鑑定留置/宗仲天教/再会/闇落ち
鑑定留置
その夜、長野県内で高級リゾートホテルとして名高い『シャイニングリゾート』の前には警察車両が数台止まり、目まぐるしく光るパトランプが現場の物々しさを醸し出していた。警官が大勢集まれば、自然発生的に野次馬も集まって来る。待機中の警官達は、仕方なく通行整理をする羽目になった。
そんな中、警官数人に連れられてホテルから出て来たのは、垢抜けたスーツを着てすっかりこちらの世界に馴染んだ様子のテツであった。髪型もすっかりこちらの世界のスタイルだ。前手に手錠を掛けられ、警官に両脇を固められている。テツが周りを見渡すと、駆け付けたマスコミのカメラのフラッシュが次々と光った。野次馬達も条件反射のように携帯で動画や写真を撮っている。
周りの様子を眺め乍ら、テツはまるで夢の中にでもいるように感じていた。これが現実でも夢でも、どちらでもいい気持ちになっていた。テツが警察車両の後部座席に押し込められると、車は夜の街を走り去って行く。
テツが逮捕されたニュースはテレビやネットで流れた。その身柄は警察での取り調べの後、検察へと送られた。警察でも検察でも意味不明な供述を続けた為、検察はテツの精神状態に異常がある可能性を考慮した。検察は裁判所の令状を得た上で、テツを起訴前本鑑定することを決め、松本精神医療センターに鑑定留置されることが決まった。身柄は病院へと移送される。このような鑑定留置が行われるのは、殺人などの大事件であることが殆どである。だからテツの事件にも適用された。テツは、
―――人を二人も殺したのだから。
松本精神医療センターは市街地から少し離れた山裾に建てられた精神科の専門病院である。テツはこの病院へと運ばれた。
そして本日、鑑定人である精神科医による第一回目の聞き取りが行われている。
一階にある105診察室の前には、男性研修医である竹田と山中が待機している。病室からここにテツを連れて来た二人は、もしもに備えて診察室前に立っているのである。緊急事態で呼ばれれば、中に飛び込んで行くことになる。
診察室の中では拘束衣を着て自由を奪われたテツと、精神科医の佐伯絵里がテーブルを挟んで向き合っている。
今年四十一歳になる絵里は医学部を卒業した後、順調に医師免許を取得し、国立病院で二年以上の臨床研修を経て精神科医となった。性別を意識しがちな絵里は男に負けまいと人一倍努力した。少々勝気な性格である為、先輩医師から精神科医に向かないと言われたこともあった。しかしそんな言葉も彼女は原動力に変えてきた。
絵里はこれから数か月掛けて本鑑定を行うこととなる。鑑定では被疑者・被告人の責任能力の有無を判断しなければならない。精神障害で善悪の判断が出来ない、或いは自身の行動をコントロール出来ない状態なら『心神喪失』となり、無罪となる。また完全にコントロールが出来ない訳ではないが、著しくその能力が低下している場合は『心神耗弱』となり、減刑の対象となる。鑑定作業としては、極端に知能が低いと心神耗弱と判断される場合があるので知能テストを行う。他にも簡単な作業で性格を判断する精神作業検査や、質問に回答させることで性格を判断する質問紙性格検査、絵や文章を書かせて性格を判断する投影法テストなどがあるのだが、絵里は初めて会う際にフリートークを行い、特にこの時間を大切にしている。
目の前で拘束衣を着て目を伏せたままの男を絵里は静かに見つめた。男が人を二人殺したことに間違いはないし、この男もその罪を認めている。検察から精神鑑定を依頼された絵里の仕事は、彼の中にある真実を突き止めることだ。男に名前を尋ねると『黒田テツ』と名乗った。黒田家の長の長男として生まれ、幼い頃から剣術修行をしていたと言う。だが村からここへ来るまでの出来事を話して欲しいと頼むと、すぐにテツは黙り込んでしまった。もう黙り込んで三分ほど経過するが、絵里は観察を続けている。この男はなぜ黙ってしまったのか? いつまで黙っていられるのか? その間何を考え、何に反応を示すのか? 一通り観察した後、絵里はやっと口を開いた。
「話し始めたばかりだけど、もう疲れた? 何か飲み物でも?」
絵里がそう言うと、テツは首を横に振る。
「では、話の続きを」と絵里。
「時間の無駄でしょ。村の話も、こちらへ来てからの話も、全部警察や検察で話しましたよ。信じては貰えなかったけど」
絵里は目の前に置かれた書類を指し乍ら言う。
「これはあなたの供述調書です」
「そこに全部書いてあるでしょ」
「一通り読ませて頂きました。あなたが生まれ育ったという、悪魔を封じ込めた魔封村の話が書かれていました。そこには村を牛耳る光神家があり、剣術で村を守る黒田家があり、砂金取りで村を潤す山波家があって、悪魔が世に放たれないよう守り続けていた。あなたはその村からこちらの世界にやって来たということね」
「その通り」
「まぁ、信じて貰えそうにない話ね」絵里はわざと冷たく言った。
「なら後はその供述調書で判断して下さい」
「書類だけじゃ分からないことがあるから話を聞いているの」
「…………」
これもわざとだが、絵里は少し苛立った調子で続ける。
「いい? あなたは人を殺したのです。この病院にいる理由が分かる? 鑑定留置。殺人で起訴される前の精神鑑定の為にここにいるの。話すことが今のあなたの仕事とも言える。罪の意識があるならちゃんと話して頂戴。私だって暇じゃないの」と言い放って絵里はテツの反応を見た。この男はどう反応するのか? 苛立って怒鳴り散らすのか?
テツはまじまじと絵里を見ている。
「…何?」絵里は眉間に皺を寄せた。
「精神科医って、もっと優しいのかと思った」とテツは怒るでもなく答えた。
「あいにく私はこうなの。正直過ぎるのね、精神科医に向かないとも言われたわ。もっと寛容な先生と交代する?」
「いや…正直なのは悪くない」意外にもテツは絵里を受け入れたようだ。
「なら続けるわよ。供述調書に書かれていたけど、悪魔の子だっけ、呪郎とか言う人物に……人物? 悪魔? ま、どっちでもいいか」
そう言うと、絵里は供述調書と一緒にあった一枚の紙をテツに見せる。そこには呪郎と思われる、黒い体で両翼のある悪魔の絵が描かれていた。「これが呪郎ね? あなたが描いたんでしょ?」
頷くテツ。
「自分のこと『ワシ』って言うそうね、この悪魔。この呪郎にこちらの世界の知識を与えられたのね」
「そうだ」
「あなたと一緒に来たサナと言う女性は車に撥ねられ、その遺体は呪郎によって猫の死骸に変えられた」
頷くテツ。
「知識を得たあなたが最初に取り組んだのは、持っていた砂金を換金することだった」
「こちらの世界では、何をするにでも金が必要だという知識を得たからね。街で平田という、ろくでもない男を見つけた」
そう言い乍ら、テツの脳裏に記憶が蘇ってくる。
呪郎と別れたテツは、新たに服と靴を盗んで身なりを整えた。手元に砂金はあるが、身分証を持っていないテツには砂金を換金することが出来ない。金の買い取りには古物営業法が絡んでくるので身分証の提示が必要だ。知識を得たことでそれを知ったテツは、自分の代わりに換金する人間が必要だと考えた。そして繁華街で人並みの中を歩いている時だった。腕や首に派手な刺青を入れた平田真治が、キャバクラ店からキャバクラ嬢の手を引いて出て来る場面に遭遇したのだ。
「ちょっと離してよ! 何で店まで来るの!」と喚く女に対し、「てめえが金置いていかねぇからだろ、ほら出せ!」と怒鳴る平田。どうやら二人は懇ろのようだ。
女は渋々財布を出し、平田に金を渡した。
金を受け取った平田は「こんなんで足りるかよ!」といきなり女を殴り倒し、続け様に蹴りを入れる。
「舐めてんじゃねぇぞ、てめえ!」
平田はそう吐き捨てて女の財布から金を全部抜くと、「あんじゃねぇか!」と財布を叩き付けて去って行った。
平田の後ろ姿を見送るテツがいる。
テツが跡を付けると、平田はパチスロ店に入って行った。暫く待った後に店内に入って行くと、なかなか当たりが来ない平田は荒れていた。
「くそっ!」平田が機械を叩き、恐れた周りの客が席を移動している。
テツはそんな平田の隣に座って、「ツキがないようだな」と声を掛けた。
睨む平田を気にせずテツは続ける。
「喧嘩を売っている訳じゃない。あんたにやって貰いたい仕事がある」
テツがそう言っても平田はまだ睨んだままだ。
テツが持っていたリュックの中を開けて見せると、平田がそれを覗き込む。そこにはビニール袋に詰められた砂金が入っていた。
「…何だ、これ」と平田。
「砂金だよ、見たことないか?」
「本物かよ、これ?」
「勿論」
「俺にやって貰いたいことって?」
「これを換金しに行って欲しい。あんたには謝礼を渡そう」
「自分で行けばいいだろ」
「訳あって行けないんだ。嫌なら断っていいぞ」
「…………」
次の日、『金高値買い取り』のポスターが貼られた金買い取りセンターの入口のドアを、リュックを持った平田が悠然と入って行く姿があった。
店に入った平田は応対した店員とテーブルで向き合う。リュックをテーブルに乗せて中身を出した時、店員の目が丸くなったのは言うまでもなかった。
店の傍で待っていたテツは、出て来た平田から現金入りのリュックを受け取った。リュックの現金を確認すると、「分け前だ」と言って十万円ほどを平田に渡す。
「これでもう会うことはない」とテツが去り掛けた時、「ちょっと待ってくれ、話がある」と平田は言った。
テツは平田の目を探るように見た後で言った。
「ここで長話はしたくない」
「なら、夜の十二時に昨日打ち合わせした公園で会おう」と平田が言うので、テツは仕方なく頷いて去って行った。
夜の公園。
街灯の下で平田が待っていると、約束通りにテツは来た。例のリュックを持っている。
「今日はご苦労さんだったな。で、話って何だ?」とテツ。
「色々考えてみたんだが、半々にしないか」
「半々? 何を?」
「その金だよ」
「言っている意味が分からない」
平田はにやついて「あんた、何で俺に換金させたんだ?」と言った。
「換金するのにも身分証がいるんでね」
「身分証がないご身分…ということは、あんたは何かしでかしてやばい状況にいるってことだよな」
「色々考えてみたようだな、その足りない頭で。半々だって? 断る」
「まぁ、そう言うと思ったぜ」平田はナイフを出して構え、「なら、俺が十割頂こうか」
と言った。
テツは落ち着き払った様子で、「ここで待ち合わせたのは俺を襲う為か?」と聞く。
「いいから金を寄こせ!」と平田がリュックに手を伸ばした途端、テツは一瞬でナイフを奪い取り、平田の喉を横一文字に切り裂いた。
大量の血を喉から吹き出し乍ら平田は前のめりに倒れ、そのまま息絶える。
「確かに、ここなら目立たなくて済むよな」とテツは平田の遺体に言った。
それから数日後の夜、ホテル『シャイニングリゾート』の最上階にある高級スウィートルームでパーティーは開かれていた。繁華街の外国人からコカインを手に入れたテツが、無料のドラッグパーティーを開くと言って街中で若者達に声を掛けると、思った以上の人数が集まって来た。テツは死んだ平田の身分証をドラッグの売人仲間に偽造して貰い、平田を名乗っていた。
屋外プールでは水着の女達がはしゃいでいる。
クラブミュージックが掛かる中、若い男女が入り乱れて酒を飲み、コカインを鼻から吸入して楽しむ。その様子を満足そうにソファーから眺めているテツがいる。横にいる女に勧められ、自身もコカインを吸入する。金が手に入り、換金した男も消えたことでテツは上機嫌だった。
踊り狂う者。
恍惚と宙を見つめる者。
熱いキスを交わす男女。
数時間続いたパーティーはやがて終わり、テツはドラッグでふらつく若者達をドアの前で見送った。
「さあ、今夜はお開きだ。気を付けて帰れよ」とテツが声を掛けている。
ラリッた女が「じゃあね、平田ちゃん。また誘って」とテツにキスして去って行った。
若者達が去ってテツが部屋に戻ると、片耳に黒いスタッドピアスをした若い男が一人ソファーで寛いでいる。
「悪いな、今夜はお開きだ。少し眠りたいから帰ってくれ」と言うテツの言葉にもピアスの男は動く気配がない。
