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『メダカ 回遊』

作者: 鰰人

ひとりの画家はたった一日しか記憶をつむげない。メダカの夢を除いては…。

 足元が霞のようにおぼろげで、自分の存在が絶えず浮遊しているかのような不安感。

 それがボクの記憶の中ではじめに沸き上がった感覚だった。朝起き、知らない部屋の中にいて、これまた着た覚えのないパジャマを身につけている。こころの奥に言い様のない寂しさが込み上げて自分という存在がわからない。動悸が激しくなり、体が嫌に火照る。その苦しみから逃れるために、とにかくベッドから降りようとしてボクはやっと気付く。

 そこには確かにボクが描いた、何百枚もの絵画が壁にかけられていた。

 同時に目覚めたときから感じていた、あの心地悪い浮遊感がスゥと消え去っていく。

「また朝が来た」

 ボクはポツリと習慣のように呟いた。


 毎晩眠るたび、その日一日の記憶を失う。それがボクの身に起こった、現実味のない、不思議で奇妙な症状だった。毎日、あの孤独の不安感から始まる朝。自分が誰だかわからない。なにをする気も起きやしない。

 記憶を失うことがわかっているのに、いったい誰が毎日を必死に生きようとするだろうか。明かりのない夜を惑うような地獄の日々。

 そんな日々が転換したのは彼との出会いからだった。


 今日は風が強い。暖簾はためく食堂前の扉をガラガラと開ける。ボクはいつものように入口から右手奥にある隅の席へと振り向いた。

「よう」

 彼は無愛想にそう声をあげた。

「俺はオムライスにした。お前は?」

 無愛想だけれども穏やかな声色でそう聞いてきた。

「ボクは……ナポリタンにしようかな」

「おっ!覚えているのか。まさか食堂のメニュー全部描いたのか?」

 ボクがメニューも見ずに注文したことから察して彼は鋭く質問をする。

「うんそうだよ、中でも記憶の中でボクはパスタが一番好きだったようだからね」

 ほう、と言った彼は無骨な右手で僕の頭を撫でてくれた。

「え~へぇ~」

 間の抜けた声が口から漏れる。

「偉いな、ちゃんと夢に向かってて」

「それほどでもないよう」

 嬉しかった。ボクの夢を彼と共有できていて。

 ……そう、今のボクには記憶が残っているのだ。かつて記憶のないボクに彼が勧めてくれたのが油絵であった。毎日見たものを一心不乱に絵に描き起こす。何の意味があるだろうと思って始めたその描写運動は、意外にもボクの人生を変えるきっかけとなった。

 自分が描いた絵画を見る。その瞬間、頭の中に風が吹く。その風に乗り過去に置いてきた記憶たちが頭の中に戻ってきては、体験として身体に染み渡る。ボクは絵を描くことで記憶を繋ぐことが出来るようになったのだ!

 だから今のボクの夢は世界中の全てのものを絵に描くことだ。そうすればボクはもうなにも忘れることはない。自分の生きる意味が見えた気がして、心が弾んでしかたがない。毎日毎日、見たことないものを描き続けている。それでもいつしかこの街にあるものだけではもの足りなくなって、とそんなとき、彼が提案してくれた。

「俺と一緒に世界をまわらないか」

 その言葉はボクがこの世界をたくましく生きるための希望となった。


 家から絵画を引っ張ってきてそれらを全て彼の馬車に積む。いよいよ出発だ。

「今までに行ったのはこの地図の北と南、次は西に行ってみよう。砂漠というのがあるそうだ。」

 馬車に揺られてばたばた震える世界地図を抑えながらボクは言った。

「了解、隊長。今回の旅でも目新しいものが見れるといいな!」

 彼が大声で笑いながら叫ぶ。

 街の中心から西の通りを出てはじめに現れるのは傾斜の緩い丘だ。春風が吹き、草花が賑わう。澄みきった新緑の香りが鼻腔をくすぐる。この辺は旅に出る前にもかなりの探索をしていたからほとんど絵に描き尽くした。それでもこの暖かい緑に囲まれていると創作意欲が沸き上がる。


 日が傾き始めたころ、ボクらは一本の巨木を見つけた。ずっしりとした根本から伸びゆく太い幹をたどると途中で二股にわかれている。さらに先へと進むにつれ、二股の幹は段々と互いに巻き合うように捻れはじめ、ついにはまた一つに収束していた。

