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地元の誇り

作者: 京本葉一

お食事中の方は読まないことをおすすめします。

 世の中は金である。その絶対的な基準をおろそかにせず、真摯に向き合って生きてきた儂が、権力の座につくのは当然の結果といえよう。世の中の道理など、人の欲望の前には塵芥にすぎん。相手が差し出すものを気前よく受けとり、適時、関係各所に施してやればよいのだ。それだけですべてが順調にゆく。なかには金で動かぬ輩もいたが、金があれば弱みをつくることができる。時がたつほどに、誰も儂には逆らえんようになった。儂の言うことに従うしかなくなった。


「儂の邪魔しようとする輩は、ことごく潰してきた。だというのに、貴様は、儂の前に立ちはだかるというのか? 儂に道を譲らんというのか?」


 小汚い、茶色い毛並みの柴犬が、儂の前から動こうとしない。


 天高く薄雲が浮かぶ快晴の朝。日課である散歩に出てみれば、儂の歩みをさえぎるかのごとく、犬畜生がいた。山々が近く、紅葉も鮮やかな景色がみられる散歩道は、ゆうに車二台が通れるであろう幅がある。にもかかわらず、この犬畜生は、儂のまえに立ち塞がり、道をゆずろうとはしないのだ。


「この野良風情が……」


 先日にはこれまでの功績を評価されて国家から表彰もされた。昨日の地方新聞には、一面に大きく掲載されておる。勇ましき儂の顔が、一面で、大きく掲載されておるのだ。誰もが儂を知っておる。儂こそが地元の誇り。誰もが敬意を払わねばならん存在なのだ。


「どけい! どかんか!! この畜生が!!」


 足裏で蹴りかかった。儂の前蹴りに恐れをなしたか、小汚い柴犬は後ろに距離をとった。攻撃はすべて空振りとなったが、犬畜生は尻尾をまいて走り去った。道の角を曲がり、その姿を消した。


「ふふっ、まさに負け犬。あの惨めな姿こそ、敗北者というものよ」


 邪魔者を排除して、気分は上々である。ふたたび散歩をはじめるが、ふと思いついた。勝利者として、それだけでよいのかと。惨めな敗北者である小汚い柴犬に、侮蔑の一つもくれてやるのが義務ではないのかと。


「あの角を曲がりおったな」


 どこかに隠れひそんでいる小汚い犬畜生を探して、散歩コースを外れた。これまで入ったことのない道である。山のほうに向かっていた。傾斜はあるものの、足取りは軽い。


「さて、どこに逃げおったのか」


 さきほどよりは道幅が狭い。蓋のない側溝なども確認しながら歩いていた。下をのぞきながら歩いていると、上のほうでガサガサと音がした。塀の向こうに柿の木がある。見上げると、大きくて黒いものがいた。黒い毛並みをした動物。目が合った。


「ひっ──」


 熊が、柿の木から下りてくる。塀のうえに後ろ肢をおいて、器用に前肢ものせたあと、道路側に巨体を投げた。

 地面に座りこんでいた儂の前に、四つ足をついた熊がいる。

 近い。

 座りこんだまま後ろに下がった。

 近づいてくる。

 唸り声。

 牙がみえる。


「ひぃぃぃ──」


 両手と両足を必死に動かして、瞬間、右手が地面に触れなかった。それでも逃げようとして身体が傾き、体勢が崩れて側溝に背中から落ちた。頭も打った。底には水が流れていた。痛みと冷たさに身体が悲鳴をあげるが、すぐ上に、熊の顔があった。


 たすけてくれ。声にならない悲鳴を叫ぶが、熊の顔が、ひくつく鼻先が、口が近づく。側溝に身を沈める儂の身体に、牙が迫る。

 喰われる──殺される──死ぬ──ああ、こんなところで──。


「ワワン!、ワン!」


 近くで聞こえた犬の吠える声に、熊が反応した。牙が遠ざかる。熊が離れる。離れてゆく。底からは姿がみえなくなった。犬の吠える声も遠ざかっている。


 助かった、のか……?


 気配はない。確認しようとしたが、身体が動かない。恐怖のためか、落ちたときにどこかを痛めたのか。背中が冷たい。背中どころか全身が痛い。頭が痛い。まずい。このまま動けないのは非常にまずい。低体温に陥る。死んでしまう。

 声が出ない。

 意識が朦朧としてくる。

 頭を打ったせいか、低体温になりかけているのか。


「だ、れ……か……」


 かすかに足音が聞こえる。

 近づいてくる。


「ええ~、またするの~?」


 すぐ上で声がきこえた。

 朦朧とする意識のままに、必死になってあがく。

 動かなかった腕をあげる。

 ふるえる腕を、側溝の上へのばした。


「へっ!?」


 側溝の縁に手がついたとき、間の抜けた声が聞こえた。

 朦朧とする頭に、女の悲鳴が響きわたる。


「ま、て……まって、くれぇ……」


 死力を振り絞る。縁にかかった指先に全身全霊をこめて身体を起こした。息も絶え絶えになりながら、なんとか上半身を地面のうえにあずけることができた。

 もうこれ以上は動けない。指先ひとつ動かすこともおっくうだ。水にぬれた背中だけでなく、地面にふれる頬も冷たいはずなのに、痛みも冷たさも遠ざかっていく。


 ぼやけた視界のなかに、女の姿はなかった。

 どこの誰かは不明であるが、犬の散歩中であったと推察できる。

 それもおそらく、大型犬の散歩であろう。


 すぐそばに新聞紙が広がっていた。新聞の一面に大きく掲載された、儂の顔のうえには、もりもりと糞がのっかっていた。

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