「こんなスウィートに泊まってタダでドラッグパーティー開くなんて、あんた余程金持ちなんだろうなぁ」とピアスの男が溜め息交じりに言った。
「だから?」とテツがむっとして返す。
「そう苛つくなよ。これでも気を使って誰も居なくなるのを待ってやったんだ」
「…何か話があるのか?」
「あんた平田の名前名乗っているけど、平田じゃねぇよな」
「…………」
「あいつとは古いダチなんだよ。あんた一体誰なんだ? それと平田は今どこにいる?」
平田の遺体は大金を払って繫華街の外国人に始末して貰っていた。山に埋めたから大丈夫だと後で外国人が言っていたが、今それを話す訳にはいかない。
「ダチが気になるか?」とテツ。
「正直言うと気にはならない、何かあったとしても口止め料さえ貰えればそれでいい」
「どれくらい欲しい?」
そう言い乍らテツは置いてあったリュックに手を入れ、平田が持っていたナイフを握る。
「借金の返済分と、あと遊ぶ金も必要かな」
後ろ手にナイフを持ったテツが男の前に立つ。
「ダチの居所はどうでもいいのか」とテツが問うと、「別にどうだっていい。どうせクズだ」と男は答えた。
テツはフッと笑って男の首にナイフを突き刺した。
突然の出来事に驚愕した表情で血を流し、体を震わせている男。
「クズか、お前も負けてねぇよ」
テツがそう言うと、男は真後ろに倒れて絶命した。死んでも尚、血が噴き出し続けている。
テツが血まみれの手を男の服で拭っている最中、部屋のチャイムが鳴った。
「…………」
テツはドアに向かう。ドアを開けると、二人の警官とホテルの従業員が立っていた。
「ドアの前に警官がいたのね」
105診察室の中、絵里はテツにそう言った。
拘束衣のテツは「そうだ。なぜそこに警官がいたのかは分からない」と言ったが、その疑問に絵里が答えた。
「あなたは殺した平田の身分証を偽造して平田に成りすまし、見知らぬ若者達とドラッグパーティーを楽しんだ。でもやり過ぎたわね、部屋の様子がおかしいと別の部屋の客が警察に通報したそうよ」
「なるほど。だからタイミング良く警官が現れた訳だ。お陰でこんな物着せられて、ここにいるってことか」
「ごめんなさいね、私が女だから一応着て貰っているの。でもおかしいわね。ドラッグパーティーなんて、村にいる時のあなたとは別人みたいなことをして。こちらの世界に来てからのあなたは何だか…自棄になっているみたい」
「…………」
「平田が金を奪おうとすることも、予め想定していたとか?」と絵里は探りを入れる。
「…………」
「まあ、いいわ。もう一度村の話に戻るけど、光神家はこちらの世界の存在を隠し、村人達を欺いて自分達だけが私腹を肥やしていたのよね。供述調書によると、あなたが光神家に疑いを持ったのは子供の頃に起きた出来事が原因と言っていたようだけど、その話をもう一度聞かせて」
「…………」
「とても大事な部分なの」
「十五年前のことだ…俺はミツルに連れられて初めて洞窟へ行った」
テツは記憶を辿り乍ら話し始める。
十五年前、村側の洞窟の前に十歳のミツルとテツが歩いて来る。
テツを振り返ったミツルが「待て。控え」と言うと、テツはその場で膝を突いて控えた。
「これが洞窟の入口だ。ここに入ることが出来るのは光神家の人間だけだ。お供で一緒に来た時も、お前はここで控えておるのだ。いいな」とミツルが言うと「はい」とテツが答える。
その時洞窟内から「おい、あそこが出口だ」という男の声が聞こえる。
「隠れろ!」
ミツルが慌ててそう言うと、二人は近くの草陰に隠れた。そのまま洞窟を見ていると、中から成田と皆川が出て来た。
「いやぁ、やっと出られましたね」
そう言い乍ら皆川は空を仰いだが、成田は地面を見つめている。
「これを見てくれ」と成田。
「…足跡ですね。何だ、普通に人がいるじゃないですか。もしかしたら未開の地かと思ったのに」
「そうじゃなくて、この足跡はこちら側の人間のものかも知れないぞ」
「こちら側って…もしかしてまだ悪魔を封じた村があって、その村人の足跡だとでも言うのですか?」
「そう考えた方が楽しいだろう」
「夢見過ぎじゃないですか」
「そうでもないぞ。これは靴跡ではない、草鞋の跡だ。もっとないか探してくれ」
二人が地面を見つめ始めた時、草陰のミツルがテツに耳打ちする。
「助けを呼んで来る。見張っていろ」
そう言うと、ミツルはそっと去って行った。
ミツルが見えなくなった時、テツは草陰から出ると成田達に向かって歩き出した。
テツの姿を見た皆川が声を上げる。
「教授!」
成田は驚いた様子で、目の前まで来たテツを見つめた。
「…君、どこから来たの?」成田は優しく問い掛ける。
「…………」テツは答えない。
「言葉は分かる?」
頷くテツ。
「その着物は…いつも着ているの?」
頷くテツ。
「僕らは洞窟の向こう側から来たんだ。君はもしかして、こちら側の村の子供?」
頷くテツ。
「村があるんだね!」成田が嬉しそうに皆川と目を合わせる。
「それは…刀…かな?」と成田がテツの腰に差した脇差を指差す。
頷くテツ。
「いつも持っているの?」
頷くテツ。
「見せて貰ってもいい?」
ゆっくり刀を抜くテツ。
刀身を見て「おぉ」と声を上げる成田と皆川。
と、テツはいきなり刀で成田の顎を下から突き刺し、頭頂まで貫通させる。
白目を剝き、口から血を吐き出す成田。ぶるぶると体が痙攣し、テツが刀を抜くと同時に痙攣が止まると、そのまま人形のように倒れた。
その光景を見て皆川は悲鳴を上げた。
血まみれの刀を構えるテツが皆川に迫って行く。
「何てことするんだ!」皆川が叫び乍ら後退りする。
「やめろ、やめてくれ!」と言う皆川の最後の懇願も虚しく、テツは刀を真横に振り、一瞬で皆川の喉を切り裂いた。
激しく出血する喉を押さえ、ごぼごぼと声にならない声を上げた皆川が倒れる。苦しさで地面を搔きむしった後に絶命した。
二人の死体を見下ろしている時、テツは皆川が落としたスマホを発見する。不思議そうに画面を見つめ、指で触ると表示画面が表れた。
「…………」
唖然としたテツの目が見開かれている。
105診察室の中、テツは十五年前に起きた事の顛末を一気に話し終えた。
じっと聞き入っていた絵里は、小さな溜め息を吐いてから口を開く。
「なるほど、そうですか。洞窟から出て来た見知らぬ二人の人物を十歳のあなたがね…でもあなた、事の重大さが分かっていますか? あなたはこちらへ来てから二人の人を殺したのに、更に過去にも二人殺したと告白しているのですよ?」
「外部からの侵入者は黒田家が排除する掟だった。掟に従っただけだ」
「そしてそこで初めて携帯電話という文明の証を目にしたあなたは、こちらの世界の存在を感じ取り、光神家や村の在り方に疑問を持ち始めたというのね」
絵里の言葉にテツが頷き乍ら言う。
「村にはね、時々魔鳥が飛んで来るんですよ」
「魔鳥?」
「魔鳥を目にすると目が潰れると光神家から言われていたので、誰も空を見上げようとはしなかった。俺以外は」
「あなたは見たのね。目は大丈夫だった?」
「ただの飛行機だ」
「つまりそれはこういうこと? こちらの文明の存在を知られたくない光神家が、魔鳥と偽って村人を欺いたと?」
頷くテツ。
「あなただけが村の真実に気付き始めていた。どんな気持ちだった? 光神家に怒りは感じなかった?」
「感じたよ。だから…」
「だから?」
「だから俺はネネ様を…」とテツは苦しそうに俯いた。
「ネネ様? あぁ、例の呪郎を産んで死んだって言う七歳の女の子」
「いたずらのつもりだった。魔人牢に入って悪魔首に触れたら、何でも言うことを聞くと約束した…まさかあんなことになるなんて…」
「いたずら? 女が悪魔首に近づいたら妊娠させられるって言われていたのに?」
「まさか本当にそんなことが起きるなんて思わなかった…可哀想なことをした」
「でも彼女は憎き光神家の娘でしょ」
「あの子に罪はなかった…」
辛そうなテツを見つめる絵里は、この後悔が本心なのか、或いは演技なのかを探っている。
「なるほど。でも運命的ね」と絵里。
「…運命的とは?」
「だってそれが原因で呪郎が生まれた訳でしょ。あなたの悪意が悪魔を生んだ。悪魔ってそもそも人の心の闇に住む存在じゃない? そういう意味では、あなたは最初から悪魔に操られていたのかもね」
「…………」
絵里が黙り込むテツを見つめている。絵里にとって魔鳥やネネや悪魔の話などどうでも良かった。精神科医としてテツの話に付き合い、テツの心に響くワードを選んで話し掛け、その反応を確かめているだけだから。
絵里は腕を組んで話しを再開した。
「あなたの話の面白いところは、あ、面白いとか言っちゃいけないか。興味深いところは、話に一貫性があって整合性が取れているってとこね」
「…………」
「さて、ここからだけど、あなたの話で実際に確認されている部分と、そうでない部分について話をしていきましょう。警察はあなたの話を信じてくれなかったのよね?」
「最初は黙秘していたけど、あんまり白状しろとか言ってうるさいから、魔封村のことも含めて洗いざらい話してやったんだ。だけど俺が話せば話すほど、奴らは不満そうな顔をする。黒田テツだと言っても信じないし、歳も誤魔化しているとか言うし。そもそも戸籍がないのだから証明しようもないじゃないか。だから話すのをやめた。向こうの話にも耳を塞ぐことにした。あいつらは何も分かっちゃいない。目の前の現実だけを見て、他の世界を見ようともしない。村が悪魔を封じ込め、ずっと世界を守って来たというのに!」
堰を切ったように話し出すテツを、絵里は冷静に観察している。
「その軽蔑する警察だけど、一応あなたの供述を受けて色々調べてくれたみたい。まぁ、裏を取るのは警察の仕事とも言えるけど。まずあなたの供述通りの場所で、猫の死骸を見つけたそうよ。あ、元はサナという娘だった猫ね」と絵里は言った。
納得して頷いているテツ。
「そしてあなたの供述通りに洞窟の中で隠し通路を見つけ、その奥に地底湖が存在することを確認した。これには警察も相当驚いたみたいよ」
頷いているテツ。
「この先が凄いのよ。何とわざわざ潜水士を使って地底湖に潜ったっていうのだから。そして向こう側に出ることも出来た。そこまではあなたの供述通り」
「…嘘は言っていない」
「でもね、地底湖の向こう側で何を発見したと思う?」
「…………」
「皆川敏行という二十代の若者の遺体があったの。彼は成田良平という大学教授の研究助手をしていた。どうやら二人は研究の為、あの地底湖に潜ったみたい」
そう言い乍ら絵里は二枚の写真を一枚ずつテツに見せる。
「これが成田教授と、皆川さんです」
写真を見たテツが驚いた表情を見せる。
その表情を絵里が注意深く見ている。写真を見せることは重要なカードであったが、テツは予想外の言葉を発した。
「…あの時の二人だ」
「あの時とは?」
「さっき話しただろ、十五年前に俺が殺した二人だ」
「ちょっと待って。十五年前に出会ったのって、この二人なの?」
「そうだ」
「うーん…」と唸った絵里は暫く考えてから再び話を切り出した。
「じゃあ、次は確認出来なかった点について話します。警察は地底湖の向こう側で、ドローンまで使って辺りを捜索しましたが、あなたの言う魔封村が存在したという痕跡は一切出ませんでした」
テツはその言葉に驚き、少し考えてから答える。
「呪郎の仕業だ」
「…………」
「あいつを開放した時俺は言った、『村をどうしようと、お前の勝手だ』と。あいつなら村人を虐殺することも、村を消し去ることも出来た筈だ」
「それと、洞窟に皆川さんの遺体はありましたが、成田教授の遺体は見つからなかった。その点について何かご存じですか?」と言うと、絵里はまた探るような目でテツを見つめる。
「それは…俺には分からない。十五年も前の話だ」
「本当に? 本当に十五年前の話?」と絵里は念を押す。
「…そうだ」
「おかしいわね。それとね、皆川さんの死因は溺死だったの」
「溺死?」
「あなたは刀で首を切ったと言ったけど、遺体にそんな痕跡はありませんでした」
「十五年も前の遺体なら白骨化しているでしょ。傷跡なんて見つからないだろうし、溺死だという判断だって出来ない筈だ」
