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あした色の歌  作者: starnavigation
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9.フロンティア

 水色の空をトムは見つめていました。

 淡くやわらかい、ほがらかなその色に、泣き虫だった頃の男の子の面影は、もうどこにもありせんでした。

 それに負けないくらい、やわらかなやさしい瞳で、お兄ちゃんと呼ばれてもふしぎではない、そんな明るいほほ笑みを、トムは浮かべていました。

 すっかりたくましくなったその背中が、この旅の終着点への近づきを、物語っているようでした。

「ラララララ」

 トムは歌いました。何度も口にした言葉です。

「強くなってリブに会いに行く」

 この歌と一緒に、トムはここまで歩いてきました。

 そしてたくさんの人に出会いました。宝物を手にしました。リブに会える条件は、あとわずかなものを残すだけになりました。

「リブ、あしたはきっともうすぐだ」

 同じ色でほほ笑むリブの顔を、トムはとても近くで感じました。

 リブにも見せてあげたい。音符に乗せて、見つけたものを、手にしたものを、出会った人を。君の知らないぼくを。

 トムはリブにあげるすべてのものを、その手でぎゅっと抱えて、心の中へ声を送りました。

「ラララララ」

 返事はなくても、続けることを止めませんでした。

「強くなってリブに会いに行く」

 歌えば歌うほど、その存在を近くに感じました。

「ラララララ」

 トムの両足はゆかいな音符に乗って、スキップをきざみました。

「もうすぐ。きっともうすぐだ」

 はずむ体を、自分の心のおもむくままに、トムはあずけました。

「かならず見つける。かならずつかむ。かならずリブに……」

 その続きの言葉を、トムは言えませんでした。

 かわりに、思いもよらない別の言葉が、トムのつり上がったその口から飛び出てきました。

「チビ」

 ふわふわした毛並みを揃えた一匹の黒猫が、トムの隣をゆっくりと歩いていきました。

 トムはそっと瞳を見開いて、通りすぎていくその揺れるしっぽを、じっと見つめていました。

 そのしっぽはなんだかまるで、トムのことをあそんでいるかのように、上に下に、右に左にと、バランスよく揺れていました。

 にっこりした笑顔をくずさずに、トムは静かに、静かに、黒猫の後を追いました。

 それと同じにはさすがにできなくても、できるだけ腰を低くして追いました。

 形はちがっても、自分と同じ冒険者の背中をトムは感じ取りました。

 それもそう思ったのかどうか、トムのかすかな吐息に気づき、ゆっくりと振り返りました。

 きれいな瞳をトムは見つめました。

 同時に、これまでに出会ってきた友だちの同じそれを呼び起こしました。

 黒猫がおかしなものを見つめているのを、トムも感じていました。

「チビ、おいで。こわくないよ。ぼくらはお友だちだよ」

 呼びかける視線の主のことを、黒猫はじっと見つめていました。

「ほら、おいで。いいものあげるよ」

 そう言って、トムは右手の人差し指で、黒猫を招きよせました。ゆっくりゆっくりと、小さな冒険者に近づいていきました。

「そう。いい子だね。じっとしててね」

 大きく息を吸って、トムは両腕を差し出して、黒猫を抱き上げにかかりました。

「チビ!」

 トムのその大きな声は、残念な結果のものでした。

 ほんの一瞬早く、黒猫はトムのお招きから逃れました。かなしい顔に変わったトムを置いて、黒猫は水色の空を追いかけるように、四つの足を進めました。

「待ってよ!」

 白かった頃の面影をすっかりなくした靴をはいた男の子も、そのふたつの足を精一杯前に進めました。

 黒いしっぽはぴんと伸びたまま、トムの知らない景色の中を走りました。

 トムも負けないすべてで、それを追いかけました。

「ねぇ、チビ待てったら! どこまで行くの? ぼくも行くよ! 置いていかないでよ!」

 言葉の意味はわからなくても、その声が両耳に届くくらいの大きな声で、トムは叫びました。

「ねぇ、待ってよ! ぼくも一緒に行くってば! あしたを探しに行くんだってば!」

 全力を振りしぼった大きな声を出しても、トムよりも小さな体の冒険者の背中は、どんどん小さくなっていきました。

「チビ!」

 その声がもう届かなくなっていきました。

 もともと、それが聞こえていたのかどうかも、定かではありません。

 それでもまだ、残りの力を振りしぼって、トムは叫びました。

「チビ! お願い、待って! ぼくの言うことを聞いて!」

 切実に願うトムのその思いも、ただただ、むなしいものに形を変えることしかできませんでした。

 にじんだ視界の先にひろがる、見なれたようで見なれないその景色は、二本の足で立つ冒険者に、あきらめという言葉を受け入れさせる存在としてでしかありませんでした。

 それを残酷と表現するのが適切なのかどうかはわかりませんが、かなわない夢の味を、体中のすべてでもって、トムは思い知ることになりました。

 風が吹き、雲が流れ、やがてとうとう、トムの視界からその黒い姿は完全になくなりました。

 それでもまだトムは追いかけました。

 走っていないと、もうここよりも先の世界には進めないと、トムは痛いほどに感じたからです。

 そうは言っても、やっぱりは続かない、決めたものがありました。

 前のめりになるように、右と左の足をからめたトムは、見るも無惨に転んでしまいました。

「痛たたた」

 右の手のひらに浮かぶ赤い血を見つめたまま、トムは鼻から大きく息を吐き出しました。

 そしてそのままうつぶせになって、目を閉じました。

「どこまで行けばあしたに会えるんだろう」

 口に出したくない言葉を、トムはすぐに、もとの居場所に戻しました。

 これまでのすべてが、水のあわになってしまいそうだったからです。

 いえ、そんなことよりも、単純に、トムは弱い自分を、表に出すのがいやになったのです。

「強くなってリブに会いに行く」

 赤い血の浮かんだ右の手のひらを、トムはぎゅっとにぎりしめました。

 こんなことでへこたれてなんかいられないんだ。

 トムは左の手のひらも、ぎゅっとにぎりしめました。

 まっすぐ前を向いて、ここではない居場所へと、その視線を向けました。

 そして、「よいしょ」と言って立ち上がろうとしたトムの背後から、なんだかにぎやかな足音が聞こえてきました。

 振り返って見つめたその瞳が、たくさんの人たちのうきうきした表情をとらえました。

 あっ気に取られながらも、自分のことをなくさずにトムはいました。

 これまでの自分がそうしてきたあこがれのまなざしを、その輝く光たちにささげました。

 心臓がばくばくしたのはどういう理由からだとか、トムにはまったくもって関係のないものでした。

 自然に、なにものにもじゃまされずに、トムはその人たちの通りすぎていく姿を見つめました。

 何人かの人はそんなトムとすれちがう時に、にっこりとほほ笑んであげました。

 トムはただただうれしくなりました。

 それはまるで、自分のことをまだ見ぬ世界にいざなう魔法のように思えるものでした。

 トムは突っぷしていた体を、いともかんたんに起き上がらせました。

 同時に、小さいと思っていた自分の体が、ずいぶんと大きく感じました。

 そんなへんてこな感覚や、先を歩くみんなの背中が、トムの心をとてもにぎわせました。

 音量のない言葉をトムははにかませて、みんなのその背中についていきました。

 見失った黒猫のことや、追いかけるみんなのたのしそうな背中のわけとか、その足音の主の名前とか、トムの興味を誘うものは無限のようにありました。

 でも、その頭の中は空っぽのまま、トムはしゃんと伸びた背中を、目の前のそれをまねするようにして、ただただ歩きました。

 同じものの中にちがうものがまじっても、色は変わらないんだということを、幼い心でトムは感じました。

 いつか見せた、たくましいお兄ちゃんのようなほほ笑みを浮かべて、トムはその足を一歩一歩と進めました。

「うわーっ!」

 そんなトムの瞳が、水色の空の向こうにかくれていた、大きな光を見つめました。

 橙色のとても丸くきらきらした光でした。

 トムは一瞬泣きたくなった気持ちをぐっとこらえて、その輝く大きなものを、じっと見つめました。

