余命わずかの逃亡令嬢は最後に花を望む〜今更愛してるだなんて随分遅いですね〜
診療所というものは、白一色が好きらしい。
窓から差し込む午後の光はやわらかく磨き上げられた床に反射していた。薬草と消毒魔法の独特な匂いが混じるその空気を、リュシア・アルヴェーンは肺いっぱいに吸い込む。
不思議と胸は苦しくなかった。苦しいという感覚はここへ来るまでにすべて使い切ってしまった気がした。
医師は白衣の袖を正して静かな声で告げた。
「改めて申し上げます。リュシア様。魔力は生命力と同義です。あなたの魔力総量はすでに生命維持に必要な限界域に達し、これ以上の使用は……」
言葉の続きを聞く前に彼女は理解していた。
近頃は絶えず魔力を注ぐたびに、体の奥がすり減っていく感覚があったからだ。
国の結界へ、妹の代わりへ、両親の望む爵位へ。そのすべてに応えるたびに彼女の中の何かが静かに欠けていった。
「余命はどれほどでしょう」
それは彼女が自分でも驚くほど落ち着いた声だった。医師は一瞬だけ目を伏せ、正確な数字を告げた。
季節にすれば、一度花が散ってまた咲くぐらいまでの時間だろうか。
「ご家族には……」
「私から伝えておきます」
伝えたところで家族が彼女の身体を気遣う姿は想像できなかったけれど。娘のために医者の一つも呼ばない家族だ。
そのせいで重い体を引きずって、ここまで自分で来なくてはならなかった。
必要なのは魔力であって娘の命ではない。
アルヴェーン家の屋敷に戻るといつも通りの喧騒が彼女を迎えた。
贅沢な調度品と甘い香の漂う広間。継母は妹の肩に手を置いて今日のドレスの話をしている。
その香りのキツさに思わずコフッと咳が出た。
腹違いの妹は、その音でこちらに気づいて薄く微笑んだ。
「お姉さま、また顔色が悪いわ。無理をなさるのはだめよ」
その声は蜂蜜のように甘くて底に小さな棘を隠している。リュシアは力なく微笑み返して何も言わなかった。
「まあ、優しいわね。体調管理もできないのに咳で気を引こうとする子は放っておけばいいのに」
妹は母に頭をなでられ嬉しそうに微笑んだ。
リュシアが魔力を酷使することで、魔力の少ない妹の体調が保たれている事実を誰も口にしようとはしなかった。
リュシアは医者から聞いてきたことを報告しようと、父に声をかけた。
「あの、今日──」
「今夜も結界当番へいけ。でなければ家の格が落ちる」
父は帳簿から目を上げもせず彼女の声を遮ってそう言った。
首肯くことは簡単だった。
余命の報告を言い直す気力も、逆らう気力ももう残っていない。
この王国は国全体を覆う大きな魔力結界でその平和を保っていた。貴族と呼ばれる者たちは、それに魔力を供給する代わりにその量に見合う権力を持った。
その夜、結界の塔で魔力を流し込む最中にリュシアは足元が揺れるのを感じた。
視界が白く滲み、力が抜けて膝が折れる。
転ぶ、と思ったときに支えてくれたのは若い男の腕だった。それが触れるのは久しぶりだ。
「無理をするな」
低く掠れた声。
それは彼女の婚約者だった。
結界当番には万が一の事態に備えて立会人を一人つける決まりがある。それは普通の場合、家族や親戚なのだが。
歌劇やドレスに忙しい母や妹。よく家を抜け出す当主。幼かった頃は執事に頼んでいたが、婚約してからは彼が付いてくると言って聞かなかった。
婚約者ではない異性と二人きりになることは世間体が良くない。仕方なくだろう。
振り返る。
彼はその高い爵位に見合う豊かな魔力を持っていた。数歳年上でリュシアが取り乱しても常に余裕を湛えている。
……はずなのだが、なぜかその瞳だけは何かを湛えるようによく揺れていた。
今日は特に揺れていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
反射的にそう答えてしまう。
彼に心配をかけたくなかった。嫌われたくなかった。彼女は気まずさを紛らわすように言葉を続けた。
「私もあなたくらい魔力があれば良かったのですが」
「……魔力が多くて良かったと思ったことなどない」
しかし軽口は、その重い一言で完全に封殺されてしまった。彼は心配そうにリュシアを覗き込む。
「本当に、大丈夫です」
彼女は身体を立て直し、重ねてそう言った。
それは彼女が思ったよりも棘々しく響いた。
彼ははっと一歩、距離を取った。そしてわずかに震える腕でしきりに自身を擦る。顔は何か恐ろしいものでも見たかのように歪んでいた。
その態度が彼女の胸を締めつける。
やはり、厭われている。
この前も馬車から降りるときに手を借りようとそちらを見遣ると、彼ははっと怯えたように手を引っ込めた。
彼女は目を伏せて考えた。
いつだろうか。彼が最後に笑いかけてくれたのは。
自分と過ごすたび、彼はいつも緊張したような硬い顔をする。
それと比べて妹の方といるときは随分柔らかい顔だった。彼がよく妹と話しているのを彼女は知っていた。相談に乗っているのだと噂で聞いた。
きっと二人はお似合いで、家族もそれを望んでいる。自分は邪魔な存在で魔力を供給する器に過ぎない。
邪魔者がいなくなれば彼も喜ぶだろうか?
