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神の計略  作者: 日之本オタ
7/10

7.遺伝子に仕組まれたもの

 セリーヌが産業総合研究所に来て2ヶ月半が過ぎ、そろそろこれまでのことを論文にまとめようと情報を整理していると、千草が声をかけた。

「セリーヌさん、明日の午後イチで、国健省の山下さんと打ち合わせがあるんだけど、時間はありますか。」


「はい、参加できますが、国健省ってなんデスカ。」


「日本の省庁で、国民健康省のこと。昔は厚生省とか厚労省とか呼んでたらしいけど、福祉や医療関係を管轄しているところね。山下さんはそこの事務次官で、国健省のトップにあたる偉い人よ。」


「えっ、そんな人が何をしに来るのデスカ。」


「健康統計によると、国民の健康状態が年々ゆっくりと低下傾向にあるので、これについて相談したいらしいわ。理工学研究所の安原さんにも声をかけて同席してくれることになっているの。安原さんは遺伝子の専門家だからきっと面白い話が聞けると思うわよ。」


「はい、是非おねがいしマス。」



 翌日、産業総合研究所内の会議室で山下、安原を招いた会議が行われた。千草が会議の進行をし、山下に会議目的の説明を依頼した。


「国健省次官の山下康雄です。今日はよろしくお願いします。それではさっそくですが、本題に入らせていただきます。

 国健省では国民の健康管理のために、現在国民全体の健康診断の情報をビッグデータ解析しています。健康状態にもいろいろなものがありますが、我々はそれを先天的なものと後天的なものに分けて解析していみました。実はこの2つを独立変数として分離するのがかなり大変だったのですが、なんとかそれぞれの評価指標をつくることができました。」


 ここで千草が説明を求めた。

「山下さん、その評価指標について少し具体的に説明してもらえませんか。」


「はい、そうですね。2つの評価指標は、先天的指標と後天的指標になるわけです。先天的指標は生まれた時点ですでに決まっている健康指数で、後天的指標は生まれた後の環境に影響した健康指数です。例えば、血友病などは純粋に先天的指標の一部であり、多くの感染症は後天的指標の一部に含まれるわけです。ただ、例えばマラリアなどは後天的指標のように思われるかもしれませんが、実際には遺伝的にマラリアにならない人もいますので、先天的指標にも関係するわけです。もう1つ例を挙げると、骨折についても事故という後天的要因が大きい割合を占めますが、これには骨の強度も関係し、これまた後天的なトレーニングの要素と先天的な骨格の頑丈さといった両者が入り混じっているわけです。私共は苦労の末に、最終的には多くの統計データを利用することで、国民一人ひとりの健康状態を先天的指標と後天的指標に分離してデータ化することに成功しました。

 ここからが本題なのですが、国民全体のこの2つの指標を年度別にグラフにしてみました。すると、後天的指標はじわじわとよい方向に進んでいます。これは医療の発達や健康管理の向上など、私共国健省の努力の賜物と自負するところです。しかし一方、先天的指標は少しずつ低下する傾向にあります。現在のところ下がり幅は微小なのですが、この曲線を統計検定すると、明らかに指数関数になっており、あと数十年後には急速に低下することがわかりました。このままでは後天的指標の向上が意味をなさないほど先天的指標が低下し、要するに国民全体の健康状態が大きく低下することになって、将来の医療費がとんでもないことになるため、皆様のお知恵を拝借(はいしゃく)したいとお伺いした次第です。」


 山下の説明を受け、千草が補足した。

「山下さん、ありがとうございました。いまのご説明は、国民が遺伝的には急速に弱くなっているということを意味していますので、今日は理工学研究所の遺伝子研究の権威、安原健二郎博士に来てもらっています。博士、今の話をどのようにお考えですか。」


