49 今すぐ逃げなさい
……頬に走った熱い痛みで、松緒は夢から醒めた。
視界いっぱいに、松緒の大好きな主の顔があって、松緒はまだ夢の世界から目覚めていないかと思ったが。
「松緒、今すぐ逃げなさい」
狩衣をまとった「かぐや姫」が厳しい口調で、戸口を指さした。
「ぐずぐずしてはいけない。ここを出たら、すぐに川を渡って、都に戻るんだ。ぼくが時を稼ぐから」
「ひ、姫様……?」
松緒はどこかの邸で寝かされていた。
起き上がりながらじんじんと痛む頬を押さえると、かぐや姫は「ごめん」と口早に謝った。
「松緒を巻き込むつもりはなかったんだ。どうしてあの男が君を連れてきたのかわからないが、ぼくはそんなことを望んでいない。いいね、松緒。ぼくの命を聞いて……」
そう言いかけたかぐや姫はふいに黙り込むと、松緒の手を引いて立ち上がった。
「静かにしているんだよ。松緒、こっちだ」
姫様のやることだからと素直についていけば、そこには塗籠があった。
「ここの床板は実は下へ抜けられるようになっている。這っていけば、外に出られる。あとはだれにも見つからないように都に戻るんだよ」
「姫様は……?」
かぐや姫は、ふっと微笑んだ。
「また会えるよ」
「……本当ですか」
「本当だとも」
話したいことはまだたくさんあった。切実に時間がほしいと思った。
なのに、姫、姫、と男の声が近づいてくることに気付き、松緒は口を噤む。あずまが、かぐや姫を探しているのだ。
「大丈夫。あずまも、床板のことは知らせていないから。ほら、入って」
かぐや姫は半ば強引に松緒を塗籠の床下に押し込んだ。そして、自らはその場に残った。
松緒は、嫌な予感ばかりがしたので、埃と蜘蛛の巣にまみれた床下で息を潜めた。
かろうじて、かぐや姫とあずまの声が聞き取れた。
「かぐや姫、どうしてこちらに」
「どうしてと言われても。気が向いたからだけど? 君はぼくを監視したいのかい、あずま」
かぐや姫の声は、松緒が聞いたことがないぐらい、冷ややかなものだった。
「いえ。ですが、勝手に出歩かれては困ります」
「そうだね。君にとってはそうかもしれないね。勝手に出歩いては、見つかってしまうもの」
「見つかってしまう、とは?」
「ぼくを軽んじるのはよくないね。……松緒をさらってきたことを、ぼくが知らないとでも? 最近の君はずいぶんと暴走が過ぎるようだが。許しもなく左大臣家の若君を仲間に引き入れ、後宮に翁丸の死骸を転がし、松緒に薬を飲ませたじゃないか。おまえは松緒を殺すつもりか?」
「死ねばよいでしょう。あれはあなたの邪魔をする」
深い恨みが宿った声音に松緒は口元を押さえていた。
あずまもまた、かぐや姫の美貌に魅入られたひとりだったのだ。
「むしろ、どうしてそこまで気にかけるのかがわからない。あなたと秘密を共有し、あなたの共犯として選ばれたのは私ではありませんか……!」
ぎし、と床板を踏みしめる音が頭上から響く。
「そうだね。互いの利益のために結びついたはずだ。東国出身の君は、昔朝廷に滅ぼされた一族の仇を討つために、宮中に混乱をもたらすための楔を探し。ぼくもまた、この世が気に入らなかったから、壊したかった。利益だけのための仲なのに、どうして君はぼくを女のように抱きしめる?」
「……あなたが、女にしか見えないからだ」
「ぼくは君をそうとは見ないよ。男からの求婚はすべて断ってきたぐらいだからね。ぼくは、「かぐや姫」なんだよ。だれの手にも落ちない。身体を放せ、あずま」
「ぐ……」
「宮中の奥深くまで、もう少しで手が届く。武者たちもひそかに続々とこちらへ集まっているのだろう。攻め入るのはいつだった?」
「今夜、です」
「そうだね。今夜だというのに、君は松緒を、何も知らないあの子を殺そうとしたわけだ。ぼくは君を軽蔑するよ」
「かぐやっ、私は!」
「……さて、ぼくは君が集めた武者たちを見に行くことにするよ。西の山中だったね、案内しろ」
「……はっ」
二つの足音が遠ざかっていく。
静まり返ってから、松緒は静かに床下から外へと這い出た。
辺りは暗かった。ずいぶんと時間が経ったような気がするから、丸一日は寝かされていたのだろう。
さびれた道をとぼとぼと、やがて小走りに都に向かって走る。
本当は、どこにも行きたくなかったけれど、足は勝手に桃園第に向かっていた。
「姫様……!? 今までどちらにいらっしゃったのですか!」
こういうときに限って、たつきに会ってしまった。
たつきは、東宮の間諜として働いていた者だった。
松緒は泣きたい気持ちになった。たつきの細い肩によりかかるように、松緒は息をして。
「たつき。お願いがあるの。ひそかに東宮さまにお会いしたい……! 一刻も早く!」
「は、はい……! では、こちらへ……!」
たつきは心得た様子で暗い道を駆け出した。松緒は必死でついていく。本当はとうに体力も限界を迎えていたのだが、それでも、やり遂げなければならないことがあった。
心の中では、とうにわかっていたことだ。
姫様を、止めなくてはならない。
なによりも、だれよりも、大事だからこそ。
松緒は、姫様にこれ以上、罪を犯してほしくなかった。
――私は。私こそが、姫様の敵になるしかなくて……!
なんという不忠なのだろうか。
散り散りに砕けてしまいそうな心を抱えながら、松緒は、東宮御所に辿り着いた。
東宮の反応を見もしないで、松緒は床板に頭を押し付け、東宮にこいねがう。
「東宮様に申し上げます……! 私の主、かぐや姫を、どうか、どうか、お止めください……! あの方は、今夜にも大それたことをしようとしていらっしゃいます……!」




