の瞳、皺の入り乱れた丸顔の老人に待ち侘びたと言わんばかりの笑顔で招かれて、シャルはその隣に腰掛けた。

「長い間待たせて済まないな、お腹が空いただろう?今日は料理長が腕に(より)を掛けて作ってくれたからたくさん食べなさい。もっとも、彼の作る料理はいつだって美味しいがね」

 あっはっはっ、と豪快な笑い声が部屋に響いた。

「あなた」

 対照的に落ち着き払った声が割り込んだ。

「少し、お静かに願えませんか?食事中ですよ」

 頭髪の半分ほどが白に染まった緋色の老婆が、視線を食卓の上の料理に向けたまま放った言葉に、エドワードは大袈裟に肩を竦めた。

 この女性こそが、イグニス家現当主、フィオナ=ソレイユ=エル=イグニス。シャルの祖母だ。

「シャーロット、何をしているの?早く召し上がりなさい。料理が冷めてしまいますよ」

「は、はい……!」

 慌てて、シャルは食事に取り掛かった。

 食器の奏でる音が、広い部屋に響き続ける。

 慣れた手付きで目の前に置かれたステーキを切り取っていくシャルは、その間にもちらちらと対面を窺い見ていた。

「…………」

 同じように料理を口に運ぶ母は、やはりこちらに視線を向けない。頑なに、と付けても良いくらい、いつもの砕けた表情は影を潜めていた。

「……シャーロット」

 シャルの食器から料理が半分ほどなくなった頃に(その間にも祖父がめげずにシャルに話し掛けていた)、傍にあった布で口を拭いて、フィオナが言った。

「我々イグニスの者が『火の一族』と呼ばれる所以(ゆえん)は、知っていますね?」

「? ……はい」

 大陸が五つに分断する以前、世界が最も栄えていたとされた頃、魔法は、神の加護を持つ者達に依って行使されていた。

 その殆どは大陸分断の際に息絶えてしまったが、数は少ないが、生き残った者達もいた。

 その末裔が、彼女らイグニスの人間だ。

「私達の先祖は、絶望に追いやられたこの世界に再び繁栄を(もたら)そうと、人々を導いた者達の一人です。その血を引く我々もまた、人々を導く存在でなければなりません」

 神の加護はないが、偉大とも言える魔導師の血を引く彼女達は、その血と誇りを胸に、今日(こんにち)まで世界の繁栄に尽力を注いできた。その結果が、『火の一族』という畏敬と尊敬の念を込めた呼び名なのだ。

 今よりもさらに幼い頃から聞かされてきたシャルは、当然それを知っていた。同時にそのことを誇らしく思い、その名に恥じぬよう努力してきた。そしてそれが、いつしか彼女にとって最も重要な自己同一性――アイデンティティとなっていた。

 だが、何故祖母が今更こんな話をし始めたのか、その意図が解らない。

「ですが人々を導く存在というものは、ただ理想を語る理想論者であってはなりません。高い志と、それを実現し得る『力』、その『力』を制御出来る強い心を兼ね備えて初めて、先導者としての資格を得るのです」

 少し言葉の意味が難しかったが、なんとなく理解は出来た。

 しかし、

「故に、そのどれか一つが欠けてしまった者を、一族の、()してや後継者としてなどと認める訳にはいきません」

「えっ」

 次に放たれた言葉には、理解が追い付かなかった。

「貴女が『力』を失った事は、既に聞き及んでいます。完治の見込みが殆ど無いという事も」

 戸惑うシャルには構わず、フィオナは続ける。

「高い志と強い心は、これから先幾らでも身に付ける事が出来ます。けれども、『力』そのものを失ってしまった今の貴女には、先導者たる資格がありません」

「お、ばあさま……?」

 心臓の鼓動が、身体の内側で嫌に大きく響く。それが、徐々に速まっていっているのが解る。

 祖母は一体、何を言っているのだろう?後継者として認められない?先導者の資格がない?

 訳が、解らない。

「はっきり言いましょう」

 母と祖父が押し黙る中、フィオナの緋い瞳が、シャルを見据えた。



「シャーロット、今後、貴女がイグニスを名乗る事を禁じます」



    †   †   †



 週が明けた学園では、土曜の一件は、アレンとアクアの怪我は目立つ傷だけなら月曜日に登校する頃にはすっかり治っていたし、ノアの狙い通りユーグ達も何も言ってこなかったので、アレンとノアが殴り合ったという偽りの事実さえ知れ渡っていなかった。

 どころか、ユーグ達はそれからしばらく揃って学園を休んだ。恐らくノアが殴り過ぎた所為だろうが、真実を知らない他の生徒達の間では様々な憶測が飛び交うこととなった。それもほんの三日程度だったが。

 そのノアに教室に向かう途中で遭遇したアレンが(アクアが傍にいるのはデフォルトだ)、助けてくれたことに感謝を述べようとすると、

「何かを護りたいのなら、力を身に付ける事だ。意志だけでは何も護れやしない」

 珍しく長い台詞を、これまた珍しく先に言われた。

 一瞬、キョトンとしたアレンは、

「うん、ありがとう」

 確かな力強さを瞳に宿しながら、頷いた。

 色々な事に対するお礼を受けたいつもの仏頂面は、

「………別に」

 と短く返しただけだった。「照れてるだけだよ」とアクアが囁いてきたが、それが聞こえたのかすぐに教室に入ってしまったので、真偽のほどは定かでない。

 そんな一幕が興じられた月曜日は、体調不良で休んだブロウズの代わりに臨時教員(若い青年だった)がやってきた魔法学が終わり、昼休みを告げる鐘が鳴ったのと同時にロイの尊大な腹の虫が空腹を訴え、呆れた笑みを浮かべながら弁当を取り出したアレンが、ふと席を離れていつものように二人っきりで昼食を摂ろうと教室を出ようとしていたアクアとノアに同席を申し入れ、即答で断ろうとしたところをアクアが遮るように快諾したので渋々頷いたノアに他の生徒達が目を丸くして、「女子がアクアだけじゃなんだから」とロイがマリーとオリヴィアを呼び寄せた結果、奇妙な面子が校庭の芝生に向かい合わせることとなった。

 食事中の光景は、主にアレンとロイが喋って、偶に話を振られたオリヴィアとマリーが、前者はあわあわと狼狽えるように、後者はどこか上の空のように返すといったものだった。

 アクアとノアはそれほど会話に参加しなかったが(アクアはともかく、ノアは話を振っても二言三言で終えてしまうのだ)、他の四人の――というよりアレンとロイの――会話をにこにこしながら聴いていたアクアが言うには、「ノア君、いつもより楽しそうでよかった」そうだ。



 シャルはその日、学園を休んだ。



    †   †   †



 真っ暗だ。

『――跡目は分家の者から選ぶ事にします。セシル辺りなら、貴女に及ばないまでも務めは果たせるでしょう』

 何も、見えない。

『とは言え、貴女が持っていた「力」は、長いイグニスの歴史の中でも特に強いものでした。それだけに、今回の事は口惜しいですが……』

 何も、見たくない。

『貴女には分家の養女に入って貰い、来年度から王都の貴族学院へ通って貰います。そこで貴族としての作法をきちんと身に付け、早期にどこか有力な家の者の子を産む事を今後の目標としなさい』

 誰にも、会いたくない。

『以上の事は年が明けた一族の会合で正式に言い渡します。それまでの約一月の間は、イグニスを名乗る事を許しましょう』

 何も、考えたくない。

『本来なら、先導者としての資格が無い者は分家に入る事すら許されません。それほどに、貴女の「力」と血は貴重なのです。それを心に良く留めておきなさい――』

 ……もう、疲れた。



 閉め切った遮光カーテンの向こう側から聞こえてきた小鳥の(さえず)りが、眠っていた意識を呼び覚ました。

 アラームのセットされていない目覚まし時計に視線をやる素振りすら見せず、シャルは布団の中に潜り込んだ。

 フェルナが王都に用事があったので、ガーデンに帰ってきたのは日曜日の夜遅く。つまり今日は月曜日で、学園に行かなければならないのだが……。

 不意に部屋の扉がノックされ、開かれた。

 覗くように、フェルナが顔を出した。

「シャル、そろそろ起きないと遅れるわよ?」

「………行きたくない」

 くぐもった声が布団の隙間から漏れた。

「行きたくないって……先生との約束は――」

「行きたくないっ!」

 今度は遮るように声を張り上げると、少し間が空いて、扉が閉まる音がした。

(何で……ッ)

 憤りが、心を満たしていく。

 何故母は、何も言ってくれないのだろう。

 何故、娘が一族の名を捨てさせられるというのに、あの場を黙って見ていたのだろう。

 自分が『力』を失ったから?

 先導者としての『資格』を失ったから?

 だからもう、自分は要らなくなったのだろうか?

 心は憤りで一杯なのに、そう考えた途端悲しみで顔が歪んだ。

 布団を握り締めて、

 嗚咽を漏らして、

 今まで堪えていたものが、もう沢山だとばかりに、溢れ出した。



    †   †   †



 授業が終わったアレンは、いつもよりも急ぎ足で家に戻った。

「ただいまー」

「お帰りなさい。アレン、ちょっとウィンスレットさんのところにお使いに行ってきてくれない?連絡はしてあるから」

 既に連絡を入れているのなら、初めからアレンに選択権はないのだろう。もっとも、たかがお使いを渋るつもりもまた、ないのだが。

「わかった。シャルのとこに寄ってから行くよ」

 一旦部屋に鞄を置いて(その際にちらりとイリスの机を覗いたら、今日は落書きがノートを占領していた)セフィーナからお金を預かると、アレンはすぐに家を出た。

 庭から通りに出て、薄く低い塀に隔てられた真隣の家の敷地を踏む。

 玄関の呼び鈴を鳴らすと、まもなく扉が開いた。

「あら、アレン君……」

 出迎えたフェルナは、どこか疲れたような顔をしていた。

「こんにちは、おばさん。シャル、いる?」

 それに少しだけ疑問を覚えながら用件を伝えると、フェルナの表情に影が差した。

「……ええ、部屋にいるわ。上がって」

 さらに首を傾げながらも、アレンはそのまま二階にあるシャルの部屋へ向かった。

 扉を軽くノックし、呼び掛ける。

「シャル?僕だけど……」 

 しかし、一向に反応は返ってこなかった。

 寝てるのかな?と思ったが、今日こそはイリスの言葉を伝えると心に決めていたので、殴られるのを承知で扉を開けた。

 明かりを落とした部屋は、真っ暗だった。カーテンも閉め切っていたので、陽の光さえない。

 布団が(まく)れたベッドは空で、一瞬、シャルがどこにいるのか分からなかったが、

「………シャル?」

 部屋の隅に、緋い頭が膝を抱えて蹲っているのを見付けた。

 呼び声には、応じない。

 アレンが部屋に入っても、ピクリとも動かない。

「シャル、どうしたの?なんで今日学園に来なかったんだよ」

 近付いて話し掛けても、やはり何も答えなかった。

 どうしたものかと、アレンは眉を寄せる。

 と、

「………もう、いい」

「えっ?」

 ボソリと、呟きが聞こえた。

「学園には、行かない……」

「行かないって、なに言ってるんだよ。魔法はどうするのさ?」

 問い質すと、しばらくの沈黙の後、

「もう、疲れた……」

「―――ッ!!」 膝の隙間から漏れ出た言葉に、絶句した。

「そんな!今まで頑張ってきたんでしょ!?本当に諦めるの!?」

 シャルが毎日、朝も放課後もブロウズと何かをやっていたことは知っている。

「あの上級生三人ならもう心配ないよ!色々あって、とにかくたぶんもうシャルにはなにもしてこないよ!」

 魔法学をパスする条件もブロウズに聞いたので、その為に空いた時間を勉強に割いていたことも知っている。

「これからは僕も手伝うよ!直接はなにもできないけど、調べものぐらいなら僕にだって手伝えるからさ!」

 そんな中、彼女がこの約三ヶ月の間、一度たりとも弱音を吐かなかったことも知っている。

「だからッ……!」

 完治の見込みが殆どないことも、フェルナから、聞いていた。

 込み上げてくる何かを必死に堪える為に、両の拳を握り締める。

 だが、それっきり沈黙してしまったシャルに遂に堪え切れなくなり、部屋を飛び出した。

「――おばさんッ!」

 一階に駆け降りて、リビングの扉を乱暴に開いた。

「シャル、どうしちゃったの!?なにがあったの!?」

 テーブルに着いて組んだ両手に額を押し付けていたフェルナに、怒声にも似た声を荒らげて詰め寄った。

「シャル、魔法を取り戻すのを諦めるって言うんだ!あんなに頑張ってたのに……もう、疲れたって……!」

 信じられなかった。

 信じたくなかった。

 あのシャルが、いつだって自分に厳しくて、やると決めたことは何がなんでもやり遂げる彼女が、諦めという言葉が最も似つかわしくない少女が、もう疲れたと、諦めると言ったのだ。

 そんなのは、自分の知る彼女ではない。

「アレン君……」

 今にも泣きそうな顔をしているアレンに、フェルナは痛ましそうな声を出した。

「……一昨日、シャルは王都の実家に行ってきたの」

 そのまま、イグニス本家でシャルが言い渡されたことについて語り始めた。

 話を聞き終えたアレンは、またしても返す言葉を失ってしまった。

 シャルが、学園を辞めさせられる。

 それどころか、家を追い出され、別の家の子供になってしまう。

 魔法を、『力』を失ったからというだけで。

「……おばさんは、それでいいの?」

 そして、フェルナが何も抗議しなかったことも、信じられなかった。

「シャルが、いなくなっちゃうんだよ?おばさんの子供じゃ、なくなっちゃうんだよ?」

「…………」

 フェルナは何も答えない。ただ押し黙るだけだ。

 それが、アレンの中で火種となった。

「――ッおばさんたちは『間違ってる』よ!!」

 全身から声を張り上げて、再び二階に駆け上がった。

「シャル!」

 開け放たれた部屋に駆け込んで、再びシャルに呼び掛けた。

 だが、やはりシャルは身動(みじろ)ぎすらしない。

 その姿が余計、アレンの心を悲しみと怒りで満たしていった。

「……シャル。僕、前イリスに聞いたんだ。シャルがなんで魔法を使えなくなったんだろうって」

 正面に立ったまま、暗がりの隅に向かって話し始めた。

「そしたらイリスが、『加護は弱くならない』って、『精霊はいつも近くにいる』って言ったんだ」

 「シャルだけの所為」とも言っていたが、今それは伝えるべきではないので省いておく。

「だから、絶対に諦めちゃダメだ」

 それでも、沈黙は続いた。

 今はこれ以上言ってもどうにもなりそうになかったので、アレンは今日のところは引き上げることにした。

「……明日、また来るよ」

 去り際に掛けた言葉にも、返事はなかった。



    †   †   †



 工業区を北に向かって歩きながら、アレンはなんとか怒りを鎮めることに成功した。

 ただ、悲しみはまだ心に留まったままだ。

 暗闇に覆われた部屋を、その隅で蹲る少女の姿を、再び思い出す。

(あんなの、シャルらしくないよ……)

 未だに信じられない光景に、心の底から嘆いた。

 なんとかシャルを元気付けてあげたいが、一体、自分に何が出来るのだろうか。

 そんなことをあれこれ考えているうちに、目的の場所に近付いてきた。

 街の中心に位置する学園から南西にある自宅まではかなりの距離が空いているが、自宅から西の工業区まではそれほど離れていない。

 なので、街中を走る大型の路線馬車は使わずに、アレンは徒歩で工業区へとやってきていた。じっくり考え事をしたかったことの方が、理由としては大きかったが。

 行く手の先に建ち並ぶ建物から、空へ昇る煙が見え、鉄を打つ音や機械の駆動音が響いてくる。

 工業区では生活用品から始まり様々な物を生産しているが、アレンが歩くこの辺りでは、武器や防具、魔具などの装備品を生産する工房と、それを売る店が主立った顔触れだった。

 じき夕方となる時刻でも賑わいが衰えない大通りを進むと、他の建物よりも少し背の低い建物に到着した。

「こんにちはー」

 「こんばんは」と迷ったが、日中の挨拶を選んで建物の中へ入った。

 まず目に付いたのは、入口の正面にあった少し大きなショーケースに納められた、一振りの剣だった。

 柄から刀身まで白一色ということ以外特に目立った装飾は施されていないのに――否、施されていないからこそ、ガラス越しに放たれる圧倒的な存在感が、その剣が武器として極めて完成度の高い物だということを感じさせた。

「アレン君っ?」

 ショーケースの奥から素っ頓狂な声が聞こえて視線を向けると、青紫の髪をおさげにした萌葱色の瞳の少女が、カウンターの奥から驚いたような顔を見せていた。

「やあ、オリヴィア。店番?」

 ここは、『ウィンスレット魔導商店』。単純な装備品ではなく、何らかの魔力が籠められた装備品や道具を販売する、大陸でも名の知れた商店だ。

 そして彼女のフルネームは、オリヴィア=エイナ=ウィンスレット。つまりこの商店を営むウィンスレット家の一人娘だった。

「う、うん。あの、今日はなんの――」

「おい、オリー!そろそろアレンとこの……ってアレン、もう来てたのか」

 狼狽えるように訊ねたオリヴィアを、傍にある「関係者以外立ち入り禁止」の札が掛かった扉から現れたロイが遮った。

「やあ、ロイ」

「おっす。わりぃ、連絡は受けてたんだけどちょっといま立て込んでてよ。店ん中で待っててくれねぇか?」

 軽い挨拶を返して「すまんっ」という風に片手を縦に構えたロイは、頭にタオルを巻いて、作業着と肘まである耐熱加工された作業用手袋を身に付けていた。

 彼の実家である『オルブライト工房』はその筋では名の知れた魔導工房――魔力の籠められた物を製作する工房――で、そこで生み出される装備品や魔具の質の高さは、態々他大陸から注文する客もいるほどだ。

 それらの生産方法が今主流の機械に頼ったやり方ではなく昔ながらのハンドメイドということも、魔具(ここでは魔導師用の武具の略)マニアが優秀どころとして名を挙げる理由の一つで、ロイも基礎学院に入学した辺りから、工房主である父親の手伝いをしている。

 その有名ブランド商品の販売を何代も前から一手に引き受けているのが『ウィンスレット魔導商店』であり、『オルブライト工房』はこの地下にあった。ちなみにオルブライト一族の強い要望と生産方法の関係で、多店舗経営はされていない。

 額の汗が似合う友人に、アレンは「やっぱり血かな?」と思った。

「わかった。適当にぶらついとくよ」

「わりぃな」

 ロイはもう一度謝罪を入れると、オリヴィアに顔を向けた。

「オリー、アレンになんか飲みもん持ってきてやれ。あと下にも冷たいやつ」

「ろ、ロー君っ!『オリー』て呼ばんといて言うてるやんかっ!」

 顔を赤くしたオリヴィアの口から何やら奇妙な口調の言葉が飛び出して、アレンは「ん?」と首を傾げた。

 というのも、普段アレンが接する彼女からは、このような話し方など聞いたことがなかったからだ。

 だが、ロイは特に気にした様子もなく、

「お前だって『ロー君』って呼んでるじゃねぇか!」

「うっ、ウチは構へんけどロー君はあかんのっ!」

「わけわかんねぇよ、その理屈!」

 ぎゃあぎゃあと口喧嘩をし始めた。

「大体なんで『オリー』なんっ?そんなんやったらまだ『リヴィ』の方がえぇよ!」

「『オリヴィア』なんだから『オリー』でいいじゃねぇか!お前の『ロー君』こそ意味不明だっつの!」

「ロー君は『ロー君』しか言えへんやん!」

「だったら普通に『ロイ』でいいじゃねぇか!」

「あの~……」

「――ッ!?」

 終わりそうにない口喧嘩に口を挟むと、オリヴィアがハッと両手で口を押さえた。

「あぁ、わりぃアレン。待たせてるのに」

「いや、それはいいんだけど……?」

「ッ………!!」

 困惑した視線をオリヴィアに向けると、全力で身体を背かれた。

 それを見たロイが、ニヤリとした笑みを浮かべた。

「あぁ。こいつのお袋さんが地方出身でさ、向こうの実家とかお袋さんの影響で素だと方言が出るんだよ。みんなの前じゃ恥ずかしいからっつって直してるけど」

 背を向けたままのオリヴィアの肩が、小刻みに震え出した。青紫のおさげの間から見える首元は真っ赤に染まっている。

「で、俺家じゃこいつのこと『オリー』って呼んでんだけど、学園じゃ呼ぶなってうるさくってさぁ。アレンだって『オリー』のが呼びやすいって思うだろ?」

「思わへんっ!もうえぇからはよ下行きぃや!おっちゃんにどやされても知らへんよ!」

「うわやっべ!じゃあアレン、終わったら呼びにくるわ!飲みもん忘れんなよオリー(・・・)!」

 思い出したように、ロイは慌てて出てきた扉に駆け込んだ。「ロー君のいけずぅっ!」とオリヴィアが怒鳴ったが、当人に届く前に扉に遮られた。

 喧騒(と言っても二人の言い合いだが)が去り、店内に静寂が訪れた。

 この空気をどうしたものかと、アレンが気拙そうにオリヴィアに視線を向けると、

「………の、飲みもん、持ってくるね?」

 背を向けたまま言って、逃げるように二階へ駆けていった。口調は直っていなかったが。

 あの状態で二人っきりはアレンも気拙かったので、少しだけ安堵の息を漏らして、店内を彷徨(うろつ)くことにした。



 『ウィンスレット魔導商店』は基本的にオーダーメイドだが、店内にもオルブライト氏が造った装備品が、それなりの数、置かれている。

 武器は剣から始まり、刀、槍、斧、弓、錫杖や棍など、防具は鎧兜や盾、籠手や帷子(かたびら)の他に、ローブなどの外套に至るまで、おおよその種類が揃っていた。

 ぐるりと店の奥まで廻って、入り口の方に戻る。

 カウンターに近いところでは、装備品毎に仕分けされた手入れ用品などの雑貨(オルブライト製ではないが、良質で知られているメーカーの商品だ)が置かれていた。

 そのまま、カウンターの前を横切る。

 カウンター横の壁際は、幾つかの大きなショーケースが陣取っていた。透明なガラス越しに、様々な形のアクセサリー類が誇らしげに輝きを放っている。

(それにしても、あんなオリヴィア初めて見たなぁ……)

