9 【側仕】(1)
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生まれたのは、森の側の小さな川沿いの村だった。物心ついたときには親はなく、村の大人達はみな冷たかった。穢れた淫売の子だと、不義の娘だと言われて育てられた。当時はまだ幼く、その意味の理解こそできなかったが、罵られてさげすまれているというのだけは肌で感じていた。
親代わりだったのは、村の長である男とその妻だった。親代わりと言っても、何かをしてもらったわけではない。馬小屋を寝床だとして扱われ、食事の時間だと言われ残飯を床にぶちまけられることを、養ってもらったと言えるなら、訂正しなければならないが。
昼も夜も休みなく働かされた。決して裕福な村ではなかったけれど、同い年の子供でこれほど過酷な労働に身をやつしている者はいなかった。村長には娘がいた。本当の両親に愛され、大切に育てられた子だ。子供らしく丸々と太った彼女と比べると、自分のみじめさが浮き彫りになった。
手はひどく荒れ、常にぼろしか身にまとうことを許されず、満足に水浴びもさせてもらえない。痩せた身体はまるで枯れ木のようで、らんらんと光る橙色の目だけがぎょろりと飛び出ていた。あの愛らしい村長の娘とは何もかも違う。こんな醜い子供が、一体誰に愛してもらえるというのだろう。
臭い、汚い、気味が悪い。村の子供達はそうはやし立て、石を投げつけてきた。泣いても何も変わらなかった。泣き顔が面白いと、反応が楽しいと、いじめは日に日に過激になっていった。常に生傷が絶えない暮らしに平穏などどこにもなく、いっそ死んでしまえば楽になると思った――――だから、冷たい川に飛び込んだ。
季節は夏で、汚れたぶかぶかの薄い服はあっさりと脱げて、細い身体は流されるままたゆたって。引っかかったのは、別の森の中の川辺だった。
頬に貼りつく紅い葉は、魔女の棲む森特有の木からはらりと落ちたものだ。故郷の村から少し南に行けば、そこは魔女の森だと聞かされていた。森には恐ろしい魔女が棲み、森に迷い込んだ者を食べてしまうのだと。人々はみなその森を畏れ、決して近づこうとしなかった。けれど不思議と怖くはない。このまま魔女に食べられてしまうのも悪くはないと、そのまま身じろぎもせず目を閉じた。
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「……着いたぞ。ここが“紅き森”だ」
大きな根を乗り越え、垂れる枝をかき分けた進軍の果て、ラズトラウトは歩みを止める。先に広がるのは、炎のような森だった。これまで祐理達が通ってきたのあくまでもこの森に繋がる道なき道にすぎなかったらしい。
その名にたがわず、森の樹木はみな赤く染まっている。そのさまはさながら紅葉のようだ。気候的に秋ではないはずだが、アルカディアの四季はエデンとは違うのか、あるいはもとからそういう品種なのだろう。
「【幸福の魔女】ラフェミアはこの最奥にいる。……ここからの道のりは、今までよりも過酷なものになるだろう。しかし、森に囚われた民がいる。魔女の支配下に置かれ、救いを求める声がある。ゆえに僕らは征かなければならない」
付き従う者達に向け、黒鎧の騎士は明朗に告げる。ああ、やはりこの若者は部隊を率いる将なのだ。だって、騎士達は誰も彼の言葉を疑わない。死地へ赴く行軍ができたのは、先を行くのがラズトラウトだったからだろう。
「さあ、進もう――悪しき魔女を打ち滅ぼすために!」
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「……獣の声すらせんのう。まさに死んだ森じゃ」
祐理の背中でエペーが唸る。……両腕で抱えていては、いざ戦うときにかなり邪魔になりそうだということで背中に(勝手に)移動したエペーだが、ひんやりぶにょぶにょした感覚が伝わってきてかなり気持ち悪い。森から出てまともな町に立ち寄れたら、リュックサックでも調達したいところだ。
「じゃが、敵の気配もせん。本当にここに魔女がおるのか?」
「ああ。……そろそろだろう」
