6.ポコアポコ
緑の土手に寝ころがって、トムはあの星を眺めていました。
涼しい風が吹きこむその景色は、トムの瞳をまどろませました。
「なんだかぽーっとするな。気持ちよくなってきちゃった」
長い道をトムは歩いて来ました。
知らず知らずの内に、つかれがたまっていたのです。
ゆっくりとその瞳が閉じようとしました。
その瞬間でした。
「あぁーっ!」
大きな声が、トムの眠気を一気に覚まさせました。
トムの開いた瞳に、ベレー帽をかぶった女の子の姿が見えました。
寝ころがったまま、トムはその子の姿を目で追いかけました。
「あぁーっ!」
女の子はもう一度叫びました。
また一度、もうまた一度。
何度となく、女の子はそれを繰り返しました。
「なにをしてるの?」
いっそう大きな叫びを聞いた後で、トムは女の子に、トムの持てる限りの大きな声でたずねました。
「なにかこまったことでもあったの?」
トムが近づいて行っても、女の子は返事をせずに、トムのことを見つめているだけでした。
土手をくだって、その子の顔がはっきりと見えると、トムはもう一度たずねました。
「大きな声を出してどうしたの? ぼく、おどろいちゃったよ」
女の子は右手に絵筆、左手にスケッチブックを抱えていました。
「絵を描いてたんだね。ぼくにも見せてよ」
トムの伸ばした手を、女の子は無言で払いのけました。そしてそのスケッチブックを、トムの足元に投げすてました。
「勝手に見れば」
きりっとつり上がったその瞳を、トムは臆病な様子で見つめました。
そして足元にころがるスケッチブックをひろうと、一枚一枚、ていねいに開きました。
トムは言いました。
「うわー。君、上手だね。まるで本物の景色みたい」
トムは思ったままに感想を言いました。
でも女の子は背中を向けたままでした。
女の子は自分がなにかを話さなくちゃいけないと思いました。
でも言葉が喉元まで出かかっているのに、そこから先の道を教えてあげることができませんでした。
そんな女の子のことなど気にもせずに、トムは最後の一枚まで、にこにこしながらその絵を見つめました。
見終わると、トムは女の子にお礼を言いました。
「ありがとう。とてもすてきなものを見させてもらったよ」
女の子は少し照れたような顔をしましたが、すぐにベレー帽を目深にかぶりなおして言いました。
「本当にすてきだと思う? また見たいと思う? もしそう思うんなら、見てみてよ。絶対にすてきだなんて思わないから」
トムは心の奥で、むっとした感情が芽生えたのを覚えましたが、女の子の言う通りに、もう一度スケッチブックに目を通しました。
その間に、女の子はトムの名前をたずねました。
「ぼくの名前はトム。君は?」
「あたしはリセス」
「そうか」と言った後で、トムはリセスの描いたその絵を、もう一度追いかけました。
そして再びそれを見終わって、トムが口を開こうとしたのを、リセスの白い五本の指が止めました。
「言わないで。言わなくていいの。言わなくたって、わかってるから」
トムはリセスからたしかめてと言われてそうしたのに、なぜ断られる必要があるのかを、ふしぎに感じました。
「あたしの描いた絵なんて、にせものなんだ。全然あたしの気持ちが入っていない。ねぇ、トム。ちょっとこの景色を描いてみてよ。絵筆も絵の具も、好きなものを使っていいから」
また突然の頼みごとに、トムはただただおどろくばかりでした。リセスのそれに応えてあげることなんて、なにひとつできませんでした。
「別に、きれいに描かなくたって平気だから。そんなことで、あたしは笑ったりしないから」
そう言われてもと、トムは思いましたが、まっすぐなリセスのその瞳が、トムの右手を絵筆と絵の具に伸ばさせました。
青い空と緑の土手、白い川と、トムとリセスの顔を、トムは描きました。
ためらっていたけど、絵筆を走らせると、トムは笑顔になっていきました。
リセスは真剣にそれを見つめていました。
「できたー!」
トムは描いた絵をひろげて、リセスに見せました。
「どう? リセスにくらべたら下手くそだけど。でも、リブよりはぼくのほうが上手なんだよ」
トムは唯一リブに勝てるものを持っていました。
でもリセスにそれを話した後で、リブのかなしさをトムは胸の奥で知りました。
「かわいい絵だね。あたしなんかより、全然上手だよ。本当はあたしもこんなふうに、自由に絵を描きたいんだけどな」
トムはその意味の表も裏も、リセスにたずねました。
リセスは目深にかぶっていたベレー帽を外すと、そのまま地面にお尻をつけました。
「みんなから、リセスは絵が上手だねって言ってもらったの。あたしもうれしかったから、たくさんの絵を描いたんだ。そしたら、みんながよろこんでくれた。でも、それがもっともっと、上手な絵を求められるようになっていったの」
トムは白い肌をしたリセスの瞳の奥を見つめました。
そこでは黒い球体が円を描くように揺れ動いていました。