 安原は比較的若く、ラフな格好をしており、その見かけの通り軽い口調で話し始めた。

「うん、そうだね。日本人に限らず、人類全体の遺伝子が弱くなっているというのは間違いないね。アレルギーや虚弱体質が増えているのは事実だからね。でも遺伝的に考えると、こうなって当然なんだよね。

 遺伝子そのものの説明はいまさらしないけど、遺伝子を子孫に伝えるためにコピーする際には、一般に思われている以上の確率でコピーミスが発生しているんだ。まあ、これが進化につながることもあるんだけど、遺伝子はとてもデリケートな情報の集まりだから、コピーミスした場合はほとんどの場合よくない方向になっていくんだよね。乱暴な言い方をする、子孫を残すたびに遺伝子は劣化していくんだよ。でも、自然界は生存競争の厳しいところだから、劣化した遺伝子を持つ弱い固体は早々に命を失い、強いものだけが生き残って次の子孫を作ることができるんだ。このことにより、種全体として遺伝子の健全性を保つことができるんだ。だけど、人間は生存競争から外れて生きてるので、弱い遺伝子でも生き残ってしまう。つまり、人間という種の遺伝子はどんどん劣化していってるんだ。

 例えてみると、遺伝子は微妙にバランスをとって積み上っている積み木の塔のようなものだとするね。その塔をコピーして同じように積み重ねて塔を作る際に、コピーミスで1つの積み木を本来のものと異なる形をしたものと置きかえたと考えるんだ。まれにもっと安定した塔になる場合もあるけど、大抵の場合はその塔は崩れてしまうだろ。自然界では崩れた塔は排除され、安定したものだけが残るんだ。でも人間の場合は、崩れた塔も生き残って、新たな塔を作るときには崩れた塔をコピーすることになるから、人間の種としてはどんどん劣化したものが増えていくってことさ。さっきも言ったけど、実際にアレルギーやら内臓疾患など、特に近視の人はどんどん増えていってるからね。もし、これらを根本的に解決しようとするなら、人類は弱い遺伝子を持つ人間を排除しないといけないということだね。」


 山下があせった顔をして安原の説明をさえぎった。

「ちょっとお待ちください。それは優生学の考え方ですよね。私共国健省としてそのような考え方はいくらなんでも・・。」


 山下の異議に、安原は待っていましたとばかりに答えた。

「そう、優生学の考え方なんだよ。優生学は劣った遺伝子を持つ人間を排除して、人類全体の遺伝子を健全に保とうという考え方で、過去の権力者などが異民族を虐殺したり、遺伝病の人に不妊手術をしたりすることを正当化するときに使った理屈なんだよね。今の世ではとても受け入れられないよね。でも、ここでいう優生学は全然レベルが違うんだ。本当の意味で遺伝子の健全性を保つためには、残す遺伝子は自然界で生き抜くことができるレベルでなければならない。つまり、病気になって薬を飲むような奴は生き残れないということなんだ。

 この中に一度も薬を飲んだことがない人はいるかい?僕はいままで何度か風邪を引いて薬を飲んだことがあるけど、もし自然環境にいたなら、薬が無い中病気が悪化して死んだかもしれないし、風邪で調子が悪いところを獣に襲われたかもしれないんだ。そもそも僕はメガネがないと何も見えないから、野生の世界ではすぐに捕食されているだろうね。要するに僕は自然界では子孫を残す資格が無かったということだね。過去、優生学を(とな)えたやつらは、自分は排除される方に入らないことを前提としていたけど、本来ならそういう奴等も排除される側に入るべきなんだろうね。ただ実際問題として、自分や自分の肉親が病気になったとき、薬を使わずに放置できるかい?そこら中に天敵がうろうろする環境で命を危険にさらしながら日々生活できるかい?そんなの無理だよね。要するに、そもそも人類に優生学を適用することはできないってことなのさ。