 ウィンスレット家は商業貴族という、商業の功績に依って爵位を得た貴族で、イグニス家のような純粋な貴族とは少し毛色が違う。爵位を得たのも、魔導商店以外の分野にも企業展開し始めた、ほんの二世代前の話だ。

 なので彼らの立場は平民と然程変わらず、だからこそ、平民であるオルブライト家との親交も続いているのだろう。

 そんな両家の子供であるロイとオリヴィアの関係は、アレンとシャルの関係と似ている。二人とも、基礎学院以前からの幼馴染みという訳だ。

 なので先程のような光景は二人にとって日常茶飯事なのだろうが、アレンにとってはやはり新鮮だった。

「アレン君?」

 ショーケースの下の方を見る為にしゃがんでいたので見えなかったのだろう。オリヴィアの訊ねるような声が、カウンターの向こう側から聞こえた。

「オリヴィア、こっち」

「あっ」

 振り向いたオリヴィアは、コップとお茶容器の乗ったお盆を持っていた。

「はい、温かいお茶」

「ありがと」

 カウンターで湯気の立ったお茶を注いで、渡してくれた。どうやら落ち着いたらしく、口調は戻っていた。

 それを受け取って一口飲むと、喉の内側が温かさで満たされていった。思わず、息が漏れる。

「……あの、アレン君」

「ん?」

 ちらちらとアレンを窺いながら手持ち無沙汰に指を弄んでいたオリヴィアが、おずおずといった風に口を開いた。

「さ、さっきのことなんだけど……」

 言わんとしていることを察したアレンは、「あぁ」と心中で手を叩いた。

「うん、みんなには言わないから心配しないで」

「あ、ありがとう……!」

 余程不安だったのか語調が訛っていたが、それに気付いて再び口を押さえた。

 そのまま恥ずかしそうに俯いた少女に、アレンは苦笑しながら訊ねる。

「でも、なんでそんなに嫌なの?」

「だ、だって、わたしだけあんなの、恥ずかしいから……」

「えぇ~?僕はかわいいと思うけどなぁ、あれ」

「な、あっ……!?」

 素直な感想を述べると、オリヴィアの顔が爆発した。ように本人は感じた。

「か、かわいくなんかっ……!あ、アレン君なに言うてんのいきなり!?」

「あっ、また訛った」

「………ッ!」

 狼狽を隠せない少女はあたふたと手を動かし、またしても訛ってしまって慌てて口を押さえた。

 アレンがその様子に思わず笑い声を上げるとそのまま頬を膨らませて睨み付けてきたが、何故か上目遣いになっていてあまり効果はなかった(というより寧ろ可愛らしかった)。

「もぉ、アレン君も大概いけずやわ……」

 不毛だと悟ったのか、オリヴィアはしばらく睨むと嘆かわしげに肩を落とした。

「ねぇ、さっきも言ってたけど、いけず(・・・)って?」

「…………」

 興味津々といった表情で訊ねると、いじけたような視線が向けられた。

「『いじわる』って意味ですっ」

 プイッ、と顔を逸らされた。

 すっかりご機嫌斜めの少女をなんとか宥め(すか)して(ようやく許してくれるまでに十分は掛かった)、アレンはもう一つ訊ねる。

「じゃあさ、『オリー』って呼ばれるのが嫌なのは?」

「……だって、『オリー』ってすごく子供っぽいし……」

 口調は戻っていたが、オリヴィアの顔にはまだ不機嫌さが残ったままだった。

「そう?っていうか実際子供だし良くない?」

「よぉないっ!ウチは子供っぽぉ見られとうないのっ!」

「お、落ち着いてオリヴィア……!」

 途端にズイっ、と噛み付いてきたので、素だとこんなにはっきり物を言うのかと思いながら、慌てて宥めた。

 宥められたオリヴィアはというと、カウンターに凭れ掛かって再び俯いた。

「……ウチらのクラス、かいらしい子ぉらばっかやから、ただでさえウチ、地味でどんくさいのに、これ以上子供っぽぉ見られたら勝てへんよ……」

「うーん、そんなことないと思うけどなぁ……」

 何に勝ちたいのかイマイチ良く分からなかったが、アレンはとにかく慰めらしき言葉を掛けた。

 だが、オリヴィアは首を横に振った。

「だって、アイナちゃんはやさしゅうて気配りさんやし、メリッサちゃんはお勉きょだけ違て色々知ってる物知りさんやろ。マリーちゃんは明るうて見てるだけで元気なるし、アクアちゃんはいっつもにこにこしててほんわかするし、アリスちゃんはお人ぎょさんみたいにかいらしいやんかぁ……」

 一人一人指を立てて名前を挙げていき、「それに……」と続ける。

「シャルちゃんは……お勉きょできて物知りさんで、明るうてやさしゅうてかいらしゅうて、魔法かてホンマやったらめっちゃ上手で……ウチも、あんな風になりとうて……」

 そこで、言葉が途切れた。

 なるほど、夏休み明けの魔法の上達ぶりはそういった理由もあったのか、と納得しながら、アレンは彼女が挙げたシャルの特徴について考えた。

 そう。確かにシャルは、勉強が出来るだけでなく物知り――博識と言った方が良いかもしれない――だ。可愛いかどうかは(生まれた時から傍にいるアレンには)分からないが、明るくて優しいのも確かだ。魔法の実力だって、本来なら高いレベルで学年一位二位を争うくらいだった。

 ならばそれらが、シャーロットという一人の少女を構成する要素なのだろうか。「彼女らしい」というのはつまり、それらが揃っている状態なのだろうか。

 なんだか違うように、アレンには思えた。

 正確には、何かが足りないように感じられたのだ。もっと決定的な何かが。

 では、「シャルらしさ」とは何なのだろうか。

 解らない。

 今更になって、自分があの暗い部屋で蹲る少女の何に嘆き、悲しみ、憤ったのかが、解らなかった。

「―――ン君、アレン君?」

「えっ?」

 ふと顔を上げると、オリヴィアが心配げに窺っていた。

「どないしたん?」

「な、なんでもないよ。それで、なに?」

 取り繕ったアレンに訝しげな視線を送ったが、オリヴィアはそれ以上追及しなかった。

「最近シャルちゃん、元気あらへんやんかぁ。今日かてがっこ休んだし……」

 どうでも良いが、すっかり方言丸出しだった。

「ほんでな、来月シャルちゃん、誕生日やろ?せやからサプライズパーティーでもしたら元気出るんちゃうかなぁって、今日ロー君と話してたんやけど……」

 「どないかなぁ?」と窺い見る視線を受けて、アレンは顎に手をやった。

 果たして、サプライズパーティーをしたくらいで今のシャルが元気を取り戻すだろうか。それ以前に、パーティー自体に出席するかさえ怪しい。

 それに、それで元気を取り戻したとしても、再び魔法を取り戻す活力まで戻るのだろうか。

(………違う)

 もう見ているだけは辞めると先日誓ったばかりなのに、この期に及んでまだそんなことを考えている自分に、一発入れてやりたかった。

 もう時間がないのだ。ぐずぐずしているとすぐに春がきて、シャルがいなくなってしまう。そうなる前に、出来ることはやっておくべきだ。

「……うん、いいと思うよ、サプライズパーティー。それで、なにすればいいの?」

「ホンマに?せやったらまず参加する人集めて、具体的なんはそっから決めよっ?誰誘おかなぁ……」

 顔の正面で両指を合わせて微笑みながら、オリヴィアはあれこれ名前を挙げていく。

「あっ、せや。ひとつだけ」

 ふと、思い出したように人差し指を立てた。

「プレゼント、ちゃんと用意しといてな?」

 可愛らしく首を傾けながら、ニッコリと微笑んだ。

 が、

 そこでようやく自分が口調を直し忘れていたことに気付いたらしく、微笑んだまま硬直した顔にだらだらと汗を浮かべていって、最終的にシャルの髪に引けを取らないくらい赤面した。



    †   †   †



 どのくらい、時間が経ったのだろう。

 寝過ぎたのでベッドに潜り込んでも眠れなかったし、眠ると嫌な夢を見るので、起き上がって部屋の隅に座り込んだ。

 そうして蹲っていると、誰かが部屋に入ってきた。

『――――』

 何かを、言っている。だが、靄が掛かったようにはっきりと聞き取れない。

(もう、いい……)

 もう、話し掛けないで。

 どうせ、『力』を取り戻すなんて無理なのだ。

 この三ヶ月、あらゆる方法を試してみた。なのに全くと言って良いほど、『力』が戻る気配はなかった。

 あったのは、脳裏に焼き付けられた映像に因る辛さと、頭が割れて心臓が張り裂けるかと思えるような苦しさと、何度やっても成果の見られない虚しさだけだ。

 どんなに頑張ったところで、意味なんてないのだ。

 だからもう、学園には行かない。

 ブロウズとのリハビリにも行かない。

 誰とも会わない。

 誰とも話さない。

 何も考えない。

 何も頑張らない。

(だって、どうせ皆……)

『まだ諦めないのかな、シャル。どうせ無駄なのに』

 ふと、頭の中に声が蘇った。

 土曜日に偶然耳にした、クラスメイト達の会話だ。

『ホント、「自分は頑張ってますー」って同情引いてるみたいで目障りなんだよね、あれ』

 彼女達は、自分が良く一緒に過ごすグループの子達だった。

 普通に話して、普通に笑っていた筈の友人達の言葉に動揺を隠せず、その場から逃げ出した。

 動悸が速くなって、込み上げてくるモノを必死に堪えて走っていると、不意に誰かにぶつかった。

『――ってぇな!どこ見てんだ!』

 誰だったか名前は忘れたが、見覚えのある上級生だった。

『あぁ?誰かと思えば、「加護落ち」女じゃねぇか』

 その単語を聞いた途端、自分の身がビクリと震えたのが解った。

 あの光景(・・・・)が、蘇る。

『ったく、「加護落ち」がいつまでここにいるつもりだよ。邪魔なんだよ、はっきり言って』

 ……邪魔?

 わたしは、"ここ"にいてはいけないの?

『ここにはお前の居場所なんかねぇ。お前なんか誰も必要としてねぇんだよ』

 違う。

 そんな筈はない。

 だって皆、今までと同じように接して――

 ふと、先程のクラスメイトの会話を思い出した。

 ……皆、あんな風に思っていたのだろうか。

 表面上で取り繕って、腹の内側では『力』を失った自分を蔑んでいたのだろうか。

『………ッ!!』

 再び弾けるように、その場から逃げ出した。

 だが、ぐるぐると何度も、同じ光景が巡っていく。

 あの紙に書かれた内容が、何人もの声となって囁いてくる。

(わたし……わたしはッ……!)

 負の思考の迷宮に、出口は見当たらなかった。



    †   †   †



「オリヴィア、これで全部?」

 両手に大きな買い物袋を二つずつ提げて、アレンが訊ねた。

「うん。ごめんね、荷物持ってもらって……」

「まったくだぜ。今度なんかおごれよ?」

 申し訳なさそうな表情をしたオリヴィアに、ロイが嫌味たっぷりに言った。こちらはアレンより一つ袋が多い。

「アレン君にはおごってあげる」

「俺は!?アレンよか持ってんだぞ!」

「ロー君は嫌々持っただけじゃない。アレン君は自分から持ってくれたもん」

「持ってるのに変わりはねぇだろ!」

「まあまあ」

 憤慨するロイを困ったような微笑を浮かべながら宥めて、アレンはオリヴィアに視線を向ける。

「それで、準備とかは大丈夫なんだよね?」

「うん。みんなには昨日確認の連絡を回しておいたし、お料理は家の人が作ってくれるから」

 その割りには表情に不安が見え隠れしていたが、敢えて何も言わなかった。

「で、アレンは結局なににしたんだよ?」

「えー、っと……」

「ロー君、人のプレゼントを詮索しないのっ」

 言葉に詰まって後頭部を掻いたアレンに、オリヴィアから助け船が出た。

「んだよ、いいじゃねぇかオリー(・・・)

「『オリー』て呼ばん――呼ばないでっ!」

 (たしな)められてお返しとばかりに名前を強調したロイに噛み付いたオリヴィアは、一瞬また訛り掛けたが、なんとか言い直すことに成功した。アレンはそんなやり取りに乾いた笑いを零した。

「あっ、馬車来てる。それじゃ、僕先に行くね?」

「うん、また後でね」

「?」

 首を傾げるロイには構わず、アレンは颯爽と出掛かっていた路線馬車に乗り込んでいった。

「なんだよ、なんか予定でもあんのか?」

いけず(・・・)のロー君には教えてあげませーん」

 オリヴィアは得意げに微笑を浮かべて顔を逸らした。

 その態度が気に喰わなかったロイは、

「……微妙に訛ってんだよ、オリー」

 ボソリと呟いた。

 そして途端に口を押さえて顔を真っ赤にしたのを見て、満足げに笑った。



 あれからまた少し時間が流れ、短い冬休みに入っていた。

 今年も残すところ数時間となった寒空の下、ロイ、オリヴィアと共に商業区でシャルのサプライズバースデイパーティーの買い出しを済ませたアレンは、路線馬車に揺られて北の自治区へとやってきた。

「こんにちはー」

 目的の建物の扉を開けると、暖気と喧騒が一気に飛び掛かってきた。

 まだ昼を少し過ぎたくらいだというのに、中では大人達が騒がしく酒を仰いでいた。

「おう、アレンじゃねぇか!今日も仕事か?」

 一番近くのテーブルに着いていた男達が、アレンに気付いて声を掛けてきた。

「こんにちは。ううん、昨日の分のを貰いに来ただけ。レスターさんは?」

「マスターなら奥じゃねぇか?それよっか、なんもねぇんなら偶にゃあゆっくりしてったらどうだ?うめぇ酒でも奢ってやっからよぉ」

「バーカ、十歳に酒飲まそうとすんじゃねぇよ。セフィーナさんに殺されるぞ?」

「あぁ~、それはそれでアリかもしんねぇなぁ。あの真っ黒な瞳に射殺されるんなら、オレぁ本望だぁ……ひっく」

 果たして頬が赤いのは酒の所為なのか。恍惚そうにしゃっくりをした男とそれに呆れ果てる連れに乾いた笑いを零して、アレンは奥へと進んだ。

 ここはギルド。お遣いから魔物退治まで、民衆や国からの様々な依頼を受注し、冒険者やガーデンの生徒達に代行発注する労働組合だ。

 現在のように他大陸のギルド間で連携が可能となったのは渡航時間が大幅に短縮化したここ百年ほどの話だが、ギルドというシステム自体の歴史はかなり古く、大陸分断後、各大陸で新たに国が興り、ガーデンが設立されてから、およそ三百年後には既に存在していた。

 お遣いや薬草採集などならいざ知らず、魔物退治は国――当時は大陸内に幾つもの国が存在した――の仕事だったのだが、地方への兵士派遣にはどうしても時間が掛かり、また戦時中はどの国もむやみやたらと兵を割く訳にはいかなかった。

 しかしそんな理屈を捏ねても民衆の悩みの種は解消されず、不満は募る一方だ。商人が街を渡り歩く道中での魔物に依る被害が次第に大きくなって、遂には地方での商品流通を滞らせるにまで至り、民衆の不満も益々膨れ上がっていった。

 地方に魔物を討伐出来る者がいなかった訳ではない。だが文字通り身体を張る仕事にそれなりの報酬が出ないのでは、誰も名乗り出なくとも詮無きことだろう。

 そこである国は、資金源となって地方に組合を設立、褒賞金と共に討伐者を募ることにした。

 この方策が上手くいき、以来地方だけでなく首都に至るまで、その国での魔物討伐は全て組合が請け負い、それを生業とする者も現れるようになった。そして次第に魔物討伐以外の依頼も請け負い始め、大陸内で国家統一が成された後は大陸中に規模が拡大していき、遂には独立した自治組織にまで発展したのだった。

 これが、ギルドの発祥起源と言われている。

 シャルのサプライズパーティー開催が決まった数日後から、アレンは殆ど毎日ここで発注されている依頼をこなしていた。

 目的は、プレゼント購入の資金集めだ。

 別にアレンの一月の小遣いが雀の涙ほどしかないとか、友人と遊ぶのに有り金の殆どを使ってしまったとかではなく、偶々気に入った品物が子供の小遣いを少し貯めた程度では買えないほど高価だったので、ここで小遣い稼ぎをしていたのだ。その間に、アレンはすっかりここの大人達と顔見知りになっていた。

 酒場と兼用のギルドに小さな子供が入り浸るのはやはり珍しいようで、依頼報酬を生活費としている大人達は酒の肴のように気さくに話し掛け、学園では学ばないようなことを色々と教えてくれる。

 とはいえ、アレンはまだ十歳の子供。ギルドの依頼受注に年齢制限はないが、割り当てられたクラスに相当する実力がなければ、報酬の額が高い依頼を受けられないのもまた規則だ。この一月足らず、掲示板に貼り出されたFクラス――ギルドで指定されている最低ランク――のお遣いや掃除などの雑用をせっせとこなして、ようやく今日、目標金額に到達したのだった。

 年末ということもあってか、アレンは宴会場のように騒がしい酒場を進み、カウンター横の扉を開けた(無論、ノックはして)。

「レスターさん、昨日の分の報酬、貰いにき――」

「あーっ、アレン兄だーっ!」

 途端に、嬉しそうな声がその主と一緒に抱き着いてきた。

「や、やあ、シンシア……」

「今日はどうしたのっ?お仕事昨日で終わりって言って……あっ、昨日のお金もらいにきたのっ?」

 胡桃色の瞳を爛々と輝かせながら一気に捲し立てる少女に、アレンは思わずたじろいだ。

 彼女はシンシア=ブレア。このギルドのマスターの子供で、アレンの一つ下の学年の子だ。アレンがここに通うようになってから良く話すようになり、今ではこのように、すっかりべったり懐いていた。

「シンシア、離れなさい。困っているだろう」

 アレンがピッタリくっついてくる少女の扱いに困っていると、奥から落ち着いた物腰の声がした。

 引き締まった肉体に黒茶色の髪と瞳を持った男性が、事務机の椅子に腰掛けていた。このギルドのマスター、レスター=ブレア氏だ。

「ぶー」

 窘められて、シンシアは膨れっ面になりながらレスターの許へ駆け戻った。

 ご機嫌斜めな娘の小豆色の頭に、レスターはやれやれといった風に逞しい手を乗せる。

「済まない、アレン。この子は昨日の仕事で最後だと聞いていたものだから、思い掛けず君に会えて嬉しいんだ。許してやってくれ」

「構いませんよ。僕もシンシアに会えて嬉しいですし」

「ほらっ!アレン兄もいいって言ってるじゃない、パパ!」

「あっ、でも、抱き着くのは勘弁してほしい、かなぁ……?」

「むぅ~……」

 途端に、再び頬を膨らませた。

 その様子にお互い困ったように笑って、アレンとレスターは本題に入る。

「さて、昨日の分の報酬だったな」

 訊ねながら、レスターは机の引き出しから革袋を取り出した。

「ありがとうございます」

 それを受け取ったアレンの表情が待ち侘びたというような色を帯びたので、レスターは口元を僅かに緩めた。

「それで目的の物は買えるのか?」

「はい。今まで色々とありがとうございました」

「ねぇねぇ、アレン兄はなに買うの、それで?」

 不思議そうな眼差しに、アレンは少し目を細める。

「プレゼントだよ。大切な人への、大切なプレゼント……」

 ギュッ、と袋を握ったアレンに、シンシアは小首を傾げた。

「それじゃ、帰ります。シンシア、また学園でね。さよなら」

「うんっ!バイバーイ!」

 大きく振られた手を背後に、アレンは事務室を後にした。

「おう、アレン!もう帰んのか?」

「うん。あんまりお酒飲み過ぎちゃダメだよ?さよならっ」

 再び酒の匂いと笑い声のアーチを潜りながら大通りに出ると、ふと頬を伝ったヒンヤリとした感触に空を見上げた。

「あっ」

 灰色に覆われた街に、白が点々と色付き始めていた。

 この分なら、夜中に神殿へ祈りに行く頃には街全体を染め上げているだろう。本格的に降り始める前に買いに行った方が良さそうだ。

(これで、少しは元気になってくれればいいけど……)

 握り締めた革袋に視線をやりながら、頭の中に緋色の少女を思い浮かべた。

 あれ以来、やはりシャルは学園に来なかった。ずっと、あの暗い部屋に閉じ籠ったままだ。

 心配したオリヴィア達が何度か訪ねたが、呼び掛けてもベッドに潜り込んだ少女からの反応はなかったそうだ。

 かく言うアレンも毎晩ギルドでの仕事が終わった後に必ず足を運んではいたのだが、やはり成果はなかった。ベッドに潜るか蹲るか、どちらにせよシャルは、喋るどころか身動き一つしなかった。

 一度だけ、アレンは蹲ったシャルの顔を無理矢理持ち上げたことがあるのだが、

「………ッ」

 その時見たものを思い出して、寒気と、向ける当てのない憤りを覚えた。

 太陽のように輝かしかった瞳は、そこにアレンがいることなど気付いていないように、ただ虚空を眺めていたのだ。

 あまりにも無惨で、その時は思わず、声を上げてしまいそうになった。

 あんな眼を人は出来るのかと、言い知れぬ恐怖さえ覚えた。

(………ってダメだダメだ、弱気になっちゃ!やるって決めたんだろ!)

