9. 情報統合学的考察
産業総合研究所に戻った時は、周りがすでに真っ暗な時間となっていたが、千草とセリーヌは自分たちの研究室で議論の続きをしていた。
「さて、まずはこれまでに分かったことを整理してみましょうか。」
千草の提案にセリーヌはうなずいた。
「それじゃ、セリーヌさん、廊下で話しましょう。」
産業総合研究所は、各チームの研究室をそれぞれ長い廊下でつなぐ構造となっている。その長い廊下の壁はすべて電子黒板になっており、文字や図を書き込んだり、文献やハイパーリンクを埋め込んだり、メモを貼り付けたりできるようになっている。各チームは、現在検討中の内容をこの廊下に書き込んで行くことで、最終的にはテーマの公式報告書が廊下にさらされた状態で作られていくようになっていた。このことで、ページをめくらなくても、廊下で横並びに検討中の資料が閲覧できるようになるのだ。また、他のチームの研究員も自分の研究室に行くためには、途中他のチームの廊下を通る構造となっているため、多くの研究員がふと目に留まった内容についてコメントや質問を書き込んでいくこととなり、多角的な視点から資料のブラッシュアップができるというメリットがある。
千草とセリーヌはこれまでに得た情報を再確認しながら意見を出し合い、廊下の壁に以下のように書き込んでいった。
テーマ: 知能の発達は絶滅をもたらすのか
◎ 知能が進化すると
→ 生存圏が居住可能領域全体に広がる
→ 生存圏における絶滅が全体の絶滅につながる。
・環境の悪化(地球温暖化、海洋汚染 等)
・感染症
・戦争
→ 生きるの意味を考えるようになる。
→ 価値観が多様化する。
・少子化
・自殺の増加
→ 科学技術が発達する。
→ 技術に基づく新たなリスクが生み出される。
・月の落下
・武器の発達
・事故の深刻化
・ワープの失敗 (上記「事故の深刻化」に含まれる?)
注: 本項目閲覧者制限-アイラの発表まで
→ 医療により弱い遺伝子が生き残る
・遺伝子全体の劣化
→ 信仰心が発生する。
→ 命よりも大切なものができる
・排他的な命のやりとりになる(宗教戦争)
ここまで書き、それぞれに付属資料をリンクした時点で夜の10時を過ぎており、さすがに疲れたと音を上げたセリーヌの意見を尊重して、その日は帰宅することとした。
翌日二人が出所すると、昨日の書き込みの周りに多くの付箋が貼り付けられており、『興味深い』『いいネ』などと好意的なコメントが書かれていた。どうやら興味を持ってくれた人が多かったようだ。さらに、内容に『頭脳巨大化に伴う難産と死産の増加』『貧富格差拡大による社会ひずみ』が追加されていた。他の所員たちは何時まで仕事をしているのだろうか。
「あっ、千草さん、研究所の誰かが書き込んでくれていマス。」
「そうですね、長い廊下が威力を発揮してくれましたね。」
「この二点はこれまで気づきませんでシタ。」
千草は追加された書き込みを見つめながら答えた。
「なるほど、面白い視点ですね。人間の赤ちゃんが産まれるとき、頭が大きいから産道を通るのがぎりぎりで、他の動物に比べるとすごく難産なんですよね。これは知能向上によって脳が発達したからであって、知能が生存のマイナスに作用する例の一つになりますね。」
「でもこれには帝王切開という回避手段がありマス。」
「回避手段があるという意味では、地球温暖化なども同じですよ。」
「あっ、そうですネ。」
「帝王切開は昔に比べるとものすごく増えてきてます。出産時の苦痛回避という理由での帝王切開も増えてはきているけど、実際のところ、自然出産が困難であることから帝王切開を適用することの方がずっと多いのが実情ですね。近い将来、人間は自然出産ができない生き物になるかもしれませんね。」
セリーヌはもう1つの書き込みを指差した。
「こっちの貧富格差拡大は、社会歪につながることはわかりマスが、これが人類絶滅にまでつながるでショウカ。」
「うーん、そうね、直接的ではないかもしれないけど、間接的にはありえるかもしれないわね。」
「具体的にはどゆことですカ。」
