中秋節の満月が呼び覚ます女王の追憶
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
漢服の袂から取り出した、公務用の携帯情報端末。
そこに届いた部下達からのメッセージを確認して、私こと楽永音はホッと胸を撫で下ろしたのでした。
「よし、まずは一安心。」
我が中華王朝の各省や世界各国より御招きした来賓の皆様方は、無事に帰路に着かれたとの事。
どうやら中秋節の式典は、無事に成功を収めたと言えそうですね。
「ほう、これは…」
用を終えた携帯端末を漢服の合わせの中へ仕舞った私は、執務室の窓に視線をやって思わず溜息を付くのでした。
雲一つない夜空に明々と輝く満月は、数時間前に式典会場でも見た物です。
然しながら、慣れ親しんだ執務室で一息つきながら眺める月は、中秋節の運営に奔走しながら見るのとは比較にならない程に美しゅう御座いましたよ。
そんな物思いに耽る私の意識を現実へと引き戻したのは、我が敬愛する主君の御声だったのです。
「とりあえずは肩の荷が下りたという具合ですね、永音。そう御顔に書いて御座いますよ。」
「はっ…!」
自分に向けて投げかけられた気品に満ちた御声に、私はサッと顔を上げたのです。
丞相という役職名での呼称に慣れた私に字で親しげに呼びかけて下さる方は、今では数える程になってしまいました。
そしてその数少ない御一人が、私の眼前に御姿を現されたのです。
束髪に結われた艷やかな黒髪と、その下で輝く慈愛と気品に満ちた麗しき御尊顔。
そして清朝の太祖から受け継がれた高貴な血を表現するかのような、赤を基調とする仕立ての良い満州服。
そんな美貌と気品を両立された彼女こそ、我が中華王朝の初代女王である愛新覚羅紅蘭陛下その人なのです。
「御疲れ様です、永音。此度の中秋節を成功させられたのも、貴女の的確な采配があってこそですよ。」
「勿体無い御言葉で御座います、陛下。」
掌を内側に向けて拳を握った両手を額まで掲げ、深々と頭を下げる。
そんな私の長揖の礼に、陛下も下揖の拱手礼で応じて下さいましたよ。
今更の事では御座いますが、紅蘭陛下の拱手礼は女王としての威厳と気品に満ちていて、尚且つ一分の隙も御座いませんね。
それも全ては、清朝皇族の末裔にして軍人上がりという陛下の御出自に由来するのですけれど。
「丞相に就任されて初めて執り行われた中秋節を、斯くも見事な采配で成功に導かれるとは…流石は燕の名将と誉高い楽毅の直系、その辣腕たるや頼もしい限りですよ。」
「恐悦至極に御座います、陛下。されど恐れながら申し上げますが、私が今日のように力を発揮出来ますのも、全ては陛下が取り立てて下さったからこそ…そうでなければ、私は一介の俗人止まりだったかも知れません。」
そんな私に対する陛下の御返答は、至って静かな物だったのです。
口元に小さく微笑を閃かせて、軽く頭を左右に振るう。
その動きから少し遅れて黒い艷やかな束髪が揺れるのが、何とも美しゅう御座いますよ。
「それは私も同じ事ですよ、永音。ほんの十七年前の私は、亡命者上がりの軍人に過ぎなかったのですからね。もしも壊滅する祖国からの脱出と日本への亡命に失敗していたら。もしも武運拙く戦死していたら。そして、もしも当時の国際社会が中華王朝の建国に批判的だったら…どれか一つでも運命が違っていれば、今日の私は存在しなかったでしょう。」
何時の間にやら、陛下の眼差しは執務室の窓へ注がれていたのです。
陛下が御覧になっているのは、窓の外で明々と輝く現実の月なのでしょうか。
或いは、乱世を駆ける一人の戦士でいらっしゃった折に何処かの戦場で仰がれた月を追想されているのでしょうか。
その答えが分かったのは、陛下の次なる御言葉が切っ掛けだったのです。
「永音、先の中秋節で用いた月餅を召し上がりますか?こちらの月餅は栗饅頭にも似た味付けですので、本当に美味しゅう御座いますよ。」
臣下による毒見済みの月餅を、喜々として召し上がる陛下。
その何気ない一言に、よもや陛下の御心が凝縮されていようとは。
「栗饅頭…そう言えば確か、軍人時代の陛下は日本軍女子特務戦隊の方と懇意にされていたそうですね。その方は確か、奈良市の和菓子屋の跡取り娘だったという…」
「四方黒庵の美衣子さんと仰る方ですよ、永音。あれは確か、日本軍女子特務戦隊との合同演習の日の事です。前日に兵舎の厨房をお借りして手作りされたという栗饅頭を、お裾分けとして頂いたのですよ。」
亡命時代の陛下が軍務に携われていたのは、もう一昔近く前の事のはず。
それにも関わらず、当時の事を鮮明に覚えていらっしゃるとは…
合同演習の日の出来事は陛下にとって、忘れ難い大切な思い出なのですね。
「それが幼い日の中秋節で頂いた月餅の味に、本当によく似ていて…無理を申し上げて追加で分けて頂き、その夜はささやかながらも素敵な中秋節を御祝い出来ました。改元間もない当時の日本では、月餅を買い求めるのも容易ではありませんからね。」
御手元の月餅と執務室の窓に輝く満月とを交互に御覧になる陛下の御顔には、何とも愛おしそうな微笑が浮かんでいたのでした。
恐らくは若かりし頃の輝かしき日々を、あれやこれやと追憶されているのでしょうね。
「日本にも月見の文化は御座いますから、美衣子さんも今時分はお店が忙しくて手が離せないでしょうね。いつの日か旧交を温めたい物ですが…」
「日本にいらっしゃる美衣子さんも、立派に御即位なされた陛下の御姿を御覧になれば、きっと御喜びになるでしょうね。その際には、この永音も御供をさせて頂きたく存じ上げます。」
そう申し上げますと、私は再び執務室の窓へと目を向けたのでした。
もしかしたら日本にいらっしゃる陛下の旧友も、今この瞬間にあの月明かりを御覧になっているのやも知れませんね。