2.情報統合学教室
打ち合わせの前日、セリーヌは日本に向かった。日本へはフランクフルトから東京まで重力チューブ新幹線を利用する。重力チューブ新幹線とは、原理的にはフランクフルトから東京まで地球に深く穴を掘って線路を通し、そこを真空にするだけのものである。列車は穴を下るに際に重力に引かれて加速し、最深部で最高速度となった後、登りで減速して地表に到着することとなり、摩擦による損失分の動力のみので移動できるもので、今では大陸間の主な移動手段となっている。
セリーヌは窓の無い息の詰まりそうな車内で、漠然と過去の環境対策について思いをめぐらせていた。
『昔は大陸間の移動はジェット機が主流だったけど、二酸化炭素排出の問題で、この新幹線の建設が急がれたのよね。でも、これだって、建設には膨大なエネルギーが必要だったから、結果的に二酸化炭素の排出削減につながったのかしら。結局、二酸化炭素の結晶化技術が無ければ人類は絶滅していたのかもしれないわね。人類の生存ってそんなに危ういものなのかしら。』
車内に設置されているスクリーンには、日本のさまざまな観光地を紹介する美しい映像が表示されていた。セリーヌはいつしか心配事を忘れてその映像に心を奪われ、これからの日本滞在に思いを馳せていた。
東京からリニア新幹線に乗り換えて大阪についたセリーヌは市内で一泊した。日本のアニメをオリジナルの音声で見続けてきたセリーヌにとって、日本語での会話は不自由の無いレベルに達しており、特に困ることなくホテルにたどり着くことができた。携帯機器による自動翻訳が発達した今の時代では、そもそも言葉の壁はあまり障害にはならないが、それでも翻訳機に頼らず直接会話できるというのは旅行をより楽しくしてくれるものだ。ここまでで使ったのはせいぜい旅行会話ではあったものの、日本において日本語で会話している事実がアニメの世界の一員になったような気分にさせられ、セリーヌは高揚していた。
翌朝早々に、千草のいる産業総合研究所に向かった。最寄り駅から研究所まで少し距離はあったが、打ち合わせ時間にはまだ早かったので、歩いていくことにした。まだ自然の残る丘陵地で、歩くことは気持ちがよかった。大きな池を右に見ながら散歩気分ですがすがしい気分になった頃、産業総合研究所に到着した。
受付で名前を告げると、ロビーで待つよう指示されたが、すぐに迎えが現れた。小柄で黒い長髪の眼が大きな若い女性で、一見高校生にも見えるその容姿に、セリーヌは秘書が来たものだと思った。
「パスツール大学社会歴史学教室のセリーヌ=ベルナールです。今日は千草須美博士にお会いしに来マシタ。」
セリーヌが日本語で挨拶すると、黒髪の女性は少し驚いた様子を見せた後、にこやかに答えた。
「情報統合学教室の千草須美です。遠いところご苦労様です。」
「はい、よろしくお願いシマス。」
セリーヌは答えながらもこれが博士本人であることに少なからず驚かされた。まるで美少女アニメの登場人物が出てきたみたいだと思いつつ握手し、その華奢な手の感触に再び驚いていた。名刺情報を確認すると、「主幹研究官・総合学博士」となっていたが、どうにも見た目とのギャップが大きかった。
「それではこちらに。」
と、案内しながら、千草はセリーヌに話しかけた。
「日本語がとてもお上手ですが、日本に長くおられるのですか。」
「いえ、昨日初めて日本に来マシタ。」
「えっ、そうなんですか。ベルナールさんはどちらで日本語を学んだのですか。」
「あっ、セリーヌでいいデス。私は日本のアニメが好きなので、アニメを見て日本語を習いマシタ。」
セリーヌは照れながら、しかし、ある期待をしながらそう答えた。
「そうなんですか。それでこれだけ会話ができるのはすばらしいですね。」
千草が自分の日本語を評価してくれたのは嬉しかったが、言葉の件にのみ関心を持ち、アニメの話題に食いついてくれなかったのは期待はずれだった。どうやら日本人全てがアニメ好きという訳ではないようだ。
「でも、アニメや映画を見る場合にも自動翻訳がありますから、日本語で聞く必要は無いんじゃないですか。」