祐理とラズトラウトが打ち解けたのを察したのか、エペーもわざとらしい振る舞いはやめていた。祐理に背負われるスライムには一瞥もくれず、ラズトラウトはじっと前を見据えている。
「……ッ! ユーリ、かがめ!」
「うぇっ!?」
「あばっ!?」
鋭い声に驚きながらもかがむ。しかし急にしゃがみこんだ祐理の動きについていけなかったのか、背中のエペーは大きく縦に伸びていた。そんなエペーの額(?)にはフォークが突き刺さっている。
「な、なんじゃ!?」
「……ああ、外しちゃった?」
前方に広がる、開けた空間。木の影からすっと一人の少女が現れた。彼女はそのまま優雅な足取りで開けた空間に躍り出る。
森の中には似つかわしくない、少女らしい可愛さを追及したようなメイド服。生き生きと輝くオレンジ色の瞳は、けれどどこか嗜虐的で。これはそう、捕食者の目だ。フリルで飾られた自己主張の激しい胸元だとか、エプロンスカートと黒いタイツの隙間から覗く太ももだとか、そんなものに目がいく前に生物としての本能が警告する――――あ、この女、やばい。
「あっれー? その鎧……もしかして、この前の人達かなー? 懲りずにまた来たの? しつこい人って嫌いなんだよね。今度は絶対逃がさないから。全員食べちゃおっと」
「もしかして、あいつが【側仕】……【幸福の魔女】に仕える悪魔か?」
舌なめずりする女から目をそらさず、傍らのラズトラウトに問う。ラズトラウトは小さく頷いた。
「足止めさえできれば、あいつの横をすり抜けて魔女のもとに行くのは可能だ。だが、この人数で戦力の分散は……」
もともと騎士達の数はそう多くない。祐理が行軍に加わってから植物人化する者はいなかったとはいえ、それ以前の敗走でかなり数が減っている。誰かが足止めに残ったところで、すぐに蹴散らされるのがおちだろう。あとあと魔女に合流されたら困る。それなら殺すことは叶わずとも、せめて悪魔を無力化していきたい……それがラズトラウトの考えらしかった。
「だけどさ、魔女戦前に消耗しすぎるのはまずくねぇ?」
「そうは言うが、魔女と悪魔を同時に相手取る危険には代えられないだろう」
確かにその通りだ。祐理が言葉に詰まると、ラズトラウトは困ったように笑ったように見えた。
「大丈夫だ、そう時間はかからない――焼き払え!」
「きゃっ!?」
地面に手をかざしたラズトラウトがそう叫ぶが早いか、彼の手のひらの先が勢いよく燃える。炎はまるで導かれるように円を描き、【側仕】を囲いこんだ。【側仕】を中心にした炎の檻は高く燃え上がって彼女を閉じ込める。円形の炎は、じわじわと【側仕】のほうに迫っていった。
「今だ、畳みかけろ!」
「はっ! 我が敵をことごとく滅せよ! 焼き尽くせ、降り注げ、フレイム・アロー!」
すかさずラズトラウトが指示を出すと、騎士達も【側仕】に向けて火の矢を雨のように放つ。檻を飛び越えて絶え間なく降り注ぐ炎の雨をかわせるはずもない。炎の檻の向こうでは、囚われた【側仕】が悔しげに顔を歪めているのが見えた。
「森の中には囚われた人々がいる。あまり炎は使いたくなかったが……これなら、大した消耗もなく進めるはずだ」
「おー!」
騎士達の炎が【側仕】を飲み込むまでにそう時間はかからないだろう。安堵したような騎士達に、祐理は称賛の目を向ける――――その瞬間。
「この私を火あぶりにしようなんていい度胸ねっ! ますます【幸福】様に会わせるわけにはいかないわ!」
人の身体程度なら遮れるほどの高さだった炎の檻。それをさらに飛び越えるほどに大きい影が伸びた。
檻の中から飛び出してきたのは、まるで虫の足のようで。全員の視線が空へと向かう。空に釘づけになる。祐理達の誰もが、檻に捕らえていたはずの少女だったものから目がそらせない。
「全員、鎧の中身を残らず吸い尽くしてあげる」
それは大きな蜘蛛だった。かろうじて上半身は少女の名残を残しているものの、顔立ちも、肌の色も、昆虫じみたそれへと醜く変貌している。炎に遮られていてよく見えないが、腰から下は完全に蜘蛛と化しているらしい。黒檀の体毛に覆われた蜘蛛の下半身は太く大きく、脚の一本一本がすでに凶器のようだった。