 つい気後れしてしまい、自身に喝を入れた。

 とにかく、自分のやるべきことをやろう。そう決意を改めて、アレンは馬車乗り場へ足を向けた。

「アレン」

 ――ところを、後ろから掛かった声に引き留められた。

 振り返ると、上着も着ていないレスターがいた。

「レスターさん、どうかしました?」

 何か忘れ物でもしたかな、とアレンは思考だけで持ち物を確認する。

 対するレスターは、何も言わない。無言のまま、アレンの隣に並んだ。

「……君が、最初に依頼を受けたいと言ってきた時、」

 徐に、話し始めた。

「正直戸惑った。通常、子供は早くても十三歳からというのが慣わしだからな」

 年齢制限は明示されていないが、それは単に、普通基礎学院以下の子供が依頼を受けることはないからだ。

「だが懇願する君の熱意に負けて、結局私は許可した。勿論、セフィーナさんが承諾したらという条件付きだったが」

 恐らく、セフィーナがあっさり首を縦に振ったのは予想外だっただろう。それはダメ元で頼んだアレンも同じだったが。

「Fクラスしか受注させてあげられなかったが、君は本当に良くやってくれた。失敗する事もあったが、どんな仕事でも手を抜いたりは決してしなかった」

 なんだかむず痒くなって、アレンは後頭部を掻いた。

「それに……」

 と、レスターはさらに続けたが、言葉を発するのに妙な躊躇いが感じられた。

「……シンシアの事では、君には感謝すらしている」

「?」

 何のことか、さっぱりだった。

 首を傾げるアレンを傍らに、レスターは灰色の空を見上げる。

「つい二月前の話だが、実はあの子は、母親を亡くしてな。すっかり鬱ぎ込んでしまっていたんだ」

 黒茶色の瞳は、哀しみに彩られていた。

「同級生の子達とも遊ばなくなって、ただ毎日、悲しみに暮れる一方だった。私としても、どう接してやれば良いのか分からずにいた。ところが……」

 そこで、アレンに向き直った。

「気付いたら、君と話しているあの子を見るようになった。一体何をどうやったのか、いつの間にか笑顔が戻っていた。ありがとう」

「い、いや、僕は別に何も……」

 苦笑混じりの微笑に、またしてもアレンは後頭部を掻いた。

 実際、何が切っ掛けだったのかは憶えていない。本当にいつの間にか話すようになって、依頼をこなすアレンに着いてくるようになったのだ。

「謙遜は美徳だが、ここは素直に受け取ってくれ。でないと、我々はいつまで経っても本題に入れず、この寒空の下に居続けなければならない」

「はぁ……」

 今度は若干困ったような顔だった。やはり室内での服装のままは寒いようだ。

「さて、では本題だが……」

 改めて、レスターはアレンを見つめ直した。

「アレン、これからもギルドで働かないか?勿論気が向いた時で良いし、君さえ良ければだが」

「えっ?でも……」

「今回君が働いたのが、誰かへのプレゼントを買う為だというのは分かっている。だがそれを抜きにしても、お金というものはあって困るものではない。将来的に、いつか君の役に立つ筈だ」

 正直そんなことを言われても、自分が将来何をやっているかなど見当が付かないのだが、レスターは構わず続ける。

「春になったらもう一つ上のクラスを受けられるようになるし、実力さえ示せばさらに上のクラスも解放される。そうなれば学園での実習にも役立つだろう。上級学院には進学するのだろう?」

「えっと、たぶん……」

 特に意識したことはないが、ここの基礎学院に通う子供はそのまま上級学院に進学するのが普通なので、アレンもきっとそうするだろう。

 とはいえなんだか随分推してくるな、と思っていたが、その理由はすぐに判った。

「それに、君が来てくれるとシンシアが喜ぶ。学園ではそれほど接する機会がないと言っていたが、ここなら確実に君と話せるからだろう」

 なるほど、要するに引き続きシンシアの相手をして欲しいのか。母親を失った彼女の心の傷は、まだ癒えていないだろうから。

「親バカな頼みとは思っているが、どうだろう?君にとってもメリットはあると思うのだが……」

 少し、間が空く。

「……すみません、レスターさん」

 吐き出した白い息は小さかったが、はっきりと見えた。

「シンシアのことも心配だけど、今は他に、やらなきゃいけないことがあるんです。たぶん今やらないと、一生後悔すると思うから……」

「……そうか」

「でも、それが終わった後でいいんなら……って、なんだかシンシアを後回しにしてるみたいになっちゃうけど……」

 少し慌てたような表情をした少年に、レスターは柔らかく微笑する。

「いや、構わないよ。君が為すべき事を終えたら、いつでもまたここに来てくれ。中で騒いでいる連中もきっと歓迎してくれる」

「はい。それじゃ、僕行きます」

「あぁ、引き留めて済まなかった。精霊の加護が在らん事を」

「あなたにも。よいお年を」

 返して、今度こそアレンは馬車乗り場へと駆けていった。

 走り去っていく少年の後ろ姿が見えなくなるまで視線を逸らさなかったレスターは、

「……アーサーさん。あの子は、やはり貴方の息子ですよ」

 やがてポツリと呟いて、いよいよ本格的に宴の場と化してきた酒場へと戻っていった。



    †   †   †



 ……長い、夢を見た。

 同じ内容が繰り返される悪夢だ。

 夢の中で必死に出口を探したが、どこへ逃げても、闇が身体を引き摺り込んで離さない。

 そして、再び悪夢を見せた。

 叫んでも、泣いても、構わず繰り返す。

 何故、自分がこんな目に遭わなければいけないのだろう。

 何故、誰も助けてくれないのだろう。

 『力』を失ったから?

 『資格』がないから?

 同じことを、何度も何度も考える。

 自分は"ここ"にいてはいけないと、誰かが言っていた。

 誰も必要としていないと、言っていた。

 あぁ、そうか。

 そんな自分に、泣き言を言う『資格』なんてないのか。

 助けを求める『資格』なんて、ないのか。

 必要とされていないのなら、もう良いだろう。

 "ここ"から逃げたって、誰も、何も言わない筈だ。

 そう結論付けたら、延々続く悪夢から、目が覚めた。



 光が喰い破られた部屋で、蹲った身体がピクリと反応した。

 顔を(のろ)く持ち上げたシャルは、どこを見るでもなく、緋い視線を漂わせる。

 のっそりと立ち上がろうとすると、脚がふらついて壁に倒れ掛かった。

 そのまま、壁伝いに扉へと歩み寄る。

 震える手で扉を開けると、薄暗い廊下に出た。どうやら夜らしい。

 風呂とトイレ以外で部屋から出たのは久しぶりだと思いながら、ゆっくりと、一階へ続く階段を降りていく。

 身体を押し付けるようにリビングに入ると、そこも月明かり以外の照明はなかった。どうやらフェルナは出掛けているようだ。

(まぁ、その方が都合が良いか……)

 それだけ思って暦を見ると、最後に確認してから一月近くも経っていたことが判った。傍にあった時計が、あと二時間もすれば年が明けると告げている。

 無気力な足取りでオープンキッチンの内側へ入って、シンクの下に備え付けられた戸棚を開いた。

 僅かな月明かりに煌めいたのは、鈍く妖しい輝きを放つ、刃。

 それを、差し出した左手首に近付けた。

 ゴクリと生唾を飲んで、凝視する。

 あとほんの僅かで、薄い皮に覆われた肉が裂け、鮮血が溢れ出る。

 思い切って、目を強く瞑った。


 しばらくすると、玄関の扉が静かに開閉する音がした。

 台所では、綺麗なままの包丁が横たわっていた。



    †   †   †



 大晦(おおつごもり)と新年の精霊への祈りは大昔からの風習だが、何も必ず真夜中にしなければならない訳ではない。特に近年では、年が明けた日のうちや数日後に神殿や教会を訪れる者が増えてきている。

 それでもガーデンでは、多くの人々が除夜の祈りを捧げに、セフィロトの光と街灯りに照らされた雪道を進んで神殿の前で長い列を作っていた。

「今年も終わっちゃったなぁ……」

 ごった返した礼拝堂で、アレンが感慨深げに漏らした。

「アレン、イリスと逸れないようにちゃんと手を繋いでおいて?」

「わかった。イリス、ほら」

「………うん」

 繋いだ手が、ぎゅっと握り締められた。

 いつもの朗らかな笑顔はどこへ行ったのか、借りてきた猫のように大人しいイリスに首を傾げる。

「どうしたの?」

「……しらないひと、いっぱい……」

「あぁ、この子人見知りするみたいなのよ」

「人見知り?」

 そういえば初めてセフィーナ達と会った時も怯えていたっけ、と思い出して納得した。アレンには最初から引っ付いていたが。

 困ったような微笑みを浮かべて、セフィーナはイリスの頭を優しく撫でる。

「今ここにはね、イリス。街中から人がやってきているのよ」

「みんな、なにしてるの?」

「お祈りよ。去年も一年を無事に過ごせました、今年もまたよろしくお願いします、って精霊にお祈りしてるの」

「せいれいに?」

 少しだけ、表情が明るくなってきた。

「ええ、そうよ。私たちは、いつだって精霊に支えられているもの。だからイリスも、一緒にお祈りしましょうね?」

「うんっ」

 まだ大人しかったが、それでも明るく頷いた。

 と思ったら、イリスは突然在らぬ方角を向いて、胸の前で両手を組んだ。

 微笑ましい姿に、アレンとセフィーナの顔が緩まる。

「イリス、どこに向かって祈ってるんだよ」

「えっ、だって……」

「祈るのは祭壇のところよ。ほら、あそこ」

 セフィーナは人垣の向こう側を指差した。

 人波が徐々に歩を進める先にあるのは、礼拝堂の最奥、祭壇の間だ。両開きの扉が開け放たれ、祈りを終えた人々が入れ違いに出てきている。

「どうしてあそこでいのるの?」

「そりゃあだって………えーっと……」

「人間に精霊は見えないから、代わりにああやって立派な祭壇を建てているのよ。アレンには前に教えたでしょう?」

「あぁ、それそれ」

 調子良く頷いた息子に、母は「まったく」といったような顔をした。

 そうこうしているうちに次々と人垣が退いていき、やがて三人が先頭となった。

 セフィーナを真ん中にして、右にアレン、左にイリスが足並みを揃える。

 正面に見える精霊のシンボルが、アレンに数ヶ月前の出来事を思い起こさせた。

 あの事件が、様々なことの切っ掛けだった。

 悪いことばかりではない。少なくとも、今逆側で再び両手を組んでいる少女と出逢えたし、自分にとって大切な「何か」が少しだけ解った気もする。

 だが、やはりシャルのことを考えると、自責の念に苛まれた。

 あの時自分が倒れなければ、それ以前に神殿に忍び込むシャルをきちんと引き留めていればと、実りのない後悔を繰り返す。その後のシャルを何故独りにしたのだと、過去の自分を叱責する。

 だから、祈るのではなく誓おう。

 精霊に。そして、自身の心に。

「…………」

 顔を上げたアレンは、隣を窺った。

 傍らでは、両膝を着いたセフィーナがまだ祈っていた。

 普通一般人が祈る場合、手を組んで目を閉じるだけで、態々膝は着かない。

 だからセフィーナのそれはある意味異様と言えたのだが、見る側には全く違和感を与えなかった。

 それが本来の形だということもあるが、何よりも、真剣な面持ちで祈りを捧げる姿が、神々しいまでの雰囲気を醸し出していたからだ。

 少し長い間を空けて、ようやく、セフィーナの瞼がゆっくりと持ち上がった。

「……さぁ、帰りましょう――」

 何故か、そこで言葉を切らした。

 視線を追うと、イリスが立ちながら舟を漕いでいた。

 困ったように、セフィーナは微笑を浮かべる。

「仕方がないわね。イリス、ほら乗りなさい」

「ん……」

 目を擦りながら、イリスは眠そうな声を漏らして向けられた背中におぶさった。

 時刻は既に零時を回って一時近く。アレンも少し眠気が来ていたが、さらに幼いイリスにはやはり耐え難かったようだ。

 神殿から出て、アレン達は臨時運行されている路線馬車に乗り込んだ(無賃乗車防止の為、一律同額の運賃は先払いだ)。

 昇降口手前の二人掛けの座席の窓際にアレンが腰を下ろして、セフィーナはイリスをその隣に座らせた。

「思ったよりも早く終わって良かったわ。明日はシャルちゃんのお誕生日会なんでしょう?」

 日付としては既に「今日」なのだが、感覚の問題なので気にはしない。

「うん。言っとくけど、サプライズ(・・・・・)なんだからね?」

「分かってます。シャルちゃんにはちゃんと内緒にしておくわ」

 混雑した車内で身を揺らしながら「はいはい」と返したセフィーナを尻目に、アレンは窓の向こうへと視線を向けた。

 準備は場所を提供してくれたオリヴィアやロイ達がやってくれるが、明日(今日)のパーティーは、自分にも一つ仕事がある。

 シャルを、あの暗い部屋から連れ出さなくてはならないのだ。

 本来なら例年通りシャルとフェルナも一緒に神殿へ訪れる筈だったのだが、フェルナは用事でおらず、シャルは出掛ける際一緒に来るか訊ねたが、やはり反応がなかったので今日はそっとしておいた。

 だが明日こそは何がなんでも連れ出してみせるというあ

る種の使命感が、アレンには圧し掛かっていた。

 なんとなく、上着の右ポケットに手を入れる。

 忘れないように入れたままのプレゼントに手が触れて、しっかりと掴んだ。

(これで、何かが変わってくれれば……)

 願うように心中で呟いているうちに、徐々に瞼が重みを増してきた。

 馬車の揺れが、心地良く眠気を誘う。

 やがて、完全に闇の底へと意識が沈んでいった。

 ―――直前で、

「!!」

 閉じ掛けた視界の隅に緋い髪が紛れ込んで、一気に覚醒を果たした。

 すぐさま、窓に顔を押し付けて過ぎた景色を振り返る。

 既に遠ざかった通りを折れ曲がる影が、黄金色の瞳に確かに映った。

 しばらくして、停車地点に到着した馬車の揺れが収まった。

「――ごめん、先に帰ってて!!」

「アレン!?ちょっと、待ちなさい!!」

 座席の前の手すりを潜り抜けて素早く馬車を降りたアレンは、来た方角に向かって駆け出した。



    †   †   †



 深々と雪が舞い降りる夜道を、シャルはおぼつかない足取りで当てもなく歩き続けた。

 力なくぶら下がる細い手首は、変わらず白い。切れ目すら入っていなかった。

 考えを改めたのではない。ただ怖くなって逃げ出しただけだ。

 結局死ぬ勇気すらなかった自分に、益々嫌気が差した。

 ふと、民家の窓ガラスに目がいった。

 そこに映し出された姿に、自嘲する。

(……酷い格好)

 閉じ籠っていようと、入浴や生理現象を我慢出来はしない。気が向いた時にこっそりとシャワーを浴びていたのだが、ここ数日で部屋を出たのはトイレの時だけだった。

 食事に関しても、一応フェルナが部屋に運んできたので摂ってはいたのだが、沐浴と同じくここ数日はあまり手を付けていなかった。栄養を摂取する活力すらも、湧いて来なくなったのだ。

 おかげで、長く綺麗だった自慢の髪は今や見る影もないほどに乱れ、虚ろな眼をした顔は随分と痩せこけてしまっていた。

 大勢の人々を抱えた路線馬車が、隣を擦れ違った。

 気が付けば、いつの間にか年を越していたらしい。いつもはセフィロトの輝きだけが照らしているこの時間だが、今日はそこら中が明るかった。

 祈りを終えた人々が、賑やかな夜の街で顔を輝かせながら、新たな年を祝っている。

 その何もかもが、今の自分には眩し過ぎた。

(………寒い)

 上着など着ていない。靴だって裸足だ。

 積もり続ける雪道を歩き続けて、手足の感覚はすっかり麻痺していた。

 真夜中を子供一人で、しかもこんな雪の降る中を寝間着姿のままで歩いているというのに、誰も自分の存在に気が付かない。

 改めて、こんな自分など気付く価値すらないのだと、痛感した。

 そうして彷徨っていると、不意に街の喧騒が収まっていることに気付いた。

 顔を上げると、目の前に巨大な格子門が立ちはだかっていた。

 どうやら、いつの間にか学園に辿り着いていたらしい。鉄格子の端の隙間から背の高い時計棟が見えた。

 今は冬休みで、しかも新年の真夜中だ。学園への入口は固く閉ざされている。

 仁王立ちする鉄の門が、まるで引き返せと唸っているようだった。

「…………」

 特に躊躇いもなく、シャルは道を逸れた。



    †   †   †



 ブロウズ教諭の年始めは、あまり明るいとは言えなかった。

 十一月の末から見なくなった少女を想うと、とてもじゃないが、街で騒いでいる者達のように陽気に新たな年を祝う気分にはなれなかったのだ。

 ここ最近は体調があまり良くなかった為、様子を見にも行けずにいたが――

(……いいえ、違うわね)

 自己嫌悪に陥り、首を振った。

 「見に行けなかった」のではなく、「見に行きたくなかった」が正しい。心の片隅に刻まれた記憶から、つい何かにつけて逃げ道を選んでしまっていたのだ。

 せめてシャルが立ち直れるようにと精霊に祈りを捧げに神殿を訪れたが、それも祈り終えた今考えると、「何かをやった」というただの言い訳作りにしか思えなかった。

 祈るだけでは何も変わらないと、何十年も昔に解っていた筈なのに。

 この歳になって改めて、人間の弱さというものを実感させられた。

(あんな偉そうな事を言っておいて、まったく……)

 もう一度居た堪れない気分に眉を寄せて、つい先日の出来事を思い起こした――



 ――不意の呼び鈴に急かされて重い身体が扉を開くと、その先で随分と(やつ)れた顔をしたフェルナが佇んでいた。

 とにかくマグカップにホットチョコレートを淹れて気分を落ち着かせると、やがて彼女はポツポツと本家での出来事を話し始めた。

 本家がシャルに下した処遇は、やはりブロウズの予想した通りだった。いや、分家に入れる分、"最悪"は免れたのかもしれない。

 次に耳にした言葉は、普段の彼女とは真逆の、自身の苦悩に対する泣き言だった。

「……どうすれば良いのか、わからないんです。家の事も、あの娘の事も……」

 娘が苦しむ姿を、ただ見ていることしか出来ない。

 苛酷な現実を突き付けられたあの娘に、何もしてあげられなかった。

 遂に鬱ぎ込んでしまったシャルにどう接してやれば良いのか分からず、もう一月も言葉を交わしていない。

 母親として失格だと、今にも泣き出しそうな顔で吐き捨てた。

「アレン君に言われました。『私達は間違ってる』って。本当に、その通りです。子供の幸せを奪う事が、正しい筈ないのにっ……」

 それっきり沈黙したフェルナに、ブロウズは痛ましげに目を細めた。

 彼女の立場を考えると、彼女の母に真っ向から反発出来なかったのも無理はなかった。

 一人娘のシャルとは違い、彼女には姉妹が多い。イグニスの次期当主となるのは、その長女であり最も『力』を持つ彼女なのだ。そんな彼女が、例えあまりに無慈悲であろうとも、一族の掟を正面から蔑ろにする訳にはいかなかった。

 それに、王都で働くシャルの父親のこともある。

 平民出の彼との間にシャルを儲けたことは、当時一族の間でかなり問題となったのだ。結局、王国軍魔導騎士団の特別顧問を務めるほどの彼の実力と、シャルの生まれ持った『力』の強さが幸いしてその騒動に収まりは着いたが、今でも内心快く思っていない者は多いだろう。

 故に、本家の決定をただ見ているしかなかった。下手に反対すれば、分家に移るシャルにどんな影響が及ぶか、想像に難くないからだ。

 だがそうして黙っていても、どちらにせよシャルは苦しむことになる。それが解っているから、フェルナは自分が取るべき道を見失ってしまっていた。

 沈黙に沈黙が重なる中、

「しっかりしなさい、フェルナ=ルーファ=エル=イグニス」

 ブロウズが発した声は、静かで、芯のあるものだった。

「今一番苦しいのは、他ならないあの子なのよ?それなのに、貴女がそんな調子でどうするの」

 厳しい言葉だとは、自覚している。

「言った筈よ。こういう時に必要なものを、決して欠かしてはいけないと。それが何なのか、貴女は解っているでしょう?」

 けれど、残された時間は少ない。

「だったら、貴女がどうするべきか、今のあの子にとって何が最良の選択なのか、自ずと答えは出る筈よ」

 伝えられる時に、伝えねばならなかった――



 ――沈鬱な表情をしたフェルナから、遂に言葉は返らなかった。

 考える時間は、残された時間が僅かであろうとも必要だ。何せその答えは、シャルだけでなくフェルナやシャルの父親の人生すらも一変させるのだから。そう簡単に選択出来るほど、別れ道の先はどちらも平坦ではないのだ。