「白骨化はしていないし、十五年前の遺体ではないのよ。彼の遺体は死後約二週間という検視結果が出ているの」
「…………」
「これは一体どういうこと?」
テツは落ち着きを失い、「警察だ、奴らが俺を嵌めようとしている」と主張した。
「警察が遺体を若返えらせたとでも言うの?」
「違う。遺体も検視結果の話も全てが嘘なんだ、隠蔽工作だよ!」
「何の隠蔽?」
「きっと政府が手を回したんだ。俺達や村の存在は、こっちの世界に知られちゃいけないから」
「…………」
「そうだ、そうに違いない」納得しているテツがいる。
両手を頭の上に置いて暫く考えた絵里は、ドアの向こうに声を掛けた。
「竹田くん、山中くん、入って」
ドアが開くと、キャスター付き全身鏡を押して竹田と山中が入って来る。鏡にはカバーが掛けられている。
「二人とも、ここに残っていて」
絵里は二人にそう言うと、テツを振り返った。「少し刺激があるかも知れないけど、興奮しないで下さいね」
竹田が鏡のカバーを取る。
「鏡の前へ立って」と絵里はテツを促す。
「…………」テツは用心している。
「さあ、どうぞ」
テツは立ち上がり、ゆっくりと鏡の前へ立った。そこには、
―――拘束衣姿の成田良平が映っていた。
成田が叫ぶ。
「こいつだ! 俺が殺した……俺が……殺した……」
絵里がじっと見守っている。
鏡で自分の顔を見つめる成田は混乱していた。
「これは…俺じゃない。俺は二十五歳だ、黒田テツだ!」
しかし鏡の中でそう叫んでいるのは、紛れもなく四十歳の成田良平なのである。
「こんな顔じゃない…俺はもっと…若くて…美しくて…」
絵里が覗き込むように成田の反応を窺っている。
「俺が…何で…何でこんな…」成田は急に絵里を睨み付け、「お前か、お前が仕組んだんだな! 俺に何をした!」と喚き始めた。
絵里に向かって行こうとする成田を竹田と山中が押さえ込む。
「何が起きているんだ! おい、答えろ!」と成田が叫んでも、絵里は冷静に「隔離部屋に連れて行って施錠して」と竹田と山中に指示を出した。
成田が外に連れ出される。
「放せ! 俺をどうするつもりだ!」
成田が廊下に出された時、検事の根本仁と鉢合わせになった。
「薬か、薬を盛ったのか! 有り得ない、こんなこと有り得ないだろ!」
そう叫び乍ら、テツは若い研修医達に連れ去られて行く。
目を丸くして成田を見送った後、根本は診察室に入った。中には何か考え事をしている絵里が座っている。絵里が自分の入室にも気付かぬほど集中しているので、根本はテーブルをドアのようにコンコンと叩いた。
絵里は根本を見ると、ちょっと嫌な顔をした。
「根本さん」
「こんにちは。お久し振り」
「何かご用?」
「うちの若い検事が、君のとこに成田良平の精神鑑定を依頼したと聞いてね。しかし君の鑑定は相変わらず荒っぽいねぇ。前にもこんな騒ぎなかったっけ?」
こういう根本の皮肉交じりの口調が絵里は嫌いだった。
「君じゃない、先生」と絵里は十歳ほど年上の根元に言い返す。
「何をやらかしたのですか、先生」
「やらかしてはいません、反応を確かめていたら相手が感情を高ぶらせたまでです」
「それで、この大騒ぎ」
「こちらのアプローチ次第で興奮することもあるけど、それは問題じゃない。たとえ大騒ぎになろうと、境界線の有無を確かめなきゃならないから」
「境界線?」
「現実と空想の境。普通の人間ならあるでしょ」
「で、あったの? なかったの?」
絵里はそれには答えず、「検察は何を焦っているの?」と尋ね返した。
「焦っちゃいない。ただうちの若い検事が鑑定留置を決めたのは早計だったと思ってね。丁度私が留守をしていて相談に乗れなかったのが間違いだった。私は、あの男には充分な責任能力があると信じていますよ」
「若いとはいえ、一人前の検事さんが熟慮を重ねて決めた判断なのだから、先輩としてもっと尊重してあげたらどうですか?」
「まぁ、鑑定しようがしまいが影響はないと思うがね」
「なら結果が出る前に探りを入れに来る必要はないわね」
根本は軽い溜息を吐き、「君はいつだって意地悪だ」と言った。
「はっきりものを言い過ぎるだけで、優しいとも言われるけど」
「古い付き合いだ。今分かっているだけでいいから見解を聞かせてくれないか」
絵里は少し間を置いてから話し始めた。
「彼の心の状態と今確認されている事実から色々考察しているけど、とても興味深い事例ね。成田教授は長年幻の民族と言われるサンカの研究をしていた。でも主立った発見もなく、研究室は徐々に縮小され、最近は助手の皆川さんと二人だけにされてしまった。そうよね?」
「ああ、そのようだ」
「彼が宗仲酒造で巻物を見つけたことで、洞窟へ向かったのはご存じ?」
「ああ、大方は把握している」
「巻物を見つけた時、彼はどんな気持ちだったでしょうね」
「ま、浮き浮きしたんじゃないか?」
「そんなレベルかしら? 研究者にとっては大発見かも知れないのよ。流浪民で定住しないとされてきたサンカが悪魔を封じる為に村まで作っていたなんて、聞いたこともない話が書いてあった訳だから、もしかして今もまだ村が存在しているかもなんて夢見たっておかしくない」
「まぁ彼の立場なら、そんな非現実的な想像をしたかも知れんね」
「したかもじゃない、したのよ」
「随分断定的だな」
「成田教授はサンカの研究書の執筆の他、サンカの少女と村の青年との恋愛小説も書いていることはご存じ? 彼は小説家でもあるの。つまり人並み以上に豊かな想像力の持ち主ってこと。そんな人があの古文書を読んで何も想像しない訳がないわ」
絵里が思わず立ち上がって話し始める。
「もし文明に取り残された村が今でも存在するとしたら、一体どういう生活をしていて、どうやって存在を隠し続けることが出来たのか? どんな人達がいて、どんな掟があって、どんな恋愛をしていたか。悪魔はどんな姿をしているのか。考え始めたら止まらないくらい空想が広がったでしょう。それを小説にしたいと思っていたのかも知れない。供述調書を読んだでしょ。ネネのお腹から呪郎が産まれて、昇天の儀式があって、獣人が現れて、光神家が皆を欺いて。まるで小説の世界よ」
「あーあ」
根本はつまらなそうにそう言い乍ら、持って来た書類を机に置いた。
絵里が書類を見ると、一枚目に『呪郎 ~悪魔の子~』という題名と筆者である成田良平の名前が書かれている。二枚目に魔封村の人物相関図が書かれていて、三枚目からはあらすじ、その後に小説の書き出し部分が数枚あった。
「呪郎…悪魔の子」と絵里が呟く。
「成田の家で見つかった物だ」
「黒田テツの名前がある。本当に小説を書いていたのね」
「と言っても、小説は数枚だけしか書かれていない。多分時間がなかったのだろう」
「あらすじはどこまで書かれているの?」
「冒頭の村の場所に関する説明だけ。それ重要?」
「とても重要よ。その後のことは書かれていないのね? でも彼の供述調書には全てが書かれている。ということは頭の中で小説を書いていたんだわ、きっと。恐らくそれは…皆川さんの死後」
「その話が頭の中で書かれようがどの時点で書かれようが、全て作り話なのだからどうでもいいでしょ」
「こんな大事な物を隠していたの?」
「隠していた訳じゃない、警察の再捜索で見つかったばかりだ。だから持って来てあげたんじゃないか」
「随分恩着せがましいこと。重要な証拠物は来たらすぐに提出して下さい」
「はいはい、うっかりしてすみませんねぇ、先生」
「話の成り行き次第では見せないつもりだった?」
「まさか」
「他に…何か隠していることはない? 言うなら今のうちよ」
「ありませんよ」
「ふん、まぁいいわ。矢張り成田は小説を執筆しようと思っていたのね。さて考察に戻るけど、成田は宗仲酒造で見つけた地図に従って洞窟を訪れた。実際に洞窟には隠し通路があって、その奥で誰も知らない地底湖を発見した。その時、彼はどんな気持ちになったでしょう?」
「巻物の内容が現実味を帯びて来て、益々その気になったかもね」
「ここからは証拠も証言もないから、私の推測として聞いて。成田は意気揚々と地底湖に潜ることを決めたけど、そこで思いもしない事態が起こってしまった」
「何が?」
「助手である皆川さんが、溺れて死んでしまったのよ」
「ん? 成田に殺されたとかではなく、単に溺れたと?」
「遺体は溺死で、他殺の痕跡は見つかっていない。成田教授はダイビング経験が豊富だったけど、皆川さんは免許取り立ての初心者。ただでさえ難易度の高い地底湖の潜水で、おそらく皆川さんはパニックを起こし…溺れ死んでしまったのではないかしら」
「うーん」と唸る根本に構わず絵里は続ける。
「全ては自分の責任。教授は絶望の淵に立たされたでしょう。危険性は充分に認識していた筈。だから止められることを恐れて敢えて自治体への許可申請も出さず、無許可で地底湖の探索を行った。最初に洞窟を訪れた時は登山計画書を提出していたのに、地底湖に潜る時は提出していないのだから確信犯ね。皆川さんに内緒にしていた可能性は高い。責任は重大よ」
根本は腕を組んで聞いている。
「皆川さんの家族にどう説明するの? 警察に捕まって刑事や民事の裁判だってあるだろうし、マスコミや世間からはここぞとばかりに責め立てられるでしょう。地位も名誉も研究も全て失った上でね」
「そりゃあ…そうなるだろうなぁ」
その頃、同じ一階にある隔離部屋の中で成田は壁に凭れて座っていた。鏡で現実を確認した成田は本来の自分自身に戻りつつあった。宙を見つめるその目に現実の世界が広がり始めている。すると成田にあの時の記憶が蘇って来た。
―――成田と皆川が洞窟を進む。
―――地底湖を見つけて喜ぶ成田と皆川。
―――ウェットスーツ姿の皆川の遺体が横たわっている。
―――頭を抱えてうずくまっている成田の姿。
成田と皆川が地底湖に潜った時、それほど長く潜らずに向こう側に着いたことを成田は喜んでいた。時間にして十分足らずの潜水だった。しかし水に上がって振り返ると、後から来る筈の皆川が上がって来ない。慌てて繋いでいたロープを手繰り寄せても、結び目が解けたらしくその先に皆川の姿はなかった。パニックになり乍ら、成田は再び水の中へと潜って行く。数十メートル戻った先で成田が見たのは、クラゲのように浮遊する皆川の姿であった。目は見開き、レギュレーターも咥えていない。成田は自分のレギュレーターを皆川に咥えさせようとするが、反応がないと分かるとその体を引っ張って泳いだ。何とか皆川を引き上げてから散々蘇生を試みたのだが、どれだけ胸を押しても息を吹き込んでも、皆川の呼吸が戻ることはなかった。
蘇生の手を止めてから、暗い洞窟の中で皆川の遺体とどれくらい過ごしただろうか。数十分か数時間か、成田にはもう分からない。その間、成田は脳の限界を超えるほどこの状況を考え続けていた。届けも出さず、皆川を無理に潜らせた責任に押し潰されそうだった。全てを失い、その先の未来は地獄でしかないと思われた。その気持ちを表すように成田の体はわなわなと震え続けている。
その時だった。
―――「あんたのせいだ!」
洞窟の中に皆川の声が響いた。
成田がはっと顔を上げると皆川が立っている。成田の目に涙が浮かんだ。
「皆川くん! 良かった、助かったのか! すまない、僕はもうてっきり駄目かと思っていたから…」
そこまで言って成田は気付いた。確かに皆川は立っているが、その皆川の足元には皆川の遺体が横たわっている。
「…………」成田が言葉を失う。
立っている皆川が怒りの表情で叫ぶ。
「こんな所に無理やり連れて来やがってよ! 全部あんたの責任だ!」
「…やめろ、やめてくれ」
「あんた許可申請出してないんだろ、騙したんだよな!」
「すまない…僕はただ…」
「何で俺が死ななきゃならないんだよ。死んで詫びろ! お前だけ生きていていい訳ねぇ
だろ、おい成田!」
そこまで皆川が叫んだ時、成田の目はあらぬ方向を向き、正気を失った。その視線が宙を彷徨う。成田は突然「うひひ」と笑い出し、口からよだれを垂らしている。
―――成田は壊れた。
成田は現実の世界を全て捨てて逃げて行った。逃げた先は彼が思い描いた世界の中。黒田テツとして生きることを選んだのだ。