片翼の生えた、ねじくれた少女の体躯。それを覆うのは、巨大化に巻き込まれてはだけた可愛らしいメイド服だ。ボロボロになった以外は何も変わらないメイド服はひどく場違いに見えて、それがより少女蜘蛛の異形さを掻きたてていた。
蜘蛛の前脚が伸びる。呆然としていて動けない不運な騎士の甲冑に、太い毛が引っかかった。蜘蛛はすかさず足を絡め、顔を隠しきれない愉悦に歪ませる。哀れな贄はゆっくりと口元に運ばれていき、兜ごと頭から食まれていく。悲鳴は咀嚼音に消えた。
「……なるほどのう。これが悪魔か。ヴィーのときと何も変わっとらんようじゃ。蜘蛛を従えるというならば、【幸福の魔女】が真に司るは【杯】か?」
「全員、走れッ――!」
エペーの呟きを掻き消すようにラズトラウトが悲鳴じみた声を上げた。誰もが散り散りに逃げ出し、それを妨げるように振り下ろされた【側仕】の前脚が先ほどまで祐理達がいた場所を抉り取る。
「でかすぎるだろ、あんなの! どうやって戦えばいいんだよ!?」
粘液か唾液か、あるいは消化液か。ぬらぬらと輝く贄をしかと掴んだ蜘蛛は高らかに笑い、丸太のように太い前脚で周囲を薙ぎ払う。木はへし折れ、大地は揺れ、あちこちで苦悶の声が響いた。今自分がどこにいるのか、騎士達はどこに行ったのか、もうそれすらわからない。唯一見えるのは、祐理を嘲るように見下ろす悪魔だけだ。
地を這う騎士達を片手間でもてあそびながら、【側仕】は鎧の中身をうまそうにすすっている。あのぷらりと垂れる甲冑の主がほんの数分前まで生きていたことが、つい先ほどまでそこにいた者があっさり死んで怪物に捕食されていることが、にわかには信じられなかった。
「祐理、冷静になれ。悪魔は図体こそでかいが、元は人間にすぎん。必ず弱点があるはずじゃ!」
「はぁ!? あれって人間なのか!? 人に擬態してたとかじゃなくて!?」
「どちらでもある! アレは人間の身でありながら異形の力を得たのじゃ! 悪魔としての真の姿は蜘蛛じゃろうが、もともとのあやつは娘っ子じゃわい! ああいや、今はそんなことを話しとる場合ではないな! ほら、きりきり避けろ!」
「言われなくてもやってるっつーの!」
頭上を掠めた、鎌のような前脚に息が詰まる。今度はエペーも不本意な伸び方はしなかったようだ。しっかり縮み、前脚を避けている。フォーク程度ならなんとかなったエペーも、さすがにあの前脚の直撃は困るらしい。
「ッ!」
「祐理!」
上から降ってきた、ひしゃげた籠手の残骸に足を取られて転んでしまう。地に伏せた祐理の目に入ったのは、大地に横たえられた倒木だった。倒木の下は、地面を彩る真っ赤な落ち葉よりも紅く染まっている。その下に何が……誰がいるかなんて考えたくもない。
足元の籠手からは、どろりと何かが垂れていた。それがもともと何だったのかを考えてしまい、こらえきれない吐き気が込み上げてくる。悪魔の目から隠れるように衝動を吐き出し、荒い呼吸を繰り返した。
「くそ……弱点なんて、どうやって探せばいいんだよ……!」
真の姿を解放した【側仕】の前では、ラズトラウト達が放った炎もあまり効いていないようだった。本体は今もまだ炎の檻の中にいるが、近づくにはまず前脚をどうにかしなければいけない。折れた木々が次々降り注ぐせいで足場も視界も悪い今、悪魔に一矢報いるどころかまず体勢を立て直すのも難しかった。
「祐理、ほれ! 『審問大全』を使うのじゃ!」
「こんなときに本なんて読んでられるかよ!」
毒づきながらも後ろから渡された本を受け取る。邪魔だからということでひとまずエペーの体内に戻していた本は、やっぱりぬめぬめしていた。しかしそれを気持ち悪がっている暇もない。時間がなかったという理由で中身は詳しく検めていなかったが、祐理の使える武器はこの本しかなかった。
しかし【側仕】は読書の時間を与えてくれない。戦地の真っただ中ではおちおち文章の一つも追っていられず、風を切る前脚に急き立てられて逃げるしかない。
(とにかく今は前脚を……前脚?)
はたと止まる。記載されているのは一番最初のページだ、たとえ咄嗟であってもすぐに開けた。逃げの一手に徹していた祐理はくるりと向きを変え、前脚を振りかざして笑う【側仕】を視界に収めた。
「踊れぬ姫の夜会靴! とにかく刺され、なんでもいいから動きを止めろ!」