星が落ちた道
第1部 五年目の雪解け
都会の薄氷
札幌に来て、五年目の三月が終わろうとしていた。アスファルトの隅に残る汚れた雪が、最後の抵抗のように陽光を弾いては、ゆっくりと水滴に姿を変えていく。東京出身の高橋 栞、二十六歳。彼女にとって、この雪解けは単なる季節の移ろいではなかった。自らに課した、五年というタイムリミットの終わりを告げる、冷たい合図だった。
栞は札幌市豊平区にある、ごく普通のマンションで一人暮らしをしている 。都心へのアクセスも悪くないが、中心部の喧騒からは程よく離れた、静かな住宅街だ。東京の、息が詰まるような満員電車と比べれば、札幌の地下鉄での通勤は天国のように快適だった 。広々と区画整理された街並みは歩きやすく、夏には忌まわしい黒い虫に遭遇することがないのも、ささやかながら確かな幸福だった 。
しかし、冬の暖房費の請求書が届くたびに、北国での暮らしの厳しさを思い知らされる 。そして何より、この街で過ごす時間が長くなるほどに、心の奥底で凍りついたままの希望が、春の陽射しに溶かされて消えてしまいそうな焦燥感に駆られるのだった。
彼女は市内のマーケティング会社で働いている 。北海道の観光や特産品をPRする仕事は、やりがいもあった。週末になるとレンタカーを借りて道内各地を巡り、まだ見ぬ魅力を探す。それは仕事熱心な社員の姿に見えただろうが、彼女にとっては別の意味を持っていた。それは、七年前に出会った「彼」を探すための、終わりのない巡礼の一部だった。
「まだ見つからないの?その人」
会社の同僚に悪気なくそう言われるたび、栞は曖昧に微笑んで頷くしかできない。友人や家族の猛反対を押し切って、この北の街に就職を決めたあの日から、彼女はずっと幻影を追いかけている。覚えていないかもしれない。彼女がいるかもしれない。そんな正論は、聞き飽きるほど自分に言い聞かせてきた。それでも、あの夜、満天の星の下で交わした会話のトキメキが、彼女の人生のコンパスの針を、ずっと北に向けたままにしていた。
今年で見つからなければ、諦めて東京に帰ろう。そう決めた心は、薄氷のように脆く、頼りなかった。札幌の街に遅い春が訪れようとする中、栞の五年間の冬は、まだ終わりの気配を見せていなかった。
星屑のエチュード(回想)
七年前、十九歳の夏。東京の大学に通っていた栞は、一人旅で北海道を訪れていた。広大な大地を自分のペースで走りたくて、慣れないレンタカーを借りた。地図アプリを頼りに進んでいたはずが、いつしか道に迷い、舗装されていない林道へと入り込んでしまった。道東の、神の子池へ向かう道だったかもしれない 。あるいは、宗谷丘陵の果てしない草原を貫く未舗装路だったか 。記憶は曖昧だが、心細さだけは鮮明に覚えている。
ぬかるんだ道にタイヤが深く沈み、アクセルを踏んでも虚しく空転するだけ。みるみるうちに日は落ち、森の闇がすべてを飲み込んでいく。携帯電話の電波は、とっくの昔に圏外になっていた 。クラクションを鳴らす勇気もなく、ただ車のシートで膝を抱える。獣の鳴き声のような風の音に、心臓が縮み上がった。
その時だった。闇の向こうから、二つのヘッドライトが近づいてくるのが見えた。希望の光だった。現れたのは一台のピックアップトラック。運転席から降りてきたのは、栞と同じくらいの歳の青年だった。
「大丈夫ですか?」
彼の声は、驚くほど穏やかだった。パニックに陥っていた栞とは対照的に、彼は落ち着き払っていた。車の状態を冷静に確認すると、彼は手際よく、自分の車のフロアマットを泥濘に敷き、タイヤの空気を少し抜くことを提案した。それは、ぬかるみから脱出するための実践的な知識だった 。彼の的確な指示に従い、なんとか車を固い地面まで動かすことができた。