屋敷の自室に戻ると、わずかに開いていた窓の隙間より夜風が吹き込んだ。リュシアはベッドに腰掛け胸の奥に溜まった痛みをそっと撫でる。
自分はこのまま終わるのだろうか。
残された時間が少ないことよりも、このまま何もせずに道具として使い潰されて終わることが嫌だった。それがどうしようもなく虚しかった。
短いとはいえ十数年もあった人生の中で、自分の意思に従って謳歌できた時間は幾ばくか。
……せめて最後くらい、自分の足で歩いてみたい。
その言葉が浮かんだ瞬間、心の奥で小さな火が灯ったようだった。消えかけていた意志が微かに息を吹き返す。
その夜、リュシアは逃亡を決意した。
逃げると決めた日から、時間は奇妙なほど穏やかに流れ始めた。
リュシアはそれを表に出さないようにいつも通りの娘を演じた。なけなしの魔力を結界に注ぎ、家族達の言いつけに従い、婚約者には必要以上に近づかない。
彼が距離を保つなら自分も同じように振る舞えばいいと思った。それが彼への最後の配慮だと信じていた。
逃亡の用意は慎重に進めた。
しかし家族は大してリュシアに関心が無かったからそれほど難しくはなかった。驚くほどあっさりとやれてしまった。
彼女は一枚の紙を感慨深く眺めた。
平民街で借りた小さな貸家の契約書。名前は伏せて短期間だけ滞在する条件で、すでに代金は支払ってある。
足りるだけのわずかな日用品はその貸家に用意させた。クローゼットの奥にはいつでも取り出せるよう平民風の衣装を忍び込ませてある。
顔を上げると鏡に映る自分は驚くほど痩せていて、けれど不思議と表情は穏やかだった。
唯一心残りなのは婚約者のことだった。
彼の横顔が脳裏に浮かぶ。あの日、塔で自分を支えてくれたときの腕の温度。声に滲んでいた焦り。
彼女にとって婚約者は人の優しさというものを教えてくれた人だった。家族に辛く当たられていた中、初めて気を使われて一も二もなく好きになってしまった。彼は、戸惑ってつい距離を取ってしまう自分のこともずっと無視することはなかったのだ。
あんなに心配してくれるなら実は彼だって……。
吹き出しそうになる期待を慌てて否定する。
彼は優しい。だから婚約者の義務を果たし、人として気を使うのだ。
またあの何かを恐れるような、気分が悪そうな婚約者の顔が思い出されて気が沈んだ。
──彼は婚約者を変えたがっているの。しがみついていないで、早く解放してあげてよ。
そう何度も訴えかけてきた妹の顔が、目の前を塗りつぶしていく。
実際アルヴェーン家の庭園で彼ら二人が過ごしているのを目にしてきた。そちらの方がお似合いだと囁く使用人たちの声も聞いた。病弱で守ってあげたくなる妹、高い爵位と魔力を持つ彼。二人が並ぶ未来は自然と想像できてしまった。
「私がいなくなれば、全部うまくいくの」
声に出してしまうと、全くその言葉通りな気がした。自分の存在は家にとっても、彼にとっても、邪魔者でしかないのだから。
決行の日は、思っていたよりあっさり訪れた。
結界の当番を終え、律儀にも屋敷まで送ってきてくれた婚約者と別れる。彼は残酷かな、こんな時にも優しく心配の言葉をかけてくれたからリュシアは笑って大丈夫だと言った。言ってみせた。
しばらくして明かりの消えた屋敷を静かに抜けだした。
誰も彼女を止めることはなかった。誰の目にも留まらなかった。
門を出た瞬間、胸に冷たい空気が流れ込んで心臓が強く打つ。
リュシアは振り返らなかった。
契約書と一緒に挟んでいた地図を取り出して辻馬車の御者に見せる。
御者は深夜に若い娘をみて少し瞠目した。が、相場より少し多めのお金を握らせれば何も言わず馬車を走らせた。
その夜、少しのかび臭さに包まれながらリュシアは驚くほどすぐに眠りについた。
窓から朝日が差し込む。