「すごい」

 それ以上の言葉は出てきませんでした。

 それがトムの知っている唯一の言葉でした。

 でもその光景になんの違和感もありませんでした。

 本当にトムの体を圧倒するくらい、それはそれは立派な光でした。

 トムは笑いました。

 そしてまた歩きました。

 確信しました。

 あしたはこの町にある。

 それ以上の言葉はやっぱり出てきませんでした。

 トムは揺るぎないまっすぐな顔で、その最後の一足を踏みしめました。

 きっと間違いないという確信を得たトムの顔に、もう迷いの色はありませんでした。

 涙もありませんでした。

 おじいさんに教えてもらったあしたの存在を知った時と同じ、きらきらしたものだけしか、トムの中にはありませんでした。

 そんな名を変えない冒険者は、次から次に、わくわくするものを見つめました。

 この町の中の至る所に、トムの瞳のきらきらを誘うにぎやかなものがありました。

 レンガ造りの赤茶色の道路からそびえる、高い高さの建物たち。

 その高さから吹かれる、心地よい風に揺れる色鮮やかな模様の旗たち。

 それを追いかけるように、二本の足で坂道を登って飛んでいく、白い鳩の群れたち。

 すべてがすべて、トムのこの旅を、最高のお気に入りに仕上げるものでした。

 そんな忙しさにあげるトムのうれしい悲鳴をかき消すやわらかな響きの音楽が、充実した表情を浮かべた男の子の視界の一番奥の所から聞こえてきました。

 なんにも迷わず、その男の子は、音の中心を目指して走りました。

 近づくごとに大きくなるその音楽の色。

 トムの頭の中は空っぽでした。

 かわりの役目を果たす心の中が、たのしいことだけしか占められず、大変な状態でした。

 それでもまだ、それだからこそただ、トムの瞳はあの星に負けない、きらきらの色で光輝いていました。

 近づいてわかったことがありました。

 その音はやわらかさだけではない。

 金管楽器の輝かしく、そして深みのある幻想的な世界から作り出されたものでした。

 いつかリブがその歌を上手に歌えなかった時のことを、トムは曲の転換を告げるシンバルの大音量の音色の中に引きずりこまれるように、その場に落としてしまいました。

 振り返って、それがなんだったのかをたしかめようとした時にはもう、それは手遅れでした。

 その中心がトムと出会い、それ以外のことを考えさせない、感じさせない時間へと導きました。

 トムの視界には、にぎやかさの最高潮に位置する、パレードの行進がありました。

 金色の楽器たちが奏でる虹色の音の結晶。

 シャボンのようにもやわらかく、それでいて、はかなくて、かなしい音色。

 それを守るカラーガードの、風をあやつるフラッグダンス。

 そよぐものからなびく、温もりを続ける力強い音色。

 サークルを描くバトントワリング。

 宙に浮かんだ中で、行きと帰りを知らせる、人肌のような命の通った音色。

 透明な心でそのものたちを見つめる、歌うことの好きな男の子は、それを天高くおどらせることしかしませんでした。できませんでした。

 町はお祭りの真っ只中でした。

 みんながなにをお祝いしているのかなんて、そんなことは、元泣き虫の男の子にとっては、どうでもいいことでした。

 ぼくはたのしい。この町が大好きだ。

 そう思えるからそれでいいんだ。

 そう思っていたいんだ。そう思うんだ。

 だれひとりとして、かなしい顔をした人のいないこの町にこそ、あしたがある。

 トムはなにもうたがいませんでした。

 みんなと同じしあわせの感情を、笑みにしてこぼしました。

 それはもう、これまでにないほどの、張りさけんばかりのものでした。

「早く早く。ベガのステージが始まっちゃうよ」

 体中のすべてが浮き足だった状態だったトムの背後から、それと同じくらいの背をした男の子の声が、ふいに聞こえてきました。

「オッケー。みんな急ごう!」

 振り返ると、もう四人の同じものがありました。

「ベガはこの町のスターだからね。ぼくたちで、もっともっと輝かせてあげなくちゃ」

「うん。本当だよね。シェリルもそうでしょ」

 その中には女の子もひとりまじっていました。

 その子が返事を言う前に、トムのそれと目が合いました。

 シェリルという女の子は、浮かべた臆病な視線をそらして、言葉の主に返しました。

「うん」

 か細い一言だけを残して、五人はトムの背中を追いこしました。

 その時、もう一度合わさったふたつずつの瞳がありました。

 それよりも先に、最初に聞いた男の子の声をトムは聞きました。

「よかったら君も一緒に来ないかい? 向こうでぼくらの友だちのベガのステージがあるんだ。とても歌がうまいんだよ。一緒に聞いてあげてよ」

 急いでいたはずの五人の足が、トムの前で止まりました。

 それでも、だれひとりとしてこまった表情をする子はいませんでした。

 みんなとてもおだやかなそれで、遠くの町からやって来た名も知らぬ旅人のことを、見つめていました。

 シェリルもまた、みんなをまねするように、同じ顔でトムのことを見つめていました。

「そうだよ。おいでよ。絶対にたのしいよ」

 そうだそうだと盛り上がる声に、トムはひとりひとりの輝く大きな目を、順番に見つめていました。

 きらきらしたものはいつだって、トムの心の中も同じものにしてくれました。

 本当にこの町に来てよかったと、トムは何度も何度も、その中にていねいな言葉で届けました。

 そしてそれを飛びきりの笑顔で、トムはみんなに返しました。

「うん、誘ってくれてありがとう。ぼくも歌うことが大好きなんだ。みんなと一緒に行くよ!」

 そのひとことで通じあった心が六つ、いともかんたんにでき上がりました。

 よろこぶ声がそれぞれにあっても、それはまたそれぞれのひとつになる。そういうものでした。

「よし。行こう!」

 方向が決まったら、みんなもうためらうことなんて、これっぽっちもありませんでした。

 この町に住む新しい友だちが、トムの小さな手を引っ張って、みんなでもう一度きらきらの見える場所へと走りました。

 トムよりも、リブよりも、ほんの少しだけ小さな体をしたシェリルが、その一番後ろの位置から追いかけていました。


「トム、こっちこっち!」

 道の途中でおたがいの名前を教え合ったナスルという男の子から、手招きをされました。

「うん! すぐ行くよ!」

 そう言ってほほ笑んだトムが振り返った先に、シェリルの顔がありました。

 おどろきをかくせないその瞳に、トムはとてもやさしい笑顔を送ってあげました。

「シェリルもベガの歌好きなの?」

 その質問に、女の子は一拍分の呼吸を置いて返事をしました。

「うん」

 笑った顔でいてくれても、みんなと同じそれとは言えないものでした。

 やさしさなのか、臆病なのかを決めることはできませんでしたが、トムはシェリルの手を引っ張ることができませんでした。

 折れない心だけをその位置にすえて、ほかの四人が待つステージの前へと向かいました。

 目の前にはみんなのあこがれの的が、白いフリルのワンピースを着て立っていました。

 長い黒髪につけた、赤い花の髪飾りがとてもよく似合っていました。

「あの子がベガなんだね」

 トムはうきうきとした表情でナスルにたずねました。

「うん、あの子がぼくらの自慢のベガ。とても歌が上手なんだ。ベガはこの町みんなのあこがれさ。すごいだろ。早くベガの歌を聞きたいなぁ」

 興奮するナスルの声に、トムも感化されました。

 いっそう大きな瞳を浮かべて、小さな体の女の子にたずねました。

「シェリルはベカのどんなところが好き? あんなに背が高くて、きれいで、歌も上手だなんてすごいよね。みんながあこがれるのもわかる気がするよ」

 シェリルは最初の質問がなんだったかを、頭の中で整理しなければならないほど、トムの心がベガに向いていることに動揺しました。

 きっとトムはそんなことを知るよしもなく、ひとりごとのように、言葉を宙に浮かせました。

「ぼくも歌うことが好きなんだ。ベガみたいに、こんなにたくさんの人の前で歌うことができたら、とてもすてきだろうね」

 シェリルはトムの顔を見つめました。

 ほんの少しだけ目線を上げればいいことに、安心した気持ちになりました。

 でも、トムの言葉に言葉で返せず、不自然な笑顔で返すのが精一杯でした。

