30 彼は
参籠が終わったころに、ひょこひょこと東宮が松緒に会うために寺を訪ねてきた。
松緒からかいつまんだ事情を聞いた相模もさすがにもう驚きはしなかったが、連れだって外出することには心配そうにしていた。
少し散歩するだけ、と言い置いて、外出用の笠をかぶって、ふたたび参道に出た。
「昨日は騒動があったようだな」
「もうご存知でしたか。はい、左大臣様の北の方(妻)が物の怪に憑りつかれて正気を失い、暴れられたと伺っています」
「いや、例の薬の影響らしい。……実は、左大臣家にも流れているのではないか、と疑っていたのだ。北の方が使っていたのは予想外だったが。ただ、元々心が不安定な方だったとは聞くので驚きはしない」
「そうでしたか……」
松緒が見た姿も、げっそりとやつれていて、痛々しさが漂っていた。
左大臣家の北の方ならば、傍目から見れば夫に恵まれ、成功した人生にしか見えないだろうが、人にはわからない苦労があったのかもしれない。
「東宮様、実は教えていただきたいことがあるのです」
「なんだ」
東宮はちょっと嬉しそうにしていた。
「『あずま』という名の女房が当家にいたのをご存知でしょうか」
「一通りは。だが、もう辞めたと聞くが」
「昨日の騒動の際に、私は彼女を目撃いたしました。私は、姫様の行方を彼女なら知っているのかもしれないと思っています」
「なるほど。……たしかに深く調べていないな。申告していた実家はもう引っ越したと聞き、よくあることだからと気に留めていなかったが」
「姫様がいなくなる前、一番お傍にいたのは、彼女ですから」
「あずま」はかぐや姫の出仕が決まってほどなくして、突然辞めてしまったのである。
「わかった。調べてみよう」
「ありがとうございます」
松緒はほっとした。これで事態は少し前進するといいのだけれど。
「松緒は、明朝に後宮に戻るのだったな」
「そのつもりです」
「桃園大納言の方はうまくごまかせたか?」
「いろいろあってうやむやになりました」
東宮は、今のかぐや姫が偽物だと知っている。本物のかぐや姫は犯罪に関わっていた疑いがある。……そのようなこと、言えるはずもない。
桃園大納言はかぐや姫の実の父親なのだ。娘がいなくなったことで我を失っているが、確かなことでもないのにこれ以上の心労をかけたくなかった。
――こんな思いをするのは私だけで十分だもの。
また、さらなる秘密を抱えてしまった。こぼれ落とさずに隠し通さなければならないと思うと、胃のあたりがじんわり重くなる心地だった。
「ご安心ください。たとえ大納言さまに詰め寄られても、漏らしません。ゆくゆくは姫様のためになると信じていますから」
「あなたにそこまで想われるかぐや姫がいっそ羨ましくなるな。あなたが気にかけるのは、かぐや姫だけなのか」
東宮がすねたように唇を尖らせた。松緒は、なぜ東宮がそのような態度を取るのかわからなかった。
「こうして過ごすうちに多少は思い出すかと思ったのに。俺はすぐにわかったぞ」
「何のことです?」
「椿餅」
東宮は呟くと、視線を遠くによこした。
今日も椿餅売りが参道に出ていた。
「買って参りましょうか?」
「そうではないよ」
東宮は静かに語りかけた。
「昔、あなたと最後に残った椿餅を取り合ったことを覚えていないか? あなたと椿餅を取り合った高慢ちきな若君が成長して、この場に立っている」
松緒はそう言われて、まじまじと東宮を見た。
意思が強そうな眉に、力強い口元。それでいて、優雅さを忘れていない、兄とよく似た優しさのある目。
……残念ながら、松緒は、かつて椿餅を横取りしようとした「若君」の顔は覚えていないけれど。
松緒は、この時初めて、その目に東宮の姿を映したのかもしれなかった。
「そうだったとしても、過去のことではありませんか」
するっと口先から上辺を繕った言葉が出てくる。
「あなたさまは東宮です。今は協力し合う関係でも、これからはわかりません。姫様に罪があると東宮さまがおっしゃるから」
「そうだ。……馬鹿なことを言っていたな」
東宮は、人目のある宮中での連絡方法を教えた後、先に宮中へ帰っていったのだった。