「人類が採取生活をしているときは、貧富の差はあまりなかったのよね。それが、農耕が始まって収穫物の蓄積ができるようになると、貧富の差が大きくなり、お金という蓄積手段ができると、さらにそれが大きくなっていったのよ。そして富める者は力を持つから、既得権益を守るために知恵を使ってさらに富を得ようとする。つまり、知恵とともに貧富の差は広がるようになっているのよ。」
「それはその通りですネ。」
「貧富の差はいろいろな社会問題を生むことになります。とことん貧しくなった者は犯罪を行ったり、宗教にのめりこんだり、場合によっては社会構造の変革を行うことで現状を打開しようとして、テロに走ったりすることになるかもしれないわね。技術が高度に発達した社会でのテロは大きな影響を及ぼすわ。この前、発電衛星の事故があったでしょ。ああいうことがテロで引き起こされた場合は、人類絶滅につながりかねないということね。」
「はい、よくわかりマシタ。」
「いずれにせよ、これらを含めて知能の発達が絶滅をもたらすしくみはいくらでもあるということですね。」
「やっぱり、偶然これだけのしくみができたとは思えませんネ。」
「偶然は、1つなら偶然だけど、2つ重なると必然と考えるべきでしょうね。セリーヌさんはハインリッヒの法則を知ってますか。」
「すみません、知らないデス。」
目をぱちくりさせているセリーヌに千草が説明した。
「元々は労働災害についての法則なんだけど、『1つの重大な事故の裏には29件の些細な事故があり、さらにその背後に300件の事故になりかけたアクシデントがある』というものなんです。今ここに挙げたものだけで、絶滅につながるものだけでも11項目あるから、背後に隠されたものはとてつもなく多いということですね。」
「これは必然としか考えられないですネ。」
「必然ということであれば、合理的には、『作りこまれたもの』と解釈するしかないですね。問題は、誰が?何のために?」
「神様がデスカ?」
「そうですね。まず、自然の摂理として作りこまれているのは明らかですよね。そこで、日本人的視点からすると、多くの場合自然と神様は同義であることが多いから、神様がそうしていると考えていいかもしれません。キリスト教的考えでも、自然がそうなっているということは、神様がそう創ったということになりますから、いずれにせよこれらの因果律を作ったのは神様だということになりそうですね。」
「はい、これは世界の因果律に組み込まれているわけですから、それを意図的に作れる存在があるとしたら、そもそも神様以外には考えられないデス。」
「それでは、神様が本当に存在するものと仮定して、次になぜこんな因果律を作ったのでしょう。それに関して、セリーヌさん、先生のお話しのもう1つのポイントを覚えてますか。」
「はい。知性から必ず信仰心が生まれ、洋の東西を問わず人が考える神様システムの構造が類似しているということデシタ。」
「それらが必然ということであれば、それこそ神様のことを正しく認識して信仰するようになるために知性が生みだされるのかもしれませんね。それが自然の摂理なんじゃないかしら。」
「ということは、神様がそうしたということですネ。」
「であればこんなのはどうですか?『神様はこの世界を知性が生まれるように作った。その目的は信仰心を持たせるために。そして必要以上に知恵を持つようなら、それは滅びるよう安全装置を用意した。』」
「知恵の実を食べたアダムとイブは楽園から追放されましたからネ。これは必要以上に知恵をつけてしまった場合には、神様によりこの世界から追い出されることを暗喩しているのかもしれませんネ。」
「実際には神様の意図を検討する意味は無いかもしれませんけどね。」
「どしてデスカ?」
「神様って、この世界とその法則を作れる存在ってことですよね。知的水準が私たちよりもはるかに高いレベルにあるの。そんな神様の意図を人間が理解するのは不可能かもしれないのです。例えば、川から水をくみ上げる水車を人間が作ったとしても、その川に住むメダカにとっては、それが何なのか、まして人間が何のために作ったのかなんて理解できませんよね。神様と人間の知的レベルの差は、もしかしたら、人間とメダカの知的レベルの差よりも大きいかもしれませんからね。」