「そういえば、トムはこの町の子じゃないよな。なんだかよごれた靴をはいてるけど、いったいどこからやって来たんだい?」

 シェリルの胸の中の葛藤は、ここにいるほかのだれにも知られることなく、ナスルが放った新しい言葉で、世界が一新されました。

 胸の中で収まりきるこの思いを、シェリルはたまらなくくるしく感じました。

 隣にいる男の子に、この思いを知ってほしいという気持ちが芽生えましたが、それがかなうことはなく、トムがすこやかな声で言いました。

「ぼくは……」

 ずっと遠くの町から歩いてきたんだ。あしたを探しにやって来たんだ。

 そう言ってみんなの視線があつまると思いましたが、トムの願いは、この町のあこがれにいともたやすくうばわれました。

 ベガへの声援の拍手が、トムの続きの言葉を止めました。

 リハーサルを終えたベガが、一度ステージから降りていきました。

 みんながその姿を追いかけ、自然と新しい話題にこうじていました。

 トムへの疑問は、突然吹いた砂ぼこりと一緒に、消えていきました。

 定まることのないトムの視線は、シェリルの同じもので止まりました。

 シェリルはトムの視線に気づいてそうしたのか、気づかないでそうしたのか、足元に目を向けました。

 トムのものとはちがって、白くてきれいな靴が二足そこにはありました。

 なにかを話そうと口を開きかけたものの、その主の話しかけてほしくなさそうな気配を、トムは素早く感じ取りました。

 トムは鼻から大きく息を吸って、吐いて、そしてほほ笑み、そのままベガがステージに上がってくるのを待ちました。

 それは待つほどのことでもなく、ベガが大きな拍手とともに、ステージに戻ってきました。

 みんなのあこがれという名の視線が、その光にあつまっていました。

 リズムをたしかめて、ベカの歌声がステージに響きました。

 世界がこんなにも輝いたものなのかと思わせるほど、一瞬にして金色の世界に包まれました。

 格調高く、重みのある歌声は、ステージから客席まで、まっすぐに迫ってくるような勢いでした。

 そしてそれは、小さなトムの体を、乾いた空の天井へと上昇していけそうな気分にさせてくれました。

「すごい」

 心の中でトムはつぶやきました。

 笑顔でそう言いました。

 みんなが言うように、本当に歌が上手でした。

 ナスルと目を合わせて、おたがいがなにを思っているのかを、なにも言わなくても感じ取りました。

 笑顔の理由をたしかめ合えたよろこびを残して、ステージに目を戻しました。

 一曲目が静かに終わると、拍手を送る間もなく、明るい音色が流れました。

 ベガが客席に手拍子を求め、頭の上で両手を合わせました。

 トムもそれにならって、大きく円を作るように手拍子を送りました。

 金色から赤青黄色、七色の模様を描く世界に、その歌声は響き渡りました。

 手拍子から地面を踏み鳴らす足音、小刻みに揺れる体。

 ベカの届ける歌声が、ここにいるみんなのことをしあわせにしました。

 二曲を歌い終えると、ベガが深くおじぎをして、みんなに言いました。

「あたしのステージにあつまってくれてありがとう。心をこめて歌います」

 みんなは信頼しきった表情で、拍手を送りました。

「ベガー! ここにいるよー!」

 ナスルの大きな声援に、ほかの友だちも同じように繰り返しました。

 トムも自分のそれになったみんなのあこがれの対象に、大きく手を振り、点と点を結びました。

 そんな光景をほほ笑ましく見つめた後、ベカが口元に右手の指を一本重ね、みんなを静かにさせました。

 世界が白色になった頃、ベガはつぶらな瞳を閉じて歌いました。

 とてもしっとりくるやさしい音色でした。

 音のランプが灯ったような、そこだけ世界の色がきらめくように変わりました。

 命の炎が揺れ、ここにいることのよろこびを、感じずにはいられませんでした。

 あり余るほどの心の満足感は、トムひとりでは抱えきれませんでした。

 かと言って、周りを見渡しても、みんな同じ表情でした。そしてトムはそれがおかしくて、またうれしくて、やさしい音色の最中で、くすっと笑いました。

 ほんの小さな吐息に、シェリルだけが気づきました。

 おかしなものを見るような目つきで、トムのことを見つめました。

 トムは怖じ気づきながらも、シェリルにほほ笑んであげました。そうすれば点と点は線になり、そしてふたりだけの道になると思ったからです。

 それでもシェリルのトムを見つめる目つきは変わらず、なにかを訴えかけるように、涙がにじんでいるように見えました。

 トムがそれを涙かどうかたしかめる前に、ステージに向けて大きな拍手が送られました。

「みんな本当にありがとう。さみしいけど、お別れの歌を歌います」

 ベガがステージの終わりを告げるあいさつをしました。みんなはまだ聞いていたいという表情を浮かべていました。

「ありがとう。まだまだたくさんの人たちがステージに上がるから、みんなたのしんでいってね。みんなに出会えたことを、とてもうれしく思うよ。また会おうね」

 ベガがリズムを取り、お別れの音色が流れました。

 トムはその音色よりも、シェリルの涙かどうかわからないものが気になりました。

 シェリルのいる方向を向くと、うつむいてベガの歌を聞く女の子がいました。

 ベガとはちがい、小さな体で、短い髪の毛を後ろでちょこんと結び、水色のワンピースを着たその子は、まるでベカの影にかくれるようにたたずんでいました。

 その姿から瞳の中の様子をたしかめることはできませんでした。

 トムはやっぱり、まだ自分にその子を救えるものがないことを、くやしく感じました。

 でもきっとこの町にあるんだ。

 そう。ベガがだれかのあしたであるように、ぼくのあしたはこの町にきっとあるんだ。

 トムは右手をぎゅっとにぎりしめて、ベガの最後の歌を聞きました。

 そしてステージに向けて、大きな拍手を送りました。手のひらが痛くなるくらいの音量のものでした。

 本当にベガの歌に感動し、このステージに来れてよかったと思いました。

 大きな瞳でシェリルに視線を送ると、うつむいていた瞳は前を向き、自分よりもずっと遠くを見つめているようでした。

 それに声をかけることはできず、ナスルがトムの肩に腕を回しました。

「トム、ベガのところに行こうぜ」

 トムはナスルの温かい熱に触れ、そのうれしさをシェリルにも差し出しました。

「シェリルも一緒に行こうよ」

 トムが差し出す右手を、シェリルはつなぎました。

 そしてその熱が自分のものよりも冷たいことを、トムはシェリルの顔を見つめてたしかめました。

 きっとまちがいではない。

 そんなさみしそうな表情を、シェリルは浮かべていました。

 それでも、どんなふうに話してあげたらいいのかわからず、トムはただ、シェリルのにぎり返してくれた手をつないで、ベガのもとへ駆け足で向かいました。

 手のひらからあふれる自分のものではない熱が、トムの体に伝い、トムの体温が汗をかかせ、温かいのか冷たいのかわからない、そんなへんてこな気分になりました。

 わかっていたことはただ、シェリルの瞳に映るものは、まちがいなく、涙だったということでした。

 その疑問が確信に変わった頃、トムの目の前に、この町のあこがれがいました。

「ベガ、とてもよかったよ。感動した!」

「ナスル、ありがとう。そんなふうに言ってくれて、とてもうれしい」

 ベガは感想を伝えるひとりひとりの顔を、順番に追いました。

 その光景を見ていると、トムはシェリルの涙の理由よりも、ベガの笑顔のたどり着く先のほうが気になりました。

 ベガという輝く存在の前に立ち、笑顔を浮かべ、言葉を届けるその光景を見ていることが、トムにはとてもうれしいものでした。

 その胸の中は、ベガに伝えたい思いであふれ返っていました。

 なんて言えばいいんだろう。どうやって言えば伝わるんだろう。この言葉じゃないんだ。なんでこんなにうれしいのに、この気持ちを伝える言葉が出てこないんだろう。

 トムは自分の番が回ってくるまで、胸の中でそんなやり取りを繰り返していました。

 そんなトムの横目に、シェリルがベガに話しかけているのが映りました。

 小さな声だったのでなにを話しているのかはわかりませんでした。でもみんなと同じような笑顔を浮かべていたので、きっとベガのよろこぶ言葉を届けているのだろうと感じました。

