思う
あなたはしばらく赤い汁のついた包丁を見ていた。切れ味のいい包丁であなたはとてもそれを気にいっている。だから今日もそれを使った。
あなたは目を閉じる。
あなたは腹部に深く刺さった包丁を引き抜く。聞き取れない小さな声で何かを囁いてあなたが刺した彼が床に倒れる。十数年間も連れ添った仲だというのに幕切れは呆気のないものだった。床に滲んでいく赤い液体には奇妙な非現実感があった。どこか別世界で繰り広げられている出来事のように思う。あなたの手は強く握り締められたまま動かない。血濡れの手だ。あなたの持っていた明確な殺意が少しづつ解けていく。殺意に包まれていて囲まれていた他の感情があなたの表に出て行こうとする。あなたは必死にそれを押しとどめようとする。あなたと彼のあいだには長い間まともな会話がなかった。彼は大抵仕事で疲れて帰ってきて、直ぐに眠ってしまう。あなたはずっと一人だった。寂しかった。あなたをそんな目に合わせる彼は死んで当然だ。そう思い込もうとする。だがあなたは決して最初から彼に対して殺意を感じていたわけではない。他の感情を抱いたことだってもちろんある。
一番に大きな感情はあなたが彼を愛していたということだ。それですらあなたが固めていた殺意と天秤に掛ければ軽すぎて話にならないのだから悲しくなってしまう。あなたはあなたを壊れ物のように大切に扱ってくれていたあの頃に戻りたかった。あなたを恐れながらゆっくりと触れられた彼の指のなんと心地よかったことだろう。あれから長い時間を過ごし、あなたと彼はあのくすぐったいようなむずかゆいような嬉しさを失ってしまった。彼と一緒にいればあなたは自由になれなかった。
次にやはりというべきか、彼に対する憎悪が表れた。しかし彼を刺してしまった時点で多少なりともあなたの憎悪は薄れてしまっていて、殺意どころか愛情とすら天秤に掛けることはできない。それを秤にかけたならば愛情はとても大きくて重くて天秤そのものが壊れてしまう。あなたは自分がそれほど彼を憎んではいなかったのではないかと戸惑う。今更緩い吐き気を覚える。
そして後悔が生まれた。あなたの足元に鉄臭い匂いのする彼の残骸が転がっている。靴下にそれが染み込もうとしていてあなたは半歩だけ後ろに下がる。それは何かに怯える様子に似ている。足を絡ませて尻餅をつく。板張りの床があなたを受け止める。彼が転がる床と同じ床だ。鉄臭い液体があなたに向かってゆっくりと前進している。彼が死んでいる。あなたが刺したからだ。
あなたは刑務所に入るのが嫌だった。毎朝早くに起こされ、同じようなことの繰り返しだ。テレビがなければまともな娯楽もない。やりがいのある仕事もなければ語り明かせるような友達もいない。そして彼がいない。そんな閉鎖された空間で年月を無駄にすることが嫌だった。もちろんあなたは刑務所というやつに入っていた経験があるわけではないからそれはすべてあなたの推測上の刑務所に過ぎない。あなたは自分が刑務所に入らなければいけないことを後悔しているのだと考える。
しかしそんなはずがなかった。後悔の次にあなたに浮かんだ感情が寂しさだったからだ。あなたを受け止めてくれた人は多くない。あなたは一人の理解者を失った。いいや、彼は決して理解者ではなかった。彼の振る舞いの多くはあなたの気持ちを深く考えないものだった。確かに自己を中心に彼の考えは回っていた。ふとあなたは自分はどうだっただろうかと気づく。あなた自身は必ずしもそんな自己中心の考えに陥ってはいなかっただろうか。彼が先にそういう態度を取り始めたからだ。あなたは言い訳を思いついたが同時にそれが言い訳でしかないと気づいてしまった。
あなたは彼を見た。何かを欲するようにあなたの方へ手を伸ばしている。とくとくとまだ血は流れているが大分緩やかになってきた。板張りの床にうつ伏せになってしまっていて表情は伺えない。あるいはそれがあなたにとって救いだったかもしれない。
あなたは彼を見た。そして彼が自分を愛していたこと。あなたが彼を愛していることを理解した。いいや、思い出した。殺意というやつのなんてズルいことだろう。用を済ましたらさっさとどこかに消えてしまう。あなたは途方にくれた。
憎しみゆえにあなたは十数年間連れ添った彼を殺した。なのに、ああ、殺してしまったあとはもう何も残らなかった。あとは刑務所に行き、彼と連れ添ったのと同じくらいの長い苦痛に耐え続ける毎日だろう。
「おーい、どうしたんだ」
あなたは目を開けた。あなたの意識から鉄臭い液体が消え、彼の亡骸が消え、あなたの寂しい現実が戻ってくる。大丈夫、まだやり直せる。あなたは口の中で呟く。
「いえいま持って行きます」
蛇口を捻って水を出し、赤い汁を潅ぎ落とす。包丁を置く。まな板の上のトマトとスライスしたチーズを白い皿に盛り付け、あなたはそれをテーブルに運ぶ。ワインは既に用意してある。
向かい合わせに座ったあなたと彼は見つめ合い、互いに照れくさそうに笑った。
「乾杯」の声とグラスを打つ音が二人の静寂を破った。