6 蝉の抜け殻か、蜥蜴の尻尾か
明朝、朝の支度を手伝いにやってきた相模は、まったく眠れていない様子の松緒を見るや、すぐさま寝所に松緒を寝かせた。
「近ごろ、だいぶお疲れがたまっていらっしゃったでしょう。お休みください」
「ですが、もうすぐ丹羽局さまがお見えになる刻限ですよ。待っておりませんと」
「丹羽局さまには私から伝えておきますから。……松緒、眠っていなさい」
最後の一言は、だれにも聞かれぬような小声で。
松緒は諦めて「うん」と頷いた。相模には母親代わりのようなところがあるので逆らえない。
身体も熱を持っているようで、うまく動いてくれなかった。
いつまで経ってもなじめない豪華な几帳台の中で眠る。相模が時々、松緒の様子を覗き込みにやってくるが、次から次へとやってくる見舞客の相手に困り果てているようだ。
後宮というものは噂が広まるのも早かった。
熱も下がった夕方ごろには、かぐや姫の体調を心配した貴族たちからお見舞いメール……もとい文が届く。適当に処理しておきますね、と相模が言っていた。
松緒は、見舞いの文のうち、一部には返事を書いた。例の、対面しなければならなかった四人の男たち宛てである。
邸内の中でも、松緒が一番、かぐや姫の筆跡を真似るのが巧かったので、そこはつつがなく終わった。
だが問題は、その後にやってきたのだ。
「娘」が体調不良だと聞いた桃園大納言は夕方遅くにやってきて、「気が抜けている」と叱咤した。そして。
「明日は帝とお会いするのだ。おまえの体調をとても気にされている」
「ですが……」
「構わぬだろう。いつも断ってばかりでもよくない」
「はい……」
桃園大納言は松緒をひと睨みしてから去っていく。
翌日。帝がぞろぞろ人を引き連れながらやってきた。
この国でもっとも高貴な方ともなると、どこへ行くにも侍従などがついてくる。前回の対面の際にも、人の気配が多すぎて気が気でなかった。彼らはみな、かぐや姫を見たくて興味津々だっただろうから。
今日も前回と同じになるだろうと構えていたのだが、ほかならない帝自身の声が響く。
「みなここで下がるように」
人の気配はかぐや姫のいる御簾の前からあっという間に去り、ひとりのみ残った。
「どうだろう。そなたも腹を割って話さぬか。二人きりならば話せることもあろう」
ふくよかな声が響く。
松緒は相模と顔を見合わせた。
――拒めそうにない。
「……承知いたしました」
帝の仰せには本来何も言えるはずがない。むしろ、今までがおかしかったのだ。
意を決して松緒が頷くと、相模も別の戸から退がった。
面を隠すための扇を持つ手に、じっとりと汗がにじむ。
「初めて、声を聞いたな。良き声だな」
「もったいないお言葉にて……」
「身体はもう大事ないか」
「はい。おかげさまですっかり調子も戻りまして……」
松緒はいつ、目の前の御簾を帝が踏み越えてくるのか気が気でなかった。御簾から透ける座り姿からは、そんな無体はしないような気もするが、それは松緒が世間知らずだからかもしれない。
「近ごろ、尚侍のことで丹羽局に、教えを乞うておるとか。感心しておる」
「いえ……」
言葉を濁しかけた松緒だが。
「わたくしは与えられた役割をまっとうしたく思っております。丹羽局さまからは厳しくも温かくご指導いただいております」
そう付け加える。
「そうか。それはよきことだ。丹羽局から学ぶことも多かろう。あれは物事に対して公平だ。そなたが励んでおれば、そなたを認める時も来る」
「ありがたきお言葉でございます。今後も努めて参ります」
――主上はいい人そう。
噂に疎かった松緒は今の帝のことをあまり知らない。だが今話している分には、悪い印象を持たなかった。さすが乙女ゲームのメインヒーロー枠、現実的に考えれば、かぐや姫のお相手としてこれ以上ない相手ではないか。
そう思ったが。
「ところでな、実は今朝、珍しきものを見つけたのだ」
御簾向こうで何やらごそごそと袖のあたりを探る帝。
やがて手ぬぐいの上に載せられたモノが、御簾の下からすっと差し出される。
「蝉の抜け殻……ですか」
「きれいだろう」
綺麗に形が残った、蝉の抜け殻。
今は、春である。蝉の抜け殻が落ちているのはたしかに珍しい。
絹の手ぬぐいを片手で持ち上げて眺めていると、どうだろう、すごいだろう、と言いたげな雰囲気が正面から漂ってくる。
――これは、試されている……?
ゲームでの帝は「天然入った自由人」。しかし、蝉の抜け殻を自慢してくるとは松緒の予想を超えていた。ちょっとぼけたやりとりになるだけだと思っていたが、蝉の抜け殻を女に見せて自慢してくるのは「天然」通り越した「変な人」である。
今の帝には妃がいないため、女性の扱いには不慣れなのかもしれない。そう自分を納得させた松緒は、おそるおそる口を開いた。
「たしかに、色艶はよろしいかもしれませんね……」
「だろうだろう。そなたにやろう。これを見つけた時、そなたにこの話をしたくてたまらなくなったのだ」
自分の宝物を飼い主に差し出す忠犬は、このような感じではなかったか。
桃園第では翁丸という名の犬を飼っていて、松緒もよく世話していたが、ちょうど翁丸も同じことをしていた。木の枝とか。
「主上、恐れ入りますが……」
松緒は、勝手ながら帝が心配になった。
「わたくしが虫嫌いでしたら、ここで悲鳴をあげて、この抜け殻は放り投げておりました……。ご自身で気に入ったものを分け与えることは、帝王として素晴らしい心構えかと存じますが、相手によっては伝わらないこともございますが……」
すると、帝は「そうか」と素直に頷いた。
「そなたは虫が好きか?」
「特に何とも思っておりません」
かぐやも松緒も、虫に対して過剰に嫌悪する性質ではなかったのでそう答える。
「ですが、今回の主上のお心遣いにはわたくしにもよく伝わりました。蝉の抜け殻も、室の中に飾っておきましょう」
「うむ……!」
「もし、次に女人に贈り物をされる際には、女人が好みそうなものを用意されるとよろしいかもしれません」
「花や歌か?」
「一般的にはそうですね」
「だが特別感がないぞ。ありきたりすぎる」
その言葉を聞いて、松緒ははっとして蝉の抜け殻を見下ろした。
人によっては投げ捨ててしまうだろう蝉の抜け殻でも、帝は帝なりの論理で懸命に考えた贈り物だったのかもしれない。……蝉の抜け殻だけど。
「……趣向を凝らさずとも、相手のためを思って一生懸命考えたのであれば、その心は伝わりますし、うれしいと思うものでございます」
「そなたはうれしいと思ったか?」
「はい」
ややあって、帝はその場を立ち上がった。
「贈り物ひとつでも難しいものだな……。あまり深く考えたことがなかった」
「いいえ、わたくしも差し出がましいことを。申し訳ありません」
「よい。今日のところは出直そう」
踵を返しかけた帝が、ふと振り返る。
「ところでそなたは……」
「はい」
「ちぎりたての蜥蜴の尻尾は、好きか」
「特に何とも思っておりません」
松緒は、肩を落として帰っていく帝を見送った。