 大抵の動物は種族維持のために特に子供に対しては強い愛情を示すようにできてるんだよ。というか、子供に愛情を持って保護してきた種族が生き残ってきたんだよね。だから、子供が怪我をしたり病気をしたりしたときは、どうしても助けたいし、子供に遺伝子的問題があったとしても何とかしてやりたい、とそう思うもんだよ。人間は知恵を持つことによってそれができるようになり、本来自然界では生き残れないような遺伝子を持った人も医療によって生き残り、子孫を残せるようになったんだ。自分の子供が病気になった時に、人類全ての遺伝子を維持するために子供を病院に連れて行くのをやめたりする?そんなことないよね。でも、ここに重大なポイントがあるんだ。つまり、医療が進化すればするほど、弱い個体の命でも救われるようになり、急速に種としては弱くなっていくってことさ。山下さんの指標を借りると、後天的指標を比例的に向上させた場合、先天的指標は指数関数的に下がっていくようにできているんだよ。」


 偉い人の会議なので、黙って聞いているつもりのセリーヌだったが、安原の説明に思わず発言していた。

「あっ、あの、私は進化が絶滅に結びつくということをテーマに研究していて、これまでいろいろな実例を見つけてきたのデスが、これもその一つってことになりますネ。」


 これを聞いた安原は、一瞬考える様子を見せた後、セリーヌに話しかけた。

「なるほど、うんそうだね。僕はこの理屈に行き当たったとき、たしかに君と同じ感想を持ったよ。これって、ある生き物の知的進歩が進むと、必然的にその種全体の遺伝子が劣化し、最終的に絶滅に向かうしくみになってるってことだろ。なんだかまるで、知恵の発達がある程度以上進まないようにするための、自然界の安全装置じゃないかってね。」


「安全装置デスカ。」

とセリーヌつぶやき、その表現がこれまで注目してきた事象をうまく表しているように感じていた。


 一方、セリーヌの思いをよそに、暗い表情の山下が言った。

「安全装置かどうかはともかくとして、遺伝子のしくみがそうなっているものだとすると、医療を向上させようとしている私共の努力は、むしろ人類絶滅を早めているということになるのでしょうか。」


「うん、皮肉な話だけど、ある意味ではそういうことなんだよね。でも、目の前の親しい人を救うためには、医療の発達はとても好ましいことなんだよ。山下さんの努力はそういう人に感謝されるべきすばらしいものだと思うよ。仮にそれが人類の絶滅を早めるとしてもね。これは僕の感想だけど、人類全体のために近しい人を犠牲にしなくてはいけない、なんて社会にはなって欲しくないね。そんな世の中で生きていくのはいやだよ。」


 少し胸をなでおろしている様子の山下を見ながら、千草が安原に尋ねた。

「安原さん、この問題を解決するために、遺伝子治療などの根本的な手段はありませんか。」


「そうだね。千草ちゃんの言うように根本的な解決手段があれば問題はないんだけど、結論からいうと僕は否定的だね。それにはいくつか理由がある。まず、純技術的に言えばできないわけじゃないんだ。今では遺伝子の解析は全て終わっているから、受精卵の段階で全ての遺伝子を調べ、問題のある箇所を置き換えることで、完璧な遺伝子を持った人間にすることはできるね。実際、実験的にそのようなことが行われたと聞いたことがあるよ。でも実用上の問題は、卵子は受精後すぐに分裂を始めるけど、その分裂以前に遺伝子を置き換えないといけないってことだ。これは自然に受精した場合には不可能なので、子供は全て体外受精で作る必要が出てくるってことだね。『皆さん、勝手に子供を作っちゃだめですよ、子供を作るときは卵子と精子を医療機関に提供してくださいね』って、政府広報で呼びかけることになるのかな。どう考えても、これは社会に受け入れられないね。」


 山下も、とんでもないという顔をしながら首を横に振っていた。


「それと、倫理的な問題も大きいね。人の遺伝子を操作するわけだから、宗教界からも含めて大きな議論を呼ぶと思うよ。まあ、倫理と人類絶滅回避のどちらを優先するのか興味のある議論になると思うけどね。もし倫理よりも人類絶滅回避が優先されるなら、そもそも遺伝子治療なんてしなくても、人類の未来のために病気の治療はやめましょう、極端な優生学を適用しましょうってことにしてしまえばいいわけだね。こんなのありえないよ。