時刻はすでに深夜を回っていた。こんな時間に一人で戻るのは危ないからと、彼は夜が明けるまで一緒にいてくれると言った。彼のトラックの荷台に並んで腰掛け、魔法瓶から注いでくれた温かいコーヒーを飲む。すると、それまで恐怖で気づかなかった光景が、栞の目に飛び込んできた。
空だった。東京では決して見ることのできない、星々の海。まるで天然のプラネタリウムのようだった 。光害のない北海道の空は、星が降ってきそうなほどの密度で輝いていた 。
「あれが夏の大三角。デネブ、アルタイル、ベガ」
彼は星を指さしながら、静かに語り始めた。天の川が、白い帯となって夜空を横断しているのが肉眼ではっきりと見えた 。美瑛の丘の上か、摩周湖のほとりで見る星空は格別なんだと、彼は教えてくれた 。
彼の話は、不思議と心地よかった。夢のこと、大学での勉強のこと、彼がなぜこの土地を愛しているのか。栞が話す東京の喧騒や息苦しさを、彼は静かに聞いてくれた。会話は途切れることなく、朝まで続いた。彼は道内の大学で農学を学んでいるらしかった。その佇まいは、北海道大学の学生が持つと言われる、実直で穏やかな雰囲気を纏っているように感じられた 。彼自身が、この広大な大地の一部であるかのように、自然で、揺るぎなかった。栞が感じたトキメキは、単なる異性への憧れではなかった。それは、彼の生き方そのもの、都会の喧騒とは無縁の、大地と星々に根差した静かな強さに対する、魂の共鳴だった。
東の空が白み始め、彼が車を発進させる時、栞ははっとした。名前は聞いた。「樹」と。しかし、一番大切な連絡先を聞くのを忘れていた。後悔が津波のように押し寄せたが、彼の車はもう小さくなって、朝日の中に消えていった。
幻影の重み
あの夏の後、栞は二度、北海道を訪れた。しかし、道内の大学というあまりに漠然とした手がかりだけでは、彼を見つけ出すことは不可能だった 。
就職活動の時期、彼女が「札幌の会社に就職する」と宣言した時、東京の家族や友人たちは一様に目を丸くした。
「正気なの?キャリアを捨てる気?」 「たった一度会っただけの人でしょ?東京と札幌じゃ、あまりにも違いすぎるわ」
彼らの心配はもっともだった。東京の刺激的な生活、圧倒的な求人数、何不自由ない便利さ 。それらすべてを捨てて、雪深い北の街へ移り住むという決断は、誰の目にも無謀に映った 。
それでも、栞は来た。最初の年は、希望に満ちていた。週末ごとに道内をドライブし、大学のキャンパスを訪れ、学園祭に紛れ込み、人混みの中で彼の面影を探した。しかし、北海道は広すぎた。彼女の記憶の中の彼の顔は、暗闇の中で見た朧げなもので、時が経つにつれて輪郭がぼやけていく。
二年、三年と経つうちに、希望は焦りに変わり、やがて諦めに近い感情へと沈んでいった。彼女の人生は、まるで幻影という重りを引きずっているかのようだった。探しているのは、樹という一人の男性ではないのかもしれない。あの夜に感じた、人生が根底から揺さぶられるような、あの奇跡的な感覚そのものを、彼女は探し求めているのだ。その感覚を取り戻せない限り、自分は前に進めない。そんな強迫観念にも似た思いが、彼女をこの地に縛り付けていた。
第2部 終わりの道
富良野への最後の巡礼
五年目の六月。ラベンダーにはまだ少し早いが、北海道が一年で最も輝く季節が始まっていた。約束の夏が、刻一刻と近づいてくる。もう、探すのはやめよう。栞は、そう決意した。最後のドライブは、感傷的なお別れの儀式だった。
