8.人類と宗教
翌日、千草とセリーヌは宗教学者の佐久間教授を尋ねた。教授の研究室は豊中市のキャンパスにあり、産業総合研究所からは車で15分程度の距離だった。教授の研究室に着いた二人は会議室に案内され、そこには佐久間教授と学生が5人待っていた。会議室に二人が入るなり、佐久間教授がいきなり千草にハグした。
「おー、千草くん、久しぶり。もっと遊びに来てくれんとだめだろう。」
「佐久間先生、ごぶさたしています。なかなか機会が無くてごめんなさいね。」
いやがる風も見せずに答える千草を見ながら、『千草の交友範囲はどれだけ広いんだろう』とあきれていたセリーヌに、教授が声をかけた。
「きみが千草くんのところの研究生のセリーヌさんだね。私はクロイツ佐久間だ、よろしく。」
と、手を差し伸べて握手した。教授は別に誰かれ構わずハグする人というわけではないようだ。佐久間教授は茶色の髪に青い瞳を持っていた。ドイツ人とのハーフとのことだった。
その後すぐに佐久間教授は千草に向かって言った。
「今日は、勉強のためにうちのゼミの学生を同席させたいんだが、いいかな。」
「もちろんですわ、先生」
「よーし、お前ら、しっかり聞いておくんだぞ。居眠りなんかしたらしょうちせんぞ。」
教授の声に学生たちは笑顔でうなずいていた。口調の割には、そんなに怖がられている教授ではないようだ。
全員が席に着いたところで、千草がこれまでの経緯を簡単に説明し、聞きたい内容を伝えた。
「というわけで先生、今日こちらでお伺いしたいのは、各宗教の共通点、特に、宗教から見て神様はどんな存在なのか、あと、信仰が人類絶滅に影響するのか、という部分です。」
真剣に聞いていた教授は、頭をかきながら答えた。
「これはまた難しいことを言うね千草くん。2セメスタ分の講義をせにゃならんな。まあ、とにかく思いつく順に説明してみるかな。」
教授は耳たぶを触りながら説明を始めた。
「まずこういう話をする前に断っておきたいのだが、私は特定の宗教を信仰してはいないので、できるだけ客観的な立場からお話しするつもりだ。だが、信仰のある人にとっては自分の信仰対象を非難されているように感じることがあるようで、どうしても感情的な議論になりがちなんだ。ここは是非冷静な議論をお願いするね。」
佐久間は参加者の顔をぐるりと見回してから続けた。
「宗教や信仰というものはまさに人間だけのものなのは皆も知ってのとおりだ。知性が無ければ信仰は生まれない一方で、知性を持った人間は原始時代からもれなく信仰を持っている。信仰は、ヒューマン・ユニバーサルといって人類共通の普遍的なものなんだね。無神論者を自称する人であっても、いざというときには祈ったり、験を担いだりと、特定の宗教ではないものの、眼に見えない何者かに頼ったりするもんだ。我々ホモ・サピエンス以外のネアンデールタール人ですら、死者の埋葬時に花を手向けていた証拠が残っているから、何らかの信仰を持っていたと考えられるんだ。 そういう意味で、知性には信仰が必ず伴ってくる。この点は千草くんたちの仮説と結びつけると興味深いね。その仮説を元にすると、知性には必ず信仰が伴うようなしくみを神様が作ったのかもしれないね。」
本気か冗談かわからない口調だった。
「さて、信仰が人類に普遍的なものだとしても、宗教にはいろいろな形がある。特に大きく分類すると、多神教と一神教の2つに分けられる。といっても、旧約聖書をベースとするユダヤ教、キリスト教、イスラム教といったアブラハムの宗教と呼ばれるものだけが一神教で、後はほとんどが多神教だ。これは、旧約聖書に神は唯一との記載があるから、そこから発生した宗教が一神教となっているわけだね。言うまでも無く、この聖書というものは宗教研究上、きわめて重要な意味を持っているから、あとで詳しく説明する。ともかく、信者の総数は別として、宗教の種類だけで見ると、むしろ一神教のほうが特殊なものといえる。