千草は当然の疑問を口にしたが、この質問はセリーヌにとってアニメオタクのプライドを喚起するものだった。
「はい、それはそうなんデス。たしかに翻訳フィルタを通せば、AIが音声合成をして、元の声優の声でフランス語を話すアニメができマス。でも私は日本のアニメは日本語で聞かないと本当の価値が分からないと思うのデス。オリジナルの価値を大切にしたいので、何度もフランス語版と日本語版を見比べて日本語を覚え、今では日本語版だけで見ていマス。」
「そうなんですか。翻訳機が普及してからは外国語を習得する人はあまりいなくなりましたのにすごいですね。日本でも昔と違って、学校での英語の授業はありませんし、受験科目にも外国語はなくなっていますからね。」
アニメの話題はこれ以上続かないと感じたセリーヌは、別の疑問を口にした。
「ところで、情報統合学ってどういうものなのでしょうカ。学際のようなものデスカ。」
千草は苦笑いをしながら答えた。
「よくそれを聞かれるんですよ。学際はいろいろな分野の学問の人がお互い情報交換しようと交流する活動です。情報交換の過程で何か新しいことを生み出そうというもので、具体的な課題を解決しようとするものではありません。一方、情報統合学は特定の課題に対して、広い分野の情報を集めて統合的にそれに対処するもので、異なった情報をどう有機的に結びつけて意味のあるものにし、課題解決を図るのかを研究する学問分野の一つです。」
千草の答えに、ブライアンが彼女を紹介したことは的を射たものであったことをセリーヌは納得した。
「打ち合わせをする前にちょっとお目にかけておきたいものがあります。」
千草はセリーヌをエスコートしながら説明を始めた。
「メールでいただいた環境問題について、会議の前により深く理解しておくために、当研究所のAMRシステムを使ってバーチャルフィールドトリップに出かけようと思います。」
セリーヌは聞きなれない言葉に疑問を呈した。
「AMRシステムとはどういうものデスカ。」
「Augmented Reality (拡張現実)とMixed Reality (複合現実)を融合したものですわ。没入型の仮想現実システムを用いた情報取得用の端末として開発したものです。例えば今回お見せする二酸化炭素固定技術ですと、カーボンクリスタル社がホームページで公開している動画やホログラムデータなどを用いてまるで工場見学に行ったように観察できるようにしたものです。でもそれだけではなく、その技術に関する論文や統計データなどをAIがネット中から集めてきて、より詳細な説明が聞けますし、こちらの質問に対してもAIが正確な回答を解答を返してくれます。たぶん実際に工場見学に行って広報の方の説明を聞くよりも詳細な情報が得られますよ。」
にこやかに説明する千草を見ながら、セリーヌは自分の妹と歩いているような気がしていた。いや、実際には妹はいないのだが。
「こちらです。」
千草に連れられてセリーヌが入ったのは、一辺が6m程の立方体の部屋だった。部屋には壁に小さな端末があるだけで、あとは床も天井も壁も一面真っ白になっていた。
「さっそくはじめましょうか。」
と、千草が端末を操作すると、突然二人は大きな工場の前に立っていた。生活の多くの局面にバーチャルリアリティーが取り入れられ、こういうものに慣れているはずのセリーヌも一瞬たじろいだ。さすがにここまで現実への再現度が高いものにはお目にかかったことはなかったのだ。
驚いているセリーヌに、少しいたずらっぽい笑顔を浮かべた千草が声をかけた。
「さあ、カーボンクリスタル社の中に入りましょう。」
セリーヌが歩くと、景色がそれにつれて動いていき、二人はカーボンクリスタル社の建物に入っていった。本当にそこにいて歩いているようだった。
「これって床が逆向きに動いているのデスカ。」
セリーヌが思わずもらした疑問に千草が答えた。