そしてその動きが足元に定まると、リセスは吐き出すように、心の中の言葉をトムに伝えました。
「みんながよろこぶための絵をあたしは描かなくちゃいけないんだ。みんながよろこんでくれなかったら、あたしは絵を描いている意味がない。そう思って、何枚も何枚も絵を描いた。ただただ絵を描いていた」
最後の言葉がトムは引っかかりました。
それがこの女の子のことをくるしめているものなんじゃないかと、トムは感じました。
「ありがとう。よく気づいてくれたね」
口に出して言ったことを、「正解」だと、リセスに言ってもらいました。でもトムの心の中は、もやもやしたものでいっぱいでした。
「本当はこんな天気のいい場所で絵なんか描かずに、ぽーっとしてたいんだ。君がしてたのと同じようにね。なんにも考えず、この景色を描きたいなぁって思ったら描けるようになりたいのに。それなのに、気がつかなくても、あたしは絵筆をにぎりしめているの」
トムはだいたいのことを、リセスの言葉から理解しました。
でも、ひとつだけ理解できないことがありました。
「リセスは絵を描くことが好きじゃないの?」
リセスはトムの瞳を見つめました。
自分の瞳も、こんなにきれいな色をしているのだろうかと、リセスはかなしくなりました。
そして遠くの空を見つめなおして、言いました。
「トムに見せたこの絵たちのことは大きらい。そこそこきれいには描けているけど、ただそれだけなんだ。よろこばせることなんてできやしない。ただきらわれないような絵でしかないもん。それでも、そんな絵でも描かないと、あたしはみんなから完全にきらわれてしまう。だからとりあえず描いているの」
描いていてもたのしくないんだと、リセスは言いました。
トムは自分にあしたがまだないことを、くやしく感じました。
あしたを手にしたら、リセスにもっともっとたのしく絵を描いてもらえるのに。
トムは瞳に涙を浮かべて、歯ぎしりをしました。
「トムは好きなものってなにかあるの? トムがたのしくいられるものってなにかある?」
リセスのか細い声に、トムは太い声を、がんばって出しました。
「ぼくは冒険をしてるんだ。あの星の見える町にいる、あしたを探しに行ってるの。なかなかたどり着けないし、リブにもう泣かないって約束したのに、泣いてばっかりだし。でもたのしいよ。早くあしたを手に入れて、リブに会いに行きたいんだ」
トムの涙の消えたその瞳を見て、リセスは自分もそうなりたいと、うらやましく感じました。
「こんなにきれいな色が見えてるのに、あたしはそれを絵に描くことができないんだ。この目で見ているものと、この手で描くものとで、全然ちがっているの」
リセスは続けました。
「だれにも相談できないから、あたしはあたしに質問をして、あたしから答えを教えてもらった。ちょっとくらいゆっくりして、ぽーっとしてみなよって。なんにも考えずに、その景色を見てたら、それを絵に描きたいって思えるようになるよって」
トムが言いました。
「リセスはそれをやってみたの? どうだった? どうなった?」
リセスはくすっと笑って、トムの質問に答えました。
「やってみたけど、結果は大惨事。なんにもできなかったよ。絵が描けなかったんじゃなくて、なにも考えずにいることができなかった」
トムはリセスの顔の前に現れた蝶々のゆくえを見つめながら、言いました。
「考えずにいられなかったって、じゃあなにかを考えちゃったの? ゆっくりすることはできなかったの?」
リセスは蝶々を手で追い払うと、またくすっと笑って言いました。
「うん。全然できなかった。こわかったんだ。あたしから絵を描くことがなくなるのが。頭の中から体の外まで、あたしを作る全部のものから、絵を描くことがなくなるのがこわかった。理由はわかる?」
リセスはトムに答えをうながしました。
でもリセスは自分でそれを言いたそうでした。
事実、トムが答える前に、リセスの口からその答えが出てきました。
「絵を描くことがなくなったら、あたしのことも消えてしまいそうに思ったから。みんなは絵を描くあたしのことしか知らないから。もしもあたしが絵を描かなくなったら、だれもあたしのことをあたしだって気づいてくれなくなっちゃうから。そうなるよりは、あたしにきらわれてしまってでも、あたしは絵を描いていようと思ったの。トムみたいに、全然たのしむことなんてできていないけどね」
リセスは笑いました。
トムはその笑顔の中には、絵を描いているリセスがいるんだろうなと感じました。
ぼくもあしたを手に入れられなかったら、リブと一緒に生きていけるのかな。
リブはこんなぼくのことを、どんなふうにむかえてくれるんだろうな。
その答えがこわくなって、トムは思いきって、伸ばしていた足を戻して、立ち上がりました。
「リセスの描いた絵、ぼくは好きだったよ。でもリセスがきらいって言うんなら、ぼくも好きにはなれないや。リセスが好きだと言う絵を、ぼくは見てみたいよ!」