 だから、しばらく続いた再びの沈黙の後、「帰ります」の一言だけを呟いてその場を後にした彼女の小さな背中を、ブロウズは無言のまま見送った。

(残酷なんて言葉では、片付けられないわね……)

 非情な運命を呪うように、白く重い息を夜道に吐き出した。

 本当は、こうならないことを願っていた。

 それ(・・)は今のシャルにとっては最良の選択かもしれないが、本来ならば決して、次善ですらないのだから。

 それに、例え最良の道を選んだとしても、シャルが立ち直れるとは限らない。

 唐突に『力』を失い、自らの誇りであった筈の一族から追放に等しい宣告をされ、母親からも見放されたと思い込んでいるであろう彼女の心は、傷付き、荒み、絶望してしまっている筈だから。

(……しっかりしなければいけないのは、私の方ね)

 つい悲観的になってしまう思考に、心中で頭を振った。

 とにかく、一度様子を見に行こう。既に夜は更けているが、今日ならまだ起きていてもおかしくないだろう。明かりが点いていなかったら、明日の朝、彼女らが王都へと出掛ける前にもう一度訪ねよう。

 いい加減目を背けてばかりいないで、きちんと向き合わなければ。

 と決意を固め、近くの馬車乗り場へと足を向けたところで、

「………あら?」

 通りを慌ただしく駆けていく金髪の少年を見掛けて、首を傾げた。



    †   †   †



 馬車を飛び出したアレンは、人影が曲がった神殿近くの通りに戻ってきていた。

 すぐに、辺りに視線を配る。が、目当ての人物は見当たらなかった。

 見間違い、ではない。あれは間違いなく――

(………シャルッ)

 拳を強く握って、再び駆け出した。

 何故、引き籠っていた筈の彼女がこんなところにいるのだろうか。

 いや、それよりも一人でいたことの方が気掛かりだった。あんな精神状態で雪の降る夜道を彷徨くのは、はっきり言って危険だ。

 一刻も早く見付けて、連れ帰らなければ。

 だが、

(シャル、どこ行ったんだよッ……)

 周囲を駆け回っても、それらしい人影はどこにも見付からなかった。

 一旦立ち止まったアレンは、両膝に手を押し付けて、切れた息を整えながら考える。

 広い街中を当てもなく捜したところで、見付かる可能性は皆無だ。今日は人が大勢出歩いているので尚更だった。

 シャルが折れ曲がった通りの先は広い大通りで、神殿へも続いている。もしかすると、そちらへ行ったのかもしれない。

 その方がまだ可能性は高いと半ば無理矢理結論付けて、神殿へ戻ってみることにした。

 まだ酸素は十分ではないが、賑わう街中を再び駆け抜ける。

 到着した頃にはそろそろ二時になろうかという時刻だったが、神殿では未だに長蛇の列が出来ていた。

 案外その中にシャルが加わっているのではないかと窺ってみたが、やはり姿は見えない。

 とにかく神殿内を捜してみようと、落胆し掛けた気持ちを奮い起こした。

 ――ところで。

「――いッ!?つぅ、……ッ!!」

 突然、頭を鈍器で殴られたような痛みが駆けた。

 あまりの激痛に、思わず傍にあった壁に寄り掛かる。

「なんッ……!?」

 苦痛に悶えていると、僅かだが、何か(・・)が頭に響いた。

「だ、れ……?」

 問い掛けには、痛みしか返ってこない。

 蹌踉めきながら、神殿を出る。

「うっ、く……ッ」

 やがてある場所に辿り着くと、不意に頭痛が治まった。

 息も絶え絶えになんとなく(・・・・・)足を向けた先は、学園の入口だった。

 巨大な格子門を前に頭を押さえながら眉をさらに寄せたが、別の事柄がそれを意識の外側へ押し退けた。

「―――ッ」

 足元に、自分のもの以外の足跡があった。大きさからして子供のものだ。

 すぐさま足跡を追い掛けたアレンの思考からは、先程の頭痛の件は抜け落ちていた。



 ガーデンの外円部の区間(商業区などの四つの区間)に明確な境界線は敷かれていないが、それらと学区の間には高い壁が(そび)えており、学園の周囲にも敷地に沿う形で外壁が敷かれている(学区と中央区の間には壁は存在しない)。

 これは、元々学園と神殿のみで構成されていたガーデンに、追加的に街が形成されていった為だ。

 依って、学区以内に入るには東西南北にある門――常に開放されているので実質単なる大通りだが――を通る必要があり、学園の敷地に侵入するにも、南西もしくは北の巨大な門を潜らなければならない。

 そして学園の門は現在その口を固く閉ざしているので、中に入るのは不可能だ。それは南西の門だけではなく、北側も同じだろう(余談だが、断崖のような外壁の上部からは結界がドーム状に覆っているので簡単には侵入出来ない)。

 だがそれは、通常の手段を用いた場合だ。

 南西の門から学園の外壁を沿う形で北へ向かう足跡を、アレンは駆け足で辿っていく。

 やがて辿り着いた先は、神殿裏の墓地だった。

 深夜の墓地と言っても間近でセフィロトが淡く輝いているので真っ暗闇という訳ではないが、それでもやはり、墓地という独特の空間が区切られた敷地内に不気味さを漂わせていた。

 林立する墓石の間を、無意識に速度を落として進む。

 足跡は、墓場の隅で途絶えていた。

 ここの墓石は全て、手前に長方形の薄い石が敷かれ、その後ろに手前の物よりも厚みのある石を台にして名前の彫られた石が立てられている。

 そして墓地の北側の隅、即ち学園の外壁の手前にあった物も、文字が掠れて読めないこと以外は至って平凡な墓石だった。

 周囲に他に足跡はなく、一見そこで消えてしまったように見える。

 だがその墓石の手前の石だけ、不自然に雪が積もっていなかった。

 その理由を知っていたアレンは、微塵の迷いも見せずにその石を強く踏み付けた。

 端から見れば、死者を冒涜する行為にしか見えない。

 だが、

 小さく籠った音が僅かに耳に届いた直後、石が下に引っ込み、地下へ続く道が現れた。

 光の届かない地下道へと、アレンは足を踏み入れる。

 階段とは呼べない短い土の坂を降り、すぐ脇の壁から飛び出した細い石を引っ張ると、引っ込んだ石が墓石の手前へと戻っていった。

「【陽光の導き(ソルクス)】」

 呟きと共に顕れた光球で辺りを照らしながら、奥へと進む。

 ここは、以前シャルが発見した隠し通路だ。一体誰が何の為にあの仕掛けを作ったのか、薄暗い地下通路は学園の敷地内へと続いている。

 偶々学園側の入口を発見したシャルが、「誰にも言っちゃ駄目よ?」というお決まりの台詞と共に得意げたっぷりな表情で仕掛けを見せた当時の光景が、嫌に懐かしく感じられた(実際一年以上前の話で、墓地側の仕掛けは、仕掛けを調べようと墓石に乗ったシャルが足を踏み外して尻餅を搗いた結果発見したというエピソードがあるが、ここでは割愛する)。

 しばらく歩くと、やがて来た道と同じような坂道が現れ、同じく壁から突き出た石のレバーを引いた。

 墓地側と同じように、天井の一部分が鈍い音を立てながら脇に退いた。

 抜け出た先は、基礎学院の地下倉庫だった。

 授業の為の模擬武器や体育――武術の授業とはまた違う――で使うボール、その他様々な道具が、それほど広くない部屋に少し乱雑に置かれている。

 その間を通り抜けて倉庫を出たアレンは(何故かコッソリと付いたが)、地上へと上がった。

 が、そこからしばらくして行き詰まってしまった。

 シャルがどこへ行ったのか、さっぱり分からなくなってしまったのだ。

 靴底(シャルが裸足だということをアレンは知らない)に付着していた雪や水滴は地下通路を通った際に擦れて乾いてしまったらしく、倉庫から僅かに続いていた土の足跡も廊下を歩くうちに見えないくらい薄くなってしまっていた。

 途方に暮れながら、手当たり次第に捜してみようかと考えた矢先、

「―――痛ッ!!」

 またしても、頭をあの痛みが襲った。

「だからッ……なん、なんだよ……ッ」

 悪態を吐きながら、アレンは一歩ずつ足を進める。

 ――まるで、何かに導かれるように。



    †   †   †



 吹き付ける風が、髪を荒々しく掻き乱す。

 基礎学院の時計棟の天辺で両膝を抱えるシャルは、顔を埋めたまま動かない。

 小さな身体は、少し雪に覆われていた。

 広い学園の中で態々ここへ来たことに、それほど意味はない。単に門の隙間から偶々目に付いたので選んだだけだ。

 大きな鐘が吊るされた頂上の手摺は最低限の高さでしかなかったので、向こう側へ渡るのは簡単だった。その先に人が十分座れるだけのスペースがあるのは、万一手摺から身を乗り出してバランスを崩しても大丈夫なよう、転落防止に一役買っているのだろう(と言っても、膝を抱えて座ればあっさり埋まる程度のものだったが)。

 しかしそれが役立つのは、転落する意図のない事故に限る。自ら飛び降りるつもりの者に対しては、それこそ四方を壁で囲うくらいしなければ効果は見込めないだろう。

 だからシャルは頂上に登ってすぐ、せいぜい手摺を乗り越えるくらいしか労を要せず、煌めく景観を瞳に映しながら、己の身を(なげう)った。

 ――筈だったのだが、落ちる直前で、指が手摺に引っ掛かった。

 寒さで(かじか)んでいる癖に、赤みを通り越して蒼白くなった指は頑として手摺を離そうとしない。

 一旦諦めて座り込んだらようやく言うことを聞くようになったが、すぐにもう一度同じ行為を実行する気にはなれなかった。

 死への恐怖が、身を竦ませたのだ。

 つい先程まで影を潜めていたのに、一度生き残ってしまった所為で、生への執着が息を吹き返してしまっていた。

 指が引っ掛かったのではない。無意識に手を伸ばしたのだ。

 それを自覚して、余計惨めになった。

 死ぬのが怖い。けれど、このまま生きているのも辛い。

 独りぼっちでこの苦しい現実を生きていくことなど、最早自分には耐えられなかった。

(もう、いや……)

 そうやって、また蹲った。

 誰もいない場所で、誰にも気付かれずに。

 雪が軽く積もるくらいの間そうしていると、次第に瞼が重くなってきた。

 このまま眠れば、恐らく凍死するだろう。

 その方が、痛くないから良いかもしれない。

 そんなことを考えて、死へと誘う睡魔に、身を委ねていった。

「―――シャルッ!!」

 突然背後から聞こえた声に、睡魔が慌てて飛び退いた。

 振り返った拍子に、頭に積もった雪が落ちた。

 息を切らせ、何故か苦悶の表情を浮かべたアレンが、そこにいた。

「なに、やってるんだよ、そんなとこで……」

 息を整えながら途切れ途切れに発したアレンは、シャルの方へと歩み寄る。

「帰ろう、シャル。そんな格好でいたら風邪引いちゃうよ」

 差し伸べられた手。

 だがシャルの意識の視界に、それは入っていなかった。

「シャル――」

「来ないで!」

 張り上げられた声に驚きながら、アレンは「久しぶりに声を聞いた」などという場違いな感想を抱いた。

「シャル、どうしたの……?」

 座ったまま再び背を向けたシャルは、膝を強く抱き締めた。

「……どうせアレンも、心の中じゃわたしのこと馬鹿にしてるんでしょう?貴族のクセに魔法が使えない落ちこぼれって、さっさと学園なんかやめちゃえって、そう思ってるんでしょう?」

「なっ――そんなわけないだろ!?なに言ってんだよシャル!」

「嘘よッ!誰もわたしのことなんか必要としてないもの!!」

 一層張り上げた声は、やがて絞り出すようなものへと変わる。

「わたしが死んだって……誰も、なんとも思わないもの……」

 こんな自分が消えたって、世界は滞りなく在り続ける。

 だったらもう、苦しむ必要なんてないではないか。

「―――ふざけんなッ!!」

 響いた怒声に、身体が小さく震えた。

 怒りを露にした足音が、早足で近付いてくる。

 手摺から乱暴な音が立って、思わず振り返った。

「自分で勝手に色々決めつけて、死ぬなんて簡単に言うなよ!」

 こんなに怒ったアレンは、見たことがない。

「誰も必要としてないとか、誰もなんとも思わないとか!……そんなこと、言うなよ……ッ!」

 こんなに悲しそうな姿も、見たことがなかった。

「……な、なによ」

 少し呆気に取られたシャルは、唇をきつく結ぶ。

 そして、同じように手摺に掴み掛かった。

「なによなによなによッ!何も知らないのに『簡単』とか言わないでよ!わたしがどれだけ辛いかも分からないクセにッ!!」

「わかるわけないだろ!シャルがなに考えてるかなんて、言ってくれなきゃわかんないよ!」

「……っ!!」

 反駁されて、意図せず怯んでしまった。

「散々独りにしておいて、いまさらなに言ってるんだって思うかもしれない……だけど、シャルももっと頼ってよ!辛いなら辛いって言ってよ!僕だって、シャルの力になりたいんだよ……!」

 詰まるような声を押し出して、アレンは縋るように手摺を握り締める。

「今まで、独りにしてごめん。これからは絶対に独りで苦しませたりなんかしないから、僕がシャルを『護って』みせるから……」

 謝罪と、決意を表して、

「だから、一緒に帰ろう」

 握り締めた手を離し、手摺の隙間から差し出した。

「ッ、……!」

 闇を切り裂く光のようなそれに、シャルは再び言葉を詰まらせた。

 今ここに差し伸べられた手は、暗い闇の中から自分を引き上げると言ってくれている。

 辛いなら辛いと、苦しいなら苦しいと弱音を吐き出せと、言ってくれている。

 それがあまりにも魅力的で、思わず、掴み取ろうと手を伸ばし掛けたが、

「………ッ駄目、よ」

 光を掴もうとした腕に闇が纏わり付き、再び内側へ引き摺り込んだ。

「今のわたしは、弱音を吐いちゃいけないの!そんな『資格』なんてもうないの!」

 それは、今までよりも一層深く、(くら)いところへと沈んでいく。

「『力』を失くしたわたしなんかが、これ以上"ここ"にいちゃいけないのよッ!!」

 吐き出すように叫んで、俯いた。

 そうだ。自分は"ここ"にいてはいけないのだ。

 そんな『資格』は、『力』と共に失ったのだ。

 なのに、何を光に向かって手を伸ばしている。

 そんなことは、決して許されないというのに……。

 再び、心を闇が満たしていく。

「……いい加減にしろよ」

 僅かな沈黙から怒りに震える声が唸り、シャルは視線を上げた。

 手摺を握り締めたままの片手が、小刻みに震えていた。

「さっきから聞いてれば、『弱音を吐いちゃいけない』とか『そんな資格がない』とかそんなことばっかり言って、終いには『ここにいちゃいけない』だって?」

 鋭く突き刺さる黄金色の視線を、シャルも睨み返す。

「だって、実際そうなんだから仕方ないじゃない!わたしにどうしろって言うのよ!」

ここにいたいかどうか(・・・・・・・・・・)だろッ!!」

 吼えるように張り上げた声が、雪の降る夜空に響いた。

 そうだ。

 自分があの暗い部屋で何に悲しみ憤ったのか、アレンはようやく理解した。

 自分の知るシャルは、シャルらしさとは、頭が良くて、明るくて、優しくて、そして何よりも……。

「シャルはここにいたいんだろ!?だから苦しいんだろ!?だったら余計なこと考えてないで『いたい』って言えよ!誰かがなんか言ってきたら僕がぶん殴ってやるから"ここ"にいろよ!みんながシャルの敵になっても僕はずっと味方でいるから!辛くても苦しくても傍にいるから!だからッ……」

 一拍置かず、一際強く、



「諦めるなよッ!!」

「――――ッ!!」



 纏わり付いた闇が、光を浴びて少しずつ消えていく。

 思い切り吐き出された想いに、シャルは絶句してしまった。

 自分は"ここ"にいてはいけない筈なのだ。

 なのに、"ここ"にいろと叫ばれて、"そこ"にいたいと思ってしまった。

 解らない。

 二つの思考が心の中でぶつかり合って、自分がどうすれば良いのか答えが出せない。

「わた、し……」

 いや、天秤は既に傾き掛けていた。最初からシャルは、自分の気持ちに気付いていた。

 だがそれが他の誰かから認めて貰えるなんて、微塵も考えていなかったのだ。

 だから、今ここで面と向かって叫ばれた想いに戸惑い、狼狽え、

 ――後退った(・・・・)

「―――ッ!?」

 ズルッ、と片足が滑り落ち、糸の切れた人形のように膝が折れた。

 直後、後ろに倒れた身体が、宙に投げ出された。

 視界に映る手の先で、大きく目を見開いたアレンが、ゆっくりと、少しずつ遠ざかっていく。

「――シャルッ!!」

 遠退くそれを掴もうと、アレンが咄嗟に手摺の隙間から手を伸ばした。

 懸命に、藻掻くように、拳を握る。

 だが、

 舞い散る氷晶だけが、掌の中で虚しく溶けた。

「シャル――――ッ!!」



 なんだか、不思議な感覚だった。

 落下しているというのに、身体はまるで宙に浮いているようだ。

 生命の灯火が小さくなっていっているだなんて、とてもじゃないが思えなかった。

 吹き荒れる風に曝されながら、耳に届いた叫び声が遠退いていく。

 きっと、罰が当たったのだ。そんな『資格』はないのに"そこ"にいたいと少しでも思ってしまったから、天罰が下ったに違いない。

 そもそも、最初からこうするつもりだったではないか。それが臆病風に吹かれて少し延びただけだ。

 だから、この結果を受け入れよう。

 これからはもう、辛い思いをしなくて済むのだから。

 風に包まれながら、目を閉じる。

(……やっぱり、痛いのかな)

 あまり想像したくないが、この高さから地面にぶつかれば痛いどころではないだろう。

 だがその痛みも、もうこれっきりだ。そう思うと、不思議と死への恐怖も消えていった。

 悔いはある。数えたらキリがないくらい沢山。

 例え受け入れても、こんな結末で満足出来るほど薄っぺらな十年ではなかった筈だ。

 その中で一番大きな後悔が、先行く安堵のおかげで空っぽになった胸の内を占める。

(アレン……わたしね―――)



 気が付くと、先程とは違う、ふわふわと浮いている感覚が身を包んでいた。

(あぁ……わたし、死んじゃったのね……)

 意外なことに痛みはなかったが、その方が良い。やっぱり痛いのは嫌だから。

 これからどうなるのだろう。死んだ人はどこへ行くのだろう。

 天国だとか地獄だとかはとても胡散臭そうな響きがするのであまり信じていないが、こうなると見てみたい気もする。

(どうか、辛いところじゃありませんように……)

 明日の晴天を願うように、心の中で小さく呟き、

 不思議と暖かな空気にその身を委ねながら、

 シャルは閉じていた瞼を、ゆっくりと持ち上げた。

「…………え?」

 何度も、目を疑った。疑わずにはいられなかった。

 地面へと急速に落下していた身体が、何か透き通った膜のようなものに覆われていたのだ。

 恐る恐る、指先で触れてみる。

 ひんやりと、冷たい感触。

 どうやら水の泡ようだが、身体が接触している部分も触れた指先も、何故か濡れてはいなかった。

 それが、吹き荒ぶ風雪に曝された生命の灯火を優しく包み込み、舞い散る雪と共に軽やかに地面へと降りていっていた。

 ゆったりと白い地面に辿り着いた途端、短い破裂音を残して泡が弾けた。

「シャル!」

 何がなんだか解らないうちに、ふと誰かが駆け寄ってきた。

 白髪混じりの蒼い髪。

 同じく蒼い瞳を収めた、皺の入った顔。

 普段穏やかな表情は、沈痛と安堵が入り交じったものへと変わっていた。

「あぁ、良かったわシャル!間に合わないかと……!」

「せん、せい……?」

 駆け寄るや否や勢い良く抱き寄せられて、シャルは目を白黒させた。

 何故、ブロウズがこんなところにいるのだろうか。

 アレンもそうだが、どうやってここにいると知り得たのだろうか。

 そんな考えが一瞬過ったが、直後に唇をきつく結んだ。

「………ん、で」

「?」

 腕の内側から聞こえた声に僅かに首を傾げたブロウズは、

「何で助けたんですかッ!」

 包んだ腕から逃れるように顔を離し、訴えるように放たれた糾弾に、動揺の色を隠せなかった。

「やっと、やっと終わったと思ったのに!せっかく全部受け入れたのに!」

 縋るように、咎めるように、シャルは声を張り上げる。

「もうわたし、嫌なの……!独りぼっちで、いたくないの……!」

 苦しくて、けれど逃げ出すことも出来なくて。

 そこからようやく解放されたと思ったのに、まだこの『地獄』で苦しめと言うのか。

 これが「"そこ"にいたい」と思ってしまった罰なのだとしたら、あまりにも無慈悲で、非情で、残酷に過ぎるではないか。

 一度生き延びて死に身を竦ませ、死を受け入れたのに再び生き延びる。容赦なく横暴なまでに振り回されたことで、ここまでなんとか堪えていた心が、遂に涙すらも零れなくなった泣き顔と共に、音も虚しく崩れ落ちた。