「はい。今はセリーヌさんをメインゲストに設定していますので、セリーヌさんが歩いても常にセリーヌさんが部屋の中心に来るよう床が逆向きに動いています。ちゃんと階段などの上下の移動にも対応していますよ。ですが、物理的に私はセリーヌさんから3m以上離れられません。壁にぶつかってしまいますからね。」
「それにしてもすごいデス。これってエンタメ用にも売れるんじゃなんデスカ。」
「そうですね。でもそれなりの設備が必要ですから、テーマパーク用とかじゃないかしら。個人用には今普及しているヘッドマウントディスプレイがやっぱり向いているんだと思います。」
二人が雑談しながらショールームらしきところに入ると、丸っこいぬいぐるみのような生き物が奥から現れた。
「こんにちは、ボクはサンケンくんじゃケン。」
セリーヌは一瞬面食らったが、これが日本人が何かにつけて使いたがる『ゆるきゃら』だと理解した。それにしても、どうしてゆるきゃらには変な語尾をつけたしゃべり方をさせるのだろう。
「これは産業総合研究所のゆるきゃらで解説用のAIです。今はカーボンクリスタル社が提供しているバーチャルツアーのデータに、うちのサンケンくんをオーバーレイしています。サンケンくんはカーボンクリスタル社が提供している情報だけでなく、カーボンクリスタル社に関係する全てのデータをネット上から集めてきて、わかりやすく説明してくれます。サンケンくん、お願いね。」
「わかったケン。」
サンケンくんはセリーヌの方に向き直り、尋ねた。
「どこから説明すればいい?地球温暖化の歴史からかな?」
「地球温暖化については私の専門だからいいデス。カーボンクリスタルがどうやって二酸化炭素の固定を行ってきたか説明してくだサイ。」
周囲が突然変化し、三人はどこかの海岸に立っていた。波打ち際の向こうからもう一人別の人物が歩いてきた。セリーヌはその人物に見覚えがあった。環境史の教科書には必ず写真が載っているハロルド=ランドール、すなわちカーボンクリスタル社の創業者だ。ランドールは海岸で何かを拾っているようだ。
「カーボンクリスタル社の創業者ランドールの趣味は海岸で珪化木を集めることだったケン。珪化木は木の化石のことなんだ。」
サンケンくんは小さくなってランドールの周りを飛び回りながら説明を始めた。
「珪化木は恐竜の化石なんかとは違って、土に埋まった木の中の炭素原子が時間をかけてケイ素分子に置き換わったものじゃケン。炭素とケイ素はとても近い性質をもっている。だから木の細胞構造もそのまま残して石になっているんじゃケン。そこで、ランドールは考えた。水晶のケイ素を炭素に置き換えた固体ができないものかってね。」
ランドールと海岸は消え、大きな水晶が現れた後、さらにそれが拡大し続け、結晶の分子構造が現れた。
「水晶はこのようケイ素原子と酸素原子が1対2の割合できれいに並んでいるものじゃケン。だから、ケイ素の代りに炭素でこれを作れば、二酸化炭素を固体化できるんじゃないかと考えた。このため、特殊な条件下で二酸化炭素を液体化し、それに4方向から原子サイズに絞ったレーザーを、炭素原子を固定する位置に照射し、その位置で一瞬炭素と酸素の原子を励起状態にして、くっつけ、これを立体的に走査して結晶を作っていったケン。」
周囲は結晶化の原理説明図から大きな工場の内部に変わった。そこには大掛かりの機械が並んでいた。
「でもこの方法だと、二酸化炭素の液体化とレーザー元素固定装置が大規模になり大変だったケン。コストも高くついたので、あまり大きな事業にならなかったんじゃケン。そんな時、二酸化炭素液体化装置の吸入フィルタのうち目詰まりが発生するものがあった。フィルタのメーカーに問い合わせた結果、目詰まりしたロットのフィルタを製造する材料容器の洗浄が不充分で、別の材料が混入していたことがわかったケン。また、カーボンクリスタル社がフィルタに詰まった物質を分析したところ、それはなんと結晶化二酸化炭素の細かい粒子だったんじゃケン。それでカーボンクリスタル社ではフィルタに含まれていた物質を元に研究を進め、ついには大気中の二酸化炭素を直接結晶化する触媒を開発した。今では、空気をそのまま触媒を含むフィルタに通すだけで、二酸化炭素の結晶粉末が作られるようになり、大幅な低コスト化が実現したんだケン。できた結晶粉末は建設材料にも利用できるから、二重においしいケン。カーボンクリスタル社は世界の85カ国にプラントを作り、各国の二酸化炭素排出取引を請け負っているんじゃケン。」