王都の平民街にある貸家は小さく古びていてベッドは軋み、台所は狭かった。それでもアルヴェーン家にはない穏やかさや、その質素な佇まいはリュシアをすぐに気に入らせた。
リュシアは初めて自分のために朝食を作った。必要なものはあらかじめ揃えてあった。
硬いパンを水で戻し、芋を洗って刻む。
包丁の扱いは拙かったが、湯気の立つ鍋を見ているだけで胸が温かくなった。
食後、外へ歩きに出ると数匹の野良猫が日向で丸くなっていた。彼女がしゃがむと、一匹が警戒しつつ近寄ってくる。
驚かせないようにゆっくりと手を伸ばせば、猫は素直に撫でられて喉を鳴らしていた。
その温もりに思わず笑みがこぼれた。
こんなことがしてみたかったのだと今さら気づく。
◇
その頃、婚約者の方では異変が起きていた。
婚約者はいつもの時間になってもリュシアが現れないことに違和感を覚えた。体調が悪いのだろうかと屋敷を訪ねる。
寝込んでいるようですと部屋に通されればそこには空のベッドがあるばかりだった。
刹那、言葉を失った。
「どこへ……」
胸の奥に嫌な予感が走る。彼は家にいた夫人にリュシアの在処を聞いた。
「リュシア? さあ。それよりあなた、婚約者を変える件はまだ悩んでいるの?」
「ですからその話はもう断ったではないですか。俺はリュシアさんの婚約者だ」
「でも──」
話をすればするほど噛み合わない。薄々感じていたが、この屋敷はどこかおかしい。
話を続けようとする夫人と無理やり別れて、当主の執務室へ急いだ。
「すみません、リュシアさんはどこへ」
「ん、リュシアか? さあな。それよりも──」
「っ失礼します」
彼は最後に彼女の妹に聞こうと考えたが、使用人たちが言うには友人と歌劇を見に行っているという。
リュシアに歌劇は興味があるかと聞いたとき、彼女は首を振ってそんな時間がないと言っていたのに。
その時はただ自分と見に行きたくないのかと思っていたが……。それにしては歌劇のポスターなどを集めているのをよく見たし、断る彼女の目は切なそうな色をしていた。
おかしい。
どうして家族なのに誰も彼女の居場所を知らないのか。どうして彼らは執拗に婚約者を妹の方に変えたがるのか。どうして彼女には歌劇一つ見に行く時間もなくて、その妹には時間があるのか。
そういえば自分は爵位が高い故に疑問に思わなかったが、彼女の結界当番は家の爵位に対してやけに多くなかっただろうか。
いつまでもぎこちないリュシアとの関係を相談しにいくときに、彼女の妹が柔らかく微笑みながら度々口にしていた言葉を思い出す。
──お姉さまは、あなたとの婚姻をすごく嫌がっているわ。
すべてがおかしくて、何もわからなかった。
どう接し方を心がけてもどこか余所余所しいリュシア。彼女にやけに無関心な家族。なぜか苦しそうにしていた彼女……。
彼はもう一度屋敷中を探しまわって彼女の部屋に戻ってきた。シワのない掛け布団に、寝た痕跡もないベッド。
彼は初めて気がついた。これは逃亡だと。
彼女は自分にも誰にも告げず、すべてを捨てて逃げて行ったのだ。
「……待ってくれ」
その声は震えていた。
彼女を失うかもしれない恐怖が、全身を支配していた。
◇
平民街での暮らしは想像していたよりも静かで、そして優しかった。
朝は自分で起き、洗濯物を干し、簡単な食事を作る。
余命まで持つだけのパンはすでに買ってあった。なぜか気にかけてくれる隣人のマーサさんは、地元から送られてきたと言ってはよく野菜を分けてくれた。
体調のいい日は市場まで歩いて安価な果物を一つだけ買った。
噛みしめると甘さが広がって、胸の奥が少しだけ満たされるのを感じるのが心地よかった。
魔力をほとんど使わない生活は身体を驚くほど楽にした。息切れも少なく夜も眠れる。
ただ、静かに胸の痛みが増していった。
それが彼女の余命を際立たせていた。その穏やかさは、近づく終わりの前に最後に与えられたわずかな猶予のようだった。
