2 かぐや姫の一の女房
姫様の一番の女房は私だ。
松緒はそう自負しているほど、長い間かぐや姫に仕えていた。
彼女の現世における最初の記憶は、かぐや姫が市場で売られていた幼い彼女を見つけ、父親にねだった時のこと。
――父上。この子を私の女房にして!
かぐや姫の、滅多に言わないわがままだったという。娘に甘かった父大納言は悩んだ挙句、どこのだれとも知れぬ子を買った。
その時の松緒はぼろ布をまとった薄汚い子どもで、わけのわからないまま市場にいた(その時もどうして市場で売られていたのかの記憶もない)が、月の輝くような愛らしい子が目の前に現れたことはよく覚えている。
――とってもきれいな子……!
かぐや姫に拾ってもらえなかったら、きっと野垂れ死にしていた人生だった。かぐや姫は、人生の恩人であり、敬愛する主人だ。ともに成長し、いつも一緒にいた。松緒の人生のほとんどは、かぐや姫でできている。
そして、かぐや姫が大好きな理由はもうひとつ。彼女は、松緒が前世で大好きだった乙女ゲームのヒロインだということ。
松緒の前世は、現代日本で働く平凡な事務職のOLだった。残業が多く、ストレスも多かったが、隙間を縫って乙女ゲームをプレイするのが日々の生活の癒しになっていた。ただ急な事故に巻き込まれて若くして死んでしまった。
松緒が一番好きだったゲームは「平安雅恋ものがたり」だ。ヒロインのかぐや姫が、架空の平安宮廷でさまざまなタイプの貴公子と恋に落ちる王道シンデレラストーリー。メインヒーローは帝だったと記憶している。
松緒が転生したのはまさにこの乙女ゲームの世界だ。それもかぐや姫にお仕えする「お邪魔虫女房」という立場だった。
本来の「松緒」は、各ルートでかぐや姫の邪魔をする役どころだ。理由は……かぐや姫の美しさと幸福に嫉妬したから。彼女は周囲の人間が幸せになるのを許せない人間だったのだ。
「松緒」はどのルートでも結局は悪巧みが発覚して、ヒーローの手により破滅させられることになっている。
しかし、今の松緒の中身は疲れ果てていた未婚OLだったし、前世の記憶を取り戻す前には幼いかぐや姫の愛らしさにノックアウトされていた。成長とともに前世の思い出が蘇っても、松緒の「姫様大好き」加減が増すだけだったし、「お邪魔虫」になるはずもない。
毎日毎日、かぐや姫の傍でお世話ができることが幸せだったし、なんなら乙女ゲームがはじまらなくてもよいと思っていた。
――「かぐや姫の出仕」はイベントだったのかしら。
松緒の記憶も万全ではない。前世に置いてきたと思われる歯抜けの部分もある。「平安雅恋ものがたり」のルート詳細もそのひとつだ。かぐや姫の身の回りで起きることは気になってしまう。
松緒が「お邪魔虫女房」でなくなったことで起こるはずのイベントが起こらず、乙女ゲームの筋書きからすでに外れているのかもしれない。それか、そもそも始まっていないか、進行中か。
かぐや姫には特定の相手はいなかった。どんな求婚にもなびかなかった。帝からの婉曲な誘いも反故にしていたほどだ。
「もしも姫様がご結婚されなかったら、一緒に商売でもはじめましょう。二人でがっぽがっぽ稼いで、悠々自適に暮らすんです」
松緒は結婚しようとしないかぐや姫に、半分夢みたいなことを話すこともあった。
かぐや姫も松緒の戯れにのってくれた。
「ふふ。楽しそうね。何を売りましょうか?」
「椿餅です。今おいしい椿餅の作り方を研究しているんです。うまく作れるようになったら寺院のそばに屋台を構えましょう。ご利益がありそうだって、みんな買いますよ」
松緒が胸を張る。半分は夢でも、半分は本気だった。椿餅の作り方を研究しているのは本当だったし、かぐや姫が未婚を貫き、父親から追い出されることがあってもかぐや姫と二人で暮らせるよう、床下に隠した甕に銭を貯めている。
「いいですね。その時はわたくしも売り子になりましょう」