セリーヌはふと興味がわいて尋ねた。
「その触媒ってどんな物質なのデスカ。」
「それは企業秘密だケン。プラチナ系触媒というだけしか公開されてなくって、特許も論文もでていないケン。」
「そうね、事業の根幹にかかわるところだから当然デスネ。」
セリーヌが首をすくめて応じると、千草がまじめな顔でセリーヌの目を見つめながら話しだした。
「技術の世界ではよくあることだけど、この例も偶然が元になってブレークスルーが可能だったってことね。もし、フィルタメーカのミスが無ければこの触媒はできておらず、二酸化炭素の固体化が実用化レベルに届かず、気温が上がり続けて人類が絶滅していたってこともあったわけですね。」
「人類は危ないところだったってことデスネ。」
セリーヌは少し胃に冷たい感触を感じながら答えていた。
少し間をおいて、千草がセリーヌに問いかけた。
「カーボンクリスタル社についてはこんなところでいいでしょうか。」
セリーヌはうなずき、ふとした疑問を口にした。
「はい、でも今見せていただいたプレゼン資料は、千草さんが準備したものデスカ。」
「いいえ、これは最初にテーマを指定するだけで、あとはAIがこちらの反応に合わせてリアルタイムで構成していっているコンテンツですよ。」
「それはすばらしいシステムデスネ。とても効率的に情報収集が行えますネ。」
「ありがとうございます。それでは次はマイクロプラスチック問題について見てみましょう。サンケンくんお願いね。」
「わかったケン。」
千草にサンケンくんが答えるや否や、三人は突然海の中にいた。セリーヌはおもわず息を止めたが、一瞬後にわれに返り、少し照れながらほっとため息をついた。よく見ると周りにはチリのようなたくさんのゴミが浮遊しており、美しい珊瑚がところどころ白くなっていた。
「これは2025年の海だケン。人間が捨てた買い物袋やペットボトルなどが紫外線や波の力で細分化されて、海が台無しになっているんだケン。海の仲間たちの中には、これを食べて消化器系をつまらせたり、エラ呼吸ができなくなったりして、死んでしまう子たちが増えていったんだ。海は食物連鎖でつながっているから、特定の層の生物が全滅すると、それより大きな生物は次々飢え死にし、小さなプランクトンは増えて大規模な赤潮が発生したんじゃケン。赤潮を作ったプランクトンたちも増えすぎて死んでいき、その死骸が海の水の粘性係数を高めて海流速度がおちていったんじゃケン。海流がなくなると気候が変化し、大きな災害が起こるだけではなく農作物に大きな被害を出して食糧不足も発生したケン。」
次々に現れる災害映像を見ながらセリーヌはうなずき、これを補足した。
「この問題は、プラスチック類の廃棄と環境変動の間の関係性が直接的でなかったので、なかなか一般に排出削減のモチベーションが広がらなかったのデスよネ。」
「そうじゃケン。そのため、二酸化炭素の排出取引のようなお金とのつながりができず、その対策が商業ベースに乗らなかった。結局、政府の依頼でここの研究所が対応することになったんじゃケン。うちは国立大学法人だから政府に財布を握られてるケン。」
「えっ、そうだったんデスネ。これは不思議な縁デス。」
セリーヌの驚きに千草が少しうれしそうに答えた。
「うちはアレンジしただけなんですけどね。でもマイクロプラスチックという課題の解決に対して、多方面の視点から解決策をさぐるというのは、情報統合学にとても適した課題でした。私の三代前の師匠の神谷三郎先生がこの問題を担当していたんです。」
