33 ワタクシを雇いますか?
顔隠しの扇をしっかり持ち上げた松緒の背中につう、と嫌な汗が流れ落ちた。……あの時、晴明が出ていったら、帝に見つかっていただろう。
――心臓がいくつあっても足りない……。
松緒はそっと息を整えながら、相模に帝の座を用意させるように命じ、帝と向かい合うように腰を下ろす。
「良き息抜きはできたか?」
「はい。宿下がりを許していただき、ありがとうございました」
「うむ」
帝はそわそわとしていた。後ろ手に何かを隠している。
初対面で蝉の抜け殻を渡し、出て来た代案が蜥蜴の尻尾だった御方である。
松緒が身構えていると……。
「尚侍、これならどうだ……?」
紙の包みからころんと出て来たのは、唐菓子だった。先日の庚申待ちでの「百鬼夜行」で女官たちに配らせたものと同じに見えた。
「これならそなたも好むのではないかと思ったのだ。他の者に配らせているのなら、そなたも嫌いではあるまい。これでもちゃんと一生懸命考えたのだぞ」
帝のふくよかな声も弾んでいる。
「……主上」
「ああでもない、こうでもないと、相手が喜びそうなものを選ぶ時間は何よりも尊いものだな。朕も初めて知った」
「そうですね……」
恐れ多いため受け取りを断ろうとしていたのに。
松緒にも、帝の心遣いが痛いほどわかったのだ。
――私も、姫様が喜ぶことをして差し上げたかったから。
「ありがたく、いただきます」
「うむ」
帝は、松緒の片手に菓子の包みを握らせた。
「丹羽局がしばらくいなくなるが、代わりに蔵人頭長家がいる。きっとそなたの力になってくれよう。……不安になることも多いだろうが」
帝はまだかぐや姫の身代わりの件は知らない。嫌疑は嫌疑としてあることは知っているけれど、まだ確定していないからと態度を変えていない。心が広く、優しい人柄なのだ(ちょっととんちんかんなところもあるけれど)。
「『わたくし』は大丈夫です。お心遣いに、感謝いたします」
帝が帰ると、今度はたつきが息を切らしてやってきた。
「どうしたの、たつき」
「実は姫様……」
たつきは困惑した表情で、袖口から何かを出した。
柄が少し擦り切れた赤い布を縄のように結ってあるそれは、松緒にも見覚えのあるものだった。
「それは……?」
嫌な予感に声が震えた。
「姫様が戻る前にこの殿舎で見つかった死骸の犬は……茶色の毛並みで、首にこの布をつけていたそうにございます。たまたま燃やそうとしていた者を見かけましたところ、見覚えがあり……」
布を手にした松緒の目の前が、真っ暗になった。
「そんな……。どうして……?」
松緒の目に、次から次へと涙の粒が溢れでた。やがて嗚咽になる。
十年以上、世話をしていた。翁丸、年老いてはいたけれど、宿下がり直後に見た時には、松緒を見た瞬間にすぐさま駆け寄ってきて、撫でてほしいとせがんできたのに……。
「やだ……やだよ、翁丸……」
「姫様」
相模の呼びかけにはっとなると、視線の先に、野良陰陽師の袴が見えた。
一瞬、ぼうっとしたが、すぐさま扇をかざした。
そんな素振りを気にした様子もなく、猫を肩に乗せる陰陽師晴明は、松緒が持つ布を指さした。
「そこに悪意がありますナ」
陰陽師は、どことも視線を合わせていないように思えた。まるで、現実ではない「何か」を見透かしているような、不思議な眼差しだ。
「尚侍サマが大事にしておられた犬は、殺されました」
「なっ……!」
気色ばんだ相模が声をあげようとするも、松緒はすぐさま止めた。
殺されたかもしれない、とは丹羽局も言っていたことだった。
「なぜ殺されなければならなかったのですか……? 翁丸は何も悪いことはしていないでしょう……!」
翁丸はけして人を噛むことはなかったし、まるで人の言葉がわかるかと思うほど賢い犬だったのだ。
松緒の疑問の代わりに、ピンク髪の陰陽師は、先ほどの問いをもう一度繰り返したのだった。
「尚侍サマ、ワタクシを雇いますか?」