 そしてベガの瞳がトムのそれを見つめた時、ベガの動きが止まりました。

 初めて見た顔を察したナスルが、ベガに教えてあげました。

「この子の名前はトム。ひとりで歩いてたから、誘ってやったんだ」

 すぐに合点が取れたベガが、ほほ笑みながら言いました。

「トム、ありがとう。どうだった? あたしの歌は」

 トムはベガに負けない笑顔で返事をしました。

「ベガ、とてもよかったよ。感動した!」

 ベガはくすっと笑いました。

「ナスルと同じ言葉」

 みんなも一斉に笑いました。

 あんなに探したのに、伝えたい思いは、友だちが放ったのと同じ言葉にしかなってくれませんでした。

「あれ? でも本当にそう思ったんだ。ベガの歌を聞けてよかったよ!」

「うれしい。トムはこの町の子じゃないよね? ずいぶんよごれた靴をはいてるけど、どこからやって来たの?」

 ベガのやさしさで作られた会話に、トムはナスルにたずねられたまま言えなかった言葉を、ベガだけでなく、みんなに向けて届けました。

「ぼくはずっと遠くの町からやって来たんだ……」

 そしてこの町までなにをしにきたのか、その名前を言おうと口を開くと、まったくちがう言葉が出てきました。

「あれ? シェリルがいないよ」

 あたりを見回しても、さっきまで自分のそばにいたシェリルの顔は、どこにもありませんでした。

 トムの心配そうな顔を置いて、逆にナスルが、なんの心配もない様子で言いました。

「気にすることないよ。気がついたらシェリがいなくなってることなんて、めずらしいことじゃないから。心配しなくても、また会えるよ」

 そうは言っても、トムは不安でした。

 いつかの橙色の光は、残りわずかの命を灯すだけになっていました。

 ちがう色がその空にありました。

 そしてまた、いつかの泣き虫だった頃の表情を浮かべるトムの気持ちは、ナスルたちには残念ながら伝わりませんでした。

「シェリルのことはもう気にするなよ。それよりさ、トムはまだこの町のことを知らないだろ? たのしい場所がたくさんあるから、連れていってあげるよ」

 ほかのみんなもうなずいて同意しました。

 トムもその雰囲気に飲まれて、引っぱられた手についていきました。

 その先で、トムはみんなにあしたのことを話しました。

 でもみんなはきょとんとした表情を浮かべるだけでした。

 そんなもの聞いたことがないよ。

 うん、ぼくも聞いたことがない。

 あたしも。

 トムの胸の中がしゅんとしました。

 この町にもないのか。まだまだうんと歩かないといけないのか。絶対にこの町にあると思ったんだけどな。

 トムは自分でも気づくくらいに、急につかれた顔になりました。それと同時に、こんなことでくよくよなんかしていられないんだと、あしたのある方向へ気持ちを切り替えました。

「強くなってリブに会いに行く」

 こんなことでつかれた顔を浮かべるなんて、ぼくはまだまだ強くない。もっともっと強くならないと、ぼくにはあしたはつかめない。リブに会いに行けない。

 トムの旅の再開が決まると、今度はベガがみんなの輝きの方向を教えました。

「それよりもさ、まだあたしステージに上がるんだ。だからまた見に来てよ。あたしひとりだけじゃなくて、ほかのみんなと一緒に歌うんだよ」

 新たな光の輝きに、みんなは盛り上がりました。

 そして口を揃えて、その場所に行こういこうと言いました。

 でもトムひとりだけ、そのお誘いをていねいに断りました。

「ごめんね。ぼくもう行かなきゃ。あしたを見つけたら、また会いに来るから。さようなら。みんなに会えてうれしかったよ」

 トムの言うみんなの中には、シェリルもふくまれていました。

 トムの短いお別れのあいさつに、みんなは残念がることなく、笑顔で送り出してあげました。

「トム、じゃあね。また会いに来てくれることを、待ってるからね」

 ベガにしてくれたのと同じように、みんながトムのために、大きく手を振ってくれました。そしてトムは、よりいっそう誓いました。

 かならずあしたをつかまえる。

 強くなってリブに会いに行く。

 何度も旅をともにした音符に乗せて、トムはまた新たな道を歩き出しました。


 すっかりと頭上の空の色が藍色に変わっていました。

 視界に入るものの輪郭を、すぐにたしかめることができず、においをかぎつける犬のようにして、トムはふらふらと、その足を歩かせました。

 でも、決して臆病な様子は見せませんでした。

 ここに来るまでの間、地図も荷物もなにも持たず、トムはあの星だけを頼りに歩いてきました。

 こわいものはない。そう言えば大げさかもしれませんが、そう言ってもいいくらい、トムもすっかりたくましく成長しました。

 この藍色の空の下に見えるものがかすかでも、トムは笑いながら、前へ向かいました。

 自然と、お気に入りの音符もついてきました。

 この音符もトムと一緒に旅を続け、たくましく成長しました。

 いろんなものに出会い、より確実に、自分の存在をくっきりと見つめることができるようになりました。

 そんなトムの奏でる音色とは別に、どこからともなく、だれかの歌声が聞こえてきました。

 あれほどのすばらしい音楽に出会ったのです。

 トムはやはり、あしたはこの近くにあるんだということを、あきらめきれませんでした。

 その歌声をかぎわけ、トムはあたりをきょろきょろ見回し、歩きました。

 小さな公園から、その歌声は聞こえてきました。

 か細くて、でも胸の奥に響く歌声でした。

 だれが歌っているんだろう。

 トムはその声の主のもとへ、ゆっくり近づいていきました。そして出会いました。

「シェリル?」

 その存在を疑問形でたずねるほど、はっきりとはその顔を見ることができませんでした。

 でもあの姿はきっとシェリルだ。

 トムはそう確信しましたが、すぐに声をかけることはせず、自分のことが見つからないように、植木にかくれて、シェリルの歌う姿を追いました。

 息を殺し、じっとその歌声を聞きました。

 それはトムの知っているシェリルであり、また、トムの知らないシェリルでした。

 やさしくて伸びのある歌声は、どこか頼りなく、それでも、その存在をだれかに知ってほしい、そう訴えるようなものでした。

 藍色よりも黒みがかった視界になれたトムは、はっきりとシェリルの表情をとらえました。

 時折たのしそうで、でもはずかしそうで、自信に満ちた表情を見せれば、その逆のものもありました。

 どんな時も変わらなかったのは、精一杯、その歌を歌っているということでした。

 トムはシェリルの歌う姿に、とても心を打たれ、早くこの気持ちをシェリルに伝えたい、そんなわくわくしたもので心の中はいっぱいでした。

 そしてトムの目指すあのまぶしい星がくっきりと見えた頃、シェリルのステージは幕を閉じました。

 シェリルは肩で息をするくらいに、何曲も歌を歌っていました。

 トムは拍手を送りながら、シェリルに近づきました。

「トム……」

「シェリル! すごいよ。とっても感動した。胸の奥に響いたよ!」

 トムの感動とは裏腹に、シェリルは自分の歌う姿を自分の知らないところで見られていたことに、とても気持ちわるく感じました。

「シェリルも歌を歌ってたんだね。教えてくれればよかったのに」

 おさえきれない興奮を、満面の笑みにかえて、トムはシェリルに届けました。

 ベガにはナスルと同じ言葉でしか感想を伝えられなかったのに、自分でもおどろくほど、シェリルに対しては、言葉が止まりませんでした。

 そしてきっと、でたらめな言葉で感想を伝えているだろうということを、トム自身もわかっていました。うまく言葉になおせない気持ちが、トムの胸の奥からどんどん生まれてきました。