行き先に選んだのは、富良野。この美しい丘の風景が、彼女を北海道に引き寄せた原点の一つだったからだ。いつものように週末に車を借り、札幌インターチェンジから高速に乗る。彼女が選んだのは、三笠インターチェンジで降りて山道を行く、少し遠回りだが景色の美しいルートだった 。桂沢湖の穏やかな湖面を横目に、カーブの多い国道452号線をひた走る 。窓の外には、パッチワークの路を思わせる丘陵地帯が広がり、その風景は息をのむほど美しいのに、栞の心には寂寥感が広がっていた 。
この五年で得たものは何だろう。一人でどこへでも行ける運転技術と、広大な自然を愛する心。そして、東京にいては決して得られなかったであろう、静かな孤独と向き合う強さ。失うものは、一つの叶わぬ夢。そう思うと、不思議と心が軽くなるような気もした。これは捜索ではない。ただの、美しい風景への別れの挨拶だ。
コンビニエンスストアの奇跡
富良野へ向かう途中、喉の渇きを覚えて国道沿いのコンビニに立ち寄った。オレンジ色の不死鳥のマークが目印の、セイコーマート 。道民にとってはインフラとも言える、生活に密着した存在だ 。
自動ドアをくぐると、店内に漂う温かい匂いに迎えられた。店内で調理される「ホットシェフ」のかつ丼やフライドチキンの香りだ 。栞はコーヒーを手に取り、ついでに北海道牛乳を使ったオリジナルのアイスクリームでも食べようかと冷凍ケースを覗き込んだ 。PB商品である「Secoma」ブランドの品々が、棚にずらりと並んでいる 。
その、あまりにも日常的な空間で、それは起こった。
レジの方から聞こえてきた声に、栞の全身が凍りついた。七年間、夢の中で何度も聞いた声。忘れるはずのない、穏やかで、少し低い響き。
恐る恐る振り返る。そこに立っていたのは、作業着姿の男性だった。歳を重ね、学生の面影は薄れている。日に焼けた肌。でも、間違いない。あの夜、星空の下でコーヒーをくれた、彼だった。
時が止まった。店内のBGMも、他の客のざわめきも、すべてが遠のいていく。彼もまた、栞の視線に気づき、目を瞠った。その表情に、驚きと、信じられないという戸惑いと、そして微かな記憶の光が灯るのが見えた。
「…もしかして」
彼の唇が、そう動いた。
「あの時の…?」
「はい」と答える声が、震えていた。心臓が、肋骨を突き破らんばかりに高鳴る。何から話せばいいのか分からない。ただ、この奇跡を二度と手放してはいけない、その一心だった。
「あの…連絡先を、教えてもらえませんか」
震える手でスマートフォンを差し出す。彼は一瞬ためらった後、こくりと頷き、自分の番号を打ち込んでくれた。その指先が、わずかに震えているのが見えた。
後日、改めて会う約束だけを交わし、栞は店を出た。車に戻り、ハンドルを握ったまま、しばらく動けなかった。世界が、色鮮やかに塗り替えられていく。諦めた瞬間に訪れた、あまりにも出来すぎた奇跡。富良野へ向かう道は、もう別れの道ではなかった。始まりの道へと、続いていた。
第3部 二つの空が交わる場所
七年という一瞬
再会の約束は、その一週間後だった。場所は、札幌の大通公園が見えるカフェ。栞は、約束の時間の三十分も前に着いて、緊張で冷たくなった手を握りしめていた。
現れた彼は、あの日の作業着ではなく、シンプルなシャツ姿だった。少し照れたように笑う顔は、記憶の中の青年と、目の前の大人の男性の姿を滑らかに繋いだ。
最初のぎこちなさは、すぐに消えた。七年前のあの夜のように、彼らの会話は自然に流れ始めた。栞は、意を決してすべてを話した。あの夜の出来事が忘れられず、彼を探すためだけに札幌へ来たこと。五年という歳月を、一つの不確かな記憶だけを頼りに過ごしてきたこと。
彼の名前は、相葉 樹といった。彼は栞の話を、驚きと、信じられないという表情で、しかし一度も遮ることなく聞いていた。そして、すべてを聞き終えると、深い溜息をついた。
「…すごいな。俺のために、そんな…」