「そうじゃケン。でも、情報統合学は当時まだほとんど認知されていなかったから、ここに依頼が来るなんてことは本来ありえなかったんじゃケン。実は、通産省の事務次官だった富山進とうちの神谷先生が学生時代の友人で、同窓会で会ってたまたまこの問題を富山次官が持ち出し、神谷先生がやってみようということになったんじゃケン。」
映像は突然関連団体の関係図になった。
「神谷先生はまず多くの分野の専門家を集めてブレインストーミングを行い、方向性を決めたんじゃケン。いろいろ議論した結果、プラスチックを食べるバクテリアを開発するのが現実的ということになった。実は自然界にはプラスチックを消化する酵素を持つバクテリアはすでに存在していた。でもその子たちが効率的にプラスチックを消化できるよう進化するまで待つというのは時間がかかりすぎるから、乳酸菌開発が得意な森治乳業にその子たちの遺伝子操作を委託したんだケン。ただ、もし海に遺伝子操作したバクテリアを放した場合にいろいろな問題が出てくる。生態系への影響はもちろん、漁業や海運業はいろいろプラスチックを使っているから、それらが腐るようになると影響はとんでもなく大きいケン。それで、理工学研究所にもお願いして量子コンピュータを使い、地球全体の50年間分のシミュレーションを行って影響を調査した。その結果をベースに、補償問題など法律面での影響も弁護士を使ってデータを整理したんじゃケン。もちろん大きな影響が出るとの結果は出たけど、それでも実行に移さないといけないほど事態は切迫していたんじゃケン。でもシミュレーションした結果に事前に対応していたおかげで、被害は最小限に抑えられた。森治乳業でもバクテリア開発に苦労したみたいだったけど、理研でのシミュレーションからのフィードバックを繰り返しながら、10年がかりで作り上げたんじゃケン。バクテリア開発の苦心譚も面白い話がいっぱいあるけど聞きたい?」
「ありがとうサンケンくん。でもその話は今日はいいわ。」
千草はそう答え、セリーヌのほうに向き合った。
「どうだったかしら。メールでいただいた疑問に何か示唆を与えるものがありましたか。」
セリーヌはまだ整理できていない頭をフル回転させながら答えた。
「そうですね、とても意義深かったデス。私は文明の進化が人類の絶滅に結びつく点が気になっているのですが、今見た2つの問題共、本当に危ないところでしたネ。もしフィルタのメーカが材料の容器の洗浄を行っていなかったら、もし通産省の次官とこちらの先生が同期でなかったら、こんな幸運が無ければ人類が絶滅していたかもしれないなんて、想像すると身震いしそうデス。」
「おっしゃるとおりですね。1つのアナロジーとして、『ライト兄弟がいなければ飛行機はできなかったのか』というのがあります。実際のところ二人がいなくても、数年後には他の誰かが飛行機を作っていたはずなのです。今回の例は偶然という要素がありますので、数年がもう少し長くなるかもしれませんが、それでも時間があれば目的の技術はできるのかもしれません。ただ、飛行機の例と違って、環境問題の場合は『人類が絶滅するまで』というタイムリミットがありますので、この偶然が無ければ本当に危なかったのかもしれませんね。そう考えると、いわゆる排出制限は根本対策にはなり得なくとも、絶滅までの時間を延ばすことにより根本策が確立できる可能性を高める効果がありますので、決しておろそかにはできませんね。」
千草の説明でセリーヌはかなり整理ができたように感じた。
AMRシステムによるフィールドトリップの後、千草とセリーヌは会議室に移動した。そこにはすでに30代後半の男性が一人待っていた。セリーヌが部屋に入るとコーヒーを勧められ、カップにディスペンサーでコーヒーを注ぐとそれを持って席に着いた。少し時差ぼけ気味の状態で大量の情報を詰め込んだ頭にコーヒーはありがたかった。セリーヌが席につくなり、千草が口を開いた。
「彼はこの研究所の広川です。広川さん、こちらセリーヌさんです。」
「広川守です。専門は社会学です。よろしく。」
「パスツール大学から来ましたセリーヌ=ベルナールです。こちらこそ、よろしくお願いしマス。」