 それでもトムは、ありのままの言葉で、シェリルに伝えました。

 伝わっていないとしても、この思いを言葉になおして届けたいと、強く願いました。

 それだけでトムはとてもうれしかったのです。たのしかったのです。

 しあわせが自分の中にあることを、強く実感していました。

 しかしそんなトムとは裏腹に、シェリルはずっとうつむいたままでした。

 両方の手をぎゅっとにぎりしめ、両方の足が震えていました。

 そしてそれは、あっという間に、体全体にまで到達しました。

 ここから逃げてしまいたい。

 シェリルの胸の中には、そんな言葉がありました。

「ぼくも歌うことが好きなんだ。シェリルの歌を聞いてたら、ぼくも歌いたくなっちゃったよ。ねぇ、また歌ってよ。ぼくも一緒に歌いたいんだ」

 シェリルの胸の中とは裏腹に、とてもまぶしい笑顔を続けるトムがいました。

「……」

 じょう舌なトムでなくても聞きとれないほどの小さな声で、シェリルがなにかを訴えていました。

 シェリルもそれに気づいてもらえてないということがわかると、自分でもおどろくほど、大きな声を出していました。

「トム! もうやめて!」

 その言葉に、トムはようやく、シェリルの顔が自分のそれとはちがうことに気がつきました。

 そして、シェリルの瞳から涙がこぼれているということにも。

 シェリルも自分の放った言葉に、はっと我にかえりました。

「ごめんなさい。あたしなにを言ってるんだろう。本当にごめん。ごめん……」

 あと二回、シェリルはトムにあやまりました。

 トムも黙っていられませんでした。

「シェリル、ごめんなさい。わるいのはぼくだよ。ぼくって、相手の気持ちを考えずにしゃべっちゃうことがあるんだ。シェリルに会うまでも、たくさんのお友だちをこまらせてきちゃったんだ。反省するのに、またこまらせちゃった。ぼくって、やっぱりだめだめなんだ」

 いつかの泣き虫な男の子の表情が、トムの顔に浮かびました。

 シェリルの口から、トムへの返事は出てきませんでした。それがシェリルの答えなんだ、とトムは考えました。

 でもシェリルと仲よくなりたい、そんな気持ちも、胸の奥でずっと抱えていました。

 胸の奥から手前まで、そこにあるものすべてを言葉になおそうとしましたが、残念なことに、それはひとつも出てきてはくれませんでした。

 シェリルの顔をおそるおそる見つめてみても、くちびるがかすかに動くだけで、そこからもなにも出てきそうにありませんでした。

 長い沈黙が、星明かりに照らされるふたりを包んでいました。

 どちらとも次の言葉が見つからず、見つけてもらうこともできず、やり場のないくるしみだけが増していきました。

 そんな沈黙を、シェリルのとげとげした思いが破りました。

「あたしの歌なんかで感動するわけないじゃんか。そんな嘘つかないでよ。ベガにも同じことを言ってたのに、どうしてあたしにもそんなことが言えるの。トムはなにもわかってない。嘘つきなんだよ」

 その言葉が、トムの胸の手前で、ぐさりと刺さりました。

 そして、その傷が悲鳴をあげるように痛みました。

 悲鳴はあげるのに、シェリルに対して、なにも言い返すことができませんでした。

 そんなトムを置いて、足元を見つめたまま、シェリルは続けました。

「あたしが歌ってたこと、だれにも言わないでね」

「どうして!」

 その言葉にはすぐに返事ができました。

 だけどシェリルもかたくなでした。

「そんなの、自分の胸で考えてよ。男の子でしょ。泣いてる女の子の気持ちが、トムにはわからないの?」

 トムはうつむきながら、小声で、「わからないよ」とこぼしました。

 シェリルを見上げると、シェリルは涙とはなをすすっていました。

 自分はなにをしていいかわからず、でも言葉だけは自然に口から出てきました。

 心の声なのかわかりませんでしたが、トムはそれが出てくるままに、シェリルに言いました。

「ぼくは本当にシェリルの歌声を聞いて感動したんだ。ベガにも同じことを言ったけど、ベガとはちがう。うまく言葉にできないけど、とってもとっても、ぼくの胸に響いたんだ」

 手取り足取りで、なんとかその気持ちを表現しようとしました。

 それがうまくできないことも、理由のひとつになりました。

 トムは涙をこぼしました。

 その音に気づいたように、シェリルは顔を上げました。

「どうしてトムが泣くの。泣かないでよ。あたしが泣かせたと思われるじゃんか」

「ごめん」

 トムの謝罪の言葉が、シェリルの声をより強くさせました。

「泣かないで! これ以上泣いたら怒るよ!」

「ごめん」

「あやまるのもやめて! わかったら返事をして!」

「はい」

 トムはそれ以上の行動をとることができませんでした。

 とにかくシェリルにとって、ぼくはいらない存在なんだと考えました。

 ここから出ていこう。シェリルの歌声は聞かなかったことにしよう。歌っている姿は見なかったことにしよう。

 そう胸の中でつぶやいて、シェリルの前を通りすぎました。

 背中と背中が離れていくのを、シェリルはうつむいた瞳で感じました。

 そして、それをほっておいたら、もうトムには会えないと悟りました。

「待って!」

 たしかにその声が聞こえましたが、トムは自分の聞きまちがいだと思うようにしました。でも、もう一度その声を聞くと、トムはおそるおそる、その主を振り返りました。

「行かないでよ。なんで本当に女の子の気持ちがわからないの。トムのばか」

 トムはやり場のない感情に、目をそむけたくなりました。

「ごめん。あ、またあやまっちゃったけど、それ以外になんて言ったらいいかわからなくて。ぼく……」

 トムの言葉に命を宿すよりも早く、シェリルがかぶせるように言いました。

「トムはずるいよ。そうやって、たくさんのお友だちをこまらせてきたんでしょうね」

赤い目を充血させたトムのことを、シェリルはやさしい瞳で笑ってあげました。

「トム、そんなかなしそうな顔しないでよ。あたし、もう怒ってないから。トムのことを見てたら、なんだかおかしく思えちゃったの。あたしもかなしい顔をしてたのに、トムからやさしい言葉をもらって、おかしく感じたの。こんなふうに、だれかをこまらせるようなことを、トムはしてきたんだろうなって」

 くすっと笑うシェリルの言葉を、トムはすなおに信じることができないほど、臆病な気持ちに包まれていました。

 びくびくした様子をかくせないトムに、シェリルは右手を差し出して、トムの頭をなでてあげました。

「ごめんね。トムの気持ちはちゃんと受け止めたから。わるいのはあたしなの。すなおになれなくて、トムのことをこまらせちゃったね」

 開いた口から言葉が出ないまま、トムはシェリルの次の言葉を待ちました。

 シェリルは瞳が消えるほど、にっこりほほ笑んで、トムに言いました。

「あたしも歌うことが好きなんだ。ベガみたいに、みんなの前で歌うことができたらたのしいだろうな、しあわせだろうなって、そんなふうに思ってばかりいた。でもベガのように上手な歌は歌えない。下手くそだけじゃなくて、あたしチビだしブスだし、暗いしやさしくないし。そんな子の歌なんて聞きたくないよね。あたしは聞きたくない。だってたのしくないもん。ベガみたいな歌を聞いてるほうが、しあわせになるんだ。でも……」

 シェリルはトムの顔を見つめました。

 一拍分の間を置かないとトムが気づかないほど、シェリルはトムの口元をじっと見ていました。

 その目が自分に向いていることにようやく気づくと、トムはシェリルに話を続けるよう、大人の顔でほほ笑みました。

 シェリルは続けました。

「でもあたし、心のどこかでベカよりもすごいんだって思ってるの。ベカよりもきらきら輝いて、みんなのことを照らすことができるって。そしたらとてもこわくなるの。本当にベカよりもすごくて、ベガのことをかくしてしまうんじゃないかって」

 トムは赤い瞳をまばたきさせて、シェリルにたずねました。

「シェリルはそれができなかったんだね。それはどうしてなの?」

「だって、ベガのことも、みんなのことも、傷つけたくないもん。かなしませたくないもん。ベガがみんなのあこがれで、あたしはその後ろにかくれて生きていることが不自由のないことなら、あたしはそれでいい。そうやって生きることしかできないんだ」

 シェリルはやり場のないまなざしを、黒色が占める空へ向けました。

 瞳にたまった涙で目頭が熱くなりました。

「シェリルはそうやって生きることを望んだの?」

「ちがう!」

 言った後で、ざわざわした気持ちが、シェリルを包みこみました。

「ちがう、ちがわない。ちがわない、ちがう」

 なにが正解なのかを、シェリルは迷子のような表情で探していました。

 トムもまた、自分の役目を必死に探していました。

 言葉のない世界が、ふたりのことを星空とともに包みこんでいました。

 先に言葉を見つけたシェリルがたずねました。

「あたしはここにいたほうがいいの? いないほうがいいの? あたしはわからない。みんなの様子をうかがって、その答えを探してみても、全然わからないの」

 トムもまたすぐに返事の言葉を見つけ、シェリルにたずねました。

「どうしてそんなことをするの? シェリルはここにいるじゃないか。シェリルの本当の気持ちを伝えなきゃ、ここにいる意味がないよ」

「本当の気持ちなんて、こわくて言えないもん」

「それはどんな気持ちなの?」

「ベガの歌よりも、あたしの歌のほうがすごいんだってこと。でも、そんなことを言ったらどうなると思う?みんなを凍えさせて、むかむかさせて、あきれた顔で笑われて。なに言ってるんだこのチビ。それなら歌ってみろよって、そう言われるに決まってるんだ。あたしは歌えないよ。本当はベガに負けない歌を歌えるんだ。でも歌えないんだ」