時折、婚約者の顔が浮かぶ。
名前を呼びそうになっては唇を噛んだ。
思い出してはいけない。思えば戻りたくなる。戻れば今度は逃げられないだろう。
あの狭苦しい場所で何も残らないまで削られて。最後まで都合よく死ぬのは嫌だった。
それだけがわずかに残った矜持だった。
リュシアはただ、あの人達の知らないところで穏やかに終わりを迎えたかった。
それでもふとした時に頭の中は、彼が妹を選ぶ未来を繰り返しなぞった。
笑顔で花を渡す彼と、それを受け取る妹。そのたび胸は発作の時よりも激しく痛んだ。リュシアはそれでいいのだと必死に自分に言い聞かせた。
彼はもう自分のものではない。
◇
王都では必死の捜索が続いていた。
婚約者は貴族としての体裁をかなぐり捨て、平民街を歩き回っていた。高い爵位と魔力を持つ彼がこんなところに現れて、所構わず情報を集めている姿に人々は驚いた。高い象牙色の外套は生成色に薄汚れ、擦れて糸が飛び出ていたが彼は気にしなかった。
「彼女は茶色の髪に榛色の瞳をしている。痩せていていつも少し顔色が悪く、けれど気丈な女性だ」
何度も同じ説明を繰り返す。そのたびに胸が締めつけられる。虐げられていたとなぜ気づかなかったのか。なぜ距離を置くことが優しさだと思い込んでいたのか。
一度、リュシアの妹がわざわざ平民街まで追いかけてきた。彼女の纏うドレスは以前よりも数段下の仕立て屋で作られたものだった。
アルヴェーン家は、リュシアがいないとその爵位を保てなかったのだ。
彼女は心配そうな顔をして言った。
「早く戻って私と結婚しましょう? きっとお姉さまは自由になりたかったのよ。あなたとの婚約に縛られていると思って……」
その言葉に彼は小さく首を振った。
「違う」
そう否定しなければ立っていられなかった。縛っていたのは自分ではなくリュシアを追い詰めていた家と、そして互いの誤解だ。そう思わなければ息ができなかった。
「私の婚約者はリュシア一人だ」
彼は唸るように呟いて去ろうとした。
「待ってよ! 彼女はもう失踪して貴族籍ではないの。婚約も無効だし…彼女のことは忘れて私と帰りましょうよ」
「離せ。俺はリュシアを探しに行く」
縋り付くリュシアの妹を振りほどいて婚約者は背を向けた。
それを見て彼女はついにもう我慢ならないというふうに大声をあげた。
「早く結婚して私をあなたの家に入れてよ。どうしてよ……私はもっと良い生活がしたかっただけなのに…せっかく邪魔者がいなくなったと思ったら爵位は下がるし良いドレスも宝石も買えないしもう最低よ!!」
「……」
彼は、自分はこんなものに騙されていたのかと手で顔を覆った。
そしてきゃあきゃあと泣きわめく女をおいて、足早に立ち去った。
──お姉さまはあなたを嫌っているのよ。それで、距離を取っているの。
リュシアの妹から初めてそう言われたとき、彼はただ恐ろしかった。
彼には、触れようとすると拒絶される記憶があった。
自身の魔力が高すぎたせいで出産の時に負荷をかけ母を失ったこと。それを上の兄弟に何度も突きつけられた。その魔力の漲る肌で触れてくるなと何度も怒鳴られた。
手を伸ばせば嫌われる。
そんな恐怖を骨の髄まで染みつかせられた。
やがて彼は家庭内で愛情を求めることを諦めた。
しかし家同士の都合で婚約者が出来たと知った時、彼の胸は再び期待で膨らんだ。
彼は婚約者をしっかり愛してやろうと誓った。彼はまだ見ぬ幸せの形を思い描いては頬が緩むのを止められなかった。
初めて会ったとき、その小柄な婚約者は震えていた。
彼は懸命に彼女を安心させようと気を使い、真綿でくるむように優しく接した。
彼女がそれに慣れていく様子が愛おしかった。彼女の少し遠慮がちだが穏やかな優しさに心惹かれていった。
しかし彼女はなかなか怯える様子が収まらなかったから、より社交的で人付き合いに明るそうな彼女の妹に相談した。