「――そうだ」

 小さな声が、何か名案でも浮かんだように揺れた。

 鬼気を帯びた緋色の瞳が、再び見上げる。

「先生、お願いします……」

 目の前にあるコートの胸元を皺くちゃにした少女は、

「わたしを、殺してください……!」

「―――ッ!!」

 自らの生命を絶ってくれと、懇願した。

「だってわたし、"ここ"にいる『資格』なんてないから……さっきだって、ちょっといたいって思っただけでああなったし……」

 引き攣った笑みが、震える声が、張り裂けそうな痛みを心に刻み付けてくる。

「アレンは違うって言ってくれたけど、やっぱりわたし、世界に必要となんてされてないみたいだから。だったらいっそ――」

「シャルッ!もう良い、もう良いからッ……!!」

 堪え切れなくなったブロウズは、遮るように強く抱き締めた。

 解っていた筈だった。

 僅か十歳の少女にとって、この現実はあまりにも酷烈過ぎて、とてもじゃないが独りで堪え得るものではないと、過去の経験(・・・・・)から予測出来ていた。

 にも拘らず、今シャルがこれほどまでに追い詰められているのは、間違いなく自分達に――自分に責任があった。

 過去を引き摺って現実から目を背けた、自分自身に。

 だがそんな罪責感は、壊れ掛けた彼女の心を癒すのに何の意味も持たない。

 今必要なのは、重なる過去の幻影に怯えることでも、悔恨と自責の念に囚われることでもないのだと、ブロウズは理解していた。

 ――或いは、自身に強く言い聞かせていたのかもしれない。

 過ちを、決して繰り返してはならないと……。

「シャル、良く聞いて。貴女は決して、独りぼっちなんかじゃない。貴女の周りには貴女を必要としている、貴女が必要としている人達が沢山居るのよ?」

 頭越しに耳に響くだけ(・・)の言葉に、シャルは引き攣った笑みのまま、コートの背を掴む。

「でもわたし、弱音を吐いちゃいけないから……そんな『資格』なんてないから、誰にも頼っちゃいけないんです。けど、もうそれにも堪えられなくて、だからわたし……」

 誰かを必要とし、必要とされたい。けれど頼ってはいけない。その矛盾に、シャルは気付いていない。

 否、気付いていないのではなく、その行為が決して許されないものだと思い込んでいるのだ。アレンとの会話で自覚した「"そこ"にいたい」という気持ちも、一度死を受け入れてしまったことで、複雑に入り組んだ思考の迷宮に潜んでしまっていた。

 今のシャルに、ただ語り掛けるだけの言葉は届かない。

 そう悟ったブロウズは、

「!」

 優しく、小さな頭に手を置いた。

 皺だらけの掌が、何度も、ゆっくりと乱れた髪を撫で、余った方の指先が背中を軽く叩き続ける。

 振り子のように等間隔で伝わる感触、ただそれだけ(・・・・・・)に、狂気に満ちていたシャルの心は自然と鎮まっていった。

「……ねぇ、シャル」

 あやすような声が、スゥッと鼓膜を揺らした。

 落ち着く。

 授業中のブロウズは、生徒に対する公平性を期す為、「シャーロット」と呼ぶ。

 彼女が「シャル」と呼ぶのは、一人の人間として、またシャルにとって特別な者として接する時だった。

「『世界』って、何だと思う?」

「?」

 唐突な問いに戸惑ったが、初めから答えを訊くつもりはなかったのか、ブロウズの言葉は続く。

「私はね、"ここ"だと思うの」

「……どこ……?」

 声に出して訊ねると、ブロウズが頭越しに口元を緩めたのが解った。

 頭を撫でていた手と背中を叩いていた手が両肩に添えられ、小さな微笑みが目の前に現れた。

「"ここ"よ。貴女と私がいる、今この瞬間に在るこの場所が、貴女と私にとっての『世界』」

 澄んだサファイアの瞳が、光を見失ってしまった緋色のそれを、しっかりと見つめた。

「人と人、いいえ、この世のあらゆるものが関わり合ったところには幾つもの小さな『世界』が生まれて、それらが繋がり、やがて大きな『世界』となる。人間も、精霊も、草木や石だって、この大きな『世界』に在るもの達は全て、小さな『世界』で繋がっているの」

 そして、やんわりと、慈しむように。

 言葉が、心が、語り掛ける。

「思い出してみて、貴女の『世界』を。決して、貴女を見捨ててなんていない筈だから」

「………」

 微笑みから視線を少し下に外して、シャルは考えてみた。自分の『世界』を。自分が関わり合った人達を。

 真っ先に浮かんだのは、アレンだった。

 アレンは違うと言ってくれた。一緒に帰ろうと言ってくれた。

 アレンだけだ、そんなことを言ってくれたのは。毎日様子を見に来てくれたのだって――

(あ……)

 思い出した。気付いた。

 アレンだけではない。マリーだって、オリヴィアやロイだって、他のクラスメイトだってお見舞いに来てくれたのだ。ただ自分の殻に閉じ籠った意識がそれを締め出し、勝手に独りだと思い込んでいただけだった。

 もしかしたら、本当に『世界』は自分を見捨ててなんていなかったのではないかと、希望の光が射し始めた。

 だが、次に別の存在が浮かび上がり、

「……やっぱり、駄目です。わたしの『世界』は、わたしなんて要らないんです」

 俯いたまま、首を小さく振った。

「そんな筈はないわ。良く思い出して――」

「だって!じゃあどうしてお母さんは何も言ってくれないの!?わたしが辛い時にただ見てるだけなの!?わたしが要らないからよ!!」

 噛み付くように、シャルは顔を上げた。

 絶対の味方であった筈の母は、自分が辛い思いをしている時に、ただの一言さえもくれなかった。

 その事実に対する怒りと悲しみの入り乱れた表情が、ブロウズの胸をさらに締め付けた。

「……貴女のお母様はね、シャル。とても、とても苦しんでおられたわ」

「そんなの……!」

 自分の方が苦しいに決まっている。

 そう反駁しようとしたシャルに、ブロウズはゆっくりと首を横に振る。

「良く聞いて、シャル。貴女のお母様は、ご自身がどの道を選ばれたとしても、結果的に貴女をさらに苦しめてしまうかもしれなかったから、ただ黙って見ている事しか出来なかったの」

「でも、わたしっ……」

 それでも、反対して欲しかった。声を掛けて欲しかった。

 たったそれだけで、一体どれほど楽になれただろうか。もしかしたら、こんな風に思い詰めることもなかったかもしれない。

 そんな言葉だけでは、到底納得出来なかった。

「貴女の苦しみは、味わった本人にしか解らないくらい辛いものだから、お母様を赦してとは言わないわ。けれど、貴女が要らなくなった訳でも、見捨てた訳でもないという事は、解っておいて欲しいの」

「っ、………」

 何か言い掛けて、結局口元を歪めたまま押し黙ったシャルに、ブロウズは困ったように目を細める。

「もし、それでもどうしようもないくらい心がモヤモヤするのなら、いっその事お母様に不満を全部ぶつけてしまいなさい。『自分はこうして欲しかった』、『どうして何も言ってくれなかったの』と、自分の気持ちを全て打ち明けるの」

「でも、それはお母さんに弱音を吐くってことだから……そんな『資格』、わたしには……」

 再び、シャルは目を背けた。

 確かに、『世界』は自分を見捨ててなんていなかったのかもしれない。だが、それとこれとは別の話だ。

 『力』を失った自分に、誰かに弱音を吐く『資格』なんて有りはしないのだ。

 弱音を吐けないなら、誰にも頼れないなら、例え周囲に誰かがいても、それは独りぼっちと変わらない。

 その中で生きていくなんて、もう自分には耐えられなかった。

 どこまでも頑なな少女に、

「……人間というのはね、シャル。とても弱い生き物なの」

 白蒼の老女は、囁くように語り始めた。

「生身の肉体はすぐに壊れてしまうし、心なんてもっと脆い。ちょっとした事で、簡単に傷付いてしまうわ」

 ひんやりと冷たい感触が、左の頬を撫でた。

 舞い散る結晶が、再び交わった視線の間に降り注ぐ。

「そんな弱い生き物(わたしたち)にとって、この大きな世界で生きる事はとても辛くて、何度も逃げ出したくなるような事ばかり。私もついさっきまで、ある事から逃げてしまっていたわ……」

 徐々に温もりを帯び始めた掌から、シャルは確かに、感じていた。

 ブロウズの痛みと哀しみ。悔恨と自責。

 そしてそれ以上に大きな、シャル自身に対する愛情を。

「けれど、だから人は弱音を吐くの。弱音を吐いて、辛い事を辛いと言えるから、人は生きていける。その先にある、それまでの辛かった事なんて忘れてしまうくらい大きな幸せを、見付けられる」

 それが、凍り付いていた心をじわりと溶かしていく。

 暗い闇の底を、暖かな陽射しが照らしていく。



「弱音を吐くのに、幸せを見付けるのに、『資格』なんて要らないのよ」



 目尻に舞い降りた結晶が形を崩し、一筋、頬を伝った。

 後を追うようにもう一筋雫が流れ落ちると、そのまま、次々と零れ始める。

 許されないと思っていた。

 『力』を失った自分に、そんな『資格』はないのだと、思い込んでいた。

 故に、ここへ来る際態々(・・)大通りを通ったことや、時計棟から飛び降りようとして手摺に指を引っ掛けたことが、心の奥底に閉じ込められた本心の抵抗だったということに、気付かなかった。

 これまでの言動の裏に隠されていた、誰かに助けを求めていた自分に気が付かなかった。

「貴女は独りぼっちなんかじゃない。誰も貴女が幸せになる事を咎めたりなんてしない」

 だが、今まさにそんな『資格』は必要ないのだと告げられて、意識の迷宮から、再び隠れていた想いが姿を現した。

 それ(・・)はすぐに小さな河を作り、行く果てで海と成る。

「だから今は……沢山、沢山弱音を吐きなさい」

 もう一度、暖かい抱擁が身体を包んだ。

 拭い去ろうと、塞き止めようと、その勢いは衰えない。

 まるで大きな氷塊が失われた時間を取り戻したように、只々溢れ出した。



    †   †   †



「シャル――!!」

 不意に、時計棟からアレンが飛び出してきた。

 ブロウズにしがみ付いていたシャルは、慌てて離れるとアレンに背を向けたまま懸命に涙を拭い始めた。

「よ、良かった……上から魔方陣が、見えたから、もしかしてって………シャル?」

 全速力で棟を駆け降りたのだろう。息も絶え絶えに膝に手を着いたアレンは、何故かシャルが背を向けていることに気付いて首を傾げたが、ふと思い出したようにコートのポケットに手を突っ込んだ。

「シャル、渡したい物があるんだけど……ねぇ、なんであっち向いてるのさ」

「…………」

 クスクスと口元に手をやっているブロウズを正面に、シャルはズイっ、と腕だけを目一杯差し出した。

 若干の溜め息を吐きながら、アレンは開かれた掌にそれ(・・)を乗せる。

「誕生日、おめでとう」

「―――っ!」

 当初の予定よりも数時間早く述べられた祝辞に、シャルの目が見開いた。

 今日が自分の誕生日だったなんて、すっかり忘れていた。

 いつの間にか十年目の生を迎えていたことに、驚きで声が出せない。

 震える指先で、小さな箱の包装を解く。

 姿を現した小箱を慎重に開くと、中には薄いリング状の、金色に輝く装飾品が納められていた。指輪にも見えたが、大きさや切り離しが可能らしい結合部分からすると、どうやら髪留めのようだ。

「オリヴィアのとこのお店で見付けたんだ。ロイのひいひいひい……えっと、確かそのくらい前のおじいさんが作ったんだって」

 そんな説明を背に受けながら、シャルはその内側に刻まれた文字に気が付いた。

「あらあら……!」

 いつの間にか髪留めを良く見ようと覗き込んでいたブロウズが、驚いたような声を上げた。

「内側の文字は古代語よ。これを造られたのは博識な方だったのね」

「古代語って、確か魔法陣とかに使われてる?」

「いいえ。確かにそれも古代語と呼ばれてはいるけれど、この文字とは全く別のものなの」

 髪留めから視線を外して、ブロウズは小首を傾げたアレンに首を振った。

「これはずっと昔に人間の間で使われていたもので、私達が今こうして話している言語と同じように、何の魔力も持たない、ただの文化としての言葉なの。けれど、魔法陣や詠唱に使われる言葉はそれ自体が魔力を持っていて、私達人間にとっては、文化というより手段としての性質を持った言語なのよ」

「ん……っと?つまり、二つは違う言葉、ってことですか?」

 アレンが疑問符を頭上に二つ三つ浮かべながら困惑した表情をする、老教諭は「少し難しかったかしら?」といった風に微笑んだ。

「その通りよ。でも、当然昔の人々にとってはこの言語が公用語だったし、元々精霊や魔物達の言葉である魔力を持つ方を古より生きる者達の言葉として古代語と呼んだものだから、この文字を古代語と呼べるくらい時間が経った現代では、まったく違う二つの言語がそう呼ばれてしまっているの。一応『古代エルスペロ公用人語』という名称はあるのだけれど……」

 それでは長いし言い辛いので省略されてしまったのだろう。

「……何て、書いてあるの?」

 困惑と微笑に挟まれて、間からボソッと声が上がった。

「あー、っと……」

 口調から自分に向けられたものだと判断したアレンは、後頭部を掻きながら決まりが悪そうに視線を逸らした。

「やっ、ほら、なんせすごく古い物だからさ。ロイのお父さんに聞いてもわかんなくて……」

「私が教えてあげましょうか?」

「先生、読めるんですかっ?」

 助け船が出た……筈なのだが、驚いたアレンの表情はあまり嬉しそうではなかった。

 その理由を知ってか知らずか、ブロウズはやけに愉しそうだ。

「シャル、一つ良い事を教えてあげる」

「ちょ、先生……!」

「?」

 確信犯だと、アレンは確信した。

「現代では、特別な気持ちの籠った言葉を古代語で表す風習があるの」

「特別な気持ち……?」

「そう。この髪留めには――」

 ブロウズがそっと耳元に顔を近付けて、何かを囁いた。

「―――、っ、……!」

 途端に、シャルの肩が跳ね上がった。アレンからは見えないが、正面にいるブロウズの瞳には、首筋まで真っ赤に染まった幼い顔が口をわなわなと震わせている様子がしっかりと収められていた。

 アレンは再び先程と同じ仕草で視線を逸らしたが、こちらも頬に少し朱が差していた。

 なんとも言えない雰囲気――微笑ましいと感じるブロウズは完全に他人事だ――がしばらく蔓延する。

 が、堪え切れなくなったアレンが一歩踏み出した。

「……あー、っと……シャル……?」

「――ッ、来ないでッ!」

 突然突き出された再びの拒絶に、アレンは思わず動揺してしまった。その為、時計棟の時とは拒絶の性質が百八十度違うことには気付かなかった。

 狼狽えるアレンはさておき、同じく別の意味で動揺していたシャルは、囁かれた言葉について思考を急速回転させる。

(――ど、どどどどどういうことどういうことどういうこと!?なに、なに、何なの!?)

 ……回転は速くとも、冷静さとは噛み合っていなかったのだが。

(まさかアレンに限ってそんなことあるわけっ……でも先生は特別な気持ちって――えっ?これってつまり……?)

 湯気が立ちそうな勢いのまま、ちらりと背後を盗み見る。

 こちらを窺う少年は、どう声を掛ければ良いのか迷っているように見えた。

(いやいやいやいや、ないないないない!だってアレンよ?いくらなんでもそれ(・・)は――)

 心の中だけで思い切り頭を振りながら、「でも……」と期待を捨て切れない。アレンにシャルの考えているような意図はこれっぽっちもないことなど、本人の知るところではなかった。

 そして、シャルが恥ずかしさから背を向けているのをまだ時計棟の時のように拒絶しているのだと勘違いしているアレンは、思わず動揺してしまった心を落ち着けて、つい先刻誓った決意に従い一歩を踏み出した。

 背後から届いた雪を踏み付ける音に、シャルの意識が覚醒を果たした。

 自身の心情と、自身の状態を、前者は曖昧に、後者は嫌なくらいはっきりと自覚する。

「こ、来ないでって言ってるでしょ!?」

「いやだッ!」

 即答で、断固として、拒否された。

 一体何をそんなに頑なになっているのか、とシャルの表情に困惑も混ざる。

 というか、冗談抜きで足を止めてくれないだろうか。

 こんな、風呂も入らずボサボサな髪のまま、しかも涙で目が腫れた顔をアレンに見られたら、羞恥心だけで本当に死んでしまうかもしれない。

 焦ったシャルは無理矢理それを避ける為に、

「ッ来るなって……」

 ついいつもの調子で、

「言ってんのよ!」

 振り返りざまに、右手を払った。

「「「!!」」」

 三色の瞳に、一様に驚愕が色付いた。

 一つは、不意に頬を掠めた熱気に一瞬思考が停止した、黄金色。

 もう一つは、それまで少女を間に挟んで微笑ましげに眺めていた、蒼色。

 残りの一つは、振り払った掌からは何も出ないことを思い出した直後、そこから飛び出していった炎を焼き付けた、深緋(こきひ)色。

 十数秒、唖然とする一同。

「――シャルッ、いまのッ!」

「も、もう一度やってみてっ?さあ!」

 突然我を取り戻したアレンとブロウズが、詰め寄るように声を張り上げた(本当に詰め寄らなかったのは、突然過ぎてまだ身体が意識に付いていかなかったからだ)。

 促されたシャルは、信じられない物を見たかのような表情のまま、掌に視線を落とした。

 腕から指先に掛けて、力が入る。

 緊張と期待と不安に、顔が強張り、喉が鳴る。

 意識を、掌に集中させる――

「――ッ!!」

 紅蓮が、唸りを上げて華を咲かせた。

 燃え盛る篝火と爆ぜる火の粉に、薄明るい周囲が照らされる。

 降り注ぐ雪を溶かしながら、外も、内も、焦がしていく。

「や……」

 ほんの僅かの間咲き誇った灯火が消えたのと同時に、

「やった!シャル魔法が!先生!!」

 寒空を舞う雪の合間を縫って、歓声が響き渡った。

 校舎の壁を跳ね回る歓喜の下で、声にすら出来ない感激が、口を覆って何度も頷く。

 それらの間に挟まれながら、シャルはじっと、炎の消えた掌を見つめた。

 ポツポツと雪が落ちるそこは、微かにだが、まだ暖かい。

 その暖かみに、堪えていた想いが一気に押し寄せてきた。

「……っ、!」

「シャルっ?」

 悟られる前に、シャルはその場から逃げ出すように走り出した。

 が、

「――ひゃんッ!?」

 凍り付いた地面に足を取られて、思い切り素っ転んだ。

「シャル!だいじょう――」

 そこまで言って、慌てて駆け寄ったアレンは急停止した。

「……う、っ……」

 顔を伏せたまま、嗚咽が漏れた。

「シャル……?」

「みる、なぁ……っ!」

 シャルはなんとか顔を隠そうと腕で覆ったが、その意思に逆らって、袖の染みはさらに拡がっていく。

 少しだけ。ほんの少しだけ、我慢をやめよう。

 今なら、転んだ痛みと掏り替えられるから。

 今出てきた分だけ拭って、また我慢しよう。

「もう、最悪な誕生日よ……こんな……こんなっ……!」

 再び灯った小さな炎が、冷えきった心を優しく、ゆっくりと暖めていく。

 意思に反して、溢れる涙は先程よりもなお激しく、沸き上がる感情を『世界』へと導いていく。

 それだけでは抑え切れなくなった想いが、ついに音となって木霊した。

 闇き世界は、降り頻る氷晶に覆われた銀世界のように、白く染まっていた。



    †   †   †



 年が明けてそろそろ四時間が経とうかという頃。

 流石に新年早々一日を寝て過ごす訳にもいかないので、既に多くの家々は渋々明かりを落としていたが、レディアント家のリビングは未だに電光と暖気に満ちていた。

 しかし静まり返ったそこに充満する空気は重暗く、吐息が見えるかのような雰囲気に包み込まれていた。

 秒針が刻む音を背景音に、上履きが床を擦る音が、テーブルとキッチンの間を往き来する。

 マグカップに新たに湯気の立つコーヒーを注いで、セフィーナは視線を向かい側へと移した。

「…………」

 テーブルの上で手を組んだフェルナは、まだその奥で俯かせた顔を上げようとはしない。

 まるで祈るように、ただ何かを待ち続けている。

 ほんの僅かに、セフィーナは溜め息を吐いた。

 意外にも(?)礼儀を重んじる彼女が、夜分の来宅も憚らず、この世の終わりのような表情で玄関前に立ち尽くしていた姿を見付けたのが、二時間ほど前の話。

 当初は錯乱とも言えるほど取り乱していたが、とりあえずは落ち着いてくれた。と言っても、周囲にどんよりと纏わり付いた空気はより一層重圧を増しているが。

(まあ、無理はないけど……)

