第二章 一年間の壁
六歳のあの日。王城の回廊で迷子になり、泣きじゃくっていたセレナに、殿下は青薔薇の刺繍入りのハンカチを差し出した。
「それは君にあげるよ」――幼い彼の言葉は、少女の胸にずっと残っている。
あれから九年。
セレナは十五歳に、殿下は十六歳になった。互いに剣を学び、学問を競い、舞踏会では息を合わせて踊る。どちらかが遅れればもう一方が手を伸ばす。二人の歩みは、まるで鏡のように重なってきた。
王立学園への入学を目前にしたある日の訓練場。
木剣を構えるセレナは、額の汗をぬぐいながら笑みを見せた。
「殿下、もう少し腰を落としてくださいませ。そうでないと、斬り上げが甘くなりますわ」
殿下は苦笑して木剣を振り直した。
「そうやって細かく指摘するのは、君だけだよ、セレナ」
「だって、殿下に負けたら悔しいですもの」
互いの剣が打ち合う音が、夏の空に小気味よく響いた。
やがて、殿下は一足先に王立学園へ入学することとなる。セレナは次の年の入学を控えていた。
「すぐに追いつきますから、待っていてくださいね」
「待つもなにも……君が来ないと退屈すぎて死んでしまいそうだ」
冗談めかして言う殿下に、セレナは扇を軽く打ち付けて睨み返した。
「殿下、軽々しく死を口にしてはなりませんわ」
「はいはい、わかってる」
――しかし、その言葉は冗談ではなく、学園に入った殿下の口癖となる。
◇
「アルバート、セレナが足りない。セレナに会いたい」
学園の自室で、殿下は机に突っ伏して嘆いた。
側近のアルバートは、書類を整えながらため息をつく。
「殿下、それ今日で何回目だと思います?」
「何回だ?」
「三十六回目です」
「数えてたのか!? 気持ち悪いなぁ」
「気持ち悪いのは殿下ですよ。王族らしく、もっと威厳をお持ちください」
アルバートの冷静なツッコミに、殿下はふてくされた顔で窓の外を見た。
庭を歩く学友たちの笑い声が聞こえる。だが、そこに彼女はいない。
剣を交えるたびに真剣な瞳で見返してきた彼女。勉学で勝ったとき、唇を尖らせる彼女。舞踏会で腕をとれば、扇の影でこっそり笑った彼女。
そのすべてが、殿下の中で空白をつくっていた。
「……やっぱり、セレナが必要だ」
「殿下、今度は三十七回目です」
「お前、本当に暇なのか?」
「殿下の面倒を見るのが私の仕事ですから」
「ありがたいような、ありがたくないような……」
殿下は深いため息をつき、机に顔を埋めた。
――セレナが入学する来年まで、この調子で何度繰り返すのだろう。
それでも彼の心は確信していた。
次に彼女が学園の門をくぐる日、物語は新たな色を帯びるのだ、と。
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