1 姫君の出奔
月が輝く夜のこと。
姫様は月を見上げて泣いていらっしゃった。はらはらと涙の粒が真珠のように見えました。
どうされたのですか、と声をおかけすれば、この世のものとも思えない美しい顔を私に向け、
「わたくしとともに逝ってくれますか?」
かすれた声で囁かれた。私はすぐに頷き、力強くこう申し上げました。
「はい。黄泉の国にもお供いたしますよ 」
その言葉は私にとって真実だったのに。
私には、幼いころから姫様しかいなかったのに。
今でも時々思い出すのです。涙に濡れた頬はそのままに、かすかに口の端に笑みを湛えた姫様は、いつになく私にもの言いたげでいらっしゃった。けれどその時は気付きもしないで。
ただただ姫様のお傍にいられることがうれしかったのです。姫様と過ごせる時間があの頃には少なくなっていたものだから。
どこまでもついていくつもりでした。行き先が黄泉の国でも、月の国でも。地獄でも構わなかったのです。
それなのに。
どうして。
私の主人――かぐや姫は私を置いていってしまわれた。
時は平安。ところは桃園第。絶世の美女が住むと京中に評判の邸である。
その姫君の名は「かぐや」。桃園大納言が年経てからやっと恵まれた子で、人の目を隠すように育てられたが、その愛らしさと美しさはどこにも広く知れ渡っていた。
かぐや姫が年頃になると、都中の貴公子から結婚の申込みが殺到した。しかし、姫君はどんな求婚にも頷かず、父の大納言は困り果てた。
「大納言よ。そなたの娘を朕も見てみたいぞ」
美女の評判は宮中にも届かないわけがなく、帝から宮中へ入内するよう催促が届くようになった。帝の度重なる仰せに耐えかねた大納言は、妃ではなく女官ならとどうにか娘の承諾を取り付けた。
こうして都中の注目を集めた出仕が決まった。宮中へ参入する日取りに向けて、邸中がその準備に大忙しとなった。
出仕前日には、常にお仕えする女房(侍女)までもが、姫君の傍を離れざるを得なくなった。
姫君は邸の一室でひとりきりとなった。
女房が異常に気付いたのは、夜半のころ。出仕の準備を終え、やっと姫君の元に参上した時には、その姿は忽然と消えていた。
「姫様……? 姫様、姫様、どちらにいらっしゃいますか」
初めは邸内にいるだろうと思ったのだが、どこを探してもいない。
女房はだんだんと半狂乱になって、邸内をさまよう。騒ぎはやがて父大納言の耳にも届き、ひそかに邸内の大捜索が行われた。
しかし、懸命の捜索もむなしく姫君はいなくなっていたのだ。
父の桃園大納言は進退窮まった。明朝には姫君を乗せた牛車は宮中に向かわねばならない。だが、肝心の姫君がいない。宮中に、帝になんと言い訳できようか。これまでの姫君の評判はおろか、連綿と続いてきた名家の矜持にも著しく傷がつく。御先祖様に申し訳が立たない。
滝のような汗をかいた父大納言は正気を失っていた。こともあろうか、傍にいた女房――最初に姫君がいなくなったことに気付き、今もまだすすり泣いている者に、魔が差したとしか思えない命を下したのである。
「わしの娘がいなくなったのは、目を離したおぬしの責任である。よっておぬしが事態を収拾せよ。おぬしがかぐやの身代わりとなれ。かぐや姫として、宮中に出仕するのだ!」
その命にだれもが仰天した。まして、当の女房はあまりのことに言葉を失う。
無理ですよ、と別の女房がとりなそうとするのだが、大納言は血走った眼で、身代わり指名をした、若い女房の腕を掴んで、立ち上がらせた。
「この者は最も長く姫の傍に仕えてきた。年恰好も似ておる。幸いにも姫君の美しさは噂ばかりで、本当の容姿を知る者はほとんどいない! よいか悪いかではない、やるのだ! このことは他言無用である。ばれたら命はないと思えっ!」
「そ、そんな……。わたしに、姫様の代わりなど」
大納言に腕を掴まれた女房は涙でぐちょぐちょになった面差しを主人に向ける。だが、主人は冷たく彼女を見下ろし、傍らでびくつく若侍の腰に下がった太刀を抜く。
「四の五の言うでない! よいな、松緒。……おぬしの正体がばれたら、この邸にいる者みなが、帝を欺いた罪に問われるだろう。だがその前に……わしがこの太刀で! おぬしを斬り殺してくれようぞ」
「ひいっ」
太刀を振りかぶる大納言はまるで悪鬼のようだった。力任せに振り下ろされた太刀は畳に突き刺さった。
その大納言に腕を掴まれ、逃げられぬように脅された松緒は悲鳴を上げた。恐ろしさのあまり腰を抜かしてへたり込む。
「他の者たちも同じだ!」
次に大納言は周囲の者たちを睨みつけた。
「かぐやのことがばれてみろ、わしが地獄の果てでも追い回し、もういやだと泣き叫んだとしても容赦せずに、なぶり殺してくれるわ! よいな、こころせよ!」
だれもが平伏するほかなかった。邸の主人の命令には逆らえない。そして、出仕せよという帝の命令に背くことも、できはしないのだから。
結局、本来のかぐや姫がいないまま、宮中への出仕は行われた。かぐや姫の身代わりとなったのは、松緒と呼ばれていた傍仕えの女房である。
彼女は後宮へ向かう牛車で頭を抱えていた。大納言の姫らしく着飾られていても、松緒はただの女房だ。幼いころに市場で買われ、運よく姫君にお仕えできただけの……。
身体を震わせながら、何度も何度も、想像の中のかぐや姫に話しかける。
――どうして、私を置いていったのですか、姫様。
――姫様がおっしゃるなら、どこへなりともついていきました。
――まさか、こんなことになるなど思いませんでした。『ゲーム』にもそんな筋書きはありませんでした。