 あと、哲学的にも議論を呼ぶことになるね。遺伝子を置き換えた子供は、本当の意味で両親の子供になるんだろうかってことだね。子供の遺伝子は、両親から受け継いだものとは異なるものになっているんだからね。もちろん、親子の(きずな)は遺伝子配列によるものだけじゃないから、これをもって親子じゃないというのは乱暴なんだけど、僕が言いたいのは哲学的な定義のことだよ。

 そういう意味で考えてみれば、生まれてくる子供は自然界ではありえない遺伝子配列を持っているかもしれないので、極端なことを言えばその子は人間なのかどうかから考えないといけなくなるんだ。人と変わらない心をもっているから人間だっていうなら、アンドロイドも人間ってことになるよね。今でもアンドロイドのAIを心だと考えていて、アンドロイドと結婚している人だっているんだ。バイオテクノロジーにより将来作られるであろうアンドロイドになると人間と区別がつかなくなるだろうけど、それって人間っていえるのかな。遺伝子操作した人類が生き延びるのと、人類が絶滅した後にアンドロイドたちがこの社会を引き継いでいくのとに違いはあるのかな。」


 安原が熱演するにつれ、千草が表情を曇らせていったが、安原はそのことには気づかず言葉を続けていた。

「なんかちょっと話が極端になってしまったけど、生まれてくる子供を遺伝子操作するというのは、技術的な実現性だけの問題ではないから、大変な議論になってくるんだ。僕個人的には、そこまでして人類を存続させる意味はないと思うね。」


 一気にしゃべり終えた安原が一息つくと、山下がおずおすど質問した。

「あの、今でも一部国健省が認可した遺伝子治療が行われていますが、それとの違いはどうなんでしょうか。」


「遺伝子治療には大きく分けて2つあるから、その違いに注意しないといけないね。一般的に遺伝子治療として実施されているのは、受精卵の段階で遺伝子を置き換えているわけじゃなく、特定の臓器の病気に対して、その臓器の遺伝子のみを置き換えているものなんだよ。もうちょっと詳しく言うと、遺伝病により特定の臓器の機能が正常に働かないことがあるから、その臓器を一部取り出して遺伝子を置き換え、それを増殖して体内に戻すことで、その臓器が正常に機能するようになるんだ。だからこの場合は、患者の本質的な遺伝子が変化するわけじゃなく、一部の臓器を治療しただけだから、言ってみれば臓器移植と同じ、というよりむしろそれよりもずっと変化が小さいものなんだ。

 もう1つは本当の意味での遺伝子操作だね。これはさっき話した受精卵の段階で遺伝子を置き換えるものなんだ。今でも、ごく一部だけどすでに実施されていて、遺伝病を持つ夫婦や近親結婚の夫婦なんかが体外受精で行っているね。でもこれがさっきの絶滅回避のための治療と大きく違う点は2つあるんだ。

 1つは修正する遺伝子の場所が限定的ってことだよ。遺伝病の場合は課題のある遺伝子が分かっているから、そこだけを置き換えるわけだね。近親結婚の場合は、潜性遺伝子同士になる部分のみについて片方を顕性に置き換えるだけなんだ。どちらも絶滅回避のための治療みたいに大規模に置き換えるわけではないんだよ。

 それと2つ目の違い、これが大きいんだけど、今行われているのは、治療のために親たちが希望しておこなっていることだよ。これに対して、絶滅回避のためには皆に強制する必要があるんだ。これって全然違うだろ?もし、人類絶滅の防止という共通目標に、全人類が一致団結して受精時の遺伝子操作を希望するなら、僕は止めやしないけど、そんなことありえないよ。」