彼女は自分を嫌っているのだという妹の言葉を聞いた瞬間、彼の背中に冷たい汗が滲んだ。
触れれば拒まれる。
その感覚が反射のように蘇った。
そうしてすっかり信じ込んでしまったその言葉も、今となればどこまでが本当なのかも分からない。
最近は当たり前と思い込んでいたものたちが次々に音を立てて崩れてゆくばかりだ。
彼女がいなくなってもそのことに気づきすらしない、いなくなったと知っても悲しみすらしない家族たち。そればかりか邪魔者などと……。
彼はあの冷たい家の中で彼女がどれほど追い詰められていたかを想像した。
自分は果たしてその苦境に寄り添えていただろうか。
……考えるまでもない。
嫌われていると思い込んで距離を取って。
彼女の辛さでさえ、健気に作ってみせた顔に騙されて今まで気が付きもしなかったのだから。
今すぐ彼女に詫びをして、その細い肩を抱き寄せてやりたかった。
そこに彼女はいなかった。
探し続ける中で、彼は一人の街医師から衝撃の事実を聞き出した。余命宣告。魔力の限界。
突如としてすべてが繋がった。
「……そんな」
彼女は死に向かいながら何も言わず、大丈夫だと笑っていたのか。
彼は拳を握りしめて歯を食いしばった。後悔が遅すぎることを知りながらそれでも歩みを止めることは出来なかった。
◇
最近、リュシアの身体には確実に終わりの兆しが現れ始めていた。
朝、立ち上がろうとした瞬間に視界が暗転する。咳が増えて喉に鉄の味が残る。布に滲んだ赤を見て彼女は静かに息を吐いた。
もう残りわずかだ。
だからこそ最後にどうしても行きたい場所があった。余命がこれに間に合いそうと気付いた時、それだけはとても嬉しかった。
王都最大の祭り、花まつり。
恋人たちがめいめいに相手に似合う花を選び、渡すことで想いを告げる日。その花が受け取られれば二人は永遠に結ばれるという。
絵本でその存在を知ったとき一番憧れていた景色だ。
平民たちの祭りという建前だけど、貴族の若いカップル達の間ではお忍びで遊びに行くのが常套だった。リュシアはいつか自分も好きな人と平民に扮して街に繰り出してみたいと、いつも胸の中で念じていた。
しかし婚約してもそれが叶うことはなかった。毎年、婚約者の名義で送られてくる絢爛な花束を一人で寂しく飾るだけ。
けれど今はただ見てみたかった。子供心に憧れた、人が人を想う光景を。
上着を羽織って彼女はゆっくりと家を出た。胸の奥に高鳴る期待と、どうしようもない寂しさを同時に抱えながら。
花まつりの日の王都は、まるで別の街のようだった。
通りには色とりどりの花が溢れ、屋台の呼び声と笑い声が重なり合っていた。香ばしい焼き菓子の匂いと甘い花酒の香りが風に乗って流れてくる。リュシアは人混みの端をゆっくりと歩いた。
若い恋人たちがどの花が似合うかで言い争う。子どもたちが花冠をかぶり、誇らしげに走り回る。
その一つ一つが胸に静かな暖かさをもたらした。
羨望ではなくただ遠くから眺めるような感情。自分には触れられない世界の暖かさを最後に少し分けてもらっているような。
幼き自分が憧れていた本物の景色を目に焼き付けていった。
『お嬢ちゃん、まけるよ』と威勢よく声をかけてきてくれた店主の屋台でスープを買った。
その温かい汁を少しずつ口に含む。飲み込むと胃が驚いたように収縮し、それでも味はしっかりと感じられた。
生きている。そう思うたびに終わりが近いことも、また確かに感じた。
「あなた、ひどく綺麗だ」
不意にかけられた声に、リュシアは顔を上げた。
そこに立っていたのは、鮮やかな色の衣をまとった男だった。何か見覚えがあると考えふと思い当たって目を見開く。
彼はリュシアがポスターを集めていた歌劇の役者だった。街で偶然ビラを押し付けられたとき、その主演にどこか婚約者と似たものを感じて取っておいた。
