36 仕事中、ですので
丹羽局が一時的に宿下がりをしたため、代わりに蔵人頭の長家が尚侍『かぐや姫』(つまり、松緒のこと)の補佐に入ることになった。
「お互いのことを知るには良い期間ではありませんか。我々は仕事の同僚ともいえる立場ですから」
「うまく口が回る方ですね。他の女人も放っておかないでしょうに」
「お互いのことを知る」。意味深長に聞こえるのは気のせいだろうか。
几帳を間に立てて、互いに向かい合う形で文机に向かっている。
彼のほうは、蔵人所の仕事も持ち込んでいるので、たまに書状の雪崩を起こしていた。
お互いに顔が見えないので、長家の表情はわからない。
「どうでしょうね。仕事には厳しいと言われてしまうので、女人にも厳しいと思われているようです」
「そのようには見えませんが」
長家は、柔和な顔立ちである。帝のように華やかな印象はないが、それなりに整っている。
「……人望はあまりないのです」
「まさか」
松緒でさえ、人として好感を抱いているのだから、部下に慕われてもいるだろう。そう思って、驚いてみせたのに、長家は意外なことを言う。
「父が早くに死にまして。元服して、官職についても、出世の見込みはまるでなかったのです。十年以上経ち、今上が即位され、私が引き立てられなければ、尚侍さまにお目にかかることも難しかったでしょう」
「ご苦労をなさったのですね」
長家の身の上は、世間にも広く知られていることだ。滅多にない幸運を受けた「幸ひ人」と称する者もいる。
「しかし、苦労したとしても、報われた。だからこそ嫉妬の対象になりうるのですよ。妬みほど恐ろしいものはありません。いつだって、自分の後ろには大きな穴が空いていて、人はいまかいまかと落ちるのを待っているように思います。「蔵人頭」も完璧にこなしてみせなければならないのです」
あなたのような方には無縁かもしれませんが、と言い置かれて、「かぐや姫」はそんなことありませんよ、と反射的に返していた。
「わたくしとて、嫉妬されますし、わたくし自身が嫉妬することもございます」
松緒にはまったく同情できないが、かぐや姫の美しさを嫉妬する者はたしかにいたのだ。
「あずま」の姿も思い出された。あれを、嫉妬と言わずしてなんというのだろう。
本当は、どうして、なぜ、と相手を問い詰めてやりたかった。姫様にも「松緒を一番にしてください」と懇願できたらどんなによかっただろう。
これは「かぐや姫」の言葉としては適当ではなかったのかもしれないと思うが、松緒の中の「イマジナリー姫様」は沈黙を守っている。
「尚侍さまが?」
「はい。しかし、人を陥れようとは思いません。嫉妬そのものが悪いのではなく、嫉妬をした相手の悪口や……相手を下げる行いをしたら、それこそ恥ずべきことですから」
「そうですね」
「わたくしは、短い間ですが、蔵人頭さまの仕事ぶりを垣間見ることができました。わたくし自身も手伝っていただいて助かっていますし、蔵人頭さまの仕事はとても丁寧です。書かれる文字が美しいのもそうですが……、蔵人頭さまは人をやる気にさせるのがお上手です」
長家は、話し相手の様子を実によく見ている。
仕事を持ってきた部下には必ず「ありがとう」と言い、疲れていると思えば、さりげなく休みを取らせたり。
仕事の指示も的確で、相手の資質に合わせた物言いをしているように見えた。
こういう上司の下にいると、部下も生き生きとする。
前世の松緒はこのタイプの上司になかなか出会えなかったけれども。
「主上はそういうところを見込まれたのではありませんか。そうでないにしても、主上の見る目はたしかだったように思われます」
しん、とその場が静まり返った。
なぜだろう。失礼なことを言ったつもりではなかったが、生意気だと思われたのだろうか。
「……参りました。実のところ、自分の身の上話をすればあなたの気を引けるのでは、と小賢しい算段をしていたのですが、尚侍さまのほうが上を行ってらっしゃる」
「え、あの……。わたくしは特に計算で申し上げたわけではないのですが……」
「今すぐこの几帳の壁を取り払い、尚侍さまに直にお目にかかりたい」
几帳がゆさゆさと揺れた。向こう側で、彼が触れていれのだ。
「しかし、仕事中ですので、こらえましょう。仕事中、ですので……」
本気で悔しがっているように聞こえたので、松緒は思わず吹き出してしまった。
――やはり真面目な方だわ。
恋愛的な意味は別として、松緒は長家という人間にますます好感を持った。
――もし、姫様が婚姻するのなら、このような方がいいのかもしれない。お仕事で忙しくても、その分近くに私がいられるもの。
仕事をしながら、そんなたわいもない妄想をした。
――姫様を、探さなくちゃ。
次の日。松緒はこっそり宮中を抜け出して、六条に向かった。