トムは静かに自分の顔を見上げるリセスの手を取って、立ち上がらせました。
「もしもリセスが絵を描くことを好きじゃなくなっていたら、別のことを見つければいいじゃないか。ぼくはあしたを探すことがたのしいからやってるんだ。まだまだうーんと歩かなくちゃ見つからなさそうだけど、ぼくはたのしいよ。こうしてリセスにも出会って、リセスのお話をたくさん聞けて、ぼくはとてもたのしいよ!」
リセスはトムの力強い瞳を見ていると、泣きたい気持ちになってしまいました。
トムはそんなリセスの瞳を開かせて、言いました。
「ほら、この景色を見てみて。なんにも考えないでいいよ。ぽーっと静かに、ゆっくり見てみてよ」
リセスは自分の力で、目の前の景色を見つめました。
空の色、草の色、川の色、トムの見ているあの星の色。
リセスは鼻で息を吸いました。
そして目を閉じて、すぐにもう一度目を開きました。
白い肌に明るい色が灯りました。
口元がきゅっと上に上がりました。
「トム、あたし絵を描きたいな」
トムの顔は見ないままで、リセスは言いました。
トムは「うん」とだけ、返事をしました。
「頭の中からも体の外からも、そして心の全部を占める場所から、なにもなくなった。そしたらあたしは絵筆と絵の具とスケッチブックを求めた。あたしは絵を描きたい。みんなによろこんでもらいたいからじゃない。あたしによろこんでもらいたいからでもない。あたしが描きたいから描きたいんだ」
リセスはトムのほうを振り返りました。
生き生きとした笑顔に、トムもうれしくなりました。
「あたし、みんなと同じように、この空の下であそべたらたのしいのかなぁとか、考えたりしたの。でも、あたしは絵を描いてるほうがたのしいんだって、そんなこと全然思えなかったのに、あたしに思わせようとばかりしていた。でもあたしは気がついたよ。心の底から絵を描きたいって。ゆっくりすることなんかよりも、絵を描いてるほうが、あたしの心と体は安らぐんだって。あたしはこれが好きなんだって、トムに教えてもらったよ!」
トムはリセスの感謝を、甘ずっぱく感じました。
「ぼくはなにもしてないよ。リセスが自分で気づいただけ。リセスは絵を描くことが好きだったんだ。ちがうことをしていても、リセスのその気持ちは、消えたりなんかしていなかったんだ」
おたがいの瞳の中に映る、おたがいの笑顔を見ていると、ふたりのうれしさは、どんなきらきらよりもまぶしく輝いていました。
「トム、一緒に絵を描こうよ。あたしが教えてあげる」
すっかりじょう舌になったリセスは、トムにも絵筆をにぎらせました。
ふたりは思い思いに、大好きな景色を描きました。
「できたー!」
ふたりとも瞬く間に、その絵を完成させました。
見せ合いっこしてからも、ふたりの笑顔はなにも変わりませんでした。
「リブに再会したら、一緒に絵を描いてあげなよ。下手くそも上手も、なにもいらない、好きなままで描いてあげなよって、そう伝えてあげて」
トムはリセスの頼みごとを、その手で受け止めると、大きく描いた、あしたがいるあの星を見つめました。
リセスが言いました。
「トムにはもっと好きなものと、たのしいものがあるんだよね。早く行かなくちゃ。ゆっくりしてたら、もったいないよ」
トムもリセスも笑いました。
「ぼくは好きで、リセスと一緒に絵を描いてたんだ。とてもたのしかったよ。リセスもたのしいと思えない絵になったら、またたのしいと思えるようになるまで、ぽーっとしちゃえばいいよ」
その必要はなさそうだけどねと、リセスは笑って返しました。
「トムの目指すあしたって、どんなものなんだろうね。どんな色をしてるんだろうね。見つけることができたら、この紙に描いてきてよ」
リセスはスケッチブックを一枚やぶって、トムに渡しました。
「それから……」と言って、トムに好きな絵の具を選ばせました。
「これ!」
トムは青色の絵の具を選びました。なんだか、自分にはこの色が似ていると思ったからです。
絵筆もトムの右手の中に包んで、リセスが言いました。
「トムと出会って、あたしはあたしに気づくことができた。きっとトムは、あしたをつかむまでにいろんな人と出会うんだ。いろんな人がトムに助けてもらえるんだと思う」
それができるあしたを、ぼくはつかみに行くんだ。
トムはリセスから受け取った宝物をにぎりしめて、あの星を見つめました。
「リセス、さようなら。リセスの描いた絵はみんなをよろこばせてくれるよ。ぼくもリセスのような人になってまた会いに来るね」
「約束だよ」
リセスはトムに手を振りました。
背中ごしに感じるトムの笑顔を、この手で描きたいと、リセスは思いました。
トムもまた、この手で、笑い合うたくさんのきらきらを描きたいと、強く願いました。
「みんなをよろこばせる人になって、リブに会いに行く」
トムは新しくできた歌を歌いながら、まぶしく輝くあの星の見える町への道を歩き出しました。