隔離部屋で宙を見つめる成田は、全てから逃げ出した自分を思い出していた。確かにもう一人の皆川が現れて自分を罵倒し始めた瞬間、頭の中で何かが弾けるような音がして意識を失った。意識が戻った時には魔封村にいて、黒田テツとなっていた。あれは自分の妄想なのだろうか? 妄想とはあんなにリアルなものなのだろうか? そう疑問を感じ乍らも、同時に成田は自分が小説を書こうとしていたことも思い出す。頭の中で小説を書き続け、自分はその中で主人公として生きていたというのか。それが本当だというのなら、自分は狂………とそこまで考えたところで成田は自ら思考を停止させた。それを認める訳にはいかなかった。と同時に成田は逃げ道を模索する。どこまでも逃げ続ける男、それが成田良平なのだ。こちら側には居たくない、何とか向こう側へ戻りたいと願い始めていた。
105診察室の中では、絵里と根本の話し合いが続いていた。
絵里が持論を展開する。
「皆川さんを死なせた成田は、これから自分に振り掛かる苦難に立ち向かう勇気を持つことが出来なかった。悩み抜いた彼の脳は全ての現実から逃げることを選択した。彼が思い描いた世界へ逃げ込み、黒田テツという人物になり切って現実の世界に背を向けてしまった。頭の中で魔封村の小説を書き続け、その登場人物になってしまったの」
「…嘘だろ」と根本が呟く。
「とても興味深いわ。彼の頭の中では、空想と自身が抱える葛藤が入り混じって世界が形成されているのに、妙に話に整合性があるのが特徴と言える」
「それこそ奴が辻褄合わせの作り話で逃げようとしている証拠だろ。ここにいる連中の話に整合性なんてあるか? 支離滅裂なのが普通なんじゃないのか」
「普通って何? 鬱病、強迫性障害、双極性障害、統合失調症、我々はある程度カテゴライズして患者さんと接するけど、精神医学はそう単純ではないの。誰一人同じ症状の患者さんはいないとも言える」
「だとしても、作り話で逃げるつもりだろ」
「なら、なぜ地底湖の話までしたのかしら? 地底湖の存在は誰も知らないのだから、黙っていれば皆川さんの遺体も発見されなかったかも知れないのに」
「それは…」と根本が言葉に詰まる。
「確かにあなたから見れば作り話だし、現実的にも作り話でしょう。でも彼にとってはそれがリアルな現実かも知れない、私はそこを見極めなければならないの。皆川さんを死なせてしまった後、彼は頭の中で小説を書き続けた。あらすじは導入部しか書かれていないから、最初は漠然と村の物語を書こうとしていたのでしょう。でも皆川さんの死後に出来た物語には、彼の置かれた状況が大きく反映されている。供述調書にある、村での出来事をよく考えてみて。村の世界を頑なに守ろうとする人達と、現実の世界に向かおうとする人達の争い。それはつまり、空想の世界に留まるか、現実の世界に戻るか葛藤している、彼の心そのものを表しているとは思わない?」
「確かに…ここ数日、成田が森の中にいる姿や、森の岩場から街を見下ろしている姿が目撃されてはいた。アパートから洗濯物を盗む姿が防犯カメラに映っていたり、コンビニで万引きして逃げた事件も確認されている。確かに不審な行動はあったが、その時あいつは…夢の世界に居たっていうのか?」
「夢の世界に居乍ら、彼は徐々に現実の世界に戻って来た。彼がドラッグをやったり、人を殺めたりして自棄になったのは、黒田テツから成田良平に戻ることへの恐怖心が引き起こしたのではないかしら」
「そんなのこじつけだろ、有り得ない」
「精神世界に有り得ないことなんてないのよ。第一根本さん、あなた本当に有り得ないと思っているの? 有り得ると思ったからこそ、ここに来たんじゃない?」
「…………」
「私、さっき言ったでしょ、何かまだ隠していることはないか、言うなら今のうちだって」
「…何の話だ?」唐突な問いに根本は驚いている。
「あなたは大事な事実を隠している。そんなに彼を有罪にしたい?」
「な、何を言っているのか…」
「成田教授は精神科医にカウンセリングを受けていた。違う?」
「そんな診察記録は残っていない筈だが…」
「確かに病院の記録はないわ、だって成田が旧友の精神科医に、プライベートでお願いしていたのだから。記録はなくても、私には精神科医としてのネットワークがある。そういうこと思い付かなかった?」
「…………」
「その精神科医は私の一つ下の後輩なの。私が成田教授の事件を担当することになって、彼から連絡が来たって訳。言っていましたよ、あなたが事の詳細を聞きに来たって」
「…………」
「カウンセリングの内容もご存じよね、彼が現実と空想の区別がつかなくなってきた自分に悩んでいたってこと。大学に放火する夢を見たけど、夢か現実かの区別がつかなくて、慌てて大学を見に行ったらしいわね。つまり、そこまで妄想性障害の症状が進行していたということ」
「…………」
隔離部屋の鉄格子の窓から日の光が差している。
壁に凭れて座る放心状態の成田がふと部屋の隅に目をやると、
―――呪郎が膝を抱えて座っていた。
「呪郎…呪郎じゃないか」
すっかり悪魔化した呪郎が成田を見つめ、「お前…誰だ」と声を発した。
「テツだよ、黒田テツ」
「…ああ、思い出した。けどお前、テツには見えないな、歳を取り過ぎだ」
「テツだよ、多分…」
「多分?」
「変なんだ。奴らが俺の姿を変えちまったんだよ、成田とかいう大学教授に」
「へぇ、不思議な話もあるものだ。でもお前、本当は気付いているんじゃないのか?」
「…何を?」
「黒田テツなんて、この世にいないってことを」
「…………」
「テツでなかったら、お前どうなるんだろうな? 死刑かな? ピンチだなぁ」
「…………」
「でもテツなら罪を免れるかも知れん」
「…………」
「選択が欲しそうな顔だな。成田として罪を認めるか、テツとして免れるか。さあ、どちらか選べ」
「俺は…」
「…………」
「……黒田テツだ」
呪郎が腹を抱えて笑い出す。
「いいぞ、お前の選択はいつも正しい。だが、まだ足りない。黒田テツであることを証明しなきゃ」
「…証明?」
「お前、何人殺した? 二人か? 三人か? まだ足りんな、テツは黒田家の長だぞ。考えろ、テツならどうする?」
「…………」
105診察室の中、根本はテーブルに手を突き、絵里に頭を下げた。
「すまなかった。君の、あ、いや先生の後輩とは知らなかった」
「検察って時々強引なことするわよね。事実を隠して彼を有罪に導こうとした?」
「ま、まさか。君にもいずれは話すつもりではいた。ま、信用しては貰えないだろうがね」と根本は無理に笑って見せた。絵里がじっと見つめる中、「おっと、止めてくれよ、その視線。今度は私の精神鑑定をするつもりかい? 勘弁、勘弁」と根本は更におどけた。
そんな根本に絵里が大きな溜め息を吐く。
図太い根本は絵里をよそ目に話題を変えた。
「しかし、あの宗仲酒造で見つかった古文書は一体何だったのだろう。あんな仰々しい巻物に、悪魔を封じ込めた村のことや砂金の話を書くなんて。洞窟の場所を示す地図まであったな」
「あら、よく調べたのね」
「私は調べもしないで結論を出すような人間じゃないよ」
「宗仲酒造の創設者である宗仲佐喜衛門は砂金で財を成した。佐喜衛門は使用人に泳ぎを教えていたそうよ、『宗仲式泳法』なんて独自の泳ぎ方まで考案して」
「先生も随分詳しく調べているね。でも、それが何か?」
「ここからも私の推測になるけど、元来泳ぎが得意だった佐喜衛門は、あの地底湖に潜ったのではないかしら」
「向こう側へ行ったのか」
「酸素ボンベがなくても、途中に何ヶ所か空気が吸える場所もあったそうだから不可能ではない。そして、向こう側で砂金が豊富に取れる場所を発見した」
「待ってくれ。じゃあ、あの古文書の話は?」
「砂金の採取場所を知られないようにする為には、自分が取ったのではなく、誰かに貰ったとした方がいい。採取場所を探られることもないしね」
「その為のカモフラージュ! 出鱈目か…」
「現に砂金を持って平田が金の買い取りセンターに現れているから、地底湖の向こう側で砂金を手に入れたと言う成田教授の話は本当みたいね。但し、その砂金は佐喜衛門が隠していたもの」
「そういうことか」
「あくまで、推測だけどね」
そう言い乍らも絵里は自信に満ちている。
その頃、廊下を走る竹田と山中の姿があった。隔離部屋では成田が暴れ、大声で叫び声を上げている。部屋の前まで来た二人はほぼ同時に叫んだ。
「おい、暴れるな!」
「静かにしろ!」
その途端部屋から物音が消え、竹田と山中は目を合わせた。竹田が鍵を開けて二人が中へ入ると、床に倒れて痙攣している成田がいる。
「おい、どうした!」と竹田が声を掛けると、成田は口から泡を吹いている。
「おい、手を貸せ!」
竹田が山中にそう叫んだ瞬間、成田は鋭い目付きで竹田の首元を鷲掴み、頭を真横に回転させると、竹田の顔は、ぼきりという嫌な音を立てて真後ろを向いた。
口から血を吐き乍ら絶命する竹田の姿を山中は呆然と見つめる。その一瞬の隙を突き、成田は素早く山中に飛び掛かった。
105診察室では絵里のこれまでの考察に、根本が焦り始めた。
「おいおいおい、待ってくれよ。ここまでの話の流れから察するに、まさか先生、重度の妄想性障害による心神喪失で責任能力無しなんて、結論ありきで鑑定している訳じゃないよね」
「あなたこそ色々決め付けているみたいだけど? でも安心して、初日の聞き取りが始まったばかりでこれからMRI検査もあるし、複数の心理テストも用意しています。まだ結論には至っていませんから」
「…全ては今後の動向次第か」
根本が溜め息交じりにそう言った時、廊下に山中の悲鳴が響き渡る。
二人は目を合わせると、急いで廊下に走り出た。
一階の廊下の突き当りに隔離部屋はある。必死に走る絵里と根本。前方に隔離部屋が見えてきたが、そのドアは開け放たれていた。
二人は一旦足を止め、ゆっくりと歩き出した。部屋の前まで来ると、恐る恐る中を覗く。
―――部屋の手前に竹田と山中の遺体がある。
―――竹田は首を真後ろに折られ、絶命している。
―――山中の首は『く』の字に折られ、絶命している。
―――その奥、窓の外を見て立っている成田の背中がある。
凄惨な光景を目の当たりにして、根本は腰を抜かした。
「これは…早く逃げろ、早く!」
怯えた根本は絵里にそう叫んで逃げて行く。
「誰か、誰か!」と助けを呼ぶ根本の声が遠ざかっていく。
「…………」絵里は驚愕の眼差しのままその場に立っていた。
絵里が見つめる先で成田がゆっくりと振り返る。
「…………」絵里が黙ったまま成田を見つめている。
成田の目には生気が感じられない。まるで抜け殻のようだと絵里が思った時、突然成田の背中から悪魔の両翼が生え、それは部屋いっぱいに広がっていく。
驚愕した絵里の目が更に見開かれていく。もう声も出ない。広がり切った翼を見ているうち、それが成田から生えているのではないことに絵里は気付いた。成田ではない…成田の後ろに重なるように何者かが隠れているのだ。
絵里が成田の後ろを覗き込むように目を凝らすと、成田の後ろから呪郎が顔を出した。
「ひっ!」と思わず絵里から音が漏れる。声なのか息を吸い込んだ音なのか分からない。
炭のような黒い顔にぎょろりとした目の呪郎が絵里を見つめ、にやりと笑った。
「…何で…何で…」見える筈のないものが見えている絵里が混乱する。脳をフル回転させ、蓄えた知識や経験を全て引き出してこの状況を理解しようと努めるが、答えが出て来ない。
「お前、ワシが見えるのか?」と面白そうに呪郎が話し掛けて来る。
そんな筈はないと絵里は首を横に振る。これは幻覚なのか? 幻覚とは外部からの刺激がないにも関わらず知覚される感覚体験。ドーパミン、セロトニン、自分の特定神経伝達物質が異常を来しているのだろうか? それとも脳の神経細胞が破壊されたのか? いつ? どうやって? 視覚的幻覚だけじゃない、聴覚も支配されている。なぜ姿が見える? なぜ声が聞こえる? 呪郎なんて存在しない筈なのに。呪郎も魔封村もネネも源治も獣人も、何もかも成田が作った安っぽい作り話なのに!