「いけません。姫様がいらっしゃったらあまりの美しさに大騒ぎになってしまいます……!」
老いも若きもかぐや姫目当てに大挙するのが目に見えるようで、松緒は慌てたが。
「儲かりませんか?」
かぐや姫の問いには正直に答えざるを得なかった。
「うぅ……姫様が手ずから売れば、売れるに決まっているじゃないですか…! 都に御殿を建てられますよ……!」
かぐや姫はころころと笑っていた。その表情ははっとするほど華やかで、思わず目を惹きつけられてしまうものだった。
無表情でいれば満月のようにぞっとするほど美しく、微笑めば花のように柔らかな人だった。
松緒はかぐや姫のもっとも近くにいたという自負はあるが、かぐや姫ではない。だれもあの人の代わりにはなれない。彼女に心酔していた松緒がだれよりも知っていた。
――私が姫様の代わりなんてなれるはずがないのに。
桃園大納言の意志は固かった。彼は宣言通りに即席で松緒をかぐや姫に仕立て上げ、後宮に送り込んだ。
松緒は「かぐや姫」として尚侍という役職についた。
尚侍とは内侍司(宮中の礼法などを司る部署)の長官である。帝の妃が正式に入内する前につく地位でもあるが、その点はかぐや姫が承諾していなかったからすぐに帝の寵愛を得ることにはならなかった。
しかし、「かぐや姫」は注目の的だ。宮中暮らしに慣れるよりも早く、次から次へと客人が訪ねてきた。彼女の美しさを一目見たい者が宮中には大勢いた。
松緒は自分の顔を見られないよう隠すほかなかった。自分の顔はさして美しいものではない。すぐに偽物だとバレてしまう。
住まいの殿舎には御簾を下ろし、几帳や壁代を幾重にも張り巡らせた。松緒はその奥に座り、肌身離さず扇を持った。だれかが入ってきても、扇をかざして顔を隠せるようにだ。
声を発することも抑えた。かぐや姫の声を知る者もほとんどいなくても、かぐや姫は声までも美しかったから正体がバレてしまうかもしれないからだ。
実家から引き連れてきた信頼できる者だけ、居所に入ることを許した。
松緒は人を近づけさせたくなかった。訪問者たちの誘いをことごとく断り続けたのだ。
そうしてもなお、訪問を拒み続けられない相手がいた。桃園大納言が松緒のところまでやってきて、
「よいか、『かぐや姫』。この書状に名のある者たちには逢いなさい」
「ですが『父上』、それでもしものことがあれば」
「そのようなことはない。顔を見せなければよいだけではないか」
桃園大納言の目は血走っている。かぐや姫に書状を押し付けて立ち上がった。
「できぬとは言わせぬ。わしにも立場があるのだ」
松緒が引きこもっていることで、彼にも圧力がかかっているのだろう。口調ももはや投げやりに近いようにも感じる。
松緒はせめて、と声をひそめて尋ねた。
「あの、姫様の行方は……」
「見つかっていない」
大納言の答えは簡潔だった。足音激しく出ていく。胸に書状を抱えたまま、松緒はうなだれた。
――どうしよう。……どうしよう。
いくぶんか経ってから、松緒はそろそろと書状に目を通し、すぐに天を仰ぐ。
――どの方も「知っている」お名前……。本来なら姫様ご自身で出会うはずの……。ここにいるのが私だなんて、何から何まで間違っているのに。
――姫様が見つかったら、身代わりは終わる。その時のために、『この場所』は守らないと……。姫様の、ため。
目尻に滲んだ涙を拭いながら、書状に書かれた名前を何度も何度も読んだ。
――やらなくちゃ。私は『姫様』になる。
もう逃げられないと悟った。
姫様のことは何年も見てきたから。どんな表情でも、どんな声でもまざまざと思い出せる。
この身代わりが、かぐや姫を守ることになるのだ。松緒はそう信じた。
けれど――
『そなたはかぐや姫の……偽物だな?』
それからほどなくして、ある男から冷水を浴びせられるような言葉をかけられることになる。