「たしかにそうですネ。」
「私たちにできるのは、今の状況を分析して、合理的に推測できる仮説を立て、状況を私たちの有利になるようもって行くことだけなんですよね。つまり、メダカにとって水車の意味は分からなくても、それが危険なものと認識して近づかない、という行動をとることはできますからね。」
「そういうことデスネ。それじゃ、私たちは絶滅を避けるために、どのレベルが『必要以上の知恵』なのかを理解して、それを避ければいいということデスネ。」
明るく答えたセリーヌだったが、千草の表情は暗かった。
「さっきまで、私は『神様を脅かすレベルの知恵』をつけたものが滅ぼされるのかと思ってたんですけど、よく考えるとそれは間違いですね。環境問題を初めとして、すでに滅びのトリガは引かれてしまっていますから。とても今現在の人間が『神様を脅かすレベルの知恵』をつけているとは思えないですよね。」
「どの段階で滅びのトリガが引かれるのかが、非常に重要デス。この一覧表の中では、環境問題が一番最初に絶滅の可能性に結びついているので、20世紀末と考えればいいのではないですカ。」
「いいえ、もう少し昔、遺伝子の劣化は医療の発達時点からスタートしていますよ。医療が発達する近世ではすでに絶滅の歯車はまわり始めていたんですよ。」
「そうですネ。それ以前の医療は、おまじないや祈祷が中心で、実際の医療効果はほとんどなかったデス。病気になったら神様に祈ることしかできなかったデス。」
「あっ、それよ!」
千草は叫び声をあげ、興奮して自問自答しはじめた。
「うん、そうね。そう考えると全ての辻褄が合うわ。」
「千草さん、どゆことデスカ。」
セリーヌに促され、千草は説明した。
「そうね、まず神様が・・、うーん、やっぱりこの神様って言葉は誤解を招くわね。ここからは、この世界のこの仕組みを作った存在を創造主と呼ぶことにするわ。創造主は世界を作り、そこに知性が生まれるようにした。そして知性は信仰心を伴うようになっている。ここまではいい?」
「はい。昨日の佐久間先生の話ですネ。」
「そして、創造主にとって近世以降の人類は滅ぼす対象になっている。つまり、創造主にとっては、知性を持ち始めてから中世までの人類が望ましい、ってことね。その間の人類の特徴って何だと思いますか。」
「うーん、なんでしょうカ。」
「知性に伴って発生し、近世に入ってからは急速に失なわれたものよ。」
「あっ、信仰心デス。」
「そう、それなのよ。創造主は、知性が生存に有利になる世界を作り、生物が知性を持つことを助長して、知性には必ず信仰心を伴うようにしているのよ。これは、信仰心を発生させることが目的だということになるわ。そして医療の発展と伴に信仰心を失った人類にはもう用がないので、あとは滅びるようなしくみを用意しているのよ。
いい?医療の発達と信仰心には 強い関係性があるわ。さっきセリーヌさんも言っていたように、医療が未発達な社会では病気を治すためには信仰しかなかったの。例えば、仏教でも薬師如来という病気を治す仏様が最も多く信仰を集めているわ。でも、医療が発達して、信仰に頼らなくても病気が治るようになると、そのための信仰心は必要なくなるわね。そして、それと同時に遺伝子の劣化が始まり、絶滅への歯車がまわり始めるの。さらに、確実に絶滅させるために他にも多くのしくみが用意されているってことよ。」
「この世界は、創造主が信仰心を収穫するための農園ってことデスカ。」
「そういうことね。状況証拠だけからの推論だけど、これが一番状況を自然に説明できるわね。創造主は果樹園の環境を整え、木を植え、信仰心という実を収穫し、実がならなくなったらさっさと木を切り倒して、もしかしたら次の木を植える準備をするのかもしれないわね。なぜ信仰心を収穫する必要があるのかを、私たちが理解することはできませんけどね。」
「なんてことでショウ。神様は私たち一人ひとりに愛を注いでくれる存在ではないのでしょうカ。」