ただ、多神教と一神教で宗教観がまったく異なるかというと、よく見るとそういうわけでもないんだ。多神教であっても、この世界全体を作ったのは一人の神様の場合が多いんだよ。これを他と区別するために創造主と呼ぶことにするね。例えば神道において、日本神話にはたくさんの神様が出てくるが、正確な記載は無いものの、創造主は天之御中主神と考えられる。日本人は、誰が創造主なのかについてはあまり興味が無く、自分の生活に関連するより身近な神様が神話の中心になっているから、天之御中主神についてはほんの少ししか触れられていない。考えてみれば当たり前のことで、日々の生活をするのが精一杯の原始社会では、世界は誰が作ったのかといった哲学的な議論をするよりも、太陽の恵みをもたらす天照大御神や、豊作を司るお稲荷さんに祈りを捧げるのはごく自然なことなんだね。
一方、アブラハムの宗教にも聖霊という考え方がある。聖霊は創造主である唯一神から人に対して恵みや慰めを与える存在で、これが神の一部であることはキリスト教の重要な教義となっている。一見、まったく異なるような神道とキリスト教だが、もし同じ事象に対して解釈が異なっているだけだとすると、木村君、君はこれをどう説明するかな。」
教授は一人の学生を名指しし、その学生はいきなりの指名にあせりながらも答えた。
「はい先生、日本人はキリスト教で言うところの聖霊に祈っていることになります。キリスト教では聖霊は創造主の一部ですが、神道では聖霊が個別に人格化されているだけなのだと思います。創造主と人間のインタフェースとなるのが、聖霊または日本の神様だということです。」
「インタフェースか、うん、いい答えだね。」
教授はにこにこしながら学生を褒め、続きを説明した。
「大きな違いは、日本人はそのインタフェース部分に祈り、一神教はその大元である創造主に祈る点だ。もう少し具体的に表現すると、一神教は階層型の集中システムであり、多神教はその下層部分を分散システムとしてとらえているともいえる。こう解釈すると、人がイメージする神様システムの構造としては、実はどちらも同じものであるのかもしれない。おそらく、神を全てgodと訳すから誤解を招くんだろうな。godは創造主なのであって、日本の神々はspiritsと訳すべきなんだろうね。これならキリスト教の聖霊、holly spiritsと一致するね。このように、世界中で個別に発生した宗教が同じ神様システムの構造を持つというのは興味深いことだねぇ。知性が自然に同じ神の体系を生み出すのだから、これは偶然とはいえないのかもしれないね。」
ここまで聞いて、セリーヌは既視感を味わっていた。これまで様々な局面で、偶然とは思えない因果関係を見出してきたからだ。セリーヌがそう感じていると、学生の一人が手を挙げた。
「先生、ちょっと質問いいですか。」
「いいですよ永井君、なんでしょうか。」
「神道だけではなく、仏教も同じなのでしょうか。」
「仏教については、長い時間と長い伝道の過程でかなり変質していったから、説明は難しいね。ただ、日本の仏教については、仏教界の人の思いは別にして、一般の人の感覚では神道と同じといってよいだろう。普通の人は如来と神様の区別はついていないだろ。祈るときの作法は多少違っていても、神も仏も同じように感じてるわけだ。そうなると、仏教の曼荼羅なんていうのは、分散システムのブロック図と考えてもいいかもしれないね。ただ注意しなければならないのは、仏陀が唱えた本来の仏教の教えは、悟りを開くことであって、これは宗教というよりも哲学なんだね。」
「悟りを開くってどういうことですか。」
永井が続けて質問した。
「簡単に説明するのは難しいが、『悠久の時の流れの中では、今の悩みなんて小さなものだ、ということを真に理解すると、悩みなんてなくなる』、ということなんだね。例えば永井君、きみは子供のときに、友達とけんかしたことはないかな。」
「えっ、あっ、そういえば親友と意地の張り合いで一時期絶交したことがあります。仲直りするまではかなり落ち込んでいました。」
「ふむ、そのときは悩んだだろう。」
「はい、他の事が手につかなかったです。どうやって仲直りしようかということと、自分の意地との葛藤で、ずっともやもやしていました。」
「今はそのときのことをどう感じているかな。」
「変な意地を張らずにさっさと謝っておけばよかったです。でも、その後仲直りしたんで、いい思い出かな。」