 安原は言いたいことを言い尽くしたようだったので、千草が山下に声をかけた。

「山下さん、残念ですが、後天的指標が下がるのは必然のようで、これを留める現実的な手段はありそうにないですね。」


「はい、今のお話でよく理解できました。公務員の私が言うべきことではないかもしれませんが、倫理を無視した強制をするよりは、人類は人としての礼節を保ったまま滅びる方がよいのかもしれませんね。」



 山下と安原を見送り、二人だけになるやいなやセリーヌは千草にまくしたてた。

「千草さん、安原さんも言っていマシタ!これは安全装置だって!」


「そうね。彼もあなたと同じように感じていたみたいね。特に今回の件は、これまでのものと違って、生存範囲とは関係なく、知性がそのまま滅びにつながるしくみになっていたという点は深刻ね。」


「あっ、そうですネ。これって、仮に安全なワープができたとしても、それぞれの生存圏で同時に起こるから、避けようがありませんネ。今までのものと(あわ)せると、何重にも安全装置が存在するってことになりマス。」


「ここまでくると、とても偶然とは思えないわね。セリーヌさんが言うように何者かの意思が働いているような気がします。」


「神様が創った安全装置ってことデスカ?でも、神様がそんなことをなさるのでしょうカ。」


「仮に、本当に神様がいたとして、神様が人間の味方である保障はないのよ。あなたたちキリスト教徒の考えとは違うかもしれないですが。でも、キリスト教徒が信じる聖書の中でさえ、神様は自分の領域を侵そうとする人間を容赦しない記述がありますよね。例えばバベルの塔とか。人間が知恵をつけすぎて神様を脅かさないように安全装置を用意していたとしても不思議じゃないわ。」


「いえ、神様は万能デスから、人間を作る際に全てを見通しておられ、そんな風に人間を作ったりされていまセン。」


「その割には、聖書の随所にその時代々の人間を神様が嘆くシーンがありますよね。神様だって予想ができないことがあるということになりませんか。それに関して、量子力学がでてきたときのアインシュタインの有名な言葉があります。『神はサイコロを振らない』って。」


「どういう意味ですカ。」


「アインシュタインは、現在の状態さえ全て把握できれば、将来の全ての運動は物理で予測可能と考えていたの。つまり、神様はサイコロを振らなくても何の目が出るかがわかってしまうってことね。これに対して、量子力学は確率が運動を支配するため、サイコロは振ってみないと何の目がでるかは分からないという立場をとるの。言ってみれば、神様は世界を作った時点で全てを見通すことができるのか、それとも確率により神様でも予想がつかないことが起こるのか、どっちなのでしょう、ということになるわね。」


「クリスチャンとしては前者だと考えたいデス。」


「そうでしょうね。でも今の物理では後者が当たり前になっているの。それで、もし後者が正しいとしたら、確率によって神様が望んでいない方向にいかないように、安全装置を準備しておくというのは、理にかなっているかもしれませんね。」


 セリーヌはこれにしぶしぶと答えた。

「なるほど、そうですネ。私には受け入れがたいデスが、これまでの事例はそう考えると筋がとおりマス。」


「これは一度、宗教研究家の話を聞いてみるのも悪くないかもしれませんね。」

 千草の提案に、セリーヌはうなずいた。



 その夜アパートに帰った千草は、シャワーを浴びた後、鏡に写る自身の姿を見てつぶやいていた。


「私って本当の意味で人間ではないのかしら。」


 千草は遺伝子操作により生まれていた。より正確には、遺伝子操作のための実験の産物なのである。安原の指摘した遺伝子の劣化は以前から遺伝学者たちの間では課題とされていたため、優れた遺伝子の組み合わせにより優れた人類を作り出す試みがなされていた。一方、晩婚化が進むことにより、高齢になって結婚してからも子供が持てるように、若いうちに精子や卵子を凍結保存しておくことが21世紀中盤よりブームとなった。実際にはそのまま結婚せずに死を迎え、所有権の消滅した精子や卵子がそのまま残されるケースが多くなっていた。このため、政府の極秘プロジェクトとして、所有者のいない精子や卵子の遺伝情報をデータベース化し、その中から優れた遺伝子を組み合わせてDNAを作り、それを卵核に打ち込み、人工子宮で出産まで育てることがなされた。