 すっかり乱れた語彙文法で聞かされたことの顛末を、整然整理しながら思い出す。

 自宅に戻った彼女は、深夜という以外の理由で静かな階段を、ある想いと共に踏み進んだ。

 この数日間ギリギリまで考え抜いた選択を、もしかしたらさらに状況を悪くするかもしれないという恐怖心を懐きながらも、胸に抱いて。

 だが扉を開ける寸前で、違和感に気が付いた。いつもは僅かに感じる人の気配が完全に消えていたのだ。

 慌てて扉を開けると、やはり部屋は蛻の殻だった。

 すぐさま家中を駆け回った彼女は、やがてキッチンで抜き身のまま放置された包丁を見付け、全身を悪寒に包まれた。

 そして自宅を飛び出し、付近を駆け回り、喉が枯れるほど呼び掛けたが、遂に見付かることなく途方に明け暮れたところへ、すっかり夢の世界へと旅立ったイリスを背負ったセフィーナがやってきたという訳だった。

 旧くからの親友の、見えない何かに伸し掛かられているようなこんな姿を目にするのは、一体いつ以来だろうか。

 快活な普段の姿からは意外に思えるが、実はフェルナは、精神的に少し脆い方なのだ。

 その癖悩み事を精神の許容量を越えるまで溜め込んでどんどん自分を追い込んでいくのだから、はっきり言って短所だと言わざるを得ない。しかもその性質は、そっくりそのままシャルに受け継がれてしまってもいる。

 今回も随分と溜め込んだようだが、セフィーナは決して自分から手を差し伸べはしなかった。それは自分の役目ではないし、今回の件に関しては特に、部外者が口を挟むべきではないと考えたからだ。

 役割分担。適材適所。

 聞こえは悪くないかもしれないが、受け取りように依っては親友にさえ冷たい女だと思われても仕方がないだろう。

 と割り切ってしまってさえいるのだから、数十年の歳月を掛けた「慣れ」というものは、本当に恐ろしいと実感した。

 セフィーナも、何も最初からこうした行動様式を取っていた訳ではない。寧ろ当初はフェルナが溜め込んでいるのを鋭敏に察知して、積極的に――過保護、と言っても良いくらい――相談相手として名乗り出ていた。

 しかし長い付き合いの中で培った経験が、それは自分の役目ではないという答えを導き出した。

 だから、セフィーナは何も言わない。

 ただこうして傍で見守ることが、自らの役割だと割り切って。

(直接支えるのは――)

 不意に玄関の扉が開閉される音が聞こえて、思考を中断した。

 この早朝とも言える時間に家を訪れる者は限られている。

 一人は泥棒。もう一人は飛び出していったきりのアレン。

 しかしリビングの扉の先に現れた人物は、そのどちらでもない、良く見知った褐色の短髪と瞳の男だった。

 初めからその人物だと判っていたセフィーナは、視線と共に労いの言葉を向ける。

「お疲れさま、アルバ。……どうだった?」

 窺うように訊ねられた男は、無言のまま首を横に振った。

 アルバ=アダマス。

 アルモニア王国軍魔導騎士団特別顧問にして、フェルナの夫――つまりはシャルの父親だ。

「そう……」

 普段は王都に居を構えるアルバがガーデンへ到着したのは、セフィーナが帰宅した直後だった。

 共に顛末を聞いた彼は、取り乱したフェルナをセフィーナに任せ、自警団――独立都市のガーデンに王国軍は駐屯していない――と共にシャルの捜索に参加していた。

 その彼が何も言い出さなかったのだから訊かずとも判っていたのだが、案の定だった答えに余計気落ちする羽目になってしまった。

「捜索はまだ続いている」

 静かで厚みのある、硬質な声が耳に届いた。

「長引きそうなので先に休むよう伝えに来ただけだ。またすぐに出る」

「なら、一杯だけ飲んでいって?暖まるから」

 有無を言わさず新たに出されたカップに注がれたコーヒーを見て、アルバは已む無くといった風にコートを脱いだ。

 鍛え抜かれ引き締まった筋肉が、決して大柄ではない肉体を実際よりも大きく見せる。

 魔導騎士団の魔導師も、魔導師の基本戦闘スタイルに基づいた戦い方をするのだが、直接戦闘を主とする戦士・魔導戦士タイプの指導をこなすのだから、生半可な鍛え方ではやっていけないのだろう。かといって無駄な筋肉は一切ないし、魔導師タイプの指導もこなさなければならない為、当然魔法にも長けている。

 無口で素っ気ない外見とは裏腹に(?)頭脳派、というのが若かりし頃に抱き、現在も変わらない彼に対する印象だった。

 ふと、そのアルバの視線がこちらへ集中していることに気付いた。

 熱烈――でも何でもない眼差しから読み取り、セフィーナはそっとリビングを出ていく。

 背中を追ってきた申し訳なさを、扉を閉めることで遮断した。

 意外と気遣いも出来る、というのもまた、彼に抱く印象の一つだ。もっとも強引にコーヒーを淹れた理由が解っていないのだから、受動的な人の言動の機微には疎いのだが。

『――そこがまた、ね?――』

 恥ずかしさの混じった微笑みを思い出して、口元が緩んだ。

 無口で、素っ気なくて、自分から手を差し伸べてはくれないけれど、倒れ掛かった時に支えてくれる。

 どれほどぶつかられても決して折れたりしない、まるで大樹のような人。

 だから、惹かれたのだと。

『――あんたが相手じゃ、絶対遠慮しちゃうもの――』

 初めて聴かせてくれた本音に、嬉しさと、寂しさを覚えた。

 自分では決して親友の力になれないのだと突き付けられた気がして、嫉妬にも近い感情を当時覚えたことも、憶えている。

(今にして思えば、私も若かったのねぇ……)

 などと感慨深げに息を吐いたところで、これでは本当に年増ではないかと自嘲して(実年齢はともかく、精神的にはまだまだ若いつもりなのだ)考えるのを止めた。

 代わりに、行方知れずの二人を思い浮かべる。

 シャルと共にアレンも捜索されているのだが、そちらに関しては、実はそれほど心配していない。

 ガーデンの治安の良さもそうだが、今回は夏の事件とは違いアレンに危険はないと、そう直感が告げているのだ。

(我が子ながらあれでそこそこしっかりしているし、案外シャルちゃんを見付けて一緒にいるんじゃないかしら?)

 とシャルに関しての(・・・・・・・・)希望的観測を持って心中呟いたが、まさか本当にそうなっているなどとは露ほども知らないセフィーナだった。

 そこへ突然、扉の向こう側でけたたましい音が鳴り響いた。電話の呼び鈴だ。

 中に入ろうか迷ったが、しばらくすると音が止み、微かにだがアルバの声が聞こえてきた。

 すぐに自分を呼びに来るだろうと思い、セフィーナは扉の後ろで待機する。が、一向にその気配はなく、代わりに届いたフェルナの声に眉を寄せた。くぐもって内容は聞き取れないが、何やら興奮ぎみに叫んでいる。

 様子を窺うようにそっと扉を開こうとすると、手がドアノブに触れる直前でリビングの側へ開き、中から誰かが飛び出してきた。

「ちょ、フェルナっ?」

 一目散に開け放たれた玄関扉を呆然と見つめて、セフィーナは同じく開け放たれたままのリビングへと視線を移した。

 肩を竦めたような無表情を浮かべるアルバが握っていた受話器は、まだ繋がったままだった。



    †   †   †



 ――怖かった。

 どの道を選ぼうとも苦しむことが解っていたから、自分の手で苦しませるのが怖くて、沈黙を選んだ。

 日に日に閉ざしていく心に触れるのが怖くて、また触れたら糾弾されるのではないかという恐怖から、どうすれば良いのか解らなくなり、距離を置いた。

 置いた距離は知らぬ間に溝へと変わり、溝はやがて谷へと変じた。苦悩の末なんとか橋を渡したが、裂け目は大きく底は深く、そして時を刻む毎に拡がっていく。

 向こう側へ渡るには、この足場はあまりにも頼りない。奈落へと続く闇に落ちるのが怖くて、苦労して掛けた橋を渡る決心が着いた時には、既に橋は底へと沈んでいた。

 今度こそ、本当に手遅れかもしれない。そう考えた途端、失う恐怖が身体にこびり付いた。

 失いたくないという想いだけが、胸の内側で渦を巻く。思考を止めて、ただ手を組んだ。

 ――ふと、それでは駄目だという声がした。

 祈るだけでは、考えるだけでは駄目なのだと。

 立ち上がれ。

 顔を上げろ。

 恐怖が身体を竦ませるのなら、勇気を以て心を奮わせろ。

 失いたくないのなら、決して離さぬよう掴み取れ。

 心に触れて咎められるのなら、逃げるのではなく受け入れろ。

 苦しませるのが嫌ならば、共に苦しみ歩んでゆけと。

 トンッ、と軽く、背中を押された。

 躓き掛けた勢いのまま、徐々に駆け足となる。

 駆け足はやがて形振り構わぬ疾走に変わり、眼前に立ちはだかる渓谷へと駆け抜けていく。

 最早どんな橋も掛けられないほど拡がった谷間への、その最後の一歩を。

 喉を鳴らし、歯を喰い縛り、拳を握って、大きく跳んだ。



    †   †   †



 一段落着けて、シャル達はブロウズの家へと移動していた。

 というのも、あのままでは(寝間着のままの)シャルが風邪を引いてしまうからだ。

 思わず力が抜けてしまう暖かみを身体の芯まで十二分に染み渡らせたシャルは、リビングに向かいながら、血の気を取り戻した掌を見つめた。

 夢や幻などではない。確かに、そこにあった。

 今ここで念じれば再び顕れると、確信出来る。

 自分は、『力』を取り戻したのだ。

 もしかしたら分家に移らなくても済むかもしれない。そう思うと、計り知れない喜びが身の内で踊ろうとしているのが解る。

 だが……。

「……ッ」

 脳裏にあの光景(・・・・)が蘇り、歓喜を恐怖が押さえ付けた。

 また、この『力』が大切な人を傷付けるかもしれない。

 今度は、傷付けるだけでは済まないかもしれない。

 その「もしかしたら」が、温もりを帯びた筈の身心を、徐々に、確実に冷やしていく。

(――嫌ッ!)

 声にすら出せず、伏せるように座り込んだ。

 『力』を失ったまま生きるのはまさに地獄のような苦しみだったが、止めようと必死に足掻いても自らの手に依って大切な人が傷付いていき、そしてそれを目の当たりにさせられるのは、さらに身を引き裂かれるように辛い。

(また、あんな想いをするくらいなら――)

「シャル?」

 不意に、前方から声が届いた。ブロウズだ。

 暖かそうなセーターに身を包んだ老女は、心配げに眉を寄せて、シャルへと歩み寄る。

「どうかしたの?どこか具合でも悪いの?」

「先生……」

 一瞬、口を開き掛けたシャルは、言葉が喉を通る前に、再び口を噤んだ。

 話して、良いものだろうか。

 折角この身を救って貰ったのに、こんな気持ち(・・・・・・)を吐露して、許されるのだろうか。

 表情に浮かんだ迷いに気付いたのか、しゃがんだブロウズの手が優しく頭を撫でた。

「弱音を吐くのに『資格』は要らないけれど、何でもかんでもすぐに話す事は、必ずしも本人の為になるとは言えないわ。自分自身と向き合う努力も、生きるうえでは必要な事なの」

 距離の近付いた瞳からは、柔らかな、淡い蒼の輝きが放たれていた。

「もし今何かに迷っているなら、何度でも、ゆっくりと考えてみなさい。悩んで悩んで、それでも答えが見付からなかった時は、いつでも相談に乗るから」

 「ね?」と微笑んだブロウズに、結局シャルは、もうしばらく考えてみることを選んで、頷いた。

 まだ『力』を取り戻したばかりということもあったし、何より、今のこの『力』が、どこか以前とは違うように感じられたからだ。

 そう、何かが足りないのだ(・・・・・・・・・)

 それが何なのかは判らないが、その足りない何かを取り戻せば、大切な人を傷付けずに済むかもしれない。そんな、直感とすら言えないようなぼやけた感覚を、シャルは覚えていた。

「さあ、行きましょう。アレンがリビングで待っているわ。それに、そろそろ着く頃だろうから」

「着く?」

「貴女がお湯に浸かっている間に、お母様に連絡を入れておいたのよ」

 立ち上がったブロウズの手を取りながら首を傾げたシャルは、思わず、立ち上がろうとしていた身を固めてしまった。

 狼狽える少女を見て、ブロウズは小さく息を吐いた。

「不安なのは解るけれど、逃げてばかりいては何も解決しないわよ?」

 随分と虫の良いことを言っているな、と自嘲しながらも、老女は言葉を続ける。

「こういう事は早めに済ませておいた方が良いの。でないと溝がどんどん大きくなっていって、取り返しが着かなくなってしまうわ」

「でも――っ!」

 言い淀んだところへ、玄関の呼び鈴が鳴った。

「あらあら。噂をすれば、ね」

 上履きをパタパタと鳴らしながら、ブロウズが少し駆け足で玄関へと向かう。

 扉を開けた拍子に、冷たい外気が屋内へと流れ込んだ。ちらりと見えた外は、僅かだが明るみを帯びている。

 その手前の玄関先に、自分と同じ緋い髪の女性が佇んでいた。

 頬を紅く染め、息を切らしている母は、この寒空の中、コートも身に付けず汗を掻いている。

 同じ輝きを纏う視線が、重なった。

「っ……」

 声が出ない。息が詰まったようにさえ感じる。

 たったの一月言葉を交わしていないだけで、接し方を忘れてしまったかのようだ。

 口の中が乾き、掌が汗ばんでいく。

 ふと、こちらを見つめるブロウズに気付いた。同時に、雪の中での言葉を思い出した。

 言わなければ。ぶつけなければ。

 辛かったと。苦しかったと。

 傍にいて欲しかったと。傍にいて欲しいと。

 言葉を選ぶうちに、自分の中に、両の指では足りないくらい伝えたいことが沢山あると気付いた。

(駄目ッ……!)

 それでも、その言葉達はシャルの喉元から腹の底へと引き返した。

 もし、言って拒絶されたら?

 「今日からあなたは他の家の娘よ」と言われたら?

 怖くて、何も言えない。

 伏せぎみになっていた視線を、窺うように戻した。

 既に数時間が流れたようにさえ感じられたが、実際は三分と経っていないだろう。

 未だ玄関で立ち尽くしているフェルナも、いつの間にか視線を伏せていて顔色は窺えなかった。

 何を、考えているのだろうか。

 何故、何も言わないのだろうか。

 不安だけが、膨らんでいく。

 ほんの少しだけ勇気を振り絞って、こちらから声を掛けてみようか。

 そう、考え始めた頃。

 突如、沈黙していたフェルナが動いた。

 玄関を越え、ほんの僅かに空いた距離を駆け出したフェルナは、

「っ、……!?」

 勢いもそのままに、シャルを抱き締めた。

 あまりに突然の事態に、幼く緋い瞳が動揺に彩られた。

 まるで二度と放すまいとしているかのように、ギュッと締め付けてくる。

 抱き締める力は強く、ブロウズの柔らかなそれとは正反対なものだった。

 ふと、思った。

 今、この頭の後ろの表情は、どんな色を帯びているのだろうかと。

 さらに込められていく力に息苦しさすら感じられてきて、思わず抗議の声を上げようとすると、

「……ごめんね」

「!!」

 ただ一言が、零れ落ちた。

 それはポツリと辿り着くと、波紋となって空気を揺らした。

(あぁ……)

 沈黙の水底へと沈んだ言葉を、シャルはゆっくりと掬い上げる。

 なんとなく、頭越しの表情が解った気がした。

 目を細め、空いた両手を背中に回して、皺を作る。

「……うん」

 伝えたい言葉は沢山あったが、シャルも同じく、ただ一言だけを返した。

 伝えたい想いは、たったの一つだったことに気付いたから。

 先刻のものとは正反対にきつく締め付けるこの抱擁から、その時と同様の想いが伝わったから。

 それは、この胸の内に抱いたものと同じで、



 ただ、愛しいという想いだった。



    †   †   †



「シャル、はやくっ」

「ちょ、待ちなさいよ!」

 一眠りして、アレンとシャルは走っていた。

「何なのよ、もう!」

 少し前を行く背中を追うシャルは、顔を顰めながら悪態を吐いた。

 昼が少し過ぎた頃、突然アレンが押し掛けてきて、有無を言わさず連れ出されたのだ。

 理由も訊けぬまま路線馬車に乗り、降りた途端に走らされたシャルの胸の内には、既に溢れんばかりのイライラが募っていた。

「ちょっと!いい加減何なのかくらい教えなさいよ!」

 少し衰えた体力の所為で肩で息をしながら、前方へと声を投げ付けたが、

「着いたらわかるよ!」

 とこればかりで一向に教える気配がないので、益々苛々した(普段の自分の行動は完全に棚上げ状態だった)。

 一方、前を走るアレンが感じていたのは、苛立ちではなく冷や汗と焦りだった。

 本来ならもっと余裕を持って出掛けるつもりだったのだが、結局明け方まで起きていた所為で大寝坊をしてしまったのだ。

 さらに起きた直後に馬車を飛び出していった件でセフィーナから黒い笑顔の説教を受けたので、時間は本当にギリギリのところまで迫っていた(然程心配してはいなかったが、夜中に一人で彷徨いたことに関しては良しとしないのが親心であり、結果的にシャルが助かったのだから良いではないかと不満に感じるのが子心だった)。

 しかも先程からアレンは犇々(ひしひし)と背中に苛立ちがぶつかってきているのを感じており、走る理由を教える訳にもいかず、馬車の中も走っている最中もはぐらかし続けていたので、いつこのイライラが爆発するかと戦々恐々としているのだった。

(……でも、良かった)

 そんな状況にあるというのに、心の中ではじわりと安堵が拡がっていた。

 あの真っ暗な部屋で踞っていた時とは違い、緋い瞳に戻った光は、力強く輝いていた。そこに色付く感情が例え苛立ちであろうとも、それはシャルが一歩前に踏み出せた証だった。

 魔法も戻ったことだし、これでシャルがイグニスの分家に移らなければならない理由はなくなった筈だ。今まで通り、この街で一緒にいられるだろう。

 本当に良かった、とシャルが感じていた"『力』の違和感"に気付いていないアレンは、感慨深げに心中息を漏らした。

 それぞれがそんなことを考えながら、雪が止み、陽の光を眩しく跳ね返す白い道に、四足の跡を刻んでいく。

 やがて見えた大きな屋敷の前で、立ち止まったアレンに続く形でシャルも足を止めた。

 王都のイグニス邸ほどではないが、立派な格子門を構えたその屋敷は、一般居住区に立ち並ぶ住宅群の中でも一際広い敷地を有していた。

「何、ここ……?」

 見覚えのない屋敷を見上げたシャルの傍らで、アレンは門に備えられた呼び出しボタンを押した。

 約束の時間を過ぎてしまったが大丈夫だろうか、と少し不安を抱く。

 しばらくすると、門と庭の先にある屋敷の入口が開き、青紫の髪をおさげにした少女が現れた。

 少女は一度驚いたように停止すると、すぐに我を取り戻して小走りで門前へとやってきた。

「もうっ、アレン君遅刻だよ?」

「うっ、ごめん……」

 少しジト目でアレンを一瞥した少女は、今度はシャルへと柔らかい笑顔を向ける。

「久しぶり、シャルちゃん」

「……オリヴィア、ここ、あんたの家だったの?」

「うん。とにかく二人とも上がって?」

 若干面食らっているシャルには構わず、手早く門を開いたオリヴィアは二人を屋敷へと招き入れた。



 工業区の「ウィンスレット魔導商店」はあくまで魔具中心の商店であり、多種多様な品々を扱うウィンスレット名目の商店はその殆どが商業区(もしくは大陸内外の街々)に点在していて、彼ら自身は一般居住区で生活している(ちなみにロイの家は、頻繁に魔導商店地下の工房へ出入りするのでその裏手にある)。

「シャルちゃんは、ウチに来たのは初めてだったよね?」

「え、えぇ……」

 洋館の装いを持った屋敷内を歩きながら、シャルはあちらこちらへと視線を彷徨かせていた。

 屋敷の広さならイグニス邸の方が遥かに勝っているのだが、初めて訪れた屋敷でしかもそれが友人宅だったともなれば、戸惑いと好奇心に思考が揺さぶられても栓無きことだった。

「わたし、てっきりお店の二階に住んでるんだと思ってた」

「一応寝泊まりできるけど、お店の用事とかロー君たちのお手伝いで使うくらいだよ。あっ、でもね?たまに内緒でロー君と遊んでるの。秘密基地みたいだ、って」

 「内緒だよ?」と少し悪戯っぽく笑って、オリヴィアは人差し指を口元へ持っていった。

 彼女とロイが幼馴染みというのは知っていたが(だからこそ店に住んでいると思ったのだ)、まさかこんな豪邸に住んでいるなんて思ってもみなかったシャルは、知り合って四年目にして改めて、この下町風な笑顔が似合う素朴な少女も、自分の実家と成り立ちが違うとはいえ、一貴族のお嬢様なのだと認識した。

