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34 極楽浄土が待っている

 姉は帝の妃として期待されていた。左大臣家に生まれた女ならば当然のことだ。

 生まれた瞬間から、妃になることが定めと教えられ、そのための養育を施されてきた。

 姉自身もそのことを疑っていなかった。……そのように行春自身は信じていた。

 姉が入内できる年齢になると、父はすぐさま帝に、左大臣の大君おおいきみを妃にしたらどうかと打診をした。周囲の公卿くぎょうたちも味方につけ、根回しも万全だった。

 しかし、帝は妃はいらぬと拒んだ。表向きは、大君が病弱であることが理由だった。妃となるためには心身ともに健やかであることが必要であると。妃であることは、それだけで重荷なのだと説いた。

 帝自身、母子の関係で苦労していたからかもしれない。東宮ともども、女人との関係は特に慎重になっているようだった。

 入内の夢が絶たれたと聞いた時の姉は、ひとつため息をついて、庭で青々と茂った松の木のある方を眺めていた。横顔からは、悲しいともつらいとも読み取れなかった。


「わたくしも、主上おかみと同じことを思いますよ。すぐに病んでしまうこの体では、後宮での暮らしに耐えきるのは難しい……。これでよかったのです。これで……」


 ごほ、ごほ、と咳をして背中を丸める姉の身体は、以前よりも少しずつ痩せていっているような気がした。痛々しくて、姉を慰めようと手を伸ばしかけたその時。

 ぱしり、と手が振り払われる。落ちくぼんだ目が、弟の目をとらえた。姉の口元にかすかに浮かんだのは……。


「ふふふ。……父上の野心など知ったものですか」


 低い、怨嗟に満ちた声。行春の知らない姉がそこにいた。

 気が弱く、従順な性格な姉だったが。


「父上に愛されて育った行春にはわからないでしょう。『おまえでなければ』と恨み言のように言われつづけられたわたくしのことなんて。その言葉のせいで、わたくしも、母上もとっくに壊れていたのを、あなたは知っていた?」


 行春は何も言えずに黙り込んだ。


「母上は、もう子を産めなかった。わたくしに代わる娘を得られなかった。それは、どれだけ妾(嫡妻ではない妻)の元に通っても変わらなかった。父上が摂政関白になるために駒となれる娘は、わたくしひとりだけ。病弱なわたくしにしか頼れない苛立ちが! 娘のわたくしにも降りかかっていたのですよ! あなたにとって、わたくしが責められている光景は、当たり前すぎて、見落としていたでしょうけれど」

「姉上はまだ病み上がりでは……」


 激高していては身体に障ると暗に告げたら、姉は唇を歪ませた。

 

「いいのよ。わたくしはもう。わたくしも母上も、もう『あなたたち』には期待しておりません。それに……幸せになれる方法はもうわかっているのです」

「幸せになれる方法、とは……」

「わたくしにも母上にも、極楽浄土が待っているのですよ」


 行春が困惑する中、姉は、袖から薬包紙を出して、中の粉末を一気に飲みこんだ。いつもの持病の薬だろう。

 姉のぎらついた目が、やがて夢見るようにとろけだす。


「『おまえでなければ』……。それなら、わたくしではなくて……あぁ、わたくしの『身代わり』として妃になればよかったのに」

 

 姉はやがて静養と称して別の邸に移っていった。

 行春は会っていない。姉はますます病んでいき、いつ容態が急変してもおかしくないと聞く。

 でも、会いにいかなかった。

 寺院参詣の際に、東宮といた女人がいた。笠から垂れた布で面を隠していたけれど、ふとした拍子に、素顔を垣間見た。

 あれは、他人の空似だろうか。

 行春の心はざわついている。

 今、姉は病で伏しており、ひとりで歩くこともできまい。

 だが、あの『姉』には、特に身体の不調はなさそうだった。体つきはまろみを帯びていて、頬がこけていることもない。なにより、目つきが姉よりも柔らかで……。

 あれからそれとなく東宮に尋ねるも、はっきりとした返事はない。


 ――あぁ、わたくしの『身代わり』として妃になればよかったのに。


 時折、姉の言葉が泡沫のように浮かんでは消える。

 ただ、行春は、もう一度、あの女人と会いたいと思っているのだった。


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