「残念ながら創造主はそういう存在ではないということになりますね。人類が発生してからこの500万年間、収穫をもたらす木としては大切にしてきたかもしれませんが、もう実がならないのであれば、無価値どころかじゃまな存在とみなすでしょうね。実際にこれだけたくさん絶滅へのしくみを用意しているわけですから。」
「人類絶滅を回避する手段はないのでしょうカ。」
「現代の人が中世以前の生活に戻ることは、現実的に不可能ですね。でも、中世の生活に戻らなくても、皆が信仰心を持つことができれば、創造主にとって価値があるわけですから、絶滅は免れるかもしれませんね。」
「それはそうですが、人類を作物としか考えていない存在を、今の人類が信仰することはできるでしょうカ。」
「日本人は昔から、人間の力の及ばない存在を神としてきました。災害をもたらす祟り神すら信仰の対象としてきたのです。もしかすると、ここでいう創造主に対しても信仰心をもつことができるかもしれませんね。」
「でもでも、もし皆が創造主を信仰すると、超自然的な力が働いて、遺伝子劣化を含む絶滅の問題が回避できるなんてことが起こりえるのでしょうカ。」
「私たちの常識ではそんなことはありえないのですが、未来を見通してこの世界のしくみを作った創造主であれば、何らかの対策は用意しているかもしれませんね。でも、もちろん信仰心が創造主にとっての収穫物であるというのはただの推論ですから、そこが間違えていたら、みんなで信仰しても結局なにも変わらないってことだってあるのですが。」
「もし本当にそこが重要ならば、そうなるしくみがあるんじゃないデスカ。」
「そうね。もうこの先は人の知恵の範囲で考えてもしょうがないのかもしれませんね。」
千草はため息をつき、自分には見えない創造主の姿を求めて虚空を見上げていた。
数日後、セリーヌは日本での留学を終えて帰国の途につき、重力チューブ新幹線の東京駅で乗車案内を待っていた。訪日前、論文のテーマとして選んだこのテーマは、ずいぶん方向性が変わり、セリーヌの手に追えないものとなりつつあった。千草はこれからも協力を約束してくれたものの、セリーヌ自身がこれ以上の成果を得る自信を失っていた。『もしかすると私のこの意欲の喪失感は、神の領域に近づく考えを妨げるために、神様が用意したバリアなのかも』とふと考え、すぐにそのばかげた考えを打ち消した。その直後、フランクフルト行きの重力チューブ新幹線の乗車案内があり、セリーヌは立ち上がった。
その日の夕方、千草は仕事を終えて鞄を 肩にかけた際、同僚が声を上げた。
「おい、ニュースを見てみろ。重力チューブ新幹線で大きな事故があったみたいだぞ。 」
千草は急いでネットニュースを閲覧した。
[時事通信提供: 日本時間14日16時ごろ、東京発フランクフルト行きの重力チューブ新幹線にて事故が発生。走行中に客室鋼体の気密が裂け、客室内が真空状態になった模様。乗員乗客1324人の生存は絶望視されている。重力チューブ新幹線は、駅では1気圧の中にあり、走行中は真空軌道を通ることから、気圧差による力の繰り返しで、車体に疲労亀裂が発生したものと考えられる。国際鉄道株式会社は詳しい原因を調査中。]
セリーヌが乗った列車だ。千草は大きなショックを受けると共に、胸にふと疑念を抱いた。
「これって、私たちが触れてはならない部分に気づいたから?それともただの偶然なの?」
その直後、産業総合研究所内に、火災報知機の警告音が鳴り響いた。けたたましくなるベルの音の中で、千草はつぶやいていた。
「1つなら偶然、でも2つ続けば必然。つまり、私たちは正解にたどり着いていたというわけね。だとすると、・・・私はもう逃げられないのかしら。」
火の回りは早かった。
注1): 説明がまどろっこしいので本文では安直に済ませましたが、本来キリスト教の教義では、神と自然を一体視することはできません。ただし、スピノザという哲学者の「汎神論」を用いると、キリスト教の教義自体を使って、神と自然は同じものであると論破できてしまい、キリスト教の矛盾の一つとなっています。キリスト教は自身の宗教の価値を高めるために、神をなんでもありの万能にしてしまったため、そのことによりロジック的にはいろいろと矛盾をかかえることになってしまいました。