「なぜ見えるのか、分からんか?」と翼をたたみ、体をかがめた呪郎が下から絵里の顔を覗き込む。
「…………」絵里は身を固くしている。
「お前が真っ黒だから。こいつと同じだ」と言い乍ら呪郎は蝋人形のように突っ立ったままの成田を見る。
「…あなたは…ただの創造物…」
絵里はそう呟く。
「ワシが創造物なら創り出しているのは誰だ? お前か?」と呪郎は更に絵里に近づき、
「人殺し」と言った。
「私は…人殺しなどしていない」
呪郎は絵里の頭を指差し、「この中で殺しただろう? 何度も、何度も」と言う。
呪郎の言葉で、絵里の脳裏にあの忌々しい男の顔が浮かんで来る。
「今でも父親を殺したいか?」呪郎はにやついた。
「…………」
その時、廊下の向こうから根本が走って来る。
「大丈夫か、君!」と絵里の元まで来ると、根本は棒立ちの成田を見つめた。荒い息を整え、「無事で良かった。逃げたんじゃないぞ、警備員を探したんだが、巡回中で見当たらなかった。今、警察に連絡した。さあ、危ないから早く逃げよう」と言った。
根本の声にも絵里は無反応だ。部屋の中をじっと見つめたまま立っている。
「…どうした?」と絵里の視線を追って根本は室内を覗くが、抜け殻のように立っている成田しかいない。
呪郎が絵里に話し掛ける。
「今まで何回犯された、実の父親に?」
「…………」絵里の体がわなわなと震え出す。
「お前、意外と楽しんでいたのか?」
「ふざけるな!」と絵里が突然激昂する。
驚いた根本は「どうしたんだ、君…」と怯えた声を出した。
絵里は呪郎を睨んだまま根本には目もくれない。
呪郎が絵里に話し続ける。
「お前は今も考えている、誰にも気付かれない殺し方を」
「…………」
「考えているだけでいいのか? チャンスだぞ」
「…チャンス?」
「協力してやってもいい。さあ、どうする?」
「…………」
「殺すか? 殺さないか?」呪郎が面白そうに笑っている。
その時だった。放心していた筈の成田が竹田の落とした鍵を素早く拾い上げ、根本に体当たりをした。予期せぬ行動に、不意を突かれた根本は壁に激突して倒れた。背中を強打して咳き込んでいる。
成田が廊下を走り去って行く姿を、絵里は呆然と見送ることしか出来ない。
―――成田良平は逃亡した。
絵里が視線を戻すと、呪郎の姿は消えていた。
宗仲天教
夕刻。
宗仲酒造の主屋から宗仲幸子が出て来た。成田達が訪れた時とは装いが違って白装束を身に纏い、手には黒玉を数珠のように繋げたパワーストーンを握っている。幸子は物置蔵へと入って行く。成田達が二階に案内された時、一階の扉は少しだけ開いていたが、今は全開になっている。内部では蝋燭の灯りの中、お揃いの白装束で頭から白い頭巾を被った信者達数十人が、整然と並べられた椅子で教団独自の呪文を読経のように唱えている。頭巾は目元に穴が開いた物で、顔は定かではない。
信者達の中央を通って進む幸子は、祭壇前に置かれた椅子に座った。既に火が点いた蝋燭から手に持った蝋燭へと火を移し、祭壇に並んだ蝋燭に次々と火を移し始める。
その灯りによって、祭壇の最上段に祀られている物体が照らし出されていく。
―――そこに祀られていたのは首だ。
―――黒く干からびた首。
―――悪魔首だ。
幸子は信者と共に呪文を唱え始める。
幸子は宗仲勝造の一人娘として生まれた。宗仲家は代々宗仲天教の『首守』の座を引き継いできた。首守とは悪魔首を崇拝するこの団体代表の肩書きだ。
宗仲天教は宗教団体ではあるものの、法人化はしていない。表向きは酒造所なのである。税金面を考慮すれば法人化した方が得ではあるが、宗仲天教は決して表立ってはいけない宗教だった。勿論宗教として信者に救いを与えるのだが、救われる為に第三者を呪う宗教であった。人を呪ったり、不幸に陥れたりする宗教なのだ。従ってその事実が世間に知れ渡れば団体の存続さえ危ぶまれる。活動は密かに行わなくてはならなかった。
幸子の母である静江は勝造の遠い親戚筋の娘だった。若い頃、家に出入りしていた植木職人の男と駆け落ちした静江だが、その男が心筋梗塞により若くして病死した為、家に出戻って来た。男を失って生きる気力をなくした静江の身を案じた両親は、娘を宗仲家に嫁がせることにした。両親は宗仲天教の信者であった。静江も集会などに時折参加はしていたものの、正式な入信前に駆け落ちしていた。
嫁に来ることが決まった後、勝造は静江が宗仲家に馴染めるのかどうかが気掛かりであった。しかし失意の静江は意外にも宗仲天教に強い信仰心を抱いてすぐに入信を受け入れ、勝造もそれに安堵した。二人の間には幸子が生まれ、団体の存続も安泰かと思われた。
静江に変化が表れたのは、幸子が生まれて暫くした頃だった。静江は急に宗仲天教の教えに疑問を抱くようになった。行事には参加しなくなり、全てを拒絶して脱会まで口にし始めた。そしてある夜、幸子を抱えて実家へ帰ってしまう。勝造の当初の不安が現実となったのだ。人を呪う教えが娘に与える影響を考えたのか、或いはやがて首守となる娘の人生を案じたのか、今となっては話を聞くことも出来ない。なぜなら静江は幸子が一歳になる前に他界したのだから。勝造の度重なる説得で何とか幸子と共に家に戻った静江は、間もなくして自ら命を絶った。子供の頃に幸子が勝造から聞かされたのは、心を病んだ静江が近くの森の木で首を吊ったという話だった。
宗仲天教の教えでは、この世の幸福と不幸の数は均衡が保たれているという。従って不幸を生み出せばその分幸福が増え、その幸福は不幸を生み出した者に与えられる。他人を不幸にした者に幸せが帰って来るという教えなのだ。依って第三者に呪いをかける儀式が行われる。呪う対象者を決めるのは首守の役目だ。街中で見掛けた人物やテレビやネットで見た人物など、首守の目に止まった人物をまずは調べ上げる。対象者の写真に釘を打った上に呪文を唱えたりもするが、もう少し直接的な手段も用いる。刃物で人を刺すほどの行為はないが、例えば対象者が事故を起こすよう自転車に細工する程度のことは平気で行った。自転車に細工をしても事故に繋がるかどうかは分からない。しかし対象者は高確率で事故死するか、障害を残すような重傷を負ったりした。だから教団が危険な状況をお膳立てさえすれば、あとは悪魔が力を貸してくれるのだと信者達は信じている。
長年そんなことを続けているうち、幸子は母の静江が自死したのではなく、教団によって排除されたのではないかと考えるようになる。大人になってから勝造にもう一度母の死の真相を尋ねると、勝造はあっさりと母を自殺に見せ掛けて殺したことを認めた。恐らく幸子の信仰心が厚くなった今なら問題ないと判断したのだろう。幸子はその事実を聞いても仕方がないことだと思った。
―――だって母は教団への信仰を拒否したのだから。
勝造は首守について幸子に色々と話をしてくれた。例えば呪いの対象者の決め方だ。夢の中で悪魔が対象者の名を告げることもあるし、街中で突然悪魔が頭の中に話し掛けて来て、目の前を歩いている人物が対象者だと知らせることもあるらしい。自分は後継者なのに悪魔を見たことも声を聞いたこともないと幸子が訴えると、声が聞こえるのは今の首守が死んだ後だと勝造は説明した。
数か月前、勝造は末期の肺癌の診断を受け、市内の病院に入院した。呼吸もままならない状態の中、酸素マスクを自ら外して勝造は幸子に話し掛けてきた。そして振り絞るように「祭壇の前で寝てみろ」と言った。それが勝造の最後の言葉となった。
勝造の葬儀は意外にも仏式であった。これも宗仲天教を公にしない為のカモフラージュである。火葬まで終えた後、遺骨は悪魔首の祭壇の中に納められる。代々の首守が現在の首守と共に悪魔首を守るといった趣意である。
葬儀や儀式が一段落したある日、幸子は自室から布団を運び、勝造の言った通りに悪魔首のある祭壇の前で寝てみることにした。
深夜の蔵の中、布団の上に座って悪魔首を見上げる幸子は改めてその異様な顔立ちを観察した。人のようでもあり、河童のようでもある干からびた首。なぜこんなにも黒いのか? 元々が黒いのか? それとも後から黒く塗ったのか? 子供の頃から当たり前にある存在だが、考えてみれば謎だらけだ。宗仲佐喜衛門がどこからかそれを手に入れ、同時に宗仲天教を立ち上げたという話は勝造から聞いていた。話によると、悪魔首のお告げにより佐喜衛門は洞窟を発見し、地底湖の向こう側で砂金が豊富に取れる場所に辿り着いたという。その資金によって酒造所や教団が発展したことは事実だ。矢張り全ては悪魔首様のお導きだろうか? 幸子がそんなことを考えていると、突然体が軽くなるのを感じた。水の中に入ったような浮遊感だったのだが、幸子の体は実際に宙に浮いていた。悪魔首は祭壇の最上段に祀られているので、高さとしては二メートルほどの場所にあるが、幸子の体はその高さまで浮き上がっていた。そして悪魔首を見ると、その目がゆっくりと開き、何か口元が話し掛けるように動いている。声は聞こえなかったが、幸子には理解することが出来た。悪魔首は「成田良平」と囁いている。そう思った途端、幸子の体は落ちた。
ふと幸子は布団の中で目を覚ます。確かに体が浮き上がった後に落ちたと思ったのだが、いつの間にか布団の中で横になっていた。見上げた悪魔首はいつもの状態だし、あれが夢だったのか現実だったのかは分からない。ただ成田良平の名だけははっきりと記憶に残っていた。これはお告げに違いないと思った幸子は、自室に戻るとノートパソコンを開いて早速検索を始めた。何人か同姓同名はいたが、東慶大学のホームページで成田の写真を見た瞬間に対象者はこの男だと悟った。そういえばこの男のネット記事を見たことがある。古い蔵でサンカに関する書物を発見したとか書いてあった。きっとこの男も心に闇を抱えているに違いない。
数々の対象者を調べて来た幸子には気付いたことがある。対象者は大きな不幸を経験してトラウマを抱えていたり、社会や人間に対する不満を抱えている者が多いという事実だ。悪魔はきっと人の心の闇を嗅ぎ付けるのだと幸子は確信していた。
教団の信者の息子が成田の大学に通っていたこともあり、かなり詳細に成田の情報を手に入れることが出来た。研究成果が出ていないことで、大学の研究室に於いて成田は肩身の狭い思いをしているようだった。研究室は縮小され続けた上に助手も一人となり、大学側からは閉鎖を示唆されていた。加えて、成田の数々の奇行エピソードも情報として入って来た。例えば、大学で社会学の授業を受け持つ成田が講義中に突然押し黙り、宙を見つめたままフリーズしてしまった事件。研究室を通り掛かった学生が、室内で理事長と学長の写真を鋏で切り刻んでいる成田を目撃した事件。更に居酒屋で一緒になった学生達の前で、酔った勢いで大学に放火してやると叫んだ事件などだ。調べれば調べるほど、悪魔のお告げが正しかったことに幸子は安堵した。この男は対象者に相応しい心の闇の持ち主だと思った。
