8話
自転車ショップ〈サイクルンルン〉で一通り自転車を見させてもらい、その帰り道。
このみは、口から魂がお出掛けしかかっていました。その魂が呟きます。
「10万……10万か……」
2階に置いてあった本格的な自転車の最低ラインが約10万円だったのです。簡単に手が出せる値段ではありません。それが学生ならばなおさら。
正確には8万円ほどからありましたが、そこから鍵やヘルメットなど、必要な小物を買い集めるとやはり10万円程になってしまうのでした。
安い価格帯のエントリーモデルですらこれですから、もっと本格的な良い自転車だったら一体いくらになってしまうのか。
上を見上げたらキリがなく、現実逃避したくなるこのみでした。
見かねたわかなが声をかけます。
「ま、まぁ自転車って金銭感覚狂うってよく言うし……多少はね?」
「うん……」
決して安くはないだろうと腹を括っていたつもりでしたが、括っていたのは高でした。
このみは自転車のことを舐めていたと認識を改めました。
わかなはクスリと笑みをこぼします。
「まぁ、正直このみのその驚いた表情を見たかったってのもあったんだけど──」
「おい」
「意外だったのはうるかだよね。もっと驚いてくれるかと思ってたのに」
「えと……ご期待に添えなかったようで……」
「いやいや! 別に責めてるわけじゃないよ?!」
欲しい自転車が20万円を超えていたらもっと大仰な反応をするのが普通だと思っていたわかなは、平然と受け止めてしまったうるかの反応を意外に思ったのです。
「もしかしてうるかってお嬢様だったりする? こう、社長令嬢的な」
わかなが気になっていたことを聞いてくれたので、このみも聞き耳を立てます。
言葉使いとか、柔らかな物腰とか、いかにもお金持ちの雰囲気を漂わせています。
うるかは首を左右に振りました。
「裕福な家庭に生まれたとは思っていますけど、そこまでではないですよ。驚かなかっただけで、普通に高いと思っています」
((よかった))
その言葉を聞いて、2人は安心しました。
「わかなさんは、テルフ……さん、でしたっけ? あの自転車は自分で購入したんですか?」
わかなはすでに立派なロードバイクを持っていました。つまり最低でも10万円はしたはずです。それをどうやって手に入れたのでしょうか?
「あれは高校の入学祝いに買ってくれたんだ。大切な宝物だよ」
その大切な宝物と一緒に空を飛んだのも、今となっては大切な宝物です。
そしてこのみは「なるほど」と手を打ちました。
「その手があったか」
何も自分のお金だけで買うしか手がないわけではありません。キャンプ道具は地道に自力で集めた物ばかりなので、すっかり忘れていました。
家に帰ったら相談くらいはしてみよう、と心に決めたこのみでした。
「私も、家に帰ったら聞いてみますね」
「わーお、自転車仲間が増えそうな予感!」
今まで1人でペダルを漕ぎ続けていたので、同志が誕生する瞬間に心を踊らせるわかなだったのでした。
***
庭付きの立派な一軒家の玄関を、うるかはくぐりました。新築で真新しく、引っ越してきたばかりなのでまだ未開封のダンボールがいくつかすみに置いてあります。
「ただいま帰りました」
靴を脱いでしゃがみ込み、丁寧に並べていると、元気よく背中に体当たりをかましてくる小さな影がありました。
ミニチュアダックスのホット君です。小型犬なので、ぶつかってきても痛くはありません。
「ただいまホット。よしよし」
気持ち声のトーンを高くしつつ、毛並みのいい頭をなでなで、なでなで。
なでなで、なでなで──
なでなd──
「うるか、いつまでそうしてるの?」
「はっ?!」
気付けば5分ほど犬と戯れてしまっていました。声をかけられなかったら、もっと続けていたことでしょう。制服に毛がたくさん付いてしまいました。
「た、ただいま、お母さん」
「おかえり。今日は遅かったのね」
「お友達とちょっと寄り道を。お母さんこそ、今日は早いんだね」
「たまたまね。お父さんももうすぐ帰ってくるみたい。ご飯の用意するから、早く着替えてらっしゃい」
「お父さんも?! わかった!」
共働きで帰ってこないことも多いので両親が揃うことは中々なく、ちょうど相談したいこともあったので助かりました。
夕飯の準備を母親と一緒に進めていると父親が帰ってきて、久々の家族団欒。楽しい時間を過ごしました。
口を揃えて「いただきます」と「ごちそうさま」を言えて、うるかはなんだか嬉しい気分になりました。
食器を片付け終えて、美味しいご飯にみんな大満足。
そして各々の時間がやってきます。
話をするなら今しかありません。今を逃したら、次に揃うのはいつになるか分からないからです。
「お父さんお母さん、ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」
「ああ。どうした、改まって」
仕事を持ち帰ってきたのか、ノートパソコンでカタカタと何か作業をしていた父親でしたが、その手が止まりました。
「大切な話かしら?」
「まぁ、大切と言えば、大切かな」
「聞こうか。座りなさい」
娘の真剣そうな表情を見て、父親として何かを察したのか、パソコンをパタリと閉じました。
食事の時と同じポジションでテーブルに座ると、父親は口を開きます。
「で、話ってなんだ?」
聞かれて、うるかは思い切って言いました。
「〝プレゼント貯金〟の使い道、決まったよ!」
「……なん、だと?!」
謎の言葉に、父親は目を見開いて驚愕し、母親も無言ながら驚いていました。
プレゼント貯金とは、宇賀神家で取り決められた〝プレゼント保留システム〟のこと。
誕生日やクリスマスなど、好きな物を買ってもらえる日にあえておねだりしないことで、好きな物を買ってもらうことを後回しにできるシステム。
父親が娘を甘やかした結果生まれた家庭内ルールですが、とうとう溜まりに溜まったストックが放出される時が来たかと、父親は戦慄します。
ちなみに、約10年分のストックがあります。
「……それで、何が欲しいんだ?」
顔の前に手を組んで、父親は深刻そうな声を出しました。父親として愛娘の願いを叶えてあげたいという覚悟の表れです。
その問いに、うるかは元気よく答えました。
「自転車です!」
「え、自転車? なんだ、それなら──」
もっと高額な何かを要求されるんじゃないかと内心ヒヤヒヤしていた父親は思っていたよりも良心的な願いにホッとし──たのも束の間。
「20万円ほどの!」
値段を聞いた瞬間、いい笑顔のまま灰になっていく父親でした。
***
一方その頃、木葉家では。
同じようにこのみが家族にキャンプツーリングのために「自転車が欲しい」ことを相談していました。
「付いてこい」
ぶっきらぼうにこのみの父親が言うと、連れてこられたのは屋外にある倉庫。
「いやあるんかーい」
ほぼ棒読みで突っ込みました。
──そこには、埃をかぶって若干錆びていましたが、立派なグラベルロードが置いてあったのでした。
プレゼント貯金ではないですが、プレゼント前借りシステムなら我が家にありました。そこから着想を得たのが今回のプレゼント貯金というアイデアです。
折り畳み自転車って高くなりがちなので、どうやって学生に与えようかと考えた結果、このようになりました。
このみの方、グラベルロードに関しては文字数の都合で短くしましたが、まぁ木葉家ならこれくらい適当でちょうど良かったかな、と。