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32 癒しの提供

「ごきげんよう、尚侍ないしのかみサマ」


 蔵人頭が去ってまもなく、ピンク髪陰陽師晴明はるあきらが、平然と御簾をくぐって現れた。片腕でいつもの猫を抱えている。


「いろいろとお疲れでショウ。《癒し》を提供するために参りましたヨ」

 

 逃げた猫を追いかけてやむなく入ってしまった――という言い訳すらせずに、堂々としたものである。

 女人の室に入り込むのは、よほど近しい間柄しか許されないのが世間一般の常識だ(だからこそ、丹羽局にわのつぼねが野良陰陽師と罵りながら何としてでも立ち入りを阻止しようとしていたのである)。

 しかし、こうも毎回、不法侵入されたとしても、松緒はなんとなく警戒心を抱けなくなっていた。晴明がいつでもにこにこ、のらくらとしていて、まるで本人が猫のように振る舞っているからかもしれない。


「そらそら、抱いてしまいなさい」


 《癒し》とは猫のことを指すらしい。

 野良陰陽師に抱かれていた白猫「鈴命婦すずのみょうぶ」は心得たように、松緒の膝に乗り移る。片手には面を隠すための扇を持っているため、もう一方の手で触れた。


「やわらなくて、あったかいですね……」

 

 こうして、まじまじと猫に触れるのは初めてだった。猫は唐渡り(外来から来た)のものであり、高貴な人々が飼う生き物だった。桃園大納言は猫にはあまり興味がなかったため飼わなかったが、かぐや姫のために犬を持たせていた。全身が茶色の雌犬で、翁丸おきなまろという名だ。もっぱら面倒を見ていた松緒によく懐いていて、宿下がりの時に会いにいくと、ぱたぱたと尻尾を振って喜んでいたのだ。

 けれど。


翁丸おきなまろは? 宮中へ戻る前に様子を見ておきたかったのだけれど』

『さあ……? どこぞを散歩しているんじゃないですかねえ』

『翁丸も、もう老犬でしょう? ……心配だわ』

『まあ、気を付けてみておきますよ』

『ええ……』


 いつもの寝床にいないため、出立前に雑色ぞうしきの老人に翁丸のことを尋ねた時のことを思い出すと、後ろ髪が引かれる。

 元気すぎて人に飛びつくこともあった困ったところもあったけれど、くりくりとした澄んだ目で松緒を慕う、良い犬だ。これまで脱走をしたこともなかったのに。


 ――大丈夫、よね……?


 翁丸には松緒が童女だったころに着ていたあこめの赤い切れ端を巻いてある。逃げたとしてもすぐにどこかの飼い犬だとわかるはずだ。

 猫が松緒の不安をかき消すように「にゃあ」と啼く。

 

「先日の庚申待ちの夜は、面白いものが見られましたナ。みながみな、異形の者になって練り歩く。ああいう「百鬼夜行」は愉快でしたヨ」

晴明はるあきら、殿の話を聞いて思いついたのです」


 振られた話に乗れば、陰陽師はうれしそうな顔になる。

 

「お役に立てましたかナ」

「ええ。ありがとうございます」


 フフフ、と晴明はるあきらは微笑んだ。

 

尚侍ないしのかみサマは、宿下がりの方はいかがでしたかナ?」

「そうですね……。よかったですよ」


 松緒は当たり障りのないように応えた。本音はまったく違うけれど。


「ワタクシの辻占つじうらも役立ちましたかナ?」

「どうしてそのことを知っているのです?」

 

 そう言われて、松緒は思わず立ち上がり、「陰陽師晴明」を見下ろしていた。

 夕刻の四つ辻で、「死ぬわよ」と耳の中でこだました、あの時を思い出す。


「東宮様にお教えしたのはワタクシですカラ。まじないをしたかもわかりますヨ。まじないには色がありまして、尚侍ないしのかみサマにはワタクシのまじないの残滓が漂っておりますネ」


 世間話のように告げられ、松緒は初めて目の前にいる者が、「陰陽師」なのだと実感した。

 

「東宮さまに雇われているのですか」

「陰陽師は、貴族からの依頼を受けることもありますからネ。東宮サマは顧客のおひとりですヨ」

「たとえば、人を殺めてほしいという依頼でも?」

「気乗りしない依頼は受けませんヨ」


 まじないで人は殺せない、とは言わなかった。


尚侍ないしのかみサマは、ワタクシを雇いますか?」


 ふとそう告げられる。


 ――なんだろう。今の問いには真面目に応えなければいけない気がする。


 前世でやっていた乙女ゲームでいえば、画面で重要な選択肢が出てくるシーンだ。

 選び方で、好感度も、運命も変わってしまう。


「私は……」


 自分でもよくわからないままに口を開こうとしていた時、しばらく小用で出ていた相模が息を切らせてやってきた。

 御簾の内にいた「野良陰陽師」にぎゃっ、と濁った悲鳴を上げるがすぐに、


「姫様、早くこの男を追い出してください!……じきに主上おかみがお渡りになるそうです」

主上おかみが……!」


 御簾のうちに男がいたとなれば、「かぐや姫の大スキャンダル」の噂があっという間に広がってしまう。


「晴明殿!」


 猫を抱えたピンク髪の陰陽師は、ふむと首を傾げた。


「ワタクシは塗籠ぬりごめでお待ちしておりますので」

「は? え、ちょ、え?」


 室を出ていくのではなく、さっさと室の奥にある塗籠へ歩く陰陽師。塗籠の戸が、ぱたん、と閉じた瞬間に、


尚侍ないしのかみよ、戻ったか」


 供も連れないで歩いてきた帝が、先触れもないまま御簾をあげて、こちらに入ってきたのだった。

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