「いい例だね。当時の永井君は、おそらく深刻に悩んでいたんでしょう。でも、その悩みは時間が経ってみるとなんでもないことなんです。つまり、今悩んでいる人は、その悩みが人生の全てのように苦しみますが、長い視点で見ると、今の悩みなんて実は些細なことなんだね。人生には多くの悩みがあるが、このことを理解すると、悩むことはなくなり、心穏やかに生きられる。これが悟りだ。お釈迦様がこれを伝えようとしたのが本来の仏教なんだね。」
生徒たちは理解したようだが、教授はさらに説明を続けた。
「宗教と哲学とは多くの部分が重なっている。例えば、キリスト教もある種の哲学といえるんだよ。キリスト教の本質は神を信じること、そして、その神があなたを無償の愛で包んでくれるということを悟ることだね。いいですか、誰かから愛されるというのはとても幸せなことですよね。とくに素敵な人から愛されるのはうれしいですよね。それがましてや、完全無欠の神様があなたのことを手放しに愛してくれるというのです。これを信じられれば、とても幸福ですよね。人生の苦悩なんて吹き飛んでしまう。本来、キリスト教はこの心の持ち方を呼びかける哲学だともいえるわけだね。」
教授は少し間をおき、今度は表情を固くしながら話しはじめた。
「このように宗教は人の心を救う哲学的側面を持っているのだが、一方で負の側面もある。そこを、今回千草くんたちが提示した、信仰が人類を死に追いやるものかという切り口で考えてみることにしようか。今まで述べてきたように、信仰によって心の平安を得たり、悪いことを禁じたり、他人に優しくなれたりというのが本来の姿だね。欧米では道徳は教会で学ぶものというのが常識になっているからね。しかし、歴史を見ると、宗教により多くの人が亡くなっているのが現実なんだ。」
参加者は皆うなずいていた。
「知性を持たない動物にとって命は最優先事項だが、知性により生じた信仰によって、命よりも大切なものが生じることになる。この『命よりも大切なもの』というのが問題だね。つまり、これが優先されると命は二の次になり、自身の命、ましてや他者の命を軽んじることになるわけだ。このため、過去には布教のために他民族を侵略し、改宗しない者を皆殺しにすることが平然と行われてきたし、現在でも、例えば信仰のために輸血を拒否して死を受け入れるなどといったことが実際に行われているんだね。
この、命よりも大切な信仰というものは権力者にとってはとても都合のいいものなんだ。信仰を盾に命すら差し出させることができるからね。キリスト教、特にカトリックはローマ教皇という明確な頂点があるため権力が集中されており、過去、十字軍の例にとるまでもなく大量殺戮を繰り返してきた。信仰のために命を惜しむな、信仰のために異教徒を殺せという指示は絶大な効力を持っているからね。中世後期には、キリスト教は信徒を増やすために、領土を増やしたい権力者と結びついて、世界中に布教を行ってきた。その際、それと同時に異教徒の殺戮も大規模に行ったんだね。」
教授の説明をさえぎって、セリーヌが声を上げた。
「先生、それはキリスト教の問題ではなく、権力者の問題ではないですカ。」
教授は『やれやれ、やっぱりきた』という顔をしながら答えた。
「お気に触ったら申し訳ない。ただ、実例を示したほうが理解しやすいし、世界的に最も信者数の多いキリスト教が歴史の表舞台によく出てきているので、どうしてもキリスト教を冒頭に取り上げざるを得ないんでね。セリーヌさんはキリスト教徒ですよね。それではキリスト教のセリーヌさんの土俵で話をしてみましょうか。」
「私も別に敬虔なクリスチャンというわけではないデスガ・・。進化論も受け入れていマスシ・・。でもまあいいデスヨ。」
セリーヌは少し不服そうであったがうなずき、教授は真剣な顔でセリーヌに向かい合った。
「セリーヌさんにとって神様はどういう存在ですか。」
「そうデスネ、この世の全てを造り、全てのものに愛を持っていて、いつも私たちを見守ってくれる存在ですかネ。」
「なぜ、そう考えるのですか。そこに疑問を持ったことは無いのですか。」
「神様を疑うなんてとんでもないことデス。聖書にもたしか『神を疑うな、だだ信じよ』と書いてありますネ。私はそんなに敬虔なほうじゃありませんけど、もうちょっと信仰の厚い人だったら聖書の中の出典だってすぐに示せマス。」
