2話
──チュンチュン。
まだ誰もが寝静まっているような早朝の時間。こんな時間に起き始めるのは、鳥さんか、いつも決まった時間に顔を出す太陽くらいなものでしょう。
「これでよし」
ですがここに、それに負けじと早起きしている少女がおりました。
自信満々に頷く視線の先には、1台の自転車。
空気圧をチェックして、軽くバウンドをさせて音や感触で機材に異常がないかをチェック。携帯パンクキットや補給食など細かい物の忘れ物がないかも改めてチェックしました。
「さて、行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
早朝なので小声気味で、わざわざお見送りのために起きてきてくれた母親にしっかりと挨拶をしました。
ヘルメットを被り、指ぬきグローブを装着。サドルに跨り、パキンッ! と小気味良い音を立てて靴底とペダルがくっ付きました。
軽い漕ぎ出して、勢いよくスピードに乗っていきます。
本日のコースは、いくつかの山を越えた先にある肉うどんを食べに行き、現地を軽く観光して1泊、朝に宿を出てお昼前後に帰宅するというプラン。
片道60km。順調に走れば4時間前後の道のりですが、峠を越える、いわゆるヒルクライムは今回が初めて。その挑戦も兼ねたライドなので、予定より遅くなることはあれど、早くなることはないでしょう。
山道を登るため、持っていく物はなるべく厳選して軽量化を図っています。綺麗にバイクパッキングするのは四苦八苦しましたが、どうにか収まりました。
「んー、世界が気持ちいい」
朝特有の澄んだ空気と、人も車も少ない静かな時間が少女の体を包み込んで、不思議な気分にしてくれます。
まるで世界に、自分と愛車しかいないかのような、そんな錯覚に陥ります。
車道の左端を走り、赤信号はきっちりと止まる。青になるまでに何も通らなくても、交通ルールを守ってしっかり待ち続けました。
急ぎの道のりではありませんから、ゆっくりのんびり行きましょう。慌ててしまっては事故の原因になりかねませんので。
それをよくわかっているからか、もともとその腹積もりだったからか、信号の長い待ち時間も苦ではありませんでした。
信号が青になったのを確認して、ペダルを踏みしめます。
パキンッ! とビンディングの音が静かな世界に染み渡りました。
軽めのギアと立ち漕ぎで一気に初速をつけてから、左手のシフトレバーをブレーキごと内側へ押し込み、フロントギアを外側へ。漕ぎ足が重くなり、さらにスピードが上がりました。
右手のシフターをスピードに合わせてワンクリック、ツークリック──遅過ぎず、重過ぎず、快適に走れるギアに微調整します。
カチッ──カコン。カチッ──カコン。
シフターから指先へ伝わってくるこの感触と、チェーンがギアの山を移動する音が少女は好きでした。
「今日も調子良さそうだね、〝テルフ〟!」
チラリと愛車に目配せをして少女は嬉しそうに微笑みました。テルフとは少女が乗っているロードバイクの名前のようです。
話しかけると、『そっちこそ!』と返事が返ってきたような気がしました。
そんな調子で漕ぎ続けること約3時間。
速度や走行距離を計測してくれるサイクルコンピューターには〝41.6km〟と表示されています。予定より少し遅れていますが、それも見越しての早めの出発です。心に余裕はありました。
春休みも終わりかけということもあり、人も車も増えてきたので安全運転をより一層意識しながら走り続け、とうとう山の手前まで来ました。
一旦停車して、山のてっぺんを見上げます。
この山を越えれば難所は突破。あとは目的地まで平坦が続くはずです。ドロップハンドルにマウントされたスマホのナビではそのように表示されています。
初挑戦のヒルクライム。辛いとか大変とか、よく耳にしますが、頂上から見る綺麗な景色と美味しい肉うどんというご褒美が待っていると思えば、少しは前向きになれるというものです。
「よし、行きますか!」
フレームのシートポスト部分に取り付けられたボトルから水分を補給して、気合いも充分。