「じゃあ、どうやったら歌えるんだろう?」

「なにかを手に入れることができたら……」

 シェリルのその言葉に、はっとした表情を浮かべたトムのくちびるが動き出す前に、シェリルは言いました。

「なんであたしはこうまでして歌いたいんだろうって考えてみた。そしたらわかったの。その答えはきっと、こうまでして歌うために生きてきたからだって。それがあたしの役目なんだ。届けなきゃ。この気持ちを。それがあたしの使命なんだ。それがあたしの生きる理由。生まれてきた理由なんだ。あたしが望んで選んだんだ。こうやって生きていたいって」

 シェリルは言葉を続けました。

「トムはあたしに似ていると思ったんだ。きっとあたしと同じ気持ちなんだって思ってた。でも勝手にそんなことを思ってごめんね。トムは知らないよね、あたしの心の中なんて。勝手にそんなことをされても、どうしていいかわかんないよね」

 シェリルの心の中で、ひとりぼっちにされていたトムは、そこから飛び出して、シェリルの気持ちをわかりたいと思いました。

「ぼくは、どうしてシェリルが歌を歌ってたことを黙っててって言ったのかわからないよ。ねぇ、シェリル。どうしてなの? ぼくに教えてよ」

 瞳を大きくさせたシェリルは、逆になぜトムは自分の気持ちをわかってくれないんだろうと、いらだちました。

「あたしの顔を見てわからなかったの? こんなにかなしい顔をしてるんだよ。トムはなにも感じなかったの? もしそうなら、トムは変だよ。ふつうの子とちがうよ!」

 シェリルの語尾が強くなったことに、トムはたじろぎそうになりました。

 でもトムは負けずに、自分の正直な思いを伝えました。

「だってぼくが勝手に思いこんでみても、それはぼくの思いだもん。シェリルの思いは、シェリルに聞かないとわかんないよ!」

 トムの正直な思いに、シェリルは自分でもびっくりするほど、くすっと鼻で笑いました。

「トムってやっぱりおかしな子。あたしはみんなの顔色を見ただけで、すぐにそれがわかっちゃうのにな」

 その言葉の意味も、トムにはわかりませんでした。

 かわりに、それをいやというほどわかっているシェリルが言いました。

「トムはあたしのことをおかしな子だと思っている。そうでしょ?」

 瞳を大きくして聞いたのが、シェリルの自信のあらわれでした。

 でもトムは、そんなことをこれっぽっちも考えていませんでした。

「ぼくはそんなこと思ってないよ。シェリルの歌が好きで、シェリルのことをもっと知りたいと思ったよ」

 シェリルはおどろきました。そしてそれがトムのことを信じる一番かんたんで、重要な材料になりました。

「本当にそう思ってる?」

「うん」

「本当のことを話しても笑わない?」

「うん」

「あたしのことを変だと思わない?」

「うん」

 そんなやりとりが長く続きました。

 シェリルが本当の言葉を言おうとしたのと同じ瞬間に、その瞳に涙がたまりました。

 シェリルもそれに気づき、上を見上げ、涙をこぼさないように、がんばって言葉を届けました。

「あたしは歌が好きなの。でもベガのようにはなれない。みんながベガのことを好きなのはわかるよ。だって、あんなにきれいで、背が高くて、歌も上手で。本当にきらきらしてる。トムもとても大きな拍手を送ってたもんね」

 トムは返事を言わずに、シェリルの話の続きを聞きました。

「あたしもベガのように生きていられたら、みんなからあこがれてもらえるのかな。そんなことを考えると、とてもかなしくなるんだ」

「それはどうして?」

 自分のつぶやいた言葉に、飛びはねるようにしておどろいてくれるトムのことを、シェリルはかわいらしく感じました。

 そしてそんな自分よりも、少しだけ背の高い男の子に言いました。

「あたし、かわいくないなぁって。暗くて、ずるくて、弱虫で。そんな子が歌う歌なんて、だれの耳に聞こえるの。だれの心に届くの。そんな言葉を繰り返していると、あたしはかなしくなるの」

 うつむいて涙をこぼしてしまったシェリルに、トムは強い言葉で思いを届けました。

「ぼくは本当にシェリルの歌声が好きだよ! シェリルの中にそんな思いがあったとしても、ぼくの思いはなにも変わらないよ!」

「トムが本当の気持ちで話してくれているのは、あたしもよくわかるよ。本当のことだから、あたしの胸にもちゃんと届いてる。でもあたしの歌は本物じゃない。にせものなんだ、こんなもの」

 トムはシェリルに近づきたいと思いました。自分の目に映るシェリルだけではない。その心の中に、深く入りたいと思いました。

 そんな思いがすぐに伝わったのか、シェリルはトムにほほ笑みました。

「ありがとう、トム。でもなにも言わないで。あたしはあたしがくるしくなる。なんであたしなの。なんであたしだけが、こんなことを思わなくちゃいけないの。みんなのお話にびくびくして、みんなと同じようにして、みんなの気持ちに合わせて。もういやなの、自分の気持ちを言うことができないあたしなんて。なにが自分の気持ちなのかもわからない。だれが本当のあたしなのかもわからない。そんなあたしなんて、あたしはきらいなんだ。もうあたしをやめたいよ」

 シェリルは涙の声を大きくして、トムに心の中の思いを伝えました。伝わるのかどうかわからなくても、この思いを言葉になおしました。

 上手く伝わるといいなという思いが芽生えたことには、自分でもおかしく思えました。こんな言葉を言っている中ででも、あたしにはそんな思いが芽生えたんだと、笑みと怒りの中間の顔をシェリルは浮かべました。

 トムは返事になおす言葉が出てきませんでした。

 心の中ではたくさんの言葉が生まれていました。

 でもそのすべてが、トムとシェリルに触れられることのないまま、迷子になってしまいました。

 トムもまた、怒りとくやしさの中間の顔を浮かべていました。

 落ち着きを取り戻したシェリルが、笑みをふくんだ言葉で言いました。

「ベガのステージを見ていて、トムもベガの歌が好きなんだなぁって、すぐにわかったよ。とてもたのしそうだった。しあわせそうだった。だからあたしはトムに話しかけちゃいけないって思った。だって、好きな女の子のことを見ている男の子に、話しかけることなんてできないじゃない」

 トムはなぜだか、胸のあたりがくすぐったくなりました。

「ナスルたちもベガの話しかしないの。そりゃあ、あんなにきれいで、背も高くて、歌も上手な女の子のことを、好きにならない人はいないよね。あたしもベガの歌は好きというか、いいなというか、上手だなとは思うけど、それ以上は思えないの。あたしがブスってしてる証拠だよね。絶対かないっこないのに、あたしだってって、そう思ってる自分がいる。そして、そんな自分のことをばかだなぁって思ってしまう。そうしたら、かなしくなるの。なんであたしはこんなことばかり考えちゃうんだろうって。大人になっても同じことを考えちゃうのかなって。考えちゃうとこわくなる。なにもできなくなる。でも歌いたいの。どんどんどんどん歌いたい言葉が浮かんできて、どんどんどんどん言葉のない音符が流れてきて、あたしは歌いたくなるの」

 勢いに乗せて届けられるシェリルの言葉に、トムは後ずさりしてしまいました。

 そんなトムを連れ戻すように、シェリルは言いました。

「あたしもトムに、あたしの気持ちをわかってもらいたい。でもおしゃべりも上手じゃなくて、伝えたいことの半分も話せないんだ。ナスルなんてすごいよね。ずっとおしゃべりしてばっか。よくあんなにどんどん言葉が出てくるなぁって、びっくりしちゃうよ。あたしなんて全然追いつけなくて、みんなの顔色ばかりうかがって、みんなと同じことしか言えないんだよね。本当は反対のことを思っていても、みんなの機嫌をそこねないように、同じふりばかりしている。そうするとさ、なにが本当の気持ちなのか、わからなくなるんだよね。だれが本当のあたしなのか、わからなくなる。たくさんのあたしがいて、ここにいるあたしは、本当にあたしなのかなって思っちゃう」

