ユキ、喋る
ネイサンと食事をした日から一ヶ月程経った。
仁もネイサンもいつも通りの変わらぬ日常を送っている。
ただ、二つ変わった事もある。
一つは学舎の授業が終わった後に、ネイサンとお茶をする時間を持つようになった事。そして、その時間を作るキッカケになったのがユキだった。
ーーー数日前ーーー
「ままー?おはよー」
「ん…んん…?えっ?」
ある朝突然に、可愛いユキが可愛い声で「ままーおはよー」と舌っ足らずな感じで喋ったのだ。
仁、歓喜。そして悶絶。
あまりの嬉しさにユキを捧げ持ち、膝を付いたほどだ。猫でなくとも、パートナーが喋ってくれたら…なんて夢を持っている人は多いはず。そんな夢を具現化したものがここにいる。
仁はこの日「ユキちゃん、おしゃべりは ままと二人だけの時ね」と言い含めて、慌てて学舎に走ったのだが…さすがに早すぎてネイサンも居らず、ユキを抱き締めたままドア前に座ってネイサンを待つ。
あの日、ネイサンにいろいろと話した時から仁にとってのネイサンは 更に特別な存在になっている。全てを話しても拒絶されなかった事で「何があってもネイサンがいてくれれば大丈夫」だと思うようにもなっていた。
初めて頼れる大人に出会えた事で、無意識に依存したのかも知れない。だが、それも仁の成長としては悪くない事だ。
時間になり、学舎にやって来たネイサンは仁が玄関にしゃがんでブツブツ呟いているのを見て踵を返しそうになった。
いや、満面の笑顔で独り言を言っている男がいたら普通に引くだろう。
それを堪えさせたのは、やはりユキだった。ネイサンを見つけたユキは仁の手から抜け出して走った。
「せんせ!」
「は?」
「せんせ、おはよー」
「…へ…?」
間の抜けた声を出したネイサンに、ピョンと飛び付いてくるユキ。呆気にとられるネイサン。後ろから仁も走って来る。
「せんせー、おはようございます。こら、ユキちゃん!喋っちゃダメって言ったでしょー?」
「やーん。せんせに抱っこなのー!」
状況が全く読めず困惑するネイサンの胸にしっかりとしがみつくユキ。
それでも動じない胆力は、さすが特ランク冒険者というところか。
「あの…ごめんなさい、せんせー…」
「あたしも驚いてセンセーに相談したくて!」必死に弁明するも説得力は無い。
ネイサンはユキに張り付かれたまま、気の抜けた顔で学舎に入っていく。
中に入ったネイサンは仁にお茶を淹れるように言うと、ドサッと椅子に座った。
目線を下に向ければキラキラと自分を見つめるユキがギュウっと服を掴んでいる。離されたくないようだ。ネイサンは深い、深いため息を付いた。
「お前は…ワーキャットなのか…?」
ネイサンの問いかけに首を傾げるユキ。
可愛い仕草に誤魔化されそうになる。
「…本来、ワーキャットは黒い獣のはずだが…」
「あたし、わかんない!」
「………」
「ユキちゃん!あなた男の子なんだから“ボク”よ。あたし、は女の子が使う言葉なの」
「そういう問題か…?」
紅茶に似たお茶をセットして戻って来た仁の指導が入ったが、そうじゃないだろうとネイサンが呻く。
「なんで?まま、せんせ同じ!あたしも同じ!」
「同じって…ユキちゃん…」
「ままも、せんせもフニフニだもん。ポヨポヨじゃないよ!同じ!」
「ふにふに?ぽよぽよ?」
首を傾げる仁。可愛くはない。
ユキは満面の笑顔で「うん!フニフニ」とネイサンの股間を両前足で軽くフミフミしてから仁の膝に乗ると、同じ様に軽くフミフミして得意気に仁を見上げた。
「ね、フニフニ!」
恥ずかしさに真っ赤になった顔を両手で隠す仁。つまりポヨポヨは…。
微妙な空気に、頭をガシガシと掻いてお茶を飲むネイサン。
「あー。なんだ。話を戻すが…ユキ、お前は精霊だったんだな?」
「せいれいってなあに?」
「…お前みたいな理不尽な存在だ…」
頭を抱えるネイサンであった…。
実際のところ、ネイサンがユキに対して必要以上に動じないで済んでいるのは現役時代の経験からだった。
特ランクになったばかりの頃…ネイサンがまだ20代だった頃に、一度死にかけた事があった。その原因になったのが風の精霊であった。それまでは精霊の存在などは伝説だと思っていたのだが。
「…仕方がないか…」
ネイサンは苦虫をつぶしたような顔で宙を仰ぎ見る。
「ジン、授業が終わったら話がある。残れ」
「…はい…」
神妙な面持ちで頷く仁。
「ユキ」
「ぴあ!」
「はあ…。それで良い。絶対にしゃべるな。しゃべったら、ジンといられなくなると思え」
「ぴ!」
大きな瞳を見開いて返事をするユキ。未だしがみついたままのユキの頭を撫でてやると、ジンに渡した。そのタイミングで生徒たちがわいわいと到着する。
余談ではあるが、この日、買い出しに行けなかった仁が作った賄いは学舎に保管して置いたチーズと干し肉、玉ねぎみたいなマネギとトマト的なマットンなどで作った元の世界で言うお手軽ピザトースト。若い冒険者たちには大好評で、一口食べた瞬間に次回のリクエストを頼むほどだった。
そして、授業が終わり仁以外の生徒が帰った後。仁は激しい嫉妬に焼かれるのである。