いざ、ヒルクライムです。
坂を登り始める前に左手のシフトレバーをワンクリック。早めにフロントギアを内側に落として、立ち漕ぎと座り漕ぎを交互にやってゆっくり登っていきます。
使っている筋肉が違うので、立ったり座ったり交互に漕ぐことで疲れにくくなるのです。
ただ、あくまでそれは〝疲れにくくなる〟というだけ。
「はぁ……はぁ……はっ……」
早速息が上がってきました。
喉が渇いて水分を欲する体に鞭を打ちながら、ペダルを強く踏みしめる事をやめませんでした。坂道の途中で止まってしまうと、再開が難しい上に負けた気がするので、少女は頑張りました。
無意識に前傾姿勢になっていくのを意識的に正し、視線を前に投げます。気道が狭まり、余計に息苦しくなってしまうためです。
想像以上にキツく、登っている最中の景色まで楽しむ余裕は、少女にはありませんでした。
車体を左右に揺らすダンシングで登っていく姿を、野鳥は囀りながら眺めています。まるで応援してくれているかのようです。
「あと……すこ……しっ……!」
やがて、頂上まであと100mと書かれた看板の横を通り過ぎました。景色を楽しむ余裕はないのに、こういった情報は不思議と目に付くのでした。
早まりそうになる気持ちを落ち着けて、あくまで一定のペースを維持し続けます。
──あと50m。──あと25m。──あと10m。
「つい……ったぁ!」
とうとう登り切った達成感から、自然と声が出てしまいました。
緊張の糸が切れてしまったのか、急に力が入らなくなってきたので展望台用の駐車場に入り、そのまま駐輪スペースへ避難。
両足を地面につけて体をハンドルに預け、肩で深呼吸を繰り返し、息を整えます。
体の隅々にまで酸素が行き渡っていくのがわかるような気がしました。
気がしただけではありますが、指先の痺れがだんだんと引いていく感覚が、それを証明しています。
ボトルから水分を補給して、ようやく一息つけました。
「ふぅ……せっかくだし、ちょっと寄ってみようかな」
背中側に付いたポケットに手を突っ込んで、中から取り出した補給食を口に咥えながらゆっくりと崖側の手すりに歩み寄りました。
そこからは、眼下に広がる一面の緑を一望できました。遠くには、走ってきた道がうっすらと見え、車ですら塩の1粒のよう。
「あんな遠くから……こんなところまで来たんだ」
方角は合っているはずですが、全く見えない我が家を眺めながら、少女は呟きます。
自分の足で、紛れもなく自力で遠くまで来れたという実感が、少女の心を満たしていきます。
この充足感が、自転車にハマったきっかけでもあったなと、ふと思い出して、薄く微笑みました。
──パシャリ。
しっかり自転車+風景の記念撮影をして、母親に報告しつつ先を急ぎます。
慌てるような必要はありませんが、早く着けばそれだけ現地で落ち着ける時間が増えますから、早く着くに越したことはありません。
下り道も快調に飛ばしながら、曲がりくねった道を右へ左へハンドルを切ります。
あれだけ頑張って登ってきたのに下りはあっという間ですから、割りに合わないなぁ、なんて思っていたら──
「ぇ……?」
──自転車と共に、空を飛んでいました。
ブレーキは握っていたはずなのに、〝シャー!〟という擦過音だけを響かせて思ったような減速が出来ず、曲がり切れなかったのです。
決してブレーキが壊れたというわけではありません。単にブレーキを握る力が足りなかったのが原因。
ダウンヒルではドロップハンドルの下部分を握って、ブレーキレバーの先端に指がかかるようなポジショニングが正解で、根元を握るより、先端を握った方が力が伝わりやすいのですが、それをしませんでした。
指導者などおらず、初挑戦ゆえに、それを知らなかったのです。
崖から盛大に飛び出して、自由落下の感覚を下っ腹に味わいながら、目の前が森の緑一色に染まりました。
自転車のブレーキって意外と要求握力高いんですよね……何時間も乗り続けるならなおのこと。
命に直結する部分なので、部品のグレードアップをするときがきたらブレーキを最優先にすると良いかもしれません。