 その末端はちょうど僕らがこれから進む方向を指し示していた。

 彼がここで休みを取ろうと提案する。ボクはすでに先の大樹を描き起こしながら「うん」と一声、賛成した。夜営の準備にボクは薪を集め、彼は焚き火を起こす。

 春先の夜はまだ肌寒い。街の灯りのない外の世界では月だけが光の頼りだ。だけど今日の夜空は雲ばかりが幅を利かせ、星の一つもこの目に収めることはできない。

 隠された月から淡く鈍く明かりが漏れてボクらをゆるりと包みこんでゆく。

「なぁ、今回の旅ではいよいよ砂漠が見れるぞ。一面視界の先までびっしり砂で覆われているんだって。楽しみだな!」

 ふいに彼が快活に声を張る。その明るさに引っ張られてボクも笑みがこぼれだした。

「うん、楽しみだ。いくら考えても考えたりない。一体どんな景色が描けるんだろう」 

 見たこともないものを描くわくわく。

 鍋の中で踊ってゆで上がるパスタを待つ時のようなわくわく。

 ボクの一番好きな記憶。

 沸き上がる興奮が抑えられない。記憶を繋ぎ止めるために始めたこの旅だったが、いつしかボクは彼とともに回るこの世界そのものが大好きになっていた。

 ……そんなボクでも、いやだからこそか、一つ大きな悩みがあった。

 焚き火は薪を燃やし尽くし、見るものを扇情的に煽っていた白光る炎も土の下へと身を潜めた。姿を変えた熾火の赤光とじぃと睨みあいをしているとこっくりこっくり眠くなる。

 あぁ、嫌だなぁ。

 眠るのは嫌だなぁ。

 夢を見るのは嫌だなぁ……。


 メダカがいた。

 その小さな観賞魚にとっては四方がガラスの壁に囲まれた窮屈な水箱が世界の全てだった。水草をつつき、水上より降っては散るエサを食ベる。ただそれだけで一日が終わる。気ままに泳ぎ、疲れたら眠る。

 眠りについたらもうすぐ終わる。ただ生きるために生きるような、そんな心地の悪い生活。それもようやく終わるんだ。

 ……パチリと瞼を開け目が覚めた。

 そう、これが今のボクの唯一の悩みごと。忘れられないメダカの夢を見ることであった。

 

 スライスした食パンにそのままかぶりつく。うん、うまい。毎日見るあのメダカの夢のことを忘れ去るようにコーヒーをぐいっと飲みほす。ぐぇっ、苦い。

 「ずいぶんうなされていたな」

 豪快な見た目とは裏腹に、食パンの片面に隙間なく丁寧にバターを塗る彼の姿が目に留まった。

「また、あの夢か」

「……うん」

「やっぱり怖いか」

「うん怖い、あの夢だけはどうも苦手だ。」

 ボクは軽く身震いする。

「あの夢を見るとなにもせず日々を生きていた頃を思い出す。記憶もなく、たださまよい生きていた頃を。」

 彼はパクッと小さくパンを食む。

「……まっ、所詮は夢、ただの夢だ。」

 悟ったような澄まし顔で彼は言葉を続ける。

「夢は現実じゃあないぜ。」

「あぁ、そうだね。」

 ボクは元気を取り戻した。そうだ、何を恐れることがある。今のボクには生きる目的がある。夢の中の世界などに振り回されている場合じゃないや。


 その場所へは太陽が顔を出すか出さないかのちょうど狭間の時に着いた。前日にどうしても日の出を見たいとわがままを通した甲斐があったよ。街を出て数週間、ようやくだ。

 黄金に輝きはじめる丘陵。風が吹くたび光の反射した粒子がキラキラと波打つように宙を舞う。どこまでも砂。見渡す限り。地平線を飛び越えて金色の光が常世を包む。

 ボクは早速、絵に描き出した。光の欠片、その一つ一つを決して逃がさないように。ついにボクらは砂漠に到着したのだった。

 