情報から、成田にはかなりのストレスが掛かっていることが推測出来る。幸子は綿密且つ慎重に計画を立てていく。成田は研究成果を欲しがっているに違いない。以前、成田は古い蔵でサンカに関する書物を発見しているのだから、宗仲酒造の物置蔵にも興味を示す筈だ。丁度勝造が亡くなったばかりだし、物置蔵の二階には古い書物が溜まっている。個人の遺品整理があるから、ついでに調査しないかと誘えば来る確率は高い。遺品の中にサンカに関わる品を紛れ込ませれば信じるに違いない。信じた成田をどこか危険な場所へ導き、事故を誘発することは出来ないだろうか? ネットの情報で成田の唯一の趣味がスキューバダイビングであることを知った時、幸子の頭に地底湖が浮かぶ。佐喜衛門が発見した洞窟の地底湖だ。佐喜衛門亡き後、取れる量は次第に減って来てはいたものの、地底湖の向こう側で砂金を取る行為は続けられていた。向こう側には砂金が保管してあり、勝造らはそこから砂金を少しずつ持って来ては教団の資金として使っていた。ところが、現在洞窟へ行くことは一時中断されている。実は最後に勝造達が潜った際、信者の一人が溺れ死ぬという事故が起きたからだ。勿論公には出来ないので、亡くなった信者は今も世間的には行方不明者扱いになっているが、実際その遺体は勝造らによって森に埋められた。一時中断となったが、教団の資金に関しては数人の信者が会社経営などをしていて、お布施と酒造の売り上げで賄える状況であった。
もし成田を洞窟へ誘い込めれば地底湖に潜るかも知れない。後は今まで通り悪魔が対象者を闇の世界へと導いてくれると幸子は考えた。その為にまず古い巻物を手に入れ、偽の古文書の偽造に取り掛かることにした。在りもしない村の存在を匂わせれば、きっと成田は洞窟に向かうに違いないと目論んだ。現代文を自動で古文に変換してくれるネットサイトで文章を作り上げ、併せて古い地図の作成も行った。
準備が整うと、幸子は大学を通して成田に直接電話を掛け、研究に関する記事を見たと話しを切り出した。故人の遺品整理をするので、ついでに調査をして貰って構わないと告げると、案の定成田は喜び勇んでやって来た。
成田が助手の皆川と物置蔵を訪れた際、無知な家人を演じようとするあまり、幸子は思わぬ大失敗をしてしまう。お茶を持って行った時、つい何の研究をしているのかと尋ねてしまったのだ。研究に関する記事を見たとの内容で電話したにも関わらず、何の研究をしているのかはないものだ。しかしそう言い出してしまったので、知らない体で話し続けるしかない。内心焦った幸子であったが、幸いにも成田は調査に夢中で幸子の話など全く耳に入っていない様子だ。こちらの問いにも無反応な成田を見て、噂通り頭がいかれているかも知れないと思った。それと皆川が勝造の手紙を見つけた時も驚いた。あれは家出した静子を呼び戻そうと勝造が書いた手紙であり、教団についても記してあったからだ。皆川が本当に読んでいなかったかどうかは不明だが、今はその皆川もこの世にいない。
成田が無事に偽の巻物を発見してくれたことで、幸子は自然な流れで洞窟の地図へと二人を導くことが出来た。洞窟に誘い込む計画は、我乍ら良い発想だと思った。信者も死んでいる危険な洞窟なのだから、後は悪魔が何とかしてくれる。誰も行かない洞窟での事故死なら、こちらが疑われる筈もない。上機嫌で帰って行く成田達を見送った後、幸子はほっと胸を撫で下ろした。
成田の事件をメディアが報道し始めたのは、それから三週間ほど経った頃だった。洞窟内で皆川は溺死して、同行していた成田は二人の人物に対する殺人容疑で逮捕されたという内容だった。成田に関してはその供述の異様さから精神鑑定が行われる見込みだという。成田は『呪郎』という名前の悪魔の話をしているらしく、成田が描いた呪郎の絵がメディアで公開された。呪郎が自分のことを『ワシ』と呼ぶとの情報まで出たので、子供達の間で呪郎ごっこ遊びが流行り始めているという。
想像以上の成果に幸子は満足した。自分のお膳立てが良かったのかも知れない。初めて選んだ対象者を悪魔は見事に闇の世界へと放り込んでくれた。
幸子がほっとしたのも束の間、次のお告げがあった。それは昼間、信者でもある従業員達と、毎日の日課である酒造所の一斉清掃をしている時だった。突然頭に『佐伯絵里』という名前が浮かんで来た。浮かんで来たのか悪魔が囁いたのか定かではなかったが、それは成田が病院に移送される前日のことだった。早速ネットで検索してみると、精神科医である佐伯絵里の写真に目が止まる。そういえばこの女の雑誌記事を以前目にしたことがある。女性精神科医として紹介されていた気がする。次の対象者はこの女に間違いないと幸子は確信した。きっと闇を抱えている筈だ。さて、この女をどう呪ってやろうかと考えを巡らせていた時、幸子の頭に一番信頼の置ける男の顔が浮かんできた。
再会
精神科病院で研修医二名が殺された事件は世間を騒がすニュースとなった。逃亡した成田の捜索は近くの山の中や辿り着けそうな街を中心に広範囲で実施されたが、警察はその痕跡さえ掴めないでいた。逃亡中の成田に関して、世間では矢張り精神異常者ではないかとの見解が出て来た。人を四人も立て続けに殺したことが精神的異常性を証明する形となりつつあった。一度目の逮捕で『呪郎』の話は世間の知るところとなったが、更に悪魔を封じた『魔封村』の話まで出て来たことで、マスコミは挙ってその話題を取り上げている。
絵里は連日警察の聞き取り調査に協力した。病院側からは直接的な責任はないとされたものの、部下の研修医が二人も殺された影響は大きく、成田の鑑定人を外された上に暫くの間自宅待機とされた。絵里自身も呪郎の件で診察に集中出来そうになかったので、体を休める良い機会だと思うようにした。
あの時、絵里には駆け付けた警官達の声がまるでエコーを掛けたように聞こえていた。その時にはもう呪郎の姿は消えていたが、不思議だとは思わなかった。あんなものが現実に存在する訳がないのだから。ただ確かに絵里には姿が見えていたし、会話だって交わした。自宅でゆっくり過ごして、自身の精神分析を行うと共に休息しようと絵里は考えた。一人暮らしのマンションで、気を紛らわす為に手作りピザを作ったりもしたが、呪郎の残像が頭から消えることはなかった。
自宅待機と言っても連絡さえ取れれば外出も可能だ。晴れた日、『モンテール』というお気に入りのカフェに絵里は出掛けた。店に入って「いつもの席いいですか?」と店員に尋ねる。「どうぞ」と言う店員の返事を待ってからテラス席に向かうと、
―――そこに呪郎がいた。
呪郎はスーツを着ている。シックなグレーのスーツだ。ただワイシャツから出る顔や手は真っ黒な呪郎なのである。両翼は見当たらない。絵里がいつも座るテラス席に、足を組んだ不遜な態度で座っている。暫し立ち尽くした絵里は、自然な態度で呪郎の向かいの椅子に座った。呪郎などいないように振舞えばいいのだ。
水とおしぼりを持って来た店員に珈琲を注文する絵里。勿論、店員は呪郎には気付かずに去って行く。
絵里は集中していた。念じれば呪郎は消える筈だ、これは自分が創り出している幻覚だと思い乍ら目を閉じる。目を閉じて幻覚が消えるよう念じていると、呪郎の声が聞こえた。
「おい、無視するなよ」
「…………」絵里がそっと目を開けると、覗き込むように自分を見る呪郎の顔が目の前にあった。
「無視しやがって、殺人鬼のくせに」
「…………」
「知っているぞ、パソコンに殺害方法を幾つも書き込んでいるだろう」
「…………」
「どれか試してみろよ、いつまで経っても気分は晴れないぞ」
「…………」
絵里は深い溜め息を吐く。確かにパソコンには殺害方法を書いたデータが存在する。それを考えることで気休めとしていただけなのだが、絵里は改めて考えてみる。あの中で実行可能な方法はないだろうかと。季節が夏なら熱中症も利用出来ると思い、候補の一つとしていた。泥酔させた上で暖房の部屋で寝かせるのだ。酔って暖房を入れてしまったと思わせることが出来ると考えたが、決定的に足りないものがある。
―――耐え難いほどの苦しみ。
あいつを楽に死なせることなんて出来ない。自分が受けた心の傷はそう簡単に癒せない。外道の父親のせいで未だに独身で、時折起こるフラッシュバックに悩まされる日々。若い時期はパニック発作に苦しんだ。自身の状況を理解しようと精神医学を学び、医師になって他人の相談を受ける立場になることで、やっと心の平穏を手に入れたのだ。そんな苦しみをあいつは微塵も考えていない筈で、あいつには相応の罰が必要なのだ。
そんなことを考え乍らふと前を見ると、呪郎の姿は消えていた。絵里はまんまと呪郎の術中に嵌った気がした。
闇落ち
その男から電話が掛かって来たのは、呪郎と会った次の日のことだった。普段は知らない番号に出たりしないが、事件のこともあって警察関係者かも知れないと絵里は応答してしまった。
「もしもし、佐伯絵里様の携帯で宜しかったでしょうか」と言う穏やかな男の声が聞こえた。
「はい、そうです」
「私、NPO法人『翼の集い』で代表を務めております、蛭川隆史と申します。突然のお電話で申し訳ありません」
NPO法人が一体何の用だろうと絵里は思った。代表と言う割に声が若い。
「あの、何でしょうか?」
「突然ですみませんが」と相手はまた謝ってから続けた。「佐伯清順さんはお父様でお間違いありませんか?」
「…………」絵里は一瞬で全身の力が抜けるほど気持ちが萎えた。二度と聞きたくない名前だった。条件反射のように絵里は電話を切る。切る直前に「もしもし?」と言う声が聞こえた気がしたが、どうでもいい。切ってすぐに携帯の電源を落とした。知らぬ間に荒くなっていた息遣いを整える。パニック発作を起こしそうな自分を必死で落ち着かせると、二、三分で気持ちは落ち着いてきた。
落ち着くと、今度は先ほどの電話が気になってくる。電源を入れ直したが、再び電話が掛かってくる気配はない。こちらから掛け直す気にはなれなかったが、絵里はNPO法人がなぜ父の名を確認したのかを考え始めた。獣の父親である清順とはもう数十年会っていない。母の敏子も行方知れずのままだ。清順からの度重なる暴力に堪え兼ねた敏子は、絵里が高校二年生の時に家を出て行った。出て行く前に誰かと連絡を取り合っている様子だったので、きっと男を作って一緒に逃げたのだろうと絵里は思っている。問題は、なぜ自分を残して出て行ったのかという点だった。絵里が初めて清順から性的虐待を受けたのは、中学二年生の時だった。そのことを誰にも相談出来ずに過ごして来たが、敏子が出て行く少し前に思い切ってそのことを打ち明けた。敏子は黙って話を聞いただけで返答もせず、何の行動も起こさないまま出て行った。絵里は思う。
―――自分は生贄にされたと。
清順の怒りが頂点に達しないよう娘を残したのだ。娘さえ残せば暴力と性欲の捌け口になり、自分を追い掛けて来ないかも知れないと母は思ったに違いない。その為に自分は残されたのだと絵里は確信している。しかし同じように暴力を受けて来た身として、全面的に敏子を憎み切れない自分がいて、そういう自分が大嫌いだった。
清順との生活に耐え切れなくなった絵里は、性被害を清順の兄である叔父に相談した。叔父は大学の費用と生活費を払うことを申し出て、絵里は高校卒業を機に清順と離れた。叔父がお金を出してくれたのは同情ではない。絵里はお金と引き換えに、性被害の件を口外しないよう約束させられた。叔父が何より気にしたのは世間体だった。しかし、それでも絵里には有難い申し出だ。清順の留守中に家出を決行し、勿論移転先も知らせなかったので、それ以来会うこともなかった。
