3話
宝石のように憂いを帯びた少女の瞳が、静かに揺れています。
スマホの画面を見つめ続けて、いったいどれくらいの時間が経ったことでしょう。時計の短い針が一瞬で2、3周するくらいの衝撃を、その少女は味わっていました。
スマホの画面には、1通のメッセージ。
〝転校は残念だけど、いい機会だったと思う。別れよう〟
メッセージの内容は、別れ話でした。どうやら少女の転校を理由に、フラれてしまったようです。
(またか)
理由を突き詰める気力すらなく、入力欄のカーソルが延々と虚しく点滅を繰り返すだけでした。
「…………」
遠距離恋愛をする覚悟は、決まっていたというのに。今までで1番長く付き合えていたのに。
どうしてだろう。なんでだろう。何がいけなかったんだろう。
そんな考えが少女の頭の中を、それこそ時計の針のようにぐるりぐるりと巡り続けています。
好かれたいから、ファッションセンスを磨きました。
好かれたいから、メイクの勉強をしました。
好かれたいから、料理の練習をしました。
嫌われたくないから、勉学に励みました。
嫌われたくないから、太らないように努めました。
嫌われたくないから、話題についていけるように情報収集を欠かしませんでした。
その弛まぬ努力が、少女を高嶺の花たらしめているとも気付かずに。
今となっては元彼氏君も、自分とは釣り合わないと、転校を言い訳に自ら身を引いてしまったのです。
ポタリ。画面に水滴が1粒落ちました。
「雨……?」
レンズ効果で歪んだ画面を見つめながら少女は呟きました。それが自分の涙であるという自覚もなく。
この水滴がなかったら、いつまでもいつまでも画面を見つめ続けていたことでしょう。
空を見上げてみたら、そこに空はありませんでした。
その代わり、木の葉っぱが生い茂っていました。
「いやどこですかここ?!」
ようやく我に帰った少女は、慌てて周辺を確認します。
少女がいるところはまさかの森の中。ショックでフラフラと彷徨い歩いていたら、こんなところに迷い込んでしまったようです。
引っ越してきたばかりで周辺のことはなんにも分かりませんし、フラれたことが相当ショックで、ここまでの道のりを全く覚えていません。
まるでランダムにテレポートしてしまったような気分です。
「ど、どうしよう……私ここで死ぬかもしれない」
言葉にしてみて、それもいいかもしれないな、なんて自暴自棄に思った次の瞬間──木の枝をバリバリと折りながら同い年くらいの少女が上から落ちてきました。
「ぎゃー?!」
人生で初めて「ぎゃー」なんて悲鳴を上げました。死ぬ前に貴重な体験をしたな、と場違いな感想が脳裏を掠めます。
「お、親方! 空から女の子が!?」
受け止められなかったので主人公失格です。
そんな、咄嗟に出てきてしまったセリフはさておいて、大変な場面に出くわしてしまいました。
死んだりしてないだろうかと、恐る恐る様子を窺います。
「いったたたた〜……」
間抜けた声を上げながら、落ちてきた少女は立ち上がりました。どうやら死んではいないようです。見たところ、汚れてはいるものの怪我らしい怪我もしていません。
木の枝と落ち葉がクッションになって衝撃を和らげてくれたようです。
飛んだラッキーガールかもしれません。文字通り。
「はっ?! テルフは?!」
弾けたようにキョロキョロとして何かを探しています。
テルフとは、愛犬か何かでしょうか? お散歩していたら空から落ちてきたとか?
いやいやそんなまさか、と少女は首を振りました。
こちらの存在には気付かないままに、茂みを掻き分けて必死の形相を浮かべています。落ちてきた少女にとって、『テルフ』とはよっぽど大切な存在のようです。
「いたー!」
大きな声を上げると、茂みの中へ一直線に突っ込んでいきました。
そして何かを担ぎ上げて戻ってきます。
それは、とても速そうな自転車でした。ハンドルはカマキリのように曲りくねり、タイヤは真っ直ぐに走れるのか心配になってしまいそうなほどに細いです。そして女の子が持ち上げられるくらいに軽いのにも驚きました。
自転車を地面に置いて、隅々までくまなく点検。
「よかったどこも壊れてなさそう! 奇跡!」
(むしろ貴女が怪我してない方が奇跡ですから!)