 煌々と在る太陽と熱に踊る砂の舞を描き上げて、ボクは「ふぅ」と一息ついた。

「おつかれさんよ。どれ、トマトの冷製スープを作ったんだ」

「パスタ入り?」

「あぁ、入っているぜ。リボン型のな。これ飲んで少し休もう」

 ずずずっとスープをすすると、ひんやりとした感触が唇をさわさわと撫でていく。わざわざパスタを別にゆでてくれた彼の優しさが身に沁みた。

 ふと泡立つようにその言葉が沸きだす。

「ねぇ、ありがとね」

「ん?何だ突然」と彼の口から疑問が漏れる。

「いや、言葉にしておこうと思って」

「世界を描くボクの夢を手伝ってくれて。今までの旅も楽しかったなぁ」

 彼と回った世界の記憶が駆け巡る。

 そのときは突然だった。

 床に落としたグラスから液体が飛散するような、何かが……崩れ去る感覚。

 あれ、そういえば……。

そういえば、今まで旅の最後には何を描いたんだっけ。記憶が曇り、脳にノイズが走る。

そうだ、世界を旅したその先で、一番終わりに描いたのは何だった?。

心臓がキュウと握られて、頭へ流れる血が止まったかのようだ。ボクは心の中で叫ぶ。

 思い出せない……。思い出せない!

 瞬間。

 ボクの体は落下していた。

「へぁっ」

 情けない声が漏れ視界が暗転する。慌てて手を伸ばして何かにつかまろうとしても虚しく空を切るだけだ。

「手を……俺の手を掴め!」

 彼の悲痛な叫び声が遠くに聞こえる。

 その手を掴めればよかったのに。


 ボクの伸ばした腕のその先端にキラリと一筋の光が映える。なんだろうとそう思う間にその光は一瞬で全身を覆った。それは鱗であった。淡く輝く鱗であった。

 両手を前に持ってくる。指の間からヒラヒラとヒレが生えはじめ、いつの間にか両足がくっついて離れない。足先だとそう感じる場所に視線を向かわせるとそこには立派な尾びれがあった。ごぼごぼと鈍い音が轟く。水の中でもがくボクの呼吸音だった。息ができない。しかし瞬く間にその苦しみから解放されてボクは当たり前のように水の中で息をしていた。ガラスに映る自分の姿を確認する。

 そこにはまごうことなく……。

 メダカがいた。

 その小さな観賞魚にとっては四方がガラスの壁に囲まれた窮屈な水箱が世界の全てだった。水草をつつき、水上より降っては散るエサを食ベる。ただそれだけで一日が終わる。気ままに泳ぎ、疲れたら眠る。


『ちくしょう、こっち側もダメなのかよ。』


 目が覚めた。目の前には生い茂る水草が広がっている。そして昨日と同じようにボクはガラスに映る自分の姿を確認する。

 ぼくはいやに落ち着いていた。まるでその姿であることが当たり前であるように。

「あぁ、やっぱり。メダカだ」

 一つの確信。メダカの世界のリアリティがその確信を後押しする。

 外は雨。ザアッと一瞬、降り注ぐ雫の音が強くなった。

 言葉にしたくない。

 これを認めてしまえばボクの存在の否定となる。世界を旅して絵に描き起こす、ボクの生きる目的の否定に。

 ……それでも確かにわかってしまった。

 ……あの旅した世界は夢なんだと。

 ボクは……、ボクは四方を壁に囲まれた狭い世界のメダカなんだ。

 狭い狭い現実世界。

「……ボクは……メダカ……だったんだ」

 パクパクと声の出ない口を使って、それでもボクはそう呟いた。

 水流が流れ込み、底砂がブワッと巻き上る。ボクの周りを小さな、しかし重たい重たい石片が包み込みこんだ。

「現実からは逃げられないぞ」

 まるでそう言われているかのようだった。


 『夢』を見たんだ。『人間になる夢』を。何度も何度もその夢を見て、ボクは世界中を回遊する。

 記憶を繋ぐためにあらゆるものを絵に描いて、あらゆるものの美しさを絵に留めて、そうして日々を満足する。

 鍋の中で踊ってゆで上がるパスタを待つ時のようなわくわく。

 旅で新しい景色を見る前はいつもそうだった。

 でもそんなものは幻想。

 パスタなんて食べたことはない。

 全ては妄想。ボクの愛した世界は最初から……。

 最初から……。

 存在すらしていなかったんだ。

 なのにどうしてボクはあんな夢を見たんだ。どうしてボクは夢の中で記憶を無くした?どうして思い出すために絵を描いた?そしてどうして世界を旅する希望を見た?