千草は笑顔で二人を見回し、本題に入った。
「それではさっそくですが、博士が懸念している内容を改めてお伝え願えませんか。」
千草に促され、セリーヌは国連での会議の概要、ブライアンとの打ち合わせ内容、加えて午前のフィールドトリップの内容を簡単に説明した。
「・・・、というわけで、私が懸念しているのは個々の環境問題ではなく、もっと本質的な、そう、人類の進化に伴い発生する、人類絶滅をもたらす問題について議論したいと考えていマス。」
セリーヌが説明を終えると、千草がこれに続いた。
「私はこの相談をメールで受けた際、他にも類似の問題が発生していることに気づきました。広川さん、そのあたりを補完してもらえませんか。」
広川は説明を始めた。
「えーと、千草さんから進化することで絶滅につながる社会問題について説明するようにと言われたんですが、環境問題についてはセリーヌさんが専門なので僕がいまさら口を出すようなことではないので・・。でもまあこれって、言ってみれば当たり前のことなんです。」
広川は頭をかきながら続けた。
「例えば、水滴の中にいる細菌のコロニーはそこが栄養豊富であればどんどん増えていきます。そして水滴内は細菌自身の排泄物に汚染され、やがて全滅してしまいます。ただ、一つの水滴が全滅しても他にたくさん水滴がありますので、同種の細菌が絶滅することはありません。でも、人類は知恵を持つことで活動が地球規模になり、活動に伴って地球全体が汚染されていきます。その汚染で地球全体がだめになったら、絶滅するしかないのです。つまり、生存活動に伴い廃棄物が生まれるのは当たり前のことですし、進化によって生存活動の規模が大きくなり、生存圏全体を汚染したら絶滅するというのは、まあこれも理屈上当たり前のことなんですがね。今人類は宇宙活動を活発化しているけど、あくまで地球をベースとした太陽系内に限られているんで、地球が損なわれてしまうとその後長期に生存を維持することはできませんからね。」
広川の説明の中で繰り返した『当たり前』という言葉がセリーヌの琴線に触れた。『そうだ、進化が絶滅に向かうようこの世の摂理ができていることに私は違和感を持っていたんだわ。』と今さながらに自分が漠然と抱えていた疑問点を理解した。
セリーヌの心中に関係なく広川は続けた。
「生存活動が地球規模になることで生じるリスクは環境問題だけではありません。感染症についてもまったく同じです。人間は過去いろいろな感染症に襲われてきました。原始社会においては感染症により一つの村が全滅しても、そこから離れた場所は影響を受けませんでした。しかし人類の活動がグローバルになって以降は状況は変わってきます。1918年ごろに生じたスペイン風邪はヨーロッパを中心に大きく広がりましたし、より人類の活動が広がっていた2020年ごろの第一次コロナ肺炎はあっという間に世界中に広がりました。その後ほぼ30年周期、つまり世代が入れ替わるタイミングで繰り返しコロナウィルスによる世界的なパンデミックが起こっています。これもまさに文明が進歩して活動がグローバル化すると人類全体が危機にさらされるという定型的な例です。」
セリーヌの確信を裏付ける説明を広川は淡々と進めていった。
「結局コロナウィルスについては、2080年代の第三次パンデミックがあまりにもひどい状況となったため、無毒化かつ感染力が強力になるよう遺伝子操作したコロナウィルスを人工的に作ってばらまいたんですよね。これにより、人々は気づかないうちにコロナに感染して免疫を得るという、まあ注射なしのワクチンみたいなものとなり、パンデミックは収束しました。この対策については、ばらまいたウィルスが変異して有毒化したらどうする、という議論もあったんですが、結果的にはこの対策は成功しました。でもこれも結果論で、どうしようもない状況だったからいわゆる博打に出たわけですが、運が悪ければ変異したウィルスが蔓延してもっとひどい状況になっていた可能性だってあったわけです。
