第二部 第113話 怪物の墓場
巨大な腕が落ちる。
遅い。
だが。
山が崩れるような質量だった。
黒い海が裂ける。
沈んだ建物が軋む。
空気まで重く沈んだ。
士郎は動かない。
避ける気もない。
視線だけ上げる。
低い声。
「……で」
少し間。
「殴れば済むのか」
翔が煙を吐く。
怪物を見る。
泣き声。
怒号。
悲鳴。
幾つもの気配。
一つじゃない。
混ざっている。
少し沈黙。
「違う」
静かな声。
「混ざってる」
短く。
「気が」
笑う者が少し目を細める。
『分かるんだ』
翔は答えない。
煙だけが細く流れる。
視線は怪物。
静かな声。
「死に切れてないだけなら」
少し間。
「散らせる」
士郎が怪物を見る。
低く息を吐く。
「……そういう手合いか」
巨大な腕が迫る。
翔が前へ出た。
士郎は半歩だけ下がる。
任せる距離だった。
黒い海。
崩れた世界。
巨大な影。
翔が踏み込む。
いつもの間合い。
右手を伸ばす。
触れれば終わる。
その距離。
――霧流掌。
止まる。
翔の目が。
わずかに細くなった。
まだ。
触れていない。
指先。
ほんの僅か。
届く直前。
空間が。
霧のように崩れていた。
巨大な腕が。
接触前に崩壊する。
黒。
灰。
無数の粒子。
怪物が揺れる。
泣き声。
怒号。
悲鳴。
混ざった声が。
少しずつほどけていく。
翔が止まる。
煙が細く揺れた。
「……違うな」
小さな声。
初めてだった。
手応えが。
いつもと違う。
士郎が目を細める。
「届いてねぇ」
短い言葉。
でも。
見えていた。
翔は少し沈黙する。
崩れていく怪物を見る。
静かな声。
「……今のは」
少し間。
「俺じゃない」
笑う者が少し笑う。
『へぇ』
『気付いた?』
翔が視線だけ向ける。
低い声。
「何を知ってる」
笑う者は肩を竦めた。
『まだ早い』
少し間。
『でも、近い』
黒い海が揺れる。
崩れ始めた怪物の奥。
海底。
さらに深く。
巨大な影。
今度は。
比べ物にならない。
ゆっくり。
“目”が開く。
士郎が見上げる。
少し沈黙。
低く。
「……今のが前座か」
風もない世界で。
黒い海だけが。
静かに軋んだ。