 と、それはさておき。

「……で、何でここに連れてこられたのよ、わたしは」

 そう、隣に並ぶ形で少しだけ前を歩くオリヴィアに案内されるがまま付いていっているが、シャルは未だ、ここに来た理由を知らされていないのだ。あれだけ走らされた訳も。

「えっ、と……」

 言い淀みながら、オリヴィアはふとシャルの髪を纏めているのがいつもの黒いリボンではなくなっていることに気付いた。

 オリヴィアの視線を辿って同じくそれに気付いたアレンは、萌葱色の瞳が優しい輝きを帯びてこちらへと向いたので、後頭部を掻きながら視線を逸らした。

「……? 何よ?」

「ううん、なんでもないよ。それより、今日来てもらった理由なんだけど……」

 二人の様子を怪訝に思って訊ねたシャルは、実に嬉しそうな声ではぐらかされて益々怪訝な顔付きになった。しかし半ば無理矢理本題へと戻されたので、追求は諦めざるを得なかった。

 とにかくようやく用件を聞けると思い、シャルは続きに耳を傾ける。

 と思いきや、そこでオリヴィアが立ち止まった。

 何事かと見ると、傍にあった両開きの扉が目に入った。

 促すように、オリヴィアが扉の脇へと下がる。

 振り向くと、アレンもまた、促すように頷いた。「入ればわかる」とでも言いたげな表情だ。

 もう一度扉に視線を戻して、シャルは一歩進み出た。

 少し緊張した面持ちで取っ手に手を掛け、ゆっくりと押し開くと――



 ――パンッ、



 という短い破裂音を銃爪(ひきがね)に、同様の音が次々と鳴り響いた。

 一瞬思考が停止したシャルは、最後に少し遅れて背後から届いた破裂音に我を取り戻した。

 振り返った瞳には、中身が飛び出したクラッカーを手に微笑むアレンとオリヴィアが映った。

 誰かが一息吸い込んで、視線を戻す。

「せーのっ」

「「お誕生日、おめでとう!!」」

 微妙にズレた掛け声が、明るく鼓膜を揺らした。

「シャルちゃん、久しぶりー!」

「あけましておめでとーっ!体、大丈夫?」

「おいアレン、おせぇよ!」

「罰としてメシ抜きだかんなー」

 ざっと十四、五人ほどだろうか。料理を乗せたテーブルを幾つか合わせ、色紙や小道具で装飾した部屋で、クラスメイト達の声が怒涛のように押し寄せてきた。

「これ、クッキー焼いたの。初めてだったからちょっと形が悪いけど、味は大丈夫だからよかったら食べてみて?」

「わたしはねー、本っ。夏休み前に話してたやつっ」

「俺たちは最近流行ってるオモチャ、小遣い出し合って買ったんだぜイグニス!」

「えっ、や、ちょっ……!?」

 今にも前のめりに倒れそうな勢いでプレゼントを渡してくる友人達に狼狽えながら、シャルは助けを求めるようにアレンとオリヴィアに振り返った。

「アレン君とロー君とね、シャルちゃんのお誕生日会をしよう、ってなって、みんなに手伝ってもらったの。マリーちゃんとかアルベルト君たちとか、家の用事で来られなかった子も結構いたんだけど……」

 親族の挨拶回りもあるし、特に貴族の子はその手の用事で新年は忙しい。寧ろこれだけの人数が揃っただけでも十分だろう。もっとも、用事がなくてもアルベルトが来るとは思えなかったが。

「みんなすごく心配してたんだよ、シャル?お見舞いに行ってもどうすればいいのかわかんないし」

「ホントは、今日来てくれるかも不安だったんだけどね。でもよかった、シャルちゃん、なんだか元気になったみたいで」

「オリヴィア……」

 ホッとしたような、それでいて嬉しそうな表情だ。本当に心配してくれていたのだと感じて、シャルの目頭が熱くなる。

「うりゃーっ、どいたどいたーっ」

 不意に、それまで姿が見当たらなかったロイが台車を押して部屋へ入ってきた。突然背後から間の抜けた声で現れたので、熱くなり掛けた目頭が一気に冷めてしまったのを感じた。

 適当なスペースに止められた台車に乗っていたのは、大きな箱だった。

「ロー君、ありがと」

「おう」

「それ、何?」

 若干呆れた声で訊ねたシャルに、オリヴィアが微笑む。なんだか少しだけ得意げだ。

「わたしからのプレゼント。ロー君にも、ちょっとだけ手伝ってもらったけどね」

「ちょっとじゃねぇよ、かなりだろ。半分くらい俺がやったじゃねぇか。合作だ合作」

「まあまあ、早く開けようよ」

 口喧嘩が始まりそうなところを苦笑混じりのアレンに宥められて、ロイは不服ながらも箱を持ち上げた。

 上から被せていただけだったらしい箱が取り除かれ、中身が衆目に晒される。

 大きな、二段積みのホールケーキだった。綺麗に塗られた白のクリームを基調として、イチゴや飴細工などがシャルのシンボルカラーである赤を見事に彩っている。本当に二人だけで作ったのか疑わしくなるほどの出来栄えだった。

「!」

 突然、部屋の明かりが落ちた。

 遮光カーテンを閉め切っていたらしく、暗闇がその場を支配する。

 そこに、

 ――ぽつ、ぽつ、と。

 暗闇の中で、火が灯った。

 それはまるで紙に筆を走らせるように、滑らかに文字を綴る。

 『ハッピーバースデイ、シャル』と。

「っ、……!」

 ケーキの天辺に突き立てられた蝋燭の上で、小さな灯火が揺らめいた。

 こんな風に自分が生まれた日を祝って貰えるなんて、考えもしなかった。

 自分の為に集まって、準備して、プレゼントまで用意してくれて。

 言葉では言い表せられないくらい、嬉しくて堪らない。

 しかし逆に、暗い部屋に閉じ籠って自分勝手に孤独だと思い込んでいたことが、非常に居た堪れなかった。

 一方的に自分の『世界』から切り離しておいて、この優し過ぎるもてなしを、素直に受け取って良いのだろうか。それは果たして、許されるのだろうか。

 暗がりの中でシャルの躊躇いに気付いたのは、やはりというか、アレンだった。

「シャル」

 呼び掛けるだけで、はっきりとは口にしない。

 それでもシャルには、僅かな明かりに煌めく黄金色の瞳が、こう言っているような気がした。

 大丈夫、と。

 気の所為かもしれないのに、そう思っただけで不思議と気が楽になった。

 視線を戻して、シャルはケーキへと歩み寄った。

 邪魔にならないよう髪を押さえて、ゆっくりと顔を近付ける。

 吹き掛ける息は、優しく、ほんの少しだけ強く。

 僅かに抵抗を見せた灯火は、躊躇いを振り払うように、綺麗に煙を上げた。

 すぐに降り注ぐ、拍手の雨。誰か残していたのか、一つだけクラッカーが鳴った。

(ああ……)

 一瞬訪れた暗闇の中で、シャルは再び目頭が熱くなっていくのを感じた。

(もう、泣いてばっかり。駄目よ、また皆が心配するじゃない)

 悲しい筈がないのに、出てくるのは涙ばかりだ。だがそれでは、折角祝ってくれている皆に申し訳ない。

 さあ、笑おう。

 崩れそうになる顔を踏ん張らせて、周囲を見渡す。

「……みんな、本当に――」

「――ご、ごめんなさい!おくれ、ちゃ……!」

 言葉の途中で、またしても部屋に誰かが、それも勢い良く扉を押し開いて現れた。

「アクア……!」

 普段おっとりとしている紺青色の少女が、頬を紅潮させ、両膝に手を突きながら顔を上げる。

「シャル、ちゃん。お誕生日、おめでとう」

「あ、ありがと……!」

 ようやく呼吸が整ってきたらしく、アクアはオリヴィアの柔らかな笑顔をさらに優しくしたような微笑みを浮かべて、包装されたプレゼントを差し出した。

 完全に予想外の人物に狼狽えながら、シャルはそれを受け取った。

 アクアと同じクラスになったのは今年度で二度目だが、これまであまり話した憶えはなかった。アクアは大体いつもノアと二人でいるし、シャルも他の女子達と一緒にいることが多いからだ。正直、新年の忙しい中態々誕生日を祝いにきてくれるような間柄ではないと、言わざるを得ない。

 それは他の面々も同じ考えだったが、一月前の上級生とのいざこざで少しだけ距離を縮められたおかげで、アレンだけは他より受けた衝撃が少なかった。

 故に、別の事柄に注目するだけの余裕があった。

「あれ、ノアは?」

 シャルもオリヴィア達もここで初めて、まるで汚い虫を寄せ付けないかのように、常にアクアと共にいる漆黒の少年の姿がないことに気付いた。

「んと、ウチの孤児院、新年は忙しくて大人の人がいないから、年長のわたしたちが下の子たちの面倒を見なくちゃいけないんだけど、ノア君が『行ってこい』って言ってくれたの。それでも時間いっぱいまで手伝ってたら馬車に乗り遅れちゃって……」

 尻窄みになったアクアは再び申し訳なさそうな顔をしたが、シャルはそれよりもあの(・・)ノアが後押ししたことに意外感を拭えないでいた。

 なんだか余計に、止まっていたものが込み上げてきた。

「……その、開けても良い?」

「もちろん」

 にっこり頷かれたシャルは、包装紙を綺麗に解いていく。

 いい加減堪えるのも限界に近いと感じながら、箱を開けた。

 取り出されたのは、可愛らしい熊のぬいぐるみだった。

 実に女の子らしいプレゼントだと、その場の全員が思った。この可愛らしいぬいぐるみを選ぶ少女の姿を思い浮かべて、男子だけでなく女子までほんわかと和やかな顔になる。

「それね、ノア君が選んでくれたの。自分は行けないからって」

「……え?」

 ところがぬいぐるみを手に取った人物が突然仏頂面をした黒髪の少年と入れ替わり、一斉に吹き出し掛けた(少年が妙に自分の選んだ物を勧めた理由を知る者は、当然いる筈もなかった)。

「プッ、」

 しかし真っ先に吹き出した人物を見て、喉元まで来ていた衝動が収まった。

「アハ、アハハハハッ!」

「しゃ、シャル……?」

「だ、だってノアよ?あのノアがぬいぐるみなんて、アハハッ!あ~もう、お腹痛い!」

 これでもかというくらい腹を抱えて笑い声を上げるシャルを、その頬を伝う涙を見て、アレンも、オリヴィアも、アクアも、その場にいる全員が穏やかな表情になった。

 その中心で、シャルは笑い続ける。

 自分を迎えてくれる温もりが、酷く心地良い。

 消え掛けていた繋がりが、形を確かなものにして結び合う。

 ブロウズの言っていたことが、解った気がした。

 この暖かな場所が、『世界』なのだ。



    †   †   †



 長時間の揺れで疲れた身体を揉み解す。

 出発する前は深い霧に包まれていたというのに、辺りは既に明るく、冷たい空気に混じって潮の香りが仄かに漂っている。

 通り過ぎた広場は人々で賑わっていて、新年の挨拶で他の街から訪れた人も多くいるようだった。また逆に、普段仕事で王都へ出てきている人は、今頃田舎でのんびりと寛いでいることだろう。

 前者であるシャルは、両親に連れられてランドハウスで朝早くにガーデンを出発し、少し前にイグニス邸へ到着したところだった。

 四人掛けの車体は三人で乗る分には不自由しないとはいえ、やはり長時間の乗車は寝て過ごしても身体が疲労を覚えたようで、肩やら腰やらが妙な違和感を覚えていた。

 欲を言うと転移装置を使えば楽に来られたのだが、一度の使用に掛かる費用は馬鹿にならず、また今後の展開次第ではなるべく浪費は抑えなければならないらしく、そしていつもそうしているからという最も大きな理由で、早朝から真昼までの小旅行的な時間を味わうこととなったのだった。

 到着して早々にベルナデットや他の侍女達に身嗜みを整えられたシャルは、同じく正装した両親と共に、一月前と同じ食卓に着いた。

「…………」

 『火の一族』イグニスは女系一族だ。代々女性が当主を務め、分家の者もみな婿養子を迎えて家名を名乗らせているが、一族としての権限、そしてその『力』は、全て彼女達に有る。生まれてくる子供の殆どが女児ということも、その流れが形成された理由の一つだろう。

 また授かる加護も火属性ただ一点のみで、故にこその通り名であり、髪にせよ瞳にせよ、それぞれが濃いなり薄いなりに火を印象付ける色を帯びている。

 あちらこちらに赤がちらつく食卓は、何かに引っ張られているかのように、張り詰めた空気に満たされていた。食器がカチャカチャと奏でる音に混じって、ギシギシと空気が軋む音さえ聞こえてきそうだ。

 誰も彼も、視線は食卓の上だった。親戚の中には乳幼児もいるが、そちらは別室で侍女達が面倒を見ているので、泣き出して騒がしくなるということはない。

 そんな身動ぐことさえ憚られる雰囲気の中、シャルはこっそりと、長い食卓に視線を行き渡らせた。

 左手、食卓の一番奥の全員を見渡せる席には祖父母が、そこから部屋の入り口へ向かって叔母夫婦達とその娘達が、年功序列に従って腰を下ろしていた。

 シャルには五人の叔母がいる。つまりフェルナは自身を含めた六人姉妹の長女であり、同時に最も強い『力』を持つが故に、幼い頃からイグニス家の次期当主という立場にあるのだ。瞳髪一色の(あか)が、その『力』の強さを文字通り色濃く表していた。

 だがだからこそ、ガーデン卒業後も学友との冒険にかまけて次期当主としての役目を二の次とし、あまつさえ家督を継ぐ可能性の高い実子をどこの馬の骨とも知れぬ平民出の男との間に設けたことが、妹達からの隠すつもりすらない反感を買ってしまい、この押し潰されそうな空間を作り出しているのだった。表立って口にはしないが、内心ではシャルが『力』を失った件について「やはり平民の男との子だから」とか思っているのだろう。

 祖父エドワードも娘達の険悪な空気は理解しているのか、普段の鬱陶しくなるくらい快活な話し声はすっかり鳴りを潜めていた。もっとも先程からチラチラと隣を窺っている様子から察するに、そろそろ限界が近いようだが。

 年功序列に座っていると言っても、歳の順に沿っているのは叔母達だけで、その夫と娘の歳はバラバラだ。特に娘――シャルの従姉妹達の中には、シャルより年上の少女もいる。

 ふと一番端の席に座る女の子と目が合ったが、すぐに視線を逸らされた。末の叔母の娘で、シャルより三つ下の子だ。

 従姉妹同士の仲は叔母達ほど悪くないが、年に数度しか会わない為良いとも言えない。だからその少女の行為自体に不満はなかったが、その瞳にまるで無視されたような冷たさを感じたのにはなんだか思うところがあった。

「……さて」

 が、左手から声がしたのでそれ以上の思考をやめた。

 食事の手を止めたみなの視線が、一点に集中した。

 祖母フィオナは、それを一手に受けながら言葉を続ける。

「全員に、大切なお話があります」

 来た。シャルは自分の身が少し強張ったのを感じた。

 両親と話し合い、覚悟も決めた。けれどやっぱり、不安が付き纏う。

「先頃伝えたと思いますが、二代先の後継者について、少し事情が変わりました」

 テーブルの端の空気が揺れた気がした。

「次代の当主は変わらずフェルナですが、その次の後継者だったシャーロットには春にいずれかの家の養女へ入って貰い、代わりにセシルを第一当主候補とします。セシルは基礎課程を終えたらガーデンへ入学しなさい。先導者としての資質を磨くのに、あそこ以上に環境の整った場所はありません」

「はい、おばあさま」

 他の者達は声を潜めて話すことさえしない。シャルよりもさらに幼い声だけが、淡々と頷いた。

 先程目が合った、瞳髪共に紅色をした少女のものだ。彼女もまた、『力』を失う前のシャルには劣るものの、当主としての資質は十分に足るとされる人物だった。

 シャルの一件が通達された際にはまだセシルが空いた枠を埋めることは知らされていなかった筈だが、シャルに次ぐ資質の持ち主として他の叔母達から(あわよくばその座を奪えないものかと)期待されていたので、予想するのは簡単だったのだろう。少し場の空気が緩んだのは傍目から見ても明らかだった。

「但し、あくまでも貴女は候補(・・)です。浮付いて精進を怠っていると別の者に継がせるので、そのつもりでいなさい。他の者も状況次第では取って代わる事は十分にあり得ます。そのつもりで日々を過ごしなさい」

 途端に、浮足立っていた空気が先程とは別の意味で張り詰めた。

 シャルという大きく離れた存在の所為で夢見ることすら許されなかった当主の座が、僅かではあっても垣間見えたのだ。その重要性を理解出来る歳に至った従姉妹達の、またその母達の間で、火柱が激しくぶつかり合った。同時に女性陣の対抗心に付いていけない男性陣が、互いに目配せして揃って肩を竦めた。

「お母様、宜しいでしょうか」

「……何か?」

 卓上の戦場を縫って、フェルナが声を発した。たちまち衝突し合っていた火柱が、一斉にそちらへと矛先を変えた。

 肌が焼かれそうな視線をまるで無視する母に促されて、打ち合わせ通り、シャルは立ち上がった。

 何をするつもりなのか、と叔母一家達が眉を寄せる中、シャルは自身の心臓を落ち着ける。

 そして、正面に差し出した掌に、炎を灯した。

「!!」

 祖父母を含め、全員が目を見開いた。当然だ。みなシャルの『力』は失われたと思っていたのだから。

 セシルの栄進には空気に漂わせるだけで平然としていた叔母達も、この現象には動揺を隠し切れなかった。

「静かになさい」

 特別張り上げた訳でもない声に、ざわめきがピタリと収まった。

 祖母は短く問う。

「それで?」

「シャーロットの養女の件を、白紙に戻して頂けませんか?」

「それは、後継者としての立場へ復帰させたい、という事ですか?」

「はい」

「――お母様ッ!!」

「黙りなさい」

 思わず立ち上がった末の叔母を、フィオナが間髪入れず制した。

 悔しそうに押し黙る妹を傍目に、フェルナは続ける。

「御覧になられた通り、シャーロットは『力』を取り戻しました。『力』が戻った以上、この娘に家督を継がせない道理はありません」

「戯言はお止し下さい、姉様ッ!」

「黙りなさいと言った筈です」

「いいえお母様、これが物申さずにいられましょうか!?その子の、シャーロットの炎はただ炎の形を成しただけの虚仮威しではありませんか!そのような中身の無い『力』で当主となるなど、一族に対する侮辱以外の何物でもありません!」

 悲鳴のような抗議に、場が再びざわめいた。

 そう、炎の形をしてはいるが、シャルの炎には中身がないのだ。学園でアレンに襲い掛かったユーグの炎と同じく、中身の詰まっていない炎は張りぼてに過ぎず、それでは『力』を失ったままと然して変わらなかった。

 これこそがシャルの感じていた違和感で、これ以上のものを作り出そうしても、頭を過る映像と共に激しい頭痛や嘔吐の衝動に見舞われてしまい、魔力は形すらも成せず霧散してしまう。

 シャルが感じた通り、何か(・・)が足りないのだ。

 今のシャルは年下のセシルに遥か劣り、そしてそれを取り戻さなければ、真に『力』を取り戻したことにはならないだろう。

 流石にイグニスの血を引くだけあって、叔母達の目は誤魔化せなかったようだ。もっとも、現当主たる祖母の眼をも誤魔化せるとはシャルもフェルナも思っていなかったので構わなかったが。

「いい加減になさい。そうだとして、姉妹の中で遥かに『力』の劣る貴女に決定権はありません」

「ッ、……!」

 突き刺すような言葉に、叔母は再び下唇を噛んだ。

「……とはいえ、言い分はもっともです。そのような見かけ倒しの『力』に、先導者たる我が一族の長となる資格はありません」

 まさに燃え盛る炎を象った緋い瞳が、氷のような冷たさを帯びてシャルを射抜いた。



 ――肉体が、一瞬にして業火に包まれた。



 呼吸の度に肺が焼かれ、悲鳴を上げるごとに内側から直接熱に曝される。

 熱い。苦しい。

 皮を、肉を、骨を焼き尽くされ、異臭すらも焼き払われ、灰を残すことさえ許されず、肉体が完全に消滅するまで、永遠と思える刻の中で炎に()かれ続ける。

「―――ッ!!」

 唐突に、シャルの身を包んでいた炎が消えた。

 目の前には、何ら変わらない食卓があった。

「っ、……?」

 何がなんだか解らず、自分の身体を見た。

 無事だ。焼かれた痕などどこにもない。妙に汗ばんだ両手などは寧ろ瑞々しいくらいだ。

 ふと、肩の感触に気付いた。母の右手だった。

 そこでようやく、シャルは思い出したように呼吸を再開した。

「私も今のこの娘が跡を継げるとは、当然考えていません。ですが、治る見込みが殆ど無いと言われていたにも拘わらず、この娘は『力』の一部を取り戻しました」

「……つまり?」

「時間を頂けませんか?」

 間を急くように、口調は速まっていた。

「成人するまでに、この娘は『力』を完全な形で取り戻してみせます。それが(かな)えば、正式な跡継ぎとして認めて頂きたいのです」

「適わなければ?」

「お母様のお望み通り、名家の男との子でも産ませます。私も大人しく跡を継ぎましょう」

 ざわめくことはなかったが、叔母達は互いに顔を見合わせた。祖父の顔にも少し険しさが浮かんでいた。

 祖母はあくまでも冷静に、淡々と訊ねる。

「仮にその提案を退けたらどうするつもりなのか、聞かせて頂けるかしら」

「力尽くとなろうとも、我が子を護ります」

 張り詰めた空気が、緋い視線の上に収束された。

 亀裂が走る音さえ聞こえてきそうな沈黙に、誰一人身動きすら取れない。

 やがて、

「……やめておきましょう。先祖から受け継いだ貴重な血を失う訳にはいきませんし、幾ら私でも貴女達(・・・)と力比べをして無事で済むとは思えませんから」

 ちらりと、祖母の瞳がシャルの右隣を見た。

 ただの一言すらも口にしない寡黙な父は、やはり沈黙したまま目を伏せていた。

「但し、期間は八年、シャーロットが上級学院を卒業するまでとし、他の者と同じく当主候補として扱います。セシル達も先程言った通り、跡継ぎとなるべく精進しなさい」

 セシルを含めた従姉妹達が揃って応えると、祖母は再びシャルへと視線を移した。

「シャーロット、八年です。それまでに『力』を完全に取り戻してみせなさい。出来なければ、先程の言葉に従って貰います。良いですね?」

「はい……!」

 肩を掴む力が、緩まったのを感じた。



    †   †   †



 勝算はあった。

 シャルが『力』を取り戻すことは一族にとって有益であり、シャルに対抗させることで従姉妹達の『力』の質も向上する。一族の役目を最優先とする祖母がこの条件を飲まない筈はなかった。