 夢を見なければボクはこんなに苦しむことは、こんなに心をかき乱されることはなかったのに……。

 もはや涙を流すことすらできない自分の体を嘆き、ボクは静かに眠りについた。


 目が覚めた。見ればそこは見知らぬ部屋の中だった。

 瞼をこする。そう、瞼をこすったのだ。

「手がある!』

 ん?

 おかしいな手があるのは当たり前だ。

 足元が霞のようにおぼろげで、自分の存在が絶えず浮遊しているかのような不安感。

 それがボクの記憶の中ではじめに沸き上がった感覚だった。

 ボクはなぜだかほっとしていた。しかしその理由がすぐにわかるともに、ボクはまた絶望することになる。

 壁には砂漠の絵が鎮座していた。

 そして記憶を取り戻す。ボクがメダカであるという事実の記憶を。

 

 ボクは絵を描くことを辞めていた。何日も、何週間も。その間、この『人間の夢』と『メダカの現実』の往復の中でボクはただただ動かずにいた。寝ても覚めても何もしない。何もできない。

 かつてあれほど憎んでいた生きるために生きる日常を、今のボクは送っていた。

 だって仕方ないじゃん。

 偽物の世界で生きる希望を抱いて何になる。本当の世界の絵を描くことはもうできない。ボクはメダカであったから。ただエサを食べ、ただ眠る。そんな風にしか生きられない。

 「もう、いいかな……」

 ボクの物語は終わる。

 ざわざわとさざめく枝が窓から見えて、その先っぽにある小さな小さな葉っぱが風に吹かれて飛んでった。


 ドッドンドンッ。

「おい、おい、お前大丈夫かよ」

 なんか声が聞こえる。

「最近顔見せねぇと思ったら」

 どこか懐かしい。

 ドアが凄まじい勢いで開く。ビクッと体を震わせて思わず顔を向ける。

 見るとそこには……彼がいた。

「どうしたよ、ずっと部屋に閉じ籠ってんのか?お前らしくない。絵を描かないのか」

 「うぅ、ぐっ、ぐぅ」

ボクは滲むように涙を流す。思い出す彼との旅の果て。

「ボくの……この世界は夢なんだ!……君もきっと知っているんでしょ?」

 彼はなにも言わない。

「……そうだよね、そうだった。君もボクの夢の一部。こんな話をしても意味がない。」

「……俺も泊まるから、今日は寝よう。とにかく。寝て、落ち着こう。」

 ベッドに寝転ぶボクの隣に彼はそっと寄り添って、そうして小さい子供を寝かしつけるように彼はボクの背中に手を乗せた。

 ごつごつした手。ずっと見てきた。優しくボクを励ます手。ボクはすぅっと何日かぶりに穏やかな眠りに就くことができた。


 昼を照らした太陽は床につき、静謐の月夜へと姿を変える。背中に当てた手をゆっくりとさすり、愛しき子を眠りに就かせる。

 この世界が夢だって?

 そんなことはとっくに知っていたよ。

 だけどお前には気付いて欲しくなかった。

 ごめんな。

 俺はこいつが深く眠りに就いたことを確認し、それからそっと立ち上がった。……そして壁に掛けられた絵から一枚を取り外した。

 砂漠の絵。広がる晴天と砂の大地の色。俺はその絵を持ち出して、侘しき我が家へと帰路についた。


 ……食堂に入って右手奥、それが俺の定位置だった。現実世界でも行きつけの喫茶店では決まってその席を探したっけ。早朝、誰よりも早く店に入り吸い込まれる様にいつもの場所へ。苦いのは苦手だから、ミルクコーヒーを一杯頼む。そうして今日は何を描こうかなと脳ミソを回す日々。かつて確かに存在した、……楽しんで絵を描いていたとき。

 ガラガラガラ。

 扉が開く。見慣れた顔が、店に射す日光の裏から現れる。相変わらずこの世のものとは思えないほど美少年だ。白く透き通るような肌に宝石でできたような紅い瞳。きゅんと鼓動が一瞬速くなり、思わず顔をそらしそうになる。

