9 心惹かれる相手
……長家が、書類の整理をしているところに、昔から知る年下の友人がやってきた。
「どうしましたか、行春殿」
「今、かぐや姫を見てきました。こちらにおいでになっていたのでしょう?」
「ええ、ご挨拶に」
「顔は見ましたか?」
「まさか。本人が望まないのに不躾なことはできないですよ。そういえば、行春殿もかぐや姫に文を出されていたのでは?」
「あれは……おれじゃない」
「そうですか」
周囲の者がけしかけることもあるのだろう、と長家は勝手にそう解釈した。
「世間ではみなかぐや姫を当世一の美女だと持ち上げ、次から次へと求婚の文を送っているし、帝の御関心の的でもあるが……他人がそうしているからといって、おれまでそうしなければならない道理はあるまい。凡人と同じになりたくない」
――なれば、なぜそれを長家に言いに来るのか。
彼にも、自分の心中を把握できていないところがある。
左大臣家の御曹司で、恵まれてはいるけれども……彼はまだまだ青かった。
潔癖で、理想がある。他人からは、冷淡に見えることがあるだろう。
「わたしは凡人だから素直に自分の心に従うよ。それに……あの姫君は意外と親しみやすいところがありそうでね」
行春はなぜか傷ついた顔をした。
「わかりました。長家さまがそのようにおっしゃるのでしたら、おれも交流を持ってみましょう。では……また」
「はい、また」
長家は行春を見送った。
「松緒は、恋をしたことがありますか?」
「ありませんね」
かぐや姫がいなくなる前。こんな会話をしたのを覚えている。かぐや姫が、次々と届く恋文を眺めてしかめ面(しかしそこはやはり松緒の姫様なのでため息が出るほど美しかった)をしていたため、「恋文を見るのは気が進みませんか」と尋ねたのがきっかけだった。
「よくわからないのです。この松緒にも恋文をもらうことはありますけれども、ほとんどが姫様への手引きを狙ってのことですから、本気で取り合ったことはございません」
「松緒……」
かぐや姫は長い睫毛を伏せて、申し訳なさそうにする。
「わたくしは松緒の幸せを妨げているのかしら……」
「いえ! そのようなことはまったく! 松緒は、姫様にお仕えできるのが何よりの幸せなのです! 恋人なんて必要ございません!」
「わたくしのことは気にせず、良い殿方がいたら応えてもよいのですよ?」
「姫様、本当にそんな相手はおりませんので大丈夫ですよ! ……それよりも。姫様ご自身には心惹かれる相手はいらっしゃらないのですか?」
「いますよ」
それを聞いた松緒は飛び上がった。
「どなたですか! 姫様にふさわしい殿方でしょうか。年収と性格と将来の見込みと姫様への気持ちを確かめさせていただきたく……」
「松緒は自分のことをどう思っているの?」
「へ? この松緒でございますか?」
一瞬はきょとんとした松緒だが、すぐにかぐや姫の意図に気づいて、姫様、と声をあげた。
「からかわないでくださいませ!」
「ふふふ。ねぇ、松緒。そなたには、わたくし以外に心惹かれる相手は、本当にいないの?」
「そこまで心配なさらなくとも、本当にそのような相手は……」
――いえ、でもたしか。
松緒の脳裏にある光景が過ぎる。
前世日本の、とある交差点。
赤信号だが急いでいるのか道路に飛び出してしまった男性。
「恋とは違いますが、気にかかる人はいました」
迫るトラックに気づかない様子で……前世の松緒は思わず飛び出し、彼を突き飛ばした。
「遠い昔に会った人です。今はどこにいるかもわかりませんが……助かって、どこかで幸せでいてほしいと思います」
「助かって、とは?」
「事故に遭いそうになっていたのを、助けようとしたんですよ。私、馬鹿だったんです。あちらの方は立派な成人男性で……私のほうが非力だったのに、助けようとしてしまって」
飛び出した後のことは覚えていない。
前世の松緒は、そうやって死んだのだろう。
最期に目に焼きついたのは、自分を追いかけてきた女を驚いたように見つめてきたきれいな顔。
――だって、彼、「平安雅恋ものがたり」のラバストをかばんにぶら下げていたから。同じゲームを好きならば、他人に思えなくて。
「気に病まないでほしいなぁって一方的に思っているだけですよ。恋ではないのですが……忘れられないですね」
「……そう」
思いのほか、淡白な返事だった。
「姫様?」
呼びかけるとかぐや姫は考え事から醒めた顔つきになった。
「松緒にも、そのような相手がいたのですね……」
「ですから、何度も言うように恋では全然ないんですよ?」
「ふふ、そうですね」
「信じていないですね!?」
それで話はしまいになった。
まもなくして、かぐや姫は松緒をそれとなく遠ざけるようになっていった。
松緒の代わりに傍を侍ったのは、新入りの女房だったが……。
かぐや姫の心中はあのころからわからなくなっていったのだった。