次の日、絵里の部屋のインターホンが鳴った。受話器を取ると、モニターに三十歳前後の男が映し出される。
男は話し出した。
「佐伯絵里様のお宅でしょうか」
「はい」
「私、昨日電話連絡させて頂いた蛭川隆史と申します」
「あぁ…どうも」
「突然のお電話で大変申し訳ありませんでした。何かご不快な思いをされたでしょうか。だとしたら、謝罪したいのですが」
昨日の電話が気になっていた絵里は、蛭川の話を聞くのもありかと考える。
「あの、そこで話していると人も来るので、中へどうぞ」絵里はオートロックの解除ボタンを押した。
玄関ドアを開けた先に立つ蛭川は、紺のスーツで短い髪を整えた、爽やかな印象の男だった。部屋に通した蛭川に、絵里は珈琲を出す。蛭川はモニター越しよりも若そうに見えた。まだ二十代後半だろうか。頻りに出された珈琲に恐縮している。
「改めまして、私、NPO法人『翼の集い』の蛭川です」
蛭川が出した名刺を、絵里はじっと見ている。
「昨日は突然話を切り出してしまい、戸惑われたかと思います。申し訳…」
「いえ、ちょっと驚いただけで、こちらこそすみませんでした」と蛭川の言葉を遮って絵里は言った。
「では、話の続きをさせて頂いて宜しいでしょうか?」と探るような目で蛭川が言う。「ええ、まぁ」
「まず私共の団体ですが、一人暮らしの老人のお世話をさせて頂いております。お世話と言っても多岐に渡りまして、直接生活の補助をすることもありますし、様々な相談事にも対応しております。例えばご家族と疎遠になっている方がいれば、我々が間に入って話し合いをすることもあります」
随分立派な活動だと思ったが、同時に余計なことをする団体だなと絵里は思った。
「父は一人暮らしなのですか?」
「ええ、ご存知ありませんか」
「もう数十年会っていませんので」
「そうでしたか」
再会だけはしたくなかったので、ここで一気に家庭内暴力や性的虐待の事実を打ち明けてしまおうかとも思ったが、絵里は言葉を飲み込んだ。この先どういう展開に話が進むか分からなかったからだ。
「父は…何か私のことを話したのでしょうか」絵里は探りを入れる。
「話すというか、時々発作みたいにあなたの名前を叫ぶことはありました。でも、普段は殆ど喋りません。最近は一人暮らしのアパートを出て、徘徊することが多かったです」
「…徘徊?」
「はい」
「ということは…」
「ええ、認知症を発症しています」
「…………」
「かなり症状も進行していまして、あなたと会っても、あなたを認識出来ない可能性があります」
「…………」
父親の殺し方ばかり考えて来た絵里には予想外の話であった。暴力で周りを支配してきた獣が弱っている姿など想像もしていなかった。蛭川は更に話を続ける。
「家族にはそれぞれ他人が入り込めない関係性があるということは、私共活動を通じて痛感しております。ですから、お父様とすぐに会って欲しいとは申しません。ただ、これからの家族の在り方を考え直す第一歩として、まずは現状を知って頂きたいのです。お父様は現在、病状の悪化でアパートには住めなくなり、我々が所有する施設で生活されております」
「施設と申しますと?」
「森のペンションをうちが買い取って、主に認知症で身寄りのない老人を一時的にお預かりしております」
「それは費用が掛かるのですか?」
「うちは幾つかの企業から寄付金を頂いて活動していますので、費用のご負担はございません。ですが、大きな団体ではないので資金にも限りがあります。ご家族の方がいる場合、出来れば引き取るなりして頂ければ助かるというのが本音です。そうすれば、次の人に手を差し伸べることが出来るので」
憎き相手でも戸籍上父親であることに違いはない。今やそれなりの地位にある自分が、全て知らぬ顔で通すことは好ましくないと絵里は考えた。
「あの、もし本当に父がお世話になっているのなら、寄付金も検討致します」
「それは本当にありがたいです。でも、それなら一度施設に来て頂けませんか」
「え?」
「どんな場所か見て頂きたいですし、寄付金を検討して頂けるなら本当にお父様かどうかの確認も必要ですよね」
「まぁ…」
「本人に直接会わなくても結構です。例えば遠くから見て確認するとか」
「ええ、それなら」
「もしお時間が許すなら、これからどうですか?」
「え?」
「丁度車で来ていますので、すぐに出られます。こういうことは時間を掛けない方がいいと思います」
「まぁ、時間は大丈夫ですが…色々準備もしないといけませんので…」
「了解しました。車は駅前の駐車場にありますので、準備の間マンションの前に移動させます」
「あ、いや…」と言う絵里の言葉を聞かずに蛭川は玄関へ行くと、「では、また後ほど」と言って出て行ってしまった。
適当に後回しにしようと思った絵里は呆気に取られたが、こうなってしまっては準備する他ない。仕方なくクローゼットで服を選び始めた。
蛭川の車は白馬村に向かって北上して行く。助手席で蛭川と幾つか交わした世間話も、落ち着かない絵里の頭には入って来ない。車は途中左折してから山道を進み、更に舗装されていない道路へと入って行く。
「もうすぐ着きます」と言った後、「安心して下さい。この時間ですと、お父様は介護士の男性と一緒に散歩している筈です」と蛭川は言った。
そこは森のペンションという名が相応しい場所であった。森の木々に包まれるようにペンションは存在していた。
車を降りると、二人はペンションのドアの前に立った。
「今は誰もいませんから」とすんなりドアを開ける蛭川。
「開いていますけど…」と絵里。
「いつも開けっ放しです、誰も来ませんので」といつものことのように蛭川が言って、二人が中へと入って行く。
エントランスは広く、正面に階段があった。
「思ったより広いですね」絵里は正直な感想を述べる。
蛭川は一階左手の部屋を指した。
「ここが受付兼スタッフルームです」
ガラス窓から中が覗けるその部屋は、奥にベッドも見える。
「お父様のお部屋は二階になります」
そう言って階段を上がる蛭川に絵里は続いた。
父の清順の部屋は個室だった。シンプルな木目調の部屋には、荷物も殆どないので感想も出て来ない。ただ広いバルコニーがあって、そこから見える景色は遠くの山々が一望出来る絶景だった。硝子戸の鍵を開け、一足先にバルコニーに出た蛭川が声を掛けてくる。
「良い景色ですよ、こちらへどうぞ」
「ここから見るだけで結構で…」
「さあ、どうぞ」蛭川が言葉を遮る。
「…………」
人当たりはいいが、どこか強引さのある蛭川に苛立ち乍ら、絵里はバルコニーに出る。すると思わぬ光景に出くわす。
―――バルコニーの向こうは絶壁だった。
下を覗いた絵里は十数メートル下の木々を見つめる。表に着いた時は分からなかったが、ペンションは崖の縁に建てられていたのだった。
「よくこんな場所にペンションを建てたなと思いますよ」と言う蛭川の言葉も絵里には届かない。
「…………」
「佐伯さん、大丈夫ですか?」
絵里がふと我に返る。
「もしかして高い所が苦手でしたか?」心配そうな蛭川。
「いえ、そんなことはありません。ですが、ここは危険ではありませんか?」
「まぁ、そう思うのも無理はありません。正直な話、格安物件であったのがここに決めた主な理由なので…ただ、硝子戸は通常鍵を掛けているので、ここへ出るのは介護士が鍵を開けて、付き添った時だけですので」
「一人で出ることはないと」
「はい」
ここで蛭川の携帯が鳴った。
「はい…ああ、ご苦労様…うん、了解した」と簡単に電話を済ませた蛭川が絵里に話し掛ける。
「散歩に同行している介護士からです。もうじき戻って来るそうです」
「…………」
自然と絵里の表情が曇る。
「まだ直接は会いにくそうですね。一旦外に出ましょうか」と言う蛭川の言葉で二人は部屋を出た。
一度建物の外へ出ると、蛭川は少し離れた木陰に絵里を連れて行く。
「ここからお父様を確認出来ると思います」
「はい」
それから清順が現れるまでの時間を絵里は覚えていない。長かったのか短かったのかさえ分からないほど緊張していた。清順が男性介護士である町田俊一に連れられて来た時は一瞬別人に見えたのだが、よく見れば矢張りあの獣であった。かなり老け込んではいるものの、清順に違いなかった。杖を突き、おぼつかない足取りの清順を見ても、絵里には憐れむ気持ちなど少しも湧いてこない。何しろ長年頭の中で殺し続けてきた男なのだから。すっかり白髪となり、虚ろな目で歩く清順を絵里は無意識に睨み付けていた。
「お父様に間違いないですか?」と確認を取る蛭川に「間違いありません」と絵里は答えた。
清順と町田が建物に入ると二人は車に乗り込み、静かに走り去った。帰りの車の中で、絵里は蛭川に幾つか質問をした。
「あの施設は何と言う名前ですか」
「すみません、名前もまだなのです」
「父と介護士の方以外、誰も見掛けませんでしたが」
「あそこに今いるのはお父様だけです」
「父だけ?」
「これから入居者の方々が入って来る予定です」
「介護士の方はお一人ですか?」
「今はあの町田さんと言う介護士の方だけが常駐しています。実はまだ施設としての準備も整っていないのです」
「と言いますと?」
「正式には運営前なのです。ただお父様の状態も良くなかったので、取り敢えず保護しようということになりまして」
「それで運営前に。そうでしたか」
絵里を乗せた蛭川の車がマンションに到着したのは夕暮れ時だった。マンション前で二人は別れの挨拶を交わす。
絵里は深く頭を下げた。
「父を保護して頂き、ありがとうございました。本当は私が何とかしなければいけないのですが、色々と事情もありまして…」
「了解致しました。今日は急な話ですみませんでした。居場所を知って頂けただけでも良かったです」
「寄付金という形での協力は考えています。あの、振込先教えて下さい」
「お渡しした私の名刺にQRコードがあります。そこからホームページに入って頂ければ」
「分かりました。では、これで」と去り掛けた絵里を蛭川が止める。
「あの」
「はい」
「一応これ、渡して置きます」
蛭川は絵里に鍵を渡した。
「これは?」
「お父様の部屋の鍵です。あ、入口と例のバルコニーの兼用になっています」
「…………」
「介護士の町田さんには、あなたのことを伝えておきますので、いつでも会いに行けます。まぁ、勿論すぐに会いに行って欲しいなんて申しません。でも、もしそんな気になったら是非あの景色を一緒に見てやって下さい。どうしても無理だと思ったら、返して頂ければ結構です。また近いうちに連絡致しますので」
「はい…」
「では、今日はこれで」
蛭川の車が走り去って行くのを、どんよりとした目で絵里は見送った。
シャワーの後、リビングでワインを飲む絵里は、いつの間にか半分になったボトルに驚く。ずっと一つのことを考え続けていたのだ。蛭川から一緒に景色を見てやってくれと言われたが、絵里には父に優しさを与える気持ちなど毛頭ない。しかし鍵は返さなかった。蛭川から清順の話を聞いた時から、絵里が考え続けていたのはただ一つ、