「そうですね。キリスト教徒の根本には聖書があり、聖書にそう書いてあるからというのが行動原理になっています。であれば、もし私が悪魔なら、聖書を書き換えて、キリスト教徒を間違えた方向に誘導しますよ。」
「そんな、聖書に悪魔の言葉なんて、想像するだけでも恐ろしいデス。」
青くなって言葉を荒げるセリーヌに教授はさらにたたみかけた。
「キリスト教徒の考える悪魔は、たぶん私よりもずっと狡猾で、人間を堕落させるのに手段を選ばない存在でしょうから、聖書に手を出さないとは考えられないですが。」
「いえ、聖書は神の加護がありマスから、書き換えるなんていうことはできないようになっているはずなのデスヨ。」
「そうでしょうか。実際、今の聖書も宗派が違うと記述が異なっていますよ。少なくとも人は聖書は書き換えることができるのです。より具体的な例を挙げると、初めてのラテン語の聖書となるウルガーダ訳聖書があります。これはヒエロニムスというラテン教父が訳したものですが、問題の発端は、もともと聖書はヘブライ語で書かれており、ヘブライ語は母音を表記しないというところにありました。このため、ヒエロニムスはヘブライ語を正確に訳することができずに、例えばモーセに角があるなどの明らかな間違いが含まれています。ヘブライ語では、『角』と『光り輝く』は同じ表記になってしまうからです。しかし当時はこれが正式な聖書とされ、中世から20世紀までカトリックのスタンダードになっていました。これを信じたミケランジェロは、モーセの像に角をつけた状態で作っています。つまり、聖書は全て正確な表記がされているとは限らないのです。」
「それは過去の話デスッ。今は多くの人に見直され、正しいものになっていマス。」
必死に否定するセリーヌだったが、教授は冷静に答えた。
「過去間違えていたものを、今は間違えていないという保障はありますか。人間なら間違いを犯しても、今はそれを改めるということは当然ありえます。しかしこと神様がらみになると事情が異なります。神は間違いをしないのです。このため、旧約聖書を用いるユダヤ教では、預言者は一度予言を違えると、石打の刑で殺されることになっていました。つまり予言というのは神の言葉であり間違えるものではないため、間違えるのは神を騙る偽者であるから死刑になるということです。この考え方をすると、聖書も一度間違えたものが存在したということは、神の言葉ではないということになります。先程、十字軍を派遣したことも過去のバチカンの指導者の問題ということでしたが、であれば今の指導者も間違えていないという保障はなにもないということになります。」
セリーヌはまだ何か言いたそうだったが、言葉が見つからないようだった。
「セリーヌさん申し訳ない。私は決してキリスト教を貶めるつもりは無いのです。実際のところ、他の宗教も同じ傾向を持っています。例えばイスラム教の場合はローマ教皇のような全体の指導者が存在しないため、各地に指導者が分かれて多数存在しています。その指導者の中には、神学的に優れているから指導者になったのではなく、武力を持っているから指導者になった者が少なからずいます。彼らはコーランを自分の都合のいいように独自の解釈で信者に刷り込み、信者に自爆テロを遂行させているのです。第三者にはとても神の言葉とも思えないようなことを、信者は真剣に信じているのです。
これらのことから私が言いたいのは、盲目的に神の言葉だと信じることは危険だということです。『汝疑うこと無かれ』というのは聖書の有名な一節であり、バチカンは伝統的に『真理は教会を通じて知るものであり、自分で探求するのは異端』という立場をとってきました。哲学としてのキリスト教からするとこれは当然のことなのです。盲目的に信じてこそ、神様の愛を信じることができるからです。これはキリスト教以外の宗教でもほぼ同じで、盲目的な信仰を求めています。ですが私が思うには、本当の神様であるなら、個人が疑って疑って多方面から検討しても、やはり本物の神様としか考えられない、ということになるはずです。しかし、自分で考えることなく、盲目に信じることが信仰への近道なのです。このため、論理的に客観性を検討することなく無条件に信じ、他の考え方を受け付けなくなるのです。