あと、絶滅というわけではありませんが、進化というか進歩が人口減少をもたらすことは他に多々あります。例えば少子化です。元々高等動物は子供の数が少ないという傾向がありますが、それは自然界で生き抜く確率の高さに基づきます。人間は食物連鎖のほぼ頂点にいるため、子供は生物としては少ないほうだったのですが、それでも中世までは4~5人の子供がいるなんてことはごく普通でした。でも科学技術の進歩に伴って教育すべき項目や生活コストが増え、一人を育てるのにかかる負荷は増大します。このため、必然的に少子化が加速するのです。まあ、理由はこれだけでなく、個人の権利意識や死亡率の低下なんかも関係していますがね。
それと結婚制度の変化も少子化に影響しています。人類史上延々と続いてきた男女による結婚制度は、21世紀に入ってすぐ同性婚を認める国が現れたことにより、大きな変革期を迎えました。他の動物にとっては結婚と生殖は同義ですから、同性同士のペアというのはごくまれな例外を除いてありえないのですが、人間は知恵によって結婚相手に生殖だけではなく精神的なパートナーを求めるようになったんですよね。そして、同姓婚が従来の結婚観の一線を越えたことにより、同性以外の組み合わせも認めるよう声が上がってきました。
まずは親子や兄弟での結婚です。これら近親婚では、子供に遺伝的異常が生じる可能性が上がるので、認めるべきではないという声も一部から上がったのですが、その意見に対しては『それは遺伝病の人は子供は作るなという差別につながる』という反論により、結局は同性婚となんら変わりないということになつて近親婚も認められました。
さらに、そのうちペットなどの動物や無生物との結婚のニーズも高まってきました。このときは、片方が人間ではないとの理由から反対も多かったのですが、結婚を望む人間側にとって、結婚が認められない悲しみは同性婚と同じだという理由で、2065年にはこれも認められています。まあこのときは、人間と婚姻関係にある動物や物の暫定人権をどの範囲まで認めるかについて、かなり大規模な法改正が行われたんですがね。ただ、ちょうどこの頃アンドロイドの家政婦が普及しだして、そのアンドロイドとの結婚、つまり無生物婚を希望する人が増えたんです。この場合、見かけが人間とほぼ変わらないことから、社会的なコンセンサスは得られ易かったんですよね。まあ、今では骨董のつぼと結婚している人もいるんですがね。
とにかくこれらも少子化に拍車をかけ、現在では大部分の国で少子化による人口減少が生じてるのは知ってますよね。そもそも出生率が2を切ると絶滅の方向に向かっているということになるんです。結局、かつての先進国では人口が十分の一以下になったところもあるので、これも長期で見ればまちがいなく絶滅につながっているということです。
蛇足ですが、人口の低下は他のさまざまな社会問題を引き起こしています。労働力の不足や年金問題などはよく言われることなんですが。でも逆にいいこともないわけじゃないんですよね。特に財産の集約がそうです。例えば一人っ子の場合は、両親二人分の遺産が一人の子供だけに残されます。一人っ子同士が結婚してまた一人っ子になると、その子は4人分の財産を受け継ぐことになります。私生児など子供を育てられない家庭の子供たちも、同性婚や無生物婚を含む子供の無いカップルへの養子制度が整備されてるし、今は少子化対策により育児支援の福利が充実しているから、子供たちは比較的裕福な環境下で育ち、それなりの遺産を受け継ぐわけです。要するに、そもそも子供の数が少ないので、結局はどんどん財産の集約が進んでいくわけなんです。もちろん、社会全体がお金持ちになっていることから、かなりインフレになってきてはいるのですが、それでも現在の生活水準はかなりよくなっていますよね。ただ、これって過去の資産を食い潰していくだけのことなので、本当は先が無いのかもしれないんですが。
えーと、なんかちょっと話がそれてしましたが、私からはまあこんなとこかな。」
広川から目配せされ、千草は広川の説明を引き継いだ。