「シェリルもたくさんお話できてるじゃないか。ぼくはシェリルのお話を聞けて、とてもたのしいよ。シェリルはおとなしい子だと思ってたけど、そうじゃないんだね。ぼくの知らないシェリルを知れて、ぼくはとてもうれしいよ」

「あはは。トムの前だと、おしゃべりになっちゃった。ずっと言えずにいたことが、全部出てきたのかな。でも、もしここにベガがやって来たら、あたしはまた黙りこんでしまうと思うんだ。きっとベガは、あたしを置いてトムとお話するでしょ。トムのことをたくさん質問すると思う。どこから来たの、どこへ行くのとかね。トムだって、ベガのことを知りたいでしょ。もっとベガの歌を聞きたいでしょ」

「それは知りたいよ。ベガの歌も聞きたいよ。だってベガと仲よくなりたいもん」

トムの純粋なその言葉で、シェリルの心はよごれた物が流れこんだように、しぼんでしまいました。

「やっぱりそうだよね。ほら、そうすると、やっぱりあたしはいないほうがいいんだって、思っちゃうんだよ」

「シェリルも仲間に入ればいいじゃないか。三人で一緒にお話しようよ。たのしくなったら、ナスルやほかの子たちも駆けつけてくるよ」

「あたしはそういうの苦手なんだ。あたしの知らないトムが増えるのがこわい。あたしには見せないトムの顔を見るのがこわい。だからだれとも仲よくなれないんだろうね。でもしょうがないよね。だってこれがあたしだもん。あたしを変えるのがこわいもん。そんなこわさと闘うんだったら、あたしはこのままでいいもん。きらいなあたしのままでいいもん」

 トムは悩みました。この女の子のことを、なんとかして救ってあげたいと思いました。

「ねぇ、シェリル。ぼくは君になにをしてあげられるだろう?」

 シェリルは突っぱねた表情で、その質問に答えました。

「そんなの自分で考えてみてよ」

「考えたけど、わからないんだ」

「考えなくてもわかったこともないの?」

「ないよ。だからシェリルに教えてほしいんだ」

 シェリルは右手であごを押さえて考えました。

「あたしもわかんないや。きっとそれは、トムにできることはないってことじゃないかな」

 あきらめを受け入れさせられるようなその言葉に、トムは泣きそうになりました。

 でもシェリルはすぐに訂正しました。

「ごめん。そんなに深い意味で言ったんじゃないの。ただそういうものなんだって思ったの。できないものがあったっていいじゃない。きっとそれも意味があることなんだよ。なんでもできたらおもしろくない。だからできないものがあると思うんだ」

 トムはシェリルの考えを受け入れることはできずに、やっぱりシェリルを救いたいと願いました。

「ぼくはこの町でシェリルと出会って、シェリルのお話を聞いて、シェリルのことを救ってあげたいと思ったんだ。シェリルを救うために、ぼくらは出会ったんだ」

「あたし、そんなにこまったような顔してる? おかしいな。そんなつもりはないんだけどな。ごめんね。でももういいの。あたしのことは気にしないで。あたしは大丈夫だから。きっと大人になっても、こうやって生きていくんだ。こんな生き方しかできないんだ。でもそれでいいの。それがあたしなの。あたしはこんな生き方で生きるって、そう決められて生まれてきたんだ。ベガみたいに、きらきら輝く人にはなれない。光の影にかくれて、でも消えないように歌を歌って、なんとかあたしを保っている。それでいいの。だからトムはもう行きなよ。あっ、そう言えばトムのことを呼び止めちゃったね。どこかに行くんでしょ。もう行っていいよ。あたしのこんな話を聞いてくれただけでも、とってもうれしかった。トム、ありがとう。さようなら」

 シェリルは笑ってあげました。でもトムはシェリルと同じ顔にはなれませんでした。

 シェリルもトムのその気持ちをわかっていました。だからなにも言いませんでした。

 シェリルはそのまま背中を向け、それと同時に、また涙をその瞳に宿しました。

「さようならなんて、そんなこと言わないでよ!」

 背中に届くトムの言葉が、シェリルの涙を、その瞳の中に戻しました。深呼吸をして、トムの次の言葉を聞きました。

「ぼくはシェリルと仲よくなりたいんだ。シェリルにも、ぼくやみんなと仲よくなってもらいたいんだ!」

 語気を強めるトムのことを、シェリルは振り返ってじっと見つました。

「シェリルがいやなら、むりにとは言わないよ。でも、きっとたのしいはずなんだ。シェリルの知らないみんなのことを、シェリルはきっと好きになるはずだよ。ぼくはここに来るまでに、たくさんのお友だちと出会ったんだ。みんなとてもすてきなお友だちなんだよ。みんなシェリルと同じように、ぼくに悩みを話してくれた。みんな笑顔になってくれた。シェリルひとりじゃないんだよ。みんな同じなんだよ」

 シェリルの口からは、言葉が出てきませんでした。この場にふさわしい言葉を知らなかったのです。やさしい冒険者は、シェリルの心の中へ入りこみました。

「シェリルは本当のシェリルを知らないんだ。ぼくが教えてあげるよ。シェリルは歌の好きな女の子。自分の気持ちを話すのが苦手だけど、みんなのお話を聞いてあげられる、やさしい女の子。おしゃべりが上手じゃないと言ったけど、ぼくにはとてもたのしく聞こえたこと。きっとまだまだシェリルの知らないシェリルがいるはずさ」

 シェリルもまた語気を強めて言いました。

「そんなの知ってるよ。あたしはずっとみんなの背中にかくれて生きてきたって。でもトムの前ではかくれずに、表に出てくることができた。あたしはたのしかった。こんなにおしゃべりするのがたのしいんだって知らなかった。あたしの口からこんな言葉が出てくるんだって、おかしくなっちゃった。トムが言うように、ベガたちとも同じようにおしゃべりできるといいんだけどね。でもできないよ。あたし、こわいもん」

「できるよ! シェリルはやってこなかっただけなんだ。やれば絶対にできるさ」

「そう、こわかったからやってこなかった。傷つくくらいなら、やらないほうがいいって。本当にやりたくなったら、傷つかない方法でやればいいやって。だれもいないこの場所で、だれにも聞こえないように、歌にして願えばいいやって思ってた。ずっとそんなことばっかりやってたの」

「シェリルはどうして、本当の気持ちを伝えるのがこわいの?」

「変な子だって思われるのがいやなんだ。ばかにされるのがいやなんだ。みんなをこまらせるのがいやなんだ。だからみんなの背中にばかりついてきた。みんなの背中にかくれてばかりだった。それが楽なんだ。だれも傷つけない。だれもこまらせない。それがあたしにとっては、一番しあわせなことなの」

 トムはシェリルの悟った言葉にも、疑問をぶつけました。

「みんなをこまらせないとしても、シェリルのことをこまらせることはなかったの?」

「あたしのことを?」

「うん。だって本当の気持ちを言えないって、シェリルに嘘をついてるってことでしょ。そんなことをしたら、シェリルをこまらせて、傷つけちゃったんじゃないかなって思ったんだ」

シェリルは黙りました。すぐに返事を言うための言葉は浮かんできていました。喉元まで上がってきていました。

 でもやっぱりこわくて、勝手に自分の口から出て行かせることを、ためらいました。

 そんなシェリルのこまっている顔に、トムは気づきました。

「シェリル、君はとてもこまった顔をしているよ。やっぱりぼくは、シェリルを救ってあげたい」

「あたし、あたし……」

 シェリルの口から、本当の思いが言葉になって出てくるのを、トムは感じました。

 じっとその口元を見つめました。

「あたし、本当のあたしでいていいの? だれかをこまらせても、傷つけても、あたしでいていいの?」

 トムはシェリルにほほ笑んであげました。とてもやさしい笑顔でした。

「シェリルでいていいよ。本当のシェリルを見せてくれるとうれしいよ。本当のシェリルをぼくは知りたいよ。ぼくだけじゃない。きっとみんな、本当のシェリルのことを知りたがっているよ」