それ以降、その役者が乗るポスターを意味もなく集めていた。
今、実際に目にするとその声や雰囲気はちっとも似ていないけれど。
長い髪は緩く結ばれて瞳は人の感情を映す湖のように澄んでいる。彼は大げさに胸に手を当て、詩を紡ぐように言った。
「月よりも儚く、夜明けよりも静かな瞳だ」
口説き文句としては芝居がかりすぎていたが不思議と不快ではなかった。彼の言葉には遠慮や嘘の匂いがなかった。
彼は華やかな花束を取り出して跪いた。
「あなたの目に吸い込まれそうだ。お嬢さん、この花を受け取って僕と街をあるかないか」
「ありがとう……」
咄嗟にそれ以上言葉を続けられなくて逡巡する。
普段のリュシアならすぐに断っていただろう。しかし今、花まつりの喧騒にあてられて彼女の気分は少し浮いていた。
……良いのではないか。
どうせ最後なのだ。
リュシアは息を吸って口を開こうとした。
「はい──」
肯定を告げようとした時。歌劇役者は目を細め、少しだけ真剣な表情になって遮った。
「いけない。そんな悲しい顔をさせるつもりはなかった。あなたの心はここにはないね」
その一言が胸の奥にしまい込もうとしていたものを揺らした。
リュシアは視線を落とした。
「……少し夢を見るのも悪くないと思ったのですが」
彼女がそう呟くと、歌劇役者は首を振った。
「夢は逃げ場ではなく目的地だ。あなたが向かいたいのは別の場所だろう」
役者の仮面の下にはどこか深い悲しみが見え隠れしていた。
そうして彼はそれ以上踏み込まず、またも芝居がかった一礼をして人混みに消えた。
言葉だけを残して、風のように消えていった。
リュシアは路端に座り込んでぼんやりと歌劇役者の言葉を反芻していた。
私の心はここにはないと。ならばどこにあるというのか。
考えてもすぐに答えは出なかった。いや、出ないように考えようとしていた。
だって答えははじめから分かっているのだから。
思い出すのはこちらを気遣うように揺れる瞳ばかり。
長い回り道をして、しかしやはり答えにたどり着いてしまった。
あの歌劇役者の言葉がなければ目を逸らしたままにしておいただろう。
もうすぐ消えゆく運命だというのに、自分の心がどこにあるのか、はっきりと突きつけられてしまった。
そのとき、胸が詰まったように痛んだ。
はっと息を吐く。
世界が傾いた。
足元がふらついて視界が暗く狭まる。
喉から込み上げてくるものを抑えきれずに彼女は膝をついた。手で口元を覆うと指の間に赤が滲む。鉄の味が、はっきりとした現実として広がった。
見られたくない。
最初に思ったのはそれだった。
誰にも、特に彼には。こんな姿を。
どこか誰の目にも映らないところで終わりを迎えたかった。
立ち上がろうとしても、身体が言うことを聞かない。引きずるようにして人の少ない方を目指して這っていった。
視界いっぱいに広がった地面が少しずつ赤で染められていく。
右手を持ち上げて前に置き体を引きずる。左手を持ち上げて前に置き、体を引きずる。それをいくつか繰り返して、やっと身体が影の中に入った。
そのとき、群衆をかき分けるようにして一人の男が駆け寄ってきた。
痩せこけて目の下に濃い影を落とし、けれどその瞳だけは釣り合わないほどに爛々とした強い光を放つ。
「リュシア」
その声を聞いた瞬間、彼女の中で張り詰めていた糸が切れた。
「……来ないで」
逃げようとしたが、力が入らない。彼は迷わず彼女を抱きとめた。腕の中は温かくて、しかし震えているのがわかる。彼女はそれが自身のものではなく、彼の震えだと気づいて胸が痛んだ。
「ずっと探していた」
低く掠れた声。彼は彼女の顔を覗き込んで、その血の滲む口元を見て息を呑んだ。
「こんな姿を見せるつもりはなかったの」
リュシアは微かに笑おうとしたが咳き込んでまた赤が溢れていった。彼は何も言わず、彼女を強く抱きしめる。