 万が一予想が外れて却下された場合、最悪両親と共に一族の名を捨てる覚悟さえあった。ただ血を残す為の人形になるくらいなら、その方が死ぬほどマシだと話し合った結果の決意だ。独りでないなら、生きていけるのだから。

 ただその為に一族を、特に祖母を敵に回すかもしれなかったことが一番の懸念だった。老いたと言っても『火の一族』現当主。まともにぶつかってタダでは済まなかったのは、こちらだったのかもしれない。

(八年……)

 残された時間は、長いようで短い。そこに費やさなければならない努力は計り知れない。

 それでも、やるしかない。

 両親といる為に。

 ブロウズの恩に報いる為に。

 そして何より――

「シャル?」

 リビングに入ってきたアレンが、不思議そうに首を傾げた。

「何でもないわ。準備できたの?」

「うん。……って、イリス?」

 頷いたアレンは、後ろに付いてきていた筈の少女がいないことに気付いた。リビングの入口に目を向けると、綺麗な銀髪が慌てて隠れたのが見えた。

 翌日王都から戻ったシャルは、アレンとイリスと一緒に新年のお祭りに出掛ける約束をしていたので、アレンの家に上がって支度が終わるのを待っていたのだ。

「ほら、なにやってるんだよ。こっちきなって」

「良いわよ、アレン」

 若干の溜め息を吐いて、シャルは入口に近付いた。

 祭りは三日間夜通し続き、今日は最終日だ。まだ日が傾くには時間があるが、遅くなり過ぎては折角の祭りを楽しむ時間が減ってしまう。

 リビングを出ると、廊下の壁に張り付くように隠れていた少女が大きく身を震わせた。話に聞いた通り、どうやら極端に人見知りするらしい。

 出来るだけ柔らかい笑みを作って、シャルは話し掛ける。

「初めまして……ってわけでもないか。わたしはシャーロット、シャルで良いわ。よろしくね、イリス」

「………っ、……!」

 しかし、イリスは徐々に目に涙を浮かべていき、助けを求めるようにアレンの姿を探し始めた。なんだかこれではまるで虐めているようではないか。

 どうしたものかと、考えを巡らせたシャルは、

「!?」

 思い付いて、目の前の少女を優しく抱き締めた。

 突然のことに、殊更慌てふためくイリス。

「……ほら、あったかいでしょう?」

「……!」

 しかし頭の後ろから語り掛けてきた声に、藻掻いていた身体をピクリと止めた。

「わたしはあなたの敵じゃない。だから怖がらなくても大丈夫よ」

 あの時ブロウズから感じた暖かさを、シャルもまたイリスに伝える。

 落ち着いたのを見計らって抱擁を解いたシャルは、「ね?」と笑って見せた。作り笑いではない、自然な笑顔を。

 それに安心したのか、イリスの表情から不安は消え去っていた。

「まったく、こんな調子で春から大丈夫なのかな」

「そこはあんたが守ってあげなさいよ、お兄ちゃん?」

「シャルも手伝ってよ!ウチに住んでるだけで会ったのは一緒だろ?」

「そうねぇ、妹っていうのも悪くはないかしら。けどやっぱりお兄ちゃんの方がイリスも頼りがいがあるんじゃない?」

「あーもう、わかったからその『お兄ちゃん』って呼ぶたびにニヤけるのやめてよ!ほら行くよイリス!」

 これ以上からかわれては堪らないとばかりに、アレンは早足で玄関を出ていった。

 その背中を、シャルはまだ収まらないニヤニヤと共に追う。

「………しゃ、る」

 躊躇いがちに呼ばれて、振り返った。

 呼び止めたイリスは、やはり何かを躊躇うように、口を開き掛けては閉じていた。髪と同じ綺麗な銀の瞳は、シャルの顔ではなくその背後の中空辺りを頻りに窺い見ている。

「? なに?」

「………ううん、なんでもない」

 訊ねると、やがて諦めたように首を振った。

 物凄く気になったが、ここで詰め寄ってまた怯えられても困ると思い、シャルは手を差し伸べた。

 今度は逆に、イリスが首を傾げた。

「行きましょう?」

「………うんっ」

 少しだけ声を弾ませて手を取ったイリスと共に、シャルはアレンを追い掛けた。

 足りない何か(・・)は、まだ判らない。

 それでも、いつかきっと取り戻してみせる。

 何よりも、この暖かな『世界』を守る為に。



    †   †   †



 風呂の順番を待つ間、アレンは自室のベッドに横になっていた。

 寝転びながら、物思いに耽る。とにかくここのところは色々なことがあり過ぎた。

 まずは一番最近、というよりつい数十分前までのことを頭に思い浮かべる。

 あの後三人でお祭りに行ったのだが、射的とか、水風船釣りとか、色々なもので遊ぶ前に、まずイリスの目がある一点に釘付けになっていることに気付いた。

 キラキラと輝く銀の瞳に映っていたのは、りんご飴だった。

「おにいちゃん、あれなにっ?」

 と訊かれて説明してやると、益々顔が輝いた。

 すぐに、食べたいとねだられた。

 二人分の小遣いは貰っていたし、ギルドで働いた報酬がまだ少し残っていたので、渋りはしなかった。強面のおじさん(いつも街中で商売をしている人だ)にお金を払うと、サービスだと言ってアレンとシャルの分までくれた。

 三人揃って、かじり付いた。パリッと硬い飴の皮を突き破って、シャリッとした実が姿を現す。飴の甘さと実の酸っぱさが、口の中で混ざり合った。

 初めて体験した味が気に入ったのか、イリスはあっという間に食べ尽くしてしまった。アレンもシャルもその様を微笑ましく思い、頬を緩めた。

 が、それ以降五歩も歩かないうちに次々と別の屋台に飛び付くうえに、アレンとシャルが追い付く間もなく食べ物を受け取っていくので、たちまち頬が引き攣ってしまった。

 最終的にシャルの財布までをも空にしてしまったイリスは、当然セフィーナにこっぴどく叱られた。なにせセフィーナは残った分を臨時の小遣いにするつもりで余分に渡したのだ。それがギルドの報酬どころかシャルの財布まですっからかんなのだから、親として子供にお金の大切さたるやを教える必要性に駆られたのは当たり前であり、その静かなる怒りが兄の責任としてアレンにまで飛び火したのも詮無きことだった。

 一緒に暮らすようになって初めてセフィーナに叱られたイリスは、意外なことに泣き喚かなかった。

 セフィーナの叱り方が怒鳴り散らすものではなかったのもあったのかもしれない。説教の最中は 目にぐっと涙を溜める以外は、アレンの服の端を小さな手で掴むだけだった。

 けれど多分、一番の理由はアレンが隣にいたからだろう。

 隣に大好きな兄がいたから泣くのを我慢出来た。そんな想いを摘ままれた服の端から感じたアレンは、単なる謎の居候としか捉えていなかったイリスを、初めて護ってやりたいと思った。

 それはきっと、初めてケーキを作ってくれた日から少しだけ距離が縮まったからこそ思えたのだろう。あの時見せてくれた朗らかな笑顔には、そう思えるほどの魅力があった。

 春から一緒に通う学園や、その二年後に進学することになる上級学院では色々と苦労しそうな予感がある。その要因にはイリスの人見知りも含まれているが、何より夏休みに学園長から入学条件を言い渡された時、くれぐれもセフィロトでの件は内密にするよう忠告を受けているのだ。

 何故そこまでひた隠しにしなければならないのかは解らないが、アレンだって神殿に忍び込んだことがバレて司祭や神殿騎士団から雷を落とされたくはない。それに、最後に人が足を踏み入れたのがどれほど昔かも判らないような森の中心でイリスが眠っていたなどと知られた時、世間の反応を想像すると、何か言い知れぬ不安が胸の奥で渦巻いた。

『――わたし、上級学院に上がったら魔法学部に行くわ――』

 思考の連鎖反応なのか、ふとその言葉を思い出した。

 祭りから帰って、隣り合った自宅の前での別れ際に、シャルが唐突に言った。自分の『力』はまだ完全には戻っていなくて、だからそれを取り戻す為に魔法学部に行くのだと。

 上級学院では実習中に魔物と戦うこともあるそうで、アレンは受けたことがないが(正確には受けられなかったし、また受けるつもりもなかった)、ギルドの依頼にも魔物討伐を目的とするものがあり、あそこに出入りする大人達から何度か話を聞いたことがあった。

 酒の肴のつもりの彼らは冗談めいたように、或いは大袈裟に魔物との戦いっぷりを語っていたが、セフィロトの森での経験を経たアレンは、話を聴く度に手に汗を握らざるを得なかった。

 あんなモノと、シャルはまた相見えると言ったのだ。

 だが、アレンは止めなかった。誕生パーティーや祭りの最中に見せた笑顔にどこか以前とは違う物足りなさを感じていたこともあるが、セフィロトと月明かりに照らされた緋色の瞳に宿った決意を前に、そうすることはどうしても出来なかった。何より、諦めるなと言ったのは自分自身なのだ。

 だから代わりに、アレンも胸の内で決意した。身の危険を冒してまで『力』を取り戻そうとするシャルを護ろうと。それがシャルの人生を歪めてしまい、挙げ句残酷にも諦めるなと言い放った責任なのだと幼いなりに考えた。

「おにいちゃん、おふろあいたよっ」

 身体からホクホクと湯気を立ち上らせながら、イリスが部屋の扉を開けた。

「うん、わかった」

 ベッドから立ち上がって、入り口で擦れ違いざまに銀髪を撫でた。

 笑顔を浮かべながら擽ったそうに首を傾ける少女は、多分アレンが魔法学部に行くと言えば付いてくるだろう。そうなれば、イリスも魔物と戦うことになる。

 ある程度なら平気かもしれないが、そこでイリスの正体がバレ兼ねないような魔法を使わせる訳にはいかない。こちらもまた、アレンが護る必要があった。

 階下へ降りて、風呂場の前にリビングに寄る。

 ノアは言っていた。誰かを護りたいのなら、意志だけでは駄目なのだと。それには、相応の『力』を身に付けなければならないと。

 果たしてどれほどの『力』が必要なのかは判らない。それでも、大切な人達を護る為に、強くなってみせる。

「ねぇお母さん、話があるんだけど――」



    †   †   †



 ――あの後から、また少し身の周りに変化が起こった。

 イリスの底知れぬ胃袋の大きさを目の当たりにしたお祭り以降、シャルはイリスを妹のように、イリスもシャルを姉のように慕い、三人で過ごすことが増えた。またアレンは素性の知れないイリスを『護る』為にと、上級学院への進学に向けてセフィーナから剣を教わり始めた。その少し後から、アクアとノアとも頻繁に絡むようになった(ノアはアクアの傍に付いているだけが多かったが)。

 あの陰湿な嫌がらせは、冬休みが明けた魔法学で張りぼての炎を見せた途端、何事もなかったかのように息を潜めた。誰がやったかは判らなかったが、周囲の反応や嫌がらせの規模から察するに、少数に依る犯行だったとシャルは見ている。廊下で陰口を叩いていた友人達の仕業かは、五年生からクラスが変わったこともあって自然と疎遠となってしまったので、結局のところ判明していない。

 陰湿と言えば、ユーグの実家はその少し後に奴隷所有が発覚し、爵位を剥奪されたそうだ。検挙に踏み込んだ王国軍が他にも色々と怪しい品々を押収したらしいが、そちらには興味がなかったので二人とも詳細は知らない。

 そうやって紆余曲折を経て現在に至る訳だが、あの時の出来事は、シャルにとってもアレンにとっても、とても辛くて、けれどとても大切なものだった。

 もう一度経験したいとは間違っても思わないが、おかげでシャルは、当たり前だと思っていた自分の『世界』の大切さを知った。アレンもまた、自分にとって大切な何かを得ることが出来た。あれがなければ、今の二人はいないだろう。

 ただ、シャルはアレンにガーデンを離れずに済んだとしか話しておらず、『力』を取り戻す為の条件については未だに伝えていなかった。

 話したところで、アレンにはどうしようもない事柄なのだ。ならば無駄に焦らせることもないだろう。

 それに、そんなことを言わなくても、アレンは一緒にいてくれる。そう信じられたから言わなかった。

(それとも、律儀にあの誓い(・・・・)を守っているんですかね)

 傘を差したまま、目の前の墓標へクスリと笑い掛けた。



『コーデリア=ブロウズ、此処に眠る』



 墓石には、そう刻まれていた。

 二人が六年生に上がってすぐのことだった。年末から崩していた体調が悪化し、そのまま……。

 医者からは本来、四年生の年末の時点で安静を言い渡されていたらしい。それを一年以上も引き伸ばしてみせたのは、きっと彼女の強い意志が病を押し退けたからだろう。眠るように息を引き取った最期の時まで、シャルの身を案じていたそうだ。

 シャルには、何故ブロウズがそこまで自分を気に掛けてくれたのかは分からない。

 学園の先生として顔を合わせるよりさらに以前から母の知り合いとして可愛がられていて、シャル自身は本当の家族のように感じていたが(本人は未だに気付いていないが、だからこそ『弱音』を吐いてはいけないと言いながらも、彼女には度々泣き言を言っていたのだ)、それでも今際の際にまで案じる相手は、普通ならば実の家族だろう。

 けれども、自分が身も心も彼女に救われた事実がなくなる訳でも、彼女への恩義が揺らぐ訳でもない。寧ろ葬式の墓前で決意をより強固なものにしたくらいだ。

 声には出さず、語り掛ける。

(先生。私、『力』を取り戻しました)

 何度も何度も、挫けそうになった。

 取り戻す直前も、一度諦めてしまった。

 その度に、周りの人達が力になってくれた。

 あの時言っていた『世界』のおかげで、成し遂げられた。

 先生が教えてくれた通り、弱音を吐きながらも前に進めた。

 まだ、自分にとっての『幸せ』が何なのかは解らないけれど、

(それもきっと、見付けてみせます)

 膝を着いて、祈るように手を組みながら、シャルは誓いを立てた。

 その傍らで、アレンも墓を見下ろす。

(先生。この前、シャルが魔法を取り戻したんです)

 血の滲むような努力をして。

 折れても挫けても、最後には立ち上がって。

 多分、悔しい思いをいっぱいして。

 きっと、先生の言葉を信じ続けて。

 六年掛かって、やっと心からの笑顔が戻った気がした。

(まあ、その直後に死に掛けたんですけど)

 今だから冗談のように言えるが、それでも少し顔が引き攣ってしまった。

 そのまま、その時のことを思い出した。

(……その時俺、本当に弱いんだなって思い知らされました)

 強くなると誓った。

 傍にいると誓った。

 力になると誓った。

 護ってみせると誓った。

 シャルが一族での一件を話さなかったように、アレンもまた、あの時を境に母から剣の指導を受け始めた本当の理由を打ち明けてはいなかった。

 多分、知ったらシャルは今回のようなことで少なからず責任を感じるから。そんなことに心を割いている余裕などないのだから、初めて手作りケーキを食べた日を兆しとし、あのお祭りでの一件でようやく妹として思えるようになったイリスを護る為としか説明しなかった。それも理由に含まれていたから、嘘が下手な自分でも悟られずに済んだのだろう。

 あの時から、誓いを果たす為に剣を振り続けてきた。

 それなのに、そのどれもが果たせなかった。

 あの頃よりは強くなったつもりだった。

 必要な時に傍にいられなかった。

 力になったのは他の人だった。

 護られたのは自分だった。

 不甲斐なさで、押し潰されそうだった。

 それでも、諦める訳にはいかない。

 もっと強くなって、必ず誓いを果たしてみせる。

 シャルもイリスも、大切な人達を護れるようになってみせる。

 だから、再び心に誓う。

 あの時神殿で誓い、嘗てこの場で誓ったように。

 今も緋い髪を束ねている、あの日贈った髪留めに刻まれた言葉に違わぬよう。

(………ん?)

 花束を添えようとして、ふと先に二束添えられていることに気付いた。

 一つはシャルの物で間違いないだろう。となるともう一つは……。

「……ま、いっか」

「何?」

「なんでもない。……おっ?」

 視線を上げたアレンに釣られて、シャルも空を見上げた。

「あ……」

 雨は、止んでいた。

 雲の隙間から射し込む光が、湿った街を眩しく照らし出す。

「そろそろ行きましょうか」

「ああ」

 傘を下ろして、二人は歩き出した。

「そういえば……」

「ん?」

「あんた、あの時どうやって私のいる場所が分かったの?」

 あの時とは、時計塔の屋上でのことだろう。

 アレンは当時のことをもう一度思い出してみる。

「ええっと………どうやってわかったんだ?」

「私が訊いてんのよ。もう、相変わらず記憶力の乏しい頭ね」

「大きなお世話だ。忘れたんじゃなくてこう、どう言えばいいのかわからないんだよ」

「はあ?何よそれ」

「知るか」

 それっきり、互いに口を閉ざす。

 なんだか釈然としないシャルは、あからさまに不機嫌そうな顔をした。

(もう、きちんと言いなさいよ)

 思っているのとは逆に、口喧嘩の雰囲気が出来上がっていってしまう。それでは駄目なのだ。

 あの時は、なし崩し的になってしまって言えなかった。

 その後も時間が空いてしまったからか、妙に言い辛くなってしまい、結局伝えられなかった。

 だが『力』を取り戻した今なら、タイミング的にも心情的にもバッチリだ。だから言わなければ。

 ありがとう、と。

 あの時駆け付けてくれて、傍にいてくれてありがとう、と。

「あっ、」

「ん?」

「……あの時からよね、あんたが誕生日にプレゼントくれるようになったの」

 が、実際声に出た言葉に、内心で自己嫌悪に陥ってしまった。

 そんなシャルの葛藤など露ほども知らず、アレンは思い出したように視線を上げる。

「あぁ……まぁ、あの時だけ渡してそれっきりってのもなんか変だったからな」

「アクセサリーなんてくれたのはこれっきりだけどね」

「無茶言うなよ。それだって買うの大変だったんだぞ?」

「はいはい、年下の女の子と一緒に働いて稼いだんでしょ。聞いたわよもう」

「……確かにそうなんだけど、なんか嫌な感じに聞こえるのはなんでだ?」

「さぁ、後ろめたい事があるからじゃない?」

「ちがっ、シンシアはそんなんじゃ……!」

「はいはいそれも聞きました。それよりアレン、私最近欲しいネックレスがあるのよね~」

「………知らん」

 そのまま、二人は墓地を出て街へと繰り出していった。

 結局言えなかったが、また今度にしようと思ってしまうのは、駄目だろうか。

 この髪留めがある限り、アレンはここにいてくれると思ってしまうのは、いけないことだろうか。

 だって、例えこれが失われても、あの時感じた想いが消えることなんてないのだから。

 もしアレンが“ここ”から離れても、今度は自分から“そこ”に行けるのだから。

 悟られないように何気なく、シャルは隣に並んだ。

 鮮やかな緋色の髪が揺れて、それを束ねる金色の髪留めが、陽の光に煌めいた。





『我、光の精霊の名の下に誓う』


『我が力を(つるぎ)とし、我が意志を盾とし』


『我が魂の憑代(よりしろ)として此れを贈り、如何なる闇をも(とも)に歩まんと』




『銀色の虹の果てに』、更新再開致しました!


 まさか半年以上も掛かるとは予想もしていなかったワタクシ。しかもそれでこの長さとかすんませんマジで((゜Д゜;))



 さて、今回の「間章」は当初別冊扱いとして掲載する予定でしたが、短編集としては少し長くなってしまったので、このような形と致しました。


 また更新に伴い、本編をすべて修正しました。


 具体的には例に漏れない誤字脱字修正の他、話の繋ぎの部分をわかり易くし、文章表現を大幅に変更しました。


 内容には全く変更はありませんので、物語を思い出すついでに是非御一読ください。



 さてさて、次回からはいよいよ第二章突入です!(いつになるのとか言わない)

でも予告なんてものは出せません←未熟者



 数少ない読者の方々、長い間待たせてしまい大変申し訳ありませんでした(´=ω=`)


 これからも拙作をよろしくお願い致します。


                                                        2012.11.02

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