―――どうやって父を殺すかということだけだった。
ワインボトルがすっかり空になった時、絵里の頭の中でパズルのピースが全て嵌った。弱々しい父親、開けっ放しの施設、バルコニー下の絶壁、手に入れた鍵。しかも施設の入居者は父だけだというではないか。
―――舞台は整った。
今やらなければいつやるというのだ、やるなら早い方がいいと絵里は考えを巡らす。
「明日がいい」と絵里は呟いた。それがベストだ。入居者や介護士が増えるほど見つかる危険性は高まるのだから。
次の日、絵里はパソコンの専用マップで、施設までの道のりにあるNシステムの位置を調べた。極力Nシステムのない順路で行こうということだ。決行は夜と決めている。施設に近い民家の前では、防犯カメラに備えて車のライトは消した方が無難だろう。対向車には出会いたくないが、時の運だ。ナイフなどの武器は持たない、持つのは革の手袋だけとする。それならば指紋も残らないし、最悪町田と遭遇しても父に会いに来ただけと強引な言い訳も出来る。まさか殺しに来たとは思うまい。武器を使う必要はないのだ、よぼよぼの老人をあのバルコニーから、ただ突き落とせばいいのだから。
深夜になるのを待って絵里は行動を起こした。服装は白のシャツにグレーのカジュアルジャケット、下は黒のカジュアルパンツで低めのパンプスを履くことにした。全身黒ずくめの服にしようかとも考えたが、町田と遭遇した場合に怪しまれない服装にした。
絵里は車を飛ばし、事前に決めたルートで施設へと向かう。飛ばすつもりはなかったのだが、自然とアクセルを踏み込んでしまう。勿論寄り道などせず、真っ直ぐ行って真っ直ぐ帰って来る計画だ。途中の民家の前では、防犯カメラを警戒してライトを消すことも怠らない。対向車が気になったが、幸いにも山道に入ってから一台も車と出会うことはなかった。絵里は施設の三百メートルほど手前で車を止め、施設に向けて歩き出す。訪問した際に防犯カメラは見当たらなかったが、見落としがあったら車を特定されてしまうからだ。施設が真っ暗で寝静まった様子だったので安心して建物に近づくと、突然街灯の明かりが点灯した。驚いた絵里は近くの木に身を隠す。自分が来たことで誰かが点灯させたのかと焦ったが、何の反応もないので人感センサー式の街灯であることが分かった。静かに玄関ドアの前まで歩いてドアノブを回してみると、昼間と同じで施錠はされていない。中へ入ると、携帯のライトを点ける。ペンライトなどあると、いかにも準備したようなので避けることにした。一階のスタッフルームを覗くと、町田らしき男がベッドで寝ているのが見える。絵里の位置までいびきが聞こえてきた。絵里は静かに階段を上がって行く。階段や廊下が軋むこともなく、ほぼ無音で清順の部屋まで辿り着けた。鍵を使ってドアを開けたが、静かに開け閉めすることが出来た。
ベッドで寝ている清順がいる。絵里は携帯のライトを消し、部屋の明かりを点けた。明かりが点いたことで、清順の目が眩しそうに開いていく。清順は自分を見下ろして立っている絵里をじっと見つめて言った。
「…どちら様ですか」
絵里も予想はしていたが、矢張り清順は娘の認識すら出来ていない。
「新しい介護士です。ご挨拶に伺いました」絵里は適当なことを言った。
清順の顔に笑みが浮かび、やがて満面の笑みへと変わっていく。
「何かおかしいですか?」絵里の冷ややかな言葉。
「やっぱり女がいい、女に代わって欲しいと思っていたんだ」と言った後、清順は「うふふ」と笑った。
この場で殴り殺してやりたかったが、武器はないので絵里は自分を落ち着かせ乍ら言う。
「一緒に星空でも見ませんか」
絵里は硝子戸の鍵を開けてバルコニーに出た。清順は絵里の尻を眺めてからベッドを出ると、吸い寄せられるようにバルコニーに出る。
二人の親子が並んで星空を眺めている。こんな夜に不似合いなほど綺麗な星空だ。
絵里は横目で清順を観察し乍ら声を掛ける。
「綺麗ですね、星空」
「あんたも綺麗…星も綺麗…」と清順は譫言のように言う。
バルコニーの手摺りに手を掛けてぼんやりと空を見上げている清順と、その後ろへ静かに移動して行く絵里。
―――今なら突き落とせる。
しかし清順を睨む絵里の体は動かなかった。今しかないのに…千載一遇のチャンスなのに。すると背後から声が聞こえる。
「おい、早くやれよ」
絵里が振り返ると、いつの間にか呪郎が立っていた。病院で会った時の姿で両翼をばたつかせている。
「いつまで待たせるつもりだ」
「…化け物」
「おぉ、言ってくれるねぇ。ワシにはお前の方が化け物に見えるぞ。化け物が何を躊躇うことがある?」
「こいつはもう…私のことすら分からない。こんな奴を殺して何になる?」
呪郎は清順の横に立ち、ぼんやり星を眺める清順の顔を覗き込んで言う。
「こいつはお前を犯した男だろ?」
「この男は空っぽよ」
「そうかなぁ」と言うと、呪郎は清順の額に指を当てた。呪郎の指先が光ると共に、ぼんやりとしていた清順の目がはっきりと開き始める。
清順が絵里を振り返る。
「絵里。お前…絵里だな」
「…………」絵里の息遣いが荒くなっていく。
清順が歓喜の表情で「絵里、やっぱり俺の元へ戻って来てくれたか」と喜んでいる。
近づいて来る清順に絵里は後退りする。
「また二人で楽しくやろう。お前は俺の娘で、俺の女房だ」と清順は絵里の腕を掴み、腰を押し付けて来た。
「放して!」と言う絵里の言葉も虚しく、清順は絵里の胸を鷲掴みにして、カジュアルパンツを脱がそうと必死だ。
その時、絵里の形相が変わった。その目にはもう殺意しか感じられない。積年の恨みが絵里に力を与える。清順の髪を両手で鷲掴みにして引っ張ると、その頭をバルコニーに叩き付けた。「うげっ!」と妙な声を出す清順の体を絵里は女とは思えない力で持ち上げ、崖下へと突き落とす。清順は短い叫び声と共に暗闇の底に消えて行った。
「…………」
呆然とした絵里を見て呪郎が笑っている。
「女の癖に怪力だな、ははは!」
「…………」
その場に座り込む絵里の顔を、呪郎はにやつき乍ら覗き込んだ。
「おや、何か聞こえるぞ」と呪郎。
「…………」
「お前には聞こえないか?」
「…………」
呪郎が手摺りから崖下を覗いたので、絵里もそれに続いた。耳を澄ますと、微かに男の呻き声が聞こえてくる。
「あいつ、まだ息があるぞ」呪郎は翼を羽ばたかせて宙に浮いた。そして崖下へと下りて行く。
「ほら、お前も来い」呪郎は絵里に声を掛けた。
絵里は急いで一階へと駆け下りる。スタッフルームを見ると、町田はまだ寝たままだ。静かに外へ出た絵里は、建物を回り込むように山道を下り、バルコニーの崖下を目指した。途中で方向を見失って見上げると、遠くで宙に浮いた呪郎が手招きしている。その位置を頼りに進み続けた絵里は、やっと崖下まで辿り着くことが出来た。
荒い息の絵里が来ると、体の数か所に枝が刺さって血だらけの清順が倒れていて、傍らには呪郎が立っている。虫の息だが清順は生きていて、弱々しく呻いている。
「しぶといなぁ、こいつ」呪郎が清順を見下ろしている。
「…………」清順を見つめる絵里。
呪郎は傍らの木の枝を折り、鋭い爪で削ると手製の槍を作り出した。
呪郎がそれを作っている間、絵里は清順が生きていた運命に感謝していた。バルコニーから突き落とすチャンスは掴んだが、絵里が望んだ『耐え難いほどの苦痛』が足りないと感じていたからだ。
「やれよ、ほら」呪郎が手製の槍を絵里に差し出す。
「…………」
「こいつを簡単には殺したくなかったのだろ?」
絵里は槍を受け取って清順に向けて構える。
「やめてくれ」命乞いするように手を差し出している清順。
呪郎が絵里の背中を押す。
「ほら、どうした。欲望のままにお前を何度も犯した男だぞ」
「…………」
「やっぱりお前、楽しんでいたのか?」
「ふざけるな!」
「やれ!」と呪郎が叫ぶ。
叫び声を上げて絵里は槍を清順の右太ももに突き刺した。
痛みに絶叫する清順。
絵里は更に左太もも、左腕、右肩と急所を避けて刺し続ける。
「獣め! 獣め!」
何度も何度も狂ったように絵里は槍を突き出し、遂には腹や首も含めた全身を刺しまくっていた。気が付くと清順は目を見開き、口からだらしなく舌を出して絶命していた。
「…………」
呪郎は楽しそうに笑い、翼を羽ばたかせて宙に浮いた。
「やったな、最高の気分だろ!」
「…………」
「おめでとう。お前はもう、こちら側の人間だ!」と言うと、笑い乍ら夜空高く飛び去って行った。
ぼんやりと呪郎を見送る絵里に達成感はなかった。数十年考え続けた計画が遂に実行されたというのに心は空っぽになっていた。
絵里は帰りの車の中ではっと我に返る。あの崖下から車まで歩いた記憶が抜け落ちていた。ハンドルを握る手に血が付いてないので、もしや夢を見ていたのではないかと一瞬思ったがそれは違っていた。ペンションの外にある水道で、手に付いた血を洗い流している記憶が戻って来たからだ。よく見れば、服に付いた返り血はそのままだった。運転し乍ら絵里は考え続けていた。「お前はもう、こちら側の人間だ」と言う呪郎の言葉が何度も頭をよぎる。親殺しをしてしまった時点で一線を越えたことは間違いない。世の中で娘を犯す父親は少数であろう。それと同様に父親を殺す娘もごく少数だ。同じ少数派に属したことで、結局自分も父も同じ穴の狢ではないかという、無茶で自虐的なロジックが組み立てられていく。考えなんてまとまる筈もないのに思考を停止することが出来なかった。
マンションのドアを開けて室内の空気を吸った時、絵里は日常を感じて少しだけ落ち着きを取り戻した。相変わらず脳内では様々な感情が渦巻いているのだが、気持ちは一つの方向に向かいつつあった。絵里は返り血を浴びた服を脱いで下着姿になると、脱いだ服を丁寧に畳み乍らゴミ用の青いビニール袋に詰めていった。
シャワーを浴び、ガウン姿でミネラルウォーターを飲み始めた頃、絵里の決心はすっかり固まっていた。このまま闇に落ち続ければ、呪郎と同化して人ではなくなってしまう。それだけは嫌だった。ミネラルウォーターを飲み干して外を見ると、空が白み始めている。
ジーンズ姿の絵里が車を走らせる。早朝の街は思ったより仕事に向かう車が多かった。絵里の心は静かで、そして晴れやかだった。これから向かう施設は年中無休なので、いつだって対応してくれる。
絵里の車が警察署へと入って行く。駐車場に車を止め、一旦外に降りてトランクを開けた。既にリアシートの背凭れは倒されていて、そこには清順の血が付いた木の槍が置いてあった。絵里は槍と青いビニール袋を取り出すと、穏やかな気持ちで正面ドアに向かって歩き始める。
建物内へと入ると、デスクに座っていた若い男性警官がいち早く異変に気付き、絵里に歩み寄った。
「どうしました? それは何ですか?」と若い警官が慎重に問い掛ける。
その声をきっかけに署内の空気は緊張に包まれた。若い警官の後ろには二人の警官が駆け付ける。
絵里は警官達の目をしっかり見つめ、「これは、証拠品です」と答えた。
三部作、③に続く…。