その抱擁の中でもう隠し通せない終わりを二人とも感じていた。
彼は人の流れから彼女を庇うように抱えて花で飾られた路地の陰に座らせた。石畳は冷たかったが、彼は外套を敷いてそれを遮った。リュシアはその上で浅く息をしながら視線を逸らした。
「見つけなくて良かったのに」
責める言葉ではなかった。それよりも甘えるような色が彼女の無意識の内に含まれてしまっていた。彼は大きく首を振った。
「ずっと君を探していた」
その一言は彼女の胸の中に大きな波を起こした。
「君がいなくなって初めて分かった。いや、正確には……分かろうとせずに逃げていた。距離を置けば、嫌われてたとしてもそれを突きつけられずに済むから」
「……嫌いだなんて」
彼は自嘲するように笑い、すぐに言葉を続けた。
「本当はずっと気がかりだった。無理をしているのも、顔色が悪いのも。でも、触れれば拒否されてしまいそうで怖かった。無理に踏み込んであなたに嫌われて、この関係が終わってしまうのが怖かった」
リュシアはコフッと咳した。血の味がまた喉の奥に少し広がる。
「私も……あなたに嫌われていると思っていました。妹が、あなたは私を重荷だと……」
そこまで言って、彼女の声が震えた。
「だから……いなくなればいいと。私が消えれば、あなたも自由になれると」
彼の表情が歪む。
「そんなわけがない」
強く、はっきりとした否定だった。
「君がいない世界を自由だなんて思えない。医師から聞いた。余命のことも……すべて」
リュシアは一瞬言葉を失った。
迷子のような顔が少し呆けて、やがてクシャッと歪められた。
彼女は囁くほどのかすかな声で口を開いた。
「私……もう少し早く、あなたのことを信じて……すべて打ち明ければ……良かったね」
その瞳から、静かに涙が落ちた。
「でも、もう遅いの。もう……長くないの。怖いの。あなたを置いていくのが。ずっと諦めようとしていた。いっそ会わないほうが楽だったのに……」
彼は彼女の頬に触れ、親指で涙を拭った。
「俺のせいだ、俺が踏み込む勇気を持てなかったから」
「私のせいだよ。優しさに……慣れていなくて……」
「違う」
彼はもどかしそうに唇を噛んだ。
「……後悔は今はよそう。君との時間が一秒だって惜しい」
そう言って、彼は懐から一輪の花を取り出した。
大して大輪でも鮮やかでもない、地味な黄色の花だった。
「屋台で目が合って思わず買った。なんだか君の目に似ていて。……受け取ってくれるか」
問いかけは祈りに近かった。彼の喉はゴクリと鳴って、背から汗が滴り落ちていった。
リュシアは小さく頷き、微笑んだ。
「……はい」
震える手で彼女はその花を受け取った。指先に花一輪分のわずかな重みが伝わる。
その瞬間、彼は彼女を引き寄せそっと唇を重ねた。
優しく、壊れ物に触れるような口づけ。だがすぐに彼女の喉からは咳が漏れ、二人の唇の間にはっきりとした血の味が混じった。
鉄の味。生の証。
彼ははっと離れて顔を覗き込もうとしたが、彼女は弱々しくその衣を掴む。
「いいの……今は、いいの」
再び口を重ねる。血の温度と、唇の温かさが混ざり合う。切なくて痛くてそれでも確かに幸福な時間だった。
唇を離したとき、彼の目には涙が滲んでいた。彼女は満足そうに目を細める。
これは彼女にとって初めてのキスだった。
「あなたに、貰ってもらえてよかった」
「こちらの台詞だ」
彼は彼女を抱き寄せ、額を付けて見つめ合った。
気がつけば日はとっくに暮れていた。
花まつりの夜空には花をかたどった灯りが無数に舞う。永遠を誓う恋人たちの願いが空へと昇っていく。
永遠は叶わないかもしれない。
それでもこの瞬間、二人の想いは確かに通じ合っていた。
すれ違い続けた心はようやく同じ場所に辿り着いて静かに結ばれたのだった。
お読みいただきありがとうございました。




