押し入れの中の泣き虫
六時を過ぎてから、唐突に雨は降りだした。改札口で別れた彼女のことが気にかかったけれど、僕の乗った電車はすでに走り出している。窓にぶつかった大きな雨粒が、斜め下に涙のように流れた。窓に額をつけるようにして、隣の暗いレールを眺める。それは夜の川のように視界をすべって流れる。
涙。
誰の。
雨を誰かの涙に思ってしまうのなんて、ただの独りよがりなセンチメンタルだ。
『あなたとは恋人にならない』
彼女の声が耳の奥で消えない。あなたとは恋人にならない、と彼女はどちらかといえば自分に言い聞かせるようにして、ひとつひとつの言葉をくっきりと刻むよう口にした。
『大事な人だから、……とても、大事な人だから、あなたを些細なことで失ったりしたくないの、だから恋人にはならない方がいいと思うの』
カフェオレボウルは真っ白で、それを包み込むように手にして彼女は駅近くのカフェで、向かい合う僕に告げた。僕が彼女を好きだとか、そういった類のことを告げたことがあっただろうかと瞬間的に考え、ないけれど態度できっと知られてしまっていたのだろうな、と思い当たる。
僕は彼女が好きだ。
はにかむとやわらかく下がる目尻だとか、誰にでもやさしくしすぎて時折身動きが取れなくなっているところだとか、細い首筋だとか、お酒を飲むと口調が砕けてしまうところとか。だけど、好き、の理由をいくつ並べたところで、受け入れてもらえないのだったら意味がない。大事な人だから、と彼女は僕を受け入れ、恋人にならない、と突き放した。それは中途半端な立ち位置で、僕の間抜けな「ずっと友達でいよう、ってこと?」という言葉は心底ばかばかしく、乾いて情けなくこぼれた。彼女のどこかぎこちない微笑みに、「そうだね、」としか返せなかった僕はどうしようもない。
言葉は無力なくせに、ときどき刃になって血を流させる。
そして、君はそれを知らない。
間違えて、というよりホームに停まっていたのが各駅停車だったのでそれに乗り込んだ。数分走ってすぐに停まる。人の出入りがあって、空気が動くと雨の日の匂いも一緒に流れ込む。できればすぐに自分の部屋に戻って、ベッドにもぐり込みたいのだけれど。
改札で別れて、彼女の背中を見送った。
それは本当にまばたきをしている間に人混みへと溶けてしまい、僕の視界から取りこぼれた。
好きだと。
心底思っていながらも、僕は簡単に彼女を見失う。
『だから、所詮その程度の想いなのよ』
言われてもいないはずなのに、彼女の声になってそれは僕を苛む。
好きだと。
確かに想ってはいても、それははたしてどれほどの大きさなのか、比較対象があるとして、僕の気持ちはどれほどのレベルなのか、分からない。分かっていいものではないというのは知っている、比べるものではないことも、人を好きになって眠れない夜を過ごす人だっている、病気になる人だっている、気の狂ってしまう人だっている、せいぜい僕なんてふとしたきっかけで彼女を恋しく思って、涙腺を緩ませることがあるくらいだ、そしてそんな自分を恥ずかしく思って誰も見ていないのに照れ笑いをする程度の。好き。感情。間違いとか、正しいとか。誰も本当の正解を知らない次元のこと。
もしも、願いがひとつ叶うのなら。
僕は両腕をそっくり君のものと取り換えてしまいたい。
肩の付け根から切り取って、彼女の腕と交換しよう。そして、君が哀しいときは、淋しいときは、必ず抱きしめてあげることを約束しよう。君が眠ってしまったあとで、僕の腕はそっと起きてその髪を撫でるだろう。怖い夢を見ないように。静かに、朝が来るまで。
それとも、君の部屋の押し入れに住み着く、小さな生きものになろうか。目には見えない、匂いも気配も感じさせないものに。彼女の日常を眺めながら、ひたすらに愛の言葉でもつぶやこうか。彼女に危害を加えそうなものがあったら、先回りしてこっそり排除してあげよう。
なんて。
ただのストーカーのような思考だ、と自分を笑う。