「よう」

「俺はオムライスにした。お前は?」

「ボクは……ナポリタンにしようかな」


 「今までに行ったのはこの地図の北と南と西、今度は東に行ってみよう。海というのがあるそうだ」

 そいつは希望に満ち溢れた声で言う。

 おれは空の元気を絞り出す。

「いいねぇ、隊長。よし出発するぞ!」

 俺は「頼む、頼む今度こそ」と心の中で必死に願う。どうかこの旅に終わりが来ませんように。

 旅を続けて数週間、目の前には息を飲む大海が広がっていた。真白な砂浜、どこまでも遠い青。俺はその光景に故郷の房総の海を重ねていた。

 少し休めと連れ戻された故郷の海。

 太平洋を思わせる一面の青い広がり。俺の心にはすでに小さな絶望が滲む。旅の終わりはいつもこうだ。一面一色の世界の『果て』。

 あいつが頭を抱え、嗚咽混じりに唸りだす。

 そしてついには落ちてゆく。手を伸ばしても届かない。

 わかっていた。この結末は。だけどどうにかこの世界であいつが生きる希望を作りたかった。

 「ちくしょう、こっち側もダメなのかよ。ちくしょう、ちくしょう!」

 世界を巡る旅をして、あいつに全てを描かせたかった。……しかし東西南北どこへ行こうと、必ず最後に終わってしまう。あいつはこの世界が偽物だと気付いてしまう。


 ドアの前にたつ。俺はわざとらしくドッドンドンッと大きく激しくドアを叩く。扉を無理矢理開けてそいつと対面する。

 今、四度目の真実が俺たちを襲う。

「この世界は……夢なんだ。ボクはメダカで……。この世界は偽物で……。」

 あぁ、どうか、そんな絶望した顔をしないでくれ。

「君もきっとわかっていたんでしょ?」

 俺はわがままにもなにも話せなかった。

 こいつが真実に気付くたびに、夢の世界の『果て』の絵を持ち去り記憶を奪う。北では銀の雪景色、南は緑の熱帯雨林、西では金の砂漠。記憶を奪ってそしてまた仮初の世界を旅する夢を見させる。

 この繰り返し。

 今、目の前には青の大海の絵が佇む。

 ……でも。

 本当にいいのかこのままで。

 メダカであるという事実をごまかし先延ばしにしていた旅路。もう世界のどこにも逃げ道はないとわかっているのに。

 ……。

 ひとつある。

 もう一つの道。

 俺がずっと避けてきた道。

 ……覚悟を決める。

「なぁ、一つ気付かないか」

そいつはきょとんと首を傾ける。

「世界中を旅して全てを描くと、お前がそう決めてから」

「一つだけ、描くはずのものを描いていない。」

 俺は真冬の中のように震える。

「お前の描く絵に一つとして同じものはない」

「同じ景色でも、光の当たり加減によって、はっきりと絵の違いがわかる」

「それはなぜか」

 震えながらも汗が真夏のように吹き出す。

「お前の絵は記憶を繋ぐためのものだからだ。違いがなければ思い出せない」

 心臓が張り裂けそうだ。

「お前は見たものを全て描く。しかし一つだけお前が旅で見ていて、決して描かなかったものがある」

「それはこの夢の世界には存在しない。だが、お前は必ず見たことがある」

 どくんどくんと鼓動が脈打つ。

「ならばなぜ描かなかったのか」

「繰り返すが、お前の描く絵に一つとして同じものはない」

「お前はきっと無意識に、それを『描いたことがある』とそうどこかで認識していたんだ」

 最後の言葉の羅列を述べる。

「お前に見せたいものがある」

「これを見ても」

「お前の絶望は変わらないかもしれない」

「だけど……。」

「それでも見てほしいんだ」


 木造の一軒家、俺の家へとそいつを招く。ぎしぎしと軋む音が否が応でも俺たちが『その絵』へと近づいていることを突きつける。

 最奥の部屋の扉を開ける瞬間、俺の中で走馬灯のように記憶が流れ始めた。

 

「なんかただ現実を写しとっただけなんだよな」

 きっかけは些細なこの一言だった。大して仲の良くない同級生の軽い一言。それから俺は自分の絵と向き合えなくなった。

 俺が俺自身の絵に疲れてしまったあの頃。何もせずぶらぶらと低いビルの間を歩き回っていた。そんなしょうもない日常でお前に出会えたんだよ。路地裏のアクアショップ、一つの水槽。