 シェリルは涙をこぼしました。そして一気に言いました。

「あたし、ベガのことなんてきらい。でも好きになりたい。きらいだけど好き。好きだけどきらい。ベガみたいになりたいけど、なりたくない。なりたくないけど、なりたい。わからない。あたしはあたしの気持ちがわからない。なにがあたしなの。だれが本当のあたしなの。ねぇ、なにこれ。なんでこんな言葉をあたしは言ってるの? これがあたしの心の中の言葉なの? あたしはわからない。なにもわからない。あたしはだれ! あたしはどこにいるの!」

 トムはシェリルの頭ををさすってあげました。そして、小さな角度をつけて見上げるシェリルの瞳を、トムはやさしく見つめました。

「ここにいる全員がシェリルなんだ。いろんなシェリルがいていいんだ。ぼくだって、泣き虫で、弱虫で、みんなにからかわれてばかりいた。でもぼくは強くなるって誓ったんだ。そしたら、たくさんのお友だちに出会った。たくさんの道を歩いてきた。そしてこの町にやって来た。この町でシェリルと出会った。ぼくはぼくでよかった。泣き虫で、弱虫でよかった。シェリルと出会えたぼくは、心の底からそう思ってるよ」

「トムはえらいね。すごいね。やっぱり男の子なんだね。あたし、自分に自信がなくて、みんなと同じように、笑顔でいられることがなかった。どうやったら、みんなと仲よくなれるんだろうって考えてた。あたしのことをばかにされずに。そうだ、ベガみたいに、きれいな歌声を聞かせてあげることができたら、きっとみんなと仲よくできるんだ。そう思った。それでベガのことをまねして、あたしは歌を歌った。でも、自分の歌声を聞くと、あたしはかなしくなった。こんなの本当のあたしじゃない。あたしの歌じゃない。こんなにせものの歌で、みんなのことをしあわせにすることなんてできない。あたしはベガにはなれない。あたしはあたしでしかいられない。だったらあたしはあたしの歌を歌うしかない。下手くそでも、暗くても、あたしはあたしの歌を歌うんだ。そうじゃないと、あたしがここにいる理由なんてない。あたしがこの町に生まれてきた理由なんてない。あたしはあたしを歌う。でもそんな立派なことよりも、単純にあたしは歌うのが好きだった。あたしの歌声で、歌うのってたのしいな、たのしそうだな、あたしもやってみたい、ぼくもやってみたい。そんなふうに思ってもらえる歌を、あたしは届けたいと思った。ベガにくらべたら、あたしなんて全然かないっこない。でもきっとあたしには、ベガには歌えない歌がある。あたしだから歌える歌がある。そう思って歌ってたら、トムに見られていた。あはは、おもしろいよね。まさか、トムがそこにいるなんて思いもしなかったから。それにあたしの歌をとてもほめてくれて。そんなおもしろいことも伝えたいんだ。こんなあたしでもそう思えるから、みんなもきっとそう思えるよって。ねぇ、トム。あたしうれしかったんだよ。トムからあたしの歌が胸に響いたって言ってもらえて。すなおによろこべなくてごめんね。でもゆるしてくれるよね。こんなあたしだったから、そうだったんだ。本当は飛びはねるほど、うれしかったけど、どうしていいかわからなくて、あんな態度をとっちゃった。トム、ありがとう。あなたに会えて、あたしは自信がついたよ。これからは、みんなの影にかくれずに歌うことができそう。あたしはあたしでいていいんだ。あたしじゃないといけないんだ。トムからそう教えてもらった。あたしはあたしだから、きっと大丈夫」

 トムはかすかな笑みをこぼして、シェリルに短い言葉でたずねました。

「シェリルはシェリルのことが好き?」

 シェリルはにこっと笑って、トムに返事をしました。

 それはとても芯のある言葉でした。

「うん。あたしはあたしが好き。きらいなところもある、あたしのことが好き」

「それならよかった。もう大丈夫そうだね。ぼくは、シェリルが自分のことを好きじゃないのかと思ってたよ。だけどその言葉を聞けて、ぼくも安心さ」

「安心ってどういう意味?」

 シェリルは明るい声でいながらも、不安そうな顔でたずねました。

「ぼくもまだ探しものをしているんだ。まだ手に入れることができなくて、それを手にしたら、シェリルのことも救ってあげられるのになと思ってた。でもその必要はなかった。シェリルは自分で自分のことを救ってあげられたもんね。だからぼくはもう行くよ」

 ほんの少し前まで、トムの背中を見たかったはずなのに、それがいざ本物になろうとすると、シェリルはとてもさみしい気持ちにおそわれました。

「待って! トムはどこへ行くの? あのステージの前で、ナスルたちに話してたものってなんなの?」

「ぼくはずっと向こうの町から、ここまでやって来た。あしたを探しに来たんだ。ずっと歩いてきた。この町にあると思ったんだけどな。でもどうやら、この町にもないんだね。だから、まだまだ歩かなくちゃいけないんだ」

 トムは星の浮かぶ空を眺めました。

 あぁ、やっぱりまだまだ遠くにある。

 もっと歩かなくちゃ手に入れることができないな。

 よし、ぼくは歩くぞ。かならずあしたを手に入れるんだ。そして強くなってリブに会いに行く。

 そう覚悟しました。お気に入りの音符はすぐそばにいました。

 ぎゅっとにぎりしめたこぶしを開いて、シェリルに手を振る覚悟もしました。

 そんなトムを置いて、シェリルは勢いのある言葉でトムにたずねました。

「ねぇ、トム。そのあしたって、だれから聞いたの?」

 トムはひと呼吸をついて、返事をしました。

「ぼくが暮らしていた町のおじいさんから聞いたんだ。ぼくが公園のブランコでひとりでいると、ぼくに話しかけてくれたんだ。あしたを手にいれたら、なんでもできるようになるって。それでぼくはあしたを探す旅に出かけたんだ」

「そのおじいさんは、あたしたちの暮らすこの町に、そのあしたがあるって言ったの?」

「ううん。あの星の見える町まで行ったら見つかるよって、そう教えてくれた」

 トムはあの星を指さしました。

「ほら、まだまだうーんと歩かなくちゃいけなさそうだよ。だからぼくはもう行こうって思ったんだ」

「ちょっと待って、トム!」

 シェリルはトムの手をつかんで、離しませんでした。

「トムはずっと向こうのあの町から、この町まで歩いて来たんでしょ?」

「うん」

「でもまだ歩かなくちゃいけないの?」

「だってあの星はまだ向こうにあるもん」

「ねぇ、トムはもうあしたを手に入れてるんじゃないの?」

「えっ?」

 つかまれていた手を、トムはつかまえました。

「シェリル、どういうこと? この手でぼくはもうあしたを手に入れたってこと?」

 シェリルはびっくりしながらも、笑って答えました。

「そう。ほら見て。トムはこうやってつかんでくれてるじゃない」

「シェリルの手? シェリルがあしただってこと?」

 トムは語気を強めてたずねました。

 シェリルはそんなトムのことをおかしく思ったのか、声を出して笑いました。

「あはは。そうじゃなくて。まぁ、そうでもあるか。トムはずっと向こうの町からやって来て、たくさんのお友だちができたって言ったよね」

「うん」

「そのお友だちが、あしたなんじゃないの?」

 トムは返す言葉が見つかりませんでした。

 シェリルが言ってあげました。

「たくさんのお友だちが、おじいさんの言ってたあしただったんだ。だからあたしも、あしたのひとつ。あたしたち、お友だちでしょ」

 トムはまだ答えを出すことができませんでした。

 目まぐるしく、体全体が、トムのことを迷子にさせました。いろんな思いが、言葉が生まれてきて、冷静な気持ちを保つことができませんでした。

「きっとおじいさんは、トムのことを強い男の子になってほしいと思って、この町までやって来させたんだよ。たくさん歩いて、たくさんの人に出会って、その中で、あしたを手に入れてほしかったんだよ」

 トムは目をつぶって深呼吸をしました。

 そして目を開いて、あの星を見つめました。

 遠くの町でトムのことを待つリブの顔が、そこに重なりました。

 トムはもうあしたを手に入れていたのです。

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