笑っていないと、胸が痛む。大事な人だから恋人にはならないでおこうと言われてにやけたような笑顔しか返せない男に、好きだと胸を張る権利はあるのだろうか。
雨が降り始めたせいで普段よりも暗く見える空は、時間の間隔を狂わせる。ふたつめの駅を過ぎて、走り出す電車の揺れに身体を預ける。休日の車内は通勤、通学時の比ではないといっても混んでいて、紛れ込めば誰も僕を気にしたりしない。
好き、という感情はどこからきて、何色をしていて、どんな形をしているのだろう。それは目に見えたら、恋する人間は楽になるのだろうか、安心するのだろうか、それとも。
僕は両腕を君に差し出したい。
君の腕と僕のそれを交換できたなら、哀しいときにも、淋しいときにも必ず、抱きしめてあげることを約束できる。それが、永遠に守ることのできない約束としても、少なくとも今は。
「……っ、」
ガン、と窓に額をぶつけてみた。誰も気にする人はいなかったとしても、ガラスの冷たさやぶつけた衝撃は自分できちんと把握できる。
君が好きだ。
そう言えばよかった。
それでも君が好きだと。
『好きという気持ちを押し通してまでしたいことって、なに?』
手をつなぎたいだとかキスをしたいだとか、そばにいたいだとか抱きしめたいだとか、そんな低俗なことしか言えないかもしれない。そんなことしか思い浮かばないかもしれない。でも僕は彼女の特別になりたい。どうしても。大事な人だからとガラスケースに入れられて仕舞われてしまう趣味はない。
言わないと。
口にしないと。
何度でも。
君のことが好きだと。
時間が経った未来のことは、そのときのふたりで考えよう。思考が出口を失くして、ぐるぐると同じ場所を巡るだけの苦しい夜だって、ひとりで膝を抱えるよりふたりで居られたら少しは。違うかもしれないのだから。
間に合わないと分かっていた。
彼女は雑踏に紛れて、僕はその背中を見失った。けれど、どうしようもなくなって、ほとんど泣きそうな気持で僕は次の駅に早く着くことを祈った。彼女と別れてから十分以上、そして引き返せばまたその倍の時間がかかる。彼女の後を追うなんて、意味のない話だと、夜にでも電話をすればいいだろうと頭の中で多少は冷静な僕が呆れた声でつぶやく。その言葉に耳をふさいで。
引き返す電車がなかなか来なかったのもあり、彼女を見失った駅まで戻れたのは七時近くになっていた。意味のない自己満足の行動。青臭い衝動。めまいがするほどばかばかしくて、自分くらいしかこのばかな行動を笑い飛ばしてあげられる人間なんていないと思ったのに。
改札の向こうに、僕は確かに彼女の姿を見た。そんな、気がした。
時間が戻ったわけではなく、これから時間を進めるために。
「……どうして、」
回答は今すぐには得られない言葉が、それでも口をつく。
僕は駆け出す。彼女は振り返らない、だけどあれは彼女だ。人の波に逆らって進む、ぶつかる手や肩に舌打ちされたりもする、すみません、の言葉は勝手に唇がこぼした。
永遠は約束できないけど、と言ったら、君は怒るだろうか。呆れるだろうか。
だけど僕がこの両腕を差し出したいのは君で、この腕の中に収めていたいのは君だけで。好きなんだ、とこぼれた言葉は溶けかけた飴よりひたすらに甘い。冷たい空気をやわらかく染めて、僕は彼女を抱きしめたくて仕方がない。
信じて。
受け取って。
僕の、想いを。
僕は、君が好きだ。
足りないことはきっとたくさんある、不安にさせることも、何度も泣かせるかもしれない、それでも僕の好きという気持ちを押し通すことに意味はあるのかと聞かれたら、揺らがないわけではないけれど。彼女を好きだというその気持ちだけで、世界がやわらかな色をして輝くのも事実だから。独りよがりだと、勝手だと、言われても。
改札の向こう、人の波に揺らぎながら立つ彼女が、不意に振り返る。
目が合ったのなら。
そうだ、笑って。
ただいま、って言ってみようか。




