29 物の怪
寺社の参籠は、長時間堂に籠って祈願することを指す。
乙女ゲームが土台と思われるこの世界においても仏教は広く信仰され、熱心な信者が多い。
桃園大納言家からやってきた松緒たちの他にも、何組か参籠に来た者たちがいて、几帳や屏風、御簾で区切られた空間でそれぞれの祈願が叶うように読経や念仏を唱えている。
あの行春……左大臣一家も参籠しているとのことだ。
白檀の焚かれた香りが堂内を充満していく。
かぐや姫が行方知れずとなった今、松緒の祈願は切実なものだった。
主人が無事に帰ってくることを祈る。
――でも、もしも姫様が大納言家に戻れないご事情があるのなら、私も連れて行ってください。どこまででもお供いたします。
「ああッ!」
僧侶の読経の声が響き渡っていた堂内で、異様な叫びが上がったのはその時だった。
女の声だ。
「おまえ! どうした! ぐあっ! 頼む、わしの北の方を……!」
「左大臣様、いかがいたしましたか!」
「早く! 取り押さえよ!」
あああああああああぁあ……。
読経の代わりに女の呻きがそこらじゅうに満ちていく。
ばたん、ばたん、と次々と几帳や屏風が倒れていく。「それ」が近づいてくる。
「物の怪が現われたぞ! みなさま、早くお逃げを!」
松緒はとっさに顔隠しの檜扇だけを握りしめて相模たちのいる控えの間に逃げ込もうと立ち上がった。
が、遅かった。
取り押さえようとする僧侶ともみ合うようにして、「それ」が几帳をなぎ倒しながら飛び込んできた。
「あ、あぁ……」
松緒の目には、白髪をざんばらに振り散らせた老女が見えた。
目は爛々とするも意思を宿しているとは思えず、口の端には白い泡がついている。
「それ」は逃げようとする松緒の髪を乱暴に掴む。
「いっ……!」
やめてほしいとさえ言えなかった。声を出せないほど恐ろしかった。目の前の女は正気ではない。
女は松緒の髪を掴んだまま、逆側の手をかぎ爪のように振り下ろそうとしていた。ちらりと見えた長い爪は、止めようとする僧侶たちをひっかいたのだろう、赤黒い血がこべりついていた。
松緒の脳裏に「死」が浮かぶ。辻占で出て来た「死ぬのよ」は、何もかぐや姫を指すのではなく、松緒自身を指していたのかもしれないと思った。
――助けて、姫様!
……ふいに、松緒に襲いかかろうとしていた手が止まっていることに気付いた。
目の前の老女は、ぼろぼろと目に涙を浮かべた。吊り上がった口元が柔らかな弧を描き、目元が弓なりになる。
慈愛に満ちた母の笑み。松緒は実の母親を知らないが、実際にいたらこんな笑みを向けられていたのだろうか。
老女、と松緒は思っていたけれど、実はそこまで年老いていないのかもしれない。
「今だ、取り押さえよ!」
大人しくなった女に僧侶が殺到していく。周囲に人だかりができようとしていたため、松緒は檜扇で顔を隠した。
松緒はその時、視線を感じて振り向いた。松緒と目が合うと、人込みに紛れた彼女は松緒を睨みつけ、身を翻した。
「待ちなさい!」
松緒が慌てて追うも、堂の外に出た時にはもうすでにその姿はなかった。
唇をかみしめる。
あの顔。あの背の高さ。見忘れるものか。
――あの子は、私から姫様のご寵愛を奪っていった……!
「『姫様』……! ご無事でいらっしゃいましたか? ……どうかされましたか?」
騒ぎを聞きつけた相模の尋ねに、松緒は告げた。
「……『あずま』がいたの。睨んでいたのよ、私を。ねえ、辞めてしまったあの子は、今どうしていると思う?」
「さあ。実家に戻ったと聞いていますが」
詳しく調べたほうがいいかもしれないと松緒は思った。
――やっぱり、彼女が姫様の失踪に関わっているとしたら……許さない。
何としてでも彼女から話を聞かなければ。
松緒はそう決意したのだった。