ビシッと突っ込むポーズだけはとって、知らない人に突っ込むのは怖いので声には出しませんでした。
自分の心配よりも自転車の心配をするなんて、頭のおかしい人なのかもしれない。
あるいは落下の衝撃でおかしくなってしまったのかも。
そんな風に思いました。
「あ」
「あっ」
そしてとうとう目が合ってしまいます。謎の沈黙の時間が流れました。
「……どうも」
「ど、どうも」
同時に軽く会釈して、相手の出方を窺っています。
「えっと……大丈夫ですか?」
先手を打ったのは、フラれた少女。
色々な意味が込められた心配の言葉に、落ちてきた少女は笑顔で答えます。
「ああ大丈夫。どこも壊れてなかったよ」
「いや自転車じゃなくて。怪我とか……」
見た目には分からないだけで、捻ったり、挫いたり、打撲とかあるかもしれません。
あれだけ元気に自転車のことを探し回っていたので大丈夫だとは思いますが、念のため。
すっかり忘れていたのか「あ、そっか」と呟いて、自分の体に異常がないか、触ったりして確かめました。
「あー?!」
「やっぱりどこか悪いんですか?!」
「スマホ壊れてる!」
「そっちかー!」
自転車のハンドルにくっ付いているスマホの画面はバリバリに割れて、蜘蛛の巣状に白くなっています。いくら操作しても、何も反応がありません。
本人と自転車へのダメージを全てスマホが肩代わりしてくれたかのようです。
「で、でもよかったじゃないですか、スマホだけで済んで」
下手したら死んでいてもおかしくありませんでした。被害がスマホだけなら、安いものです。
「それもそうだね。でも困ったな……これじゃナビが使えないから道が分からないや」
「それです!」
「え?」
突然の納得の声に、落ちてきた少女は首を傾げました。
知らないうちに森の中に迷い込んでしまいましたが、スマホの道案内に頼れば簡単に家に帰れるじゃないか。
どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだろう、と手を打ちました。
「途中まででよければ、私のスマホのナビ使いますか?」
「え、いいの? すごく助かるよ! 道まで出られればなんとかなるかも!」
「困ったときはお互い様と言いますし」
にっこりと微笑んでいつの間にかスリープ状態になっていたスマホの電源を入れました。
──プツン。
「あ」
一瞬ロック画面が見えて、〝充電して下さい〟のマークが表示されてからコンセントを抜いたテレビのように真っ暗になりました。
「ど、どうしたの?」
「バッテリー……切れちゃいました」
ずっとメッセージ画面を開いたままだったので、かなりの電力を消費していたようです。
片や壊れて使い物にならなくなったスマホ。片やバッテリーが切れて使い物にならなくなったスマホ。
打つ手がなくなってしまいました。
「あ、そうだ! 僕モバイルバッテリー持ってるよ!」
「ナイスです!」
もの凄く自然だったので、落ちてきた少女が自分のことを『僕』と言ったことに全く違和感を感じずスルーして、親指を立てました。
「困ったときはお互い様ってやつで」
おうむ返しする落ちてきた少女。
自転車に取り付けられた小さなバッグから、真っ二つになったモバイルバッテリーが出てきました。
「わーお」
こちらも衝撃でお亡くなりになってしまったようです。
「……どうしましょう」
「……どうしよっか」
二人は途方に暮れてしまいました。
そのとき、二人の耳に神のお告げが届きました。
──カロン、カロカロン。
どこからともなくそんな音が聞こえてきたのです。
二人は表情を明るくしました。近くに人がいる証だからです。
「行ってみましょう!」
「だね。良い人だといいけど」
一抹の不安を煽るような言葉をこぼしつつも、取れる選択肢が他にない二人は、聞こえてくる乾いた音色を頼りに土を踏みしめるのでした。
真っ先に心配するのは自転車っていうのは、自転車乗りとしては割とあるあるかと思います。移動手段だし、何と言ってもお高いですからね……。