 アルビノとか言うんだっけか、そこにいたのは一匹の真っ白なメダカであった。そいつはたった一匹で水上より降るエサを食べていた。

 「お前も俺と同じかい」

 囁くように声をかける。絵もかけず、ひとり漂うような朝、昼、晩。気付けば俺はその純白の小さなメダカを衝動的に買っていた。

 家に着き、何をしているんだと自問自答。布団に潜りふて寝する。

 三日月が夜を支配するその夜のこと。

 夢を見た。そこは見慣れぬ街だった。

 買い物をしに市場に出る。今日はパスタがいいかなと違和感なくそう考えていたときだった。ふと目の端に『その絵』を捉えた。感動の霹靂が脳を直撃する。

 「綺麗だ」

 その一言がほろりとこぼれだし、鼓動がドッドと早まる。と同時に俺はその絵の側に少年がいることに気づいた。色白く、儚い印象を与える中性的な少年だ。

「この絵はお前が描いたのかい?」

「……そうだよ、……君はこの絵が好き?」

「あぁ、あぁ、とても…きれいだなぁ」

「そう……ボクは嫌い。この絵があるとボクは自分の正体に気付いてしまう。自分がただのメダカであることに。」

「……そうだ、いいこと思いついた。お兄さん、この絵を持っていってよ」

 

 窓から月光が射す。俺ははっと意識を今現在へと呼び戻す。

 扉を開いた。目線の先には、世界の果ての一色の絵画達。

 そしてあいつが描いた最初の記憶のピース。

 

 『メダカの絵』


 白の体に映える紅色の(まなこ)。こちらをじぃと見つめる姿が可愛くてついつい見つめ返してしまう。それは唯一の現実世界を描いた絵。

「これがお前の原点だ。全てはここから始まった。」

 

 風が吹きすさび、空を流れる薄雲が吹き飛ぶように流れてゆく。見ればいつの間にか月は地に落ち、再びお日さまが顔を出した。

 ボクは全てを思い出した。東西南北の旅。そしてそのはるか前、現実と夢の世界、それぞれの彼との出会い。ボクは彼に飼われるメダカだった。

 そして……。

 ボクが記憶をなくすようになった理由。現実世界のただ生きるために生きる日々が辛くて、ボクは毎日を忘れるようになったんだ。

 全ての記憶が頭の中に蘇り、そしてボクは決断を迫られた。つまりこの絵を見て……どうするか。

 思考が連なり頭の中で逡巡する。その間、ひとりの顔が脳内にずっと浮かんでいた。

 ああ、そうかボクは……。

「俺の我が儘で夢の世界で希望を持たせてしまった。だが……。なぁ、どうか、どうにかして絵の道を続けてくれないか?」

 彼の最後の問いにボクは答える言葉を選ぶ。

「……今気付いたよ。ボクは、ボクは君と共に回る世界が好きだったんだ。『メダカの絵』で始まった君とボクの物語。北はしんと静かな雪景色、南はじっとりと雨の止まぬ森、西は日の出に光る砂漠、そして東は波うねる大洋、どれも側には君がいた」

「君といればボクはどこでも、……ボクが何者だとしても、きっと絵を描ける気がするよ」

「……だから二つ約束して。一つは現実世界でもボクを旅に連れていくこと。そしてもう一つは……」

 最後の会話。夢は終わりを迎える。 

 

「少し早く着いたな。そういえばあの砂漠でもこれくらいの時間だったっけ」

 月と太陽が入れ替わる暁の時。一人の男と一匹のメダカがその場に降り立った。

 黄金に輝きはじめる丘陵。風が吹くたび光の反射した粒子がキラキラと波打つように宙を舞う。

 鳥取の砂丘を目の前にして、その男は油絵の準備をする。そして同時に純白のメダカは藻を咥え、なにやら水槽の底に絵を描き始める。

「お前のおかげで俺もまた自分の絵を好きになれそうだ。」

 男のキャンバスには肌が真珠のように白く、瞳がルビーのように赤い少年が描かれてゆく。

「約束だからな……。よしタイトルは」

『メダカ 回遊 日の出の砂丘にて』







『メダカ 回遊』

これはのちのある画家の代表作となる。

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