「ここまでの内容を整理すると、要点は2つね。まずは環境問題や感染症については、活動規模が地球全体になれば、そこでの絶滅が地球全体になるという当たり前の因果律があるということ。もう1つはそれだけではなく、知恵の発達に伴い少子化などの人口低下のしくみも別途存在するということね。これって、まだまだ他にもありそうね。」
ちょうどその時、正午を告げるチャイムが千草の会話に割って入った。
「あら、もうお昼ね。ちょうどいいわ、こちらから提供できる情報は今のところこれぐらいですし。セリーヌさん、一緒に研究所の食堂にでも行きませんか?たいしたものはありませんが。」
「はい、お願いしマス。」
と答えるセリーヌに、広川が声をかけた。
「あっ、じゃ僕はこれで失礼します。」
「広川さんどうもありがとうございマシタ。」
セリーヌは広川に礼を言い、千草に連れられて食堂に行った。
食堂はカフェテリア方式で、すでに半数ぐらいの席が埋まっていた。セリーヌは千草と同じ定食を選んだが、千草がセリーヌの分も支払ってくれたため、恐縮して何度もお礼を言った。席に着くと、アニメで学んだように手を合わせて大きな声で「いただきマース」と叫んだが、周りはあまりそういうことをする人はなく、赤面する羽目となった。
お箸を上手に使って食べるセリーヌを見ながら、千草は『器用なものね』と思ったが、口には出さなかった。日本通の外国人はお箸の使い方を褒められても、いまさらということでむしろ気分を害することが多いことを、外国人と多く付き合ってきた千草は知っていたからである。その代わり、千草はセリーヌに今日の打ち合わせが役に立ったかを尋ねた。
セリーヌは大きくうなずき、高揚した声で答えた。
「ありがとうございマシタ。ここに来るまで漠然と感じていた私の疑問が、かなり明確になってきマシタ。これまで私は、人間が進歩するごとに何者かに試されているように感じていマシタ。でも今では、一定以上の進歩にブレーキをかけるようなしくみがこの世界にあるのではないかと感じていマス。自然界には平衡状態になって安定するものが多くありマス。進歩もそういうものであるということを、いろいろな社会問題を実例として示せれば、面白い研究テーマになるのではないかと思うのデス。」
「お役に立てたのならよかったわ。あっ、そうだ。ねえセリーヌさん、短期留学して、うちの研究生としてその研究を続けていくという選択肢もありますよ。ここの研究所はこれまでの経緯からいろいろな組織とのコネクションがあるので、結構多種多様な情報が集まってきます。時には現場に行って、問題解決のお手伝いをしたりしてるんですよ。セリーヌさんの研究にとって面白い新しい情報が得られるんじゃないかしら。この研究所は大学院大学の扱いだし、大学間の共通カリキュラム制度にも参加しているから、三ヶ月の短期留学制度を利用すれば、ここでの活動はセリーヌさんの大学の単位にもなりますよ。」
これはセリーヌにとっては願っても無い申し出だった。憧れだった日本にしばらく滞在して、最前線で自分の研究が続けられるのだ。
セリーヌは間髪をいれずに答えた。
「ぜひお願いしマース。」
以下、蛇足の注釈:
●重力チューブ新幹線 <ホント>
まだコンセプトだけですが、実際に検討されています。詳しくはクグってください。
●情報統合学 <ホント>
もともとは某古典SFで登場した言葉ですが、偶然か意図してか分かりませんが、結構いろいろなところで使われています。
●AMR <ホント>
情報通信機構が中心となって、いろいろと研究されています。
●対コロナ人工ウィルス <ウソ>
筆者の妄想です。たぶん猛烈な反対にあうでしょう。
●近親婚 <ウソ>
日本では民法で禁止されていますが、憲法上は禁止されていません。また、海外でも過去認められていた事実があります。したがって、もしかしたら同性婚よりもハードルは低いかもしれません。
●無生物婚 <ウソ>
これはなかなか実現できないでしょうね。でも、権利意識の高い欧米ではありえなくもないかもしれません。