 生まれた子供たちは、知能が高く、健康で、容姿も優れており、また多くの才能を身につけていた。その子たちには親はいなかったが、自身の高い能力にエリート意識を持ったり、一般の人の能力を見下したりしないように、成長過程において慎重に教育する必要もあることから、アンドロイドによって計画的に育てられた。このため、若干浮世離れしている傾向はあるものの、人格的にも優れた個体がほとんどであった。実験自体はうまくいったが、実用にあたっては安原が指摘した数々の課題があったため、十数人が生まれた時点で実験は終了し、報告書は極秘裏に保存されていた。この結果は、人類が自然に存続できないレベルまで減少した際に役立てられるのであろう。

 ちなみに、本実験で作られたのは全て女性である。女性はX染色体をペアで持っているためDNAの異常を修復することができるが、男性のY染色体はペアがないため異常を修復できず、異常部分を切り捨てることで次々と短くなくなり、既にX染色体の半分ぐらいの長さになっている。このことにより、実際に子供の頃は、男の子は病気になりやすい傾向を示している。将来的には、男は絶滅してしまうかもしないのだ。こういった理由により、本プロジェクトでは女性のみが作られたのだ。この技術が使われるときは、既に自然交配ができない状況であることが想定されるため、生まれてくる子供が女性のみであっても問題はないと考えられている。


 千草は、昼間の安原の言葉が頭から離れなかった。

「そうね、つきつめて考えると、私はアンドロイドと変わらないのかしら。」


 三十代半ばとは思えない若すぎる鏡の中の自分がそう問いかけてきた。千草には血中ビリルビンを高く保つ遺伝子が組み込まれていた。このことで体内の活性酸素は中和され、細胞の老化速度が劇的に低下し、若い体を保つことができていた。しかし、今の千草にはその若さが(うと)ましかった。


「セリーヌはこのことを知ったらどう思うのでしょうね。」


 いつになく建設的ではない思考を堂々巡りさせている千草であったが、そのこと自体が千草も人間である(あかし)なのに本人は気づいていなかった。


挿絵(By みてみん)


以下、蛇足の追記:


●優生学 <ホント>

 人類の黒歴史です。日本でもかつて優生保護法なんてものがありました。


●短いY染色体 <ホント>

 実際にX染色体に比べてかなり短くなっています。いつか生存限界を下回り、Y染色体自体が致死遺伝子となって、男は生まれなくなるかもしれません。


●高ビリルビン血症 <ホント>

 ビリルビンは赤血球が壊れてできる色素で、黄疸の原因ともなります。新生児に黄疸が多いのは、急に肺呼吸に変わった際に体内にできる活性酸素をビリルビンで抑えるためです。遺伝的に血中ビリルビンの濃度が高い人も存在します。


●遺伝子の劣化 <たぶんホント>

 これは科学的に証明されたものではありませんが、理屈からするとそうなっています。でもこれは人間に限ったものでありません。例えば家畜やペットなど生存競争から隔離されているため、野生では生存できない生物となっています。これらは品種改良と言う操作が入っていますので、より顕著ですね。さらにいえば、育てる漁業と言うことで、稚魚や稚貝をある程度育てて放流することが行われていますが、生存率の低い幼少期を生存競争から隔離して成長させることは種としての遺伝子を弱めることにつながるかもしれません。その結果、もしかしたら将来それらの魚自体が自然界では生存できない種となり、結局は全滅することになるのでは、と筆者なんかは心配しています。考えすぎでしょうか。とにかく、自然に手を加えるのは難しいのです。


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