彼の声には、感動と、そして申し訳なさのような響きが混じっていた。彼は、自分のことを話してくれた。やはり北海道大学の卒業生で、農学部で学んでいたこと 。今は持続可能な農業技術を開発する会社に勤めていて、仕事で道内各地の農家を回っているのだという 。あの日、富良野へ向かう途中のセイコーマートにいたのも、仕事の一環だったのだ。彼は、栞が記憶していた通りの、実直で、地に足の着いた、穏やかな男性だった。
鏡合わせの探索
栞の途方もない物語を聞き終えた樹は、しばらくの間、窓の外の緑を黙って見つめていた。やがて、彼はゆっくりと口を開いた。その表情は、これまで見たことのないほど真剣だった。
「信じられないかもしれないけど…俺も、君を探してたんだ」
栞は息をのんだ。
「あの夜のこと、俺も一日だって忘れたことはなかった。連絡先を聞かなかったことを、どれだけ後悔したか分からない」
彼が知っていたのは、栞という名前と、東京から来た大学生だということだけ。あまりにも広大な海に落とした、一粒の真珠を探すようなものだった。
「卒業して会社に入ってから、毎年、休暇を取って東京に行ってたんだ。五年間、毎年」
彼の口から語られたのは、信じられないような話だった。彼は毎年一週間、巨大な迷宮である東京を彷徨っていた。渋谷のスクランブル交差点、新宿の雑踏。人の波に酔いながら、ただひたすら、栞の面影を探して歩き続けたというのだ 。広大で、時に何もない北海道の道をひたすら走り続けた栞の探索と、人で埋め尽くされた、息苦しいほどの都会の真ん中で孤独に続けた彼の探索。それはまるで、鏡に映したように対照的で、そして同じだけの切なさと途方もなさを孕んでいた。
「君が話してくれた大学のキャンパスの近くや、好きだと言っていた古本屋街を、あてもなく歩き回った。馬鹿げてるって、自分でも思ってた。でも、諦めきれなかったんだ。あの星空の下で、都会の空は灰色だって寂しそうに笑った、君のことが」
涙が、栞の頬を伝った。それは、五年間の孤独が報われた安堵の涙であり、自分と同じだけの想いを抱えてくれていた人がいたという、奇跡への感謝の涙だった。一方通行だと思っていた道は、実は道の両端から、お互いが必死に歩み寄っていた道だったのだ。彼女が感じたトキメキは、彼女だけのものではなかった。それは、二人のトキメキだった。
「君を探している時間は、不思議と一人じゃない気がした。いつか会えるって信じてたから、頑張れたのかもしれない」
樹の言葉に、栞は頷いた。自分も同じだった。彼を探すという目的が、見知らぬ土地での孤独な日々を支えてくれていた。
始まり
その夜、二人は車で郊外へと向かった。街の明かりが届かない、静かな丘の上。七年前と同じように、空には満天の星が輝いていた。
「会いたかった」
どちらからともなく、同じ言葉がこぼれた。
「探してくれて、ありがとう」 「信じてくれて、ありがとう」
もう、言葉は必要なかった。隣にいる彼の体温が、七年間の空白を静かに埋めていく。長かった探索の旅は、終わったのだ。幻影を追いかける日々は終わり、確かな現実がここにある。この空白の時間があったからこそ、お互いの想いの強さを、二人は疑いようもなく知ることができた。
見上げた空には、あの夜と同じ夏の大三角が輝いていた。しかし、その光はもう、手の届かない憧憬の色ではなかった。
「これからは、迷子になっても俺が見つけるから」 樹が、栞の手をそっと握った。 「もう迷わないよ。あなたが、ここにいるから」
夜明けの光が地平線を淡く染め始め、二人が歩んできた長い夜の終わりと、新しい朝の始まりを告げていた。札幌の空の下、二つの孤独な空がようやく一つに交わった。長い道のりの果てに、二人はようやく、始まりの場所にたどり着いたのだ。