先程、セリーヌさんには不快な思いをさせて申し訳なかったのですが、あえて私が聖書に対して失礼な指摘をしたのは、単に宗教を信じる者と信じない者の軋轢を実演したかっただけなのです。私自身は、本当は野暮なことを言って聖書にケチをつけるつもりは無いのです。キリスト教徒は聖書を信じて信仰し、それで幸せになれるのであればそれで構わないと思います。イスラム教徒もコーランが正しいと信じて穏やかに生活できるのなら、それが最もよいことなのです。
しかし注意していただきたいのが、盲目的に信じている人が、信じていない人に対して、それを真理だとして強要することは、非常に危険であるということなのです。特に別の宗教を信仰している者がぶつかった場合は、お互いが自分の宗教が真理だと主張し、異なる立場をとる他の宗教は偽者だと決め付けることで、他者を排斥し、そこに争いが生じます。そもそもが『疑うこと無く』信じている内容ですので、論理的な妥協点はお互いに見出せず、相手の全否定になるのは必然なのです。
自分の宗教以外は正しくない、というのは宗教が本質的に持っている性質です。自身の宗教の正当性を訴えるためには当然そうなってしまいますね。冒頭で説明したように、神様システムとしては本来同じ概念かもしれないものを、宗教が異なると別の解釈となり、特に一神教の場合は、他の宗教の神様を偽者としないと成立しなくなります。そしてお互いを排斥するために戦いが起こる。・・・とても単純な構造ですね。」
教授は言いたいことは言い終えたという顔で千草のほうを見た。
「さて、こんなところでいかがでしようか、千草くん。」
「先生、今日はありがとうございました。とても参考になりました。」
千草は教授にお礼を述べ、セリーヌを連れて豊中キャンパスを後にした。
帰りの車の中で、千草がセリーヌに話しかけた。
「今日の先生のご説明を要約すると、まず宗教はその性質上排他的なものになり、その排他性により競合を生じるが、その際、信仰は命よりも大切なものとなるため、命すら軽んじる戦いとなる、という点ね。ここにも環境問題とは独立して、知性が絶滅につながる因果律が存在するわね。それともう一つは、知性からは必然的に信仰心が生まれ、その信仰対象である神様システムの構造は自然と類似したものになる、という点があったわね。どう思います、セリーヌさん。」
「はい、前者は絶滅を導くとても典型的な例だと言えると思いマス。」
まだ興奮冷めやらぬといった感じで答えたセリーヌに、千草が付け加えた。
「宗教が戦いを導くという因果律は、これまでいろいろと挙げてきた因果律に追加すべき1つの例ですね。でも、今回の訪問の一番の目的は、それらの因果律が果たして神様の安全装置なのかどうかのヒントを得ることでしたから、後者の情報はとても有用でしたね。」
「そうですね、知性から必ず信仰心が生まれる点、しかも、人が考える神様システムの構造が類似している、という点はとても興味深いデス。」
「そこは初めて今日でてきた視点ね。重要な内容が隠れていそうだから、研究所に戻って落ち着いて検討してみましょうね。」
千草はそう言って帰路を急ぐことにした。彼女が運転する車は、併走していたモノレールをあっという間に後ろに抜き去り、千里に向かってつき進んでいった。
以下、蛇足の追記:
●ウルガーダ訳聖書 <ホント>
単にウルガダとも呼ばれていますが、バチカンが公式な聖書として長い間採用していたものです。聖書は神の言葉ですから、内容は一字一句正しいとされ、疑うことは許されません。このため、当時はモーセには角があることが正しかったのです。真実とは異なるわけですが、それは疑ってはならないことだったのです。そもそも他言語に訳す場合、言語体系が異なるものをどうやっても完全に正しく訳すことはできません。それを一字一句信じるのは無理があります。そういう意味では、アラビア語のコーランのみを正式なものとしているイスラム教のやり方は正しいのかもしれません。
ただし、本当に神の言葉である聖典であるなら、全ての人類が理解できるはずものものであって、一部の民族しか理解できない特定の言語で書かれている時点で眉唾と、筆者なんかは考えてしまうのですが。