7 騎士のついた嘘
アルカディアの星空は、周囲に人工灯がないせいか日本のそれよりくっきり見えた。けれど、祐理でもかろうじて知っているような有名な星座などどこにもない。
月は青白いどころかうっすら赤みを帯びていて、ああやっぱりここは異世界なんだと痛感する。祐理が生まれるはずだった世界で、母の故郷で、生き別れた父と姉がいる大地で、家族の仇が神として君臨する地。それが、このアルカディアだった。ここは日本とはまったく違う。喋る虹色のスライムが平然と受け入れられていて、印術があって、魔女やら聖者やらがいて、騎士が闊歩していて、聖職者が崇められていて、神と呼ばれる存在がいて。祐理を取り巻く何もかもが変わったのは今朝のことだというのに、その変化が唐突すぎていて、今までとはまったく違いすぎていて、遠い昔に起きたどこかのことのようにも思えた。
母親が異世界人だろうと、アドレナリンが分泌されていてハイになっていようと、祐理は都会のもやしっ子だ。たびたびの休憩を挟んだとはいえ強行された進軍に、どうやってついていけたのかと言われれば「空気に乗せられて歩いていたらいつの間にかここまで来ていた。靴は偉大だと思った」としか答えられないが、それとこれとは話が別だ――――体力はごまかせても、寝心地の悪さからは目を背けられない。
疲れてはいるし、泥のように眠る自信はあった。それなのに眠れない。大地の枕と上着の布団で眠りにつけなんて、野宿初心者の祐理にはかなり無理がある。荷馬車に天幕が積まれておらず、誰も天幕の用意をしていなかったあたりで気づくべきだったのだ。こいつらわりとガチで野宿する気だな、と。
身体のどこかで虫が這うような感触がする。上から落ち葉が降ってくる。遠くから獣の遠吠えのような音が聞こえてくる。近くで寝ている騎士達のいびきも結構うるさい。景色から言って春先のような気がするが普通に寒い。おちおち眠ってもいられなかった。
(不寝番、やってこようかな……)
眠い目をこすりつつ起き上がる。祐理の枕(?)元で安らかに眠るエペーのことはひとまず放置でいいだろう。少し離れたところにあるたき火の傍に、不寝番の騎士がいるはずだ。
不寝番は交代制だと聞いていて、そこに祐理の順番はなかったが、やはり何の手伝いもせず同行だけするというのは居心地が悪い。働きが期待されているのは魔女との戦闘においてだろうが、食事も分けてもらっていることもあって少しでも道中で貢献がしたかった。目を凝らしつつ、少しふらつきながらもたき火の方角へと向かう。
「誰だッ!」
「うわっ!?」
ぱきり、踏みしめた小枝の音が夜の静けさの中に響いた。思ったより大きなその音は祐理自身を驚かせたが、たき火の前にいる不寝番の騎士をも驚かせてしまったらしい。炎の色を映して赤く染まった髪の騎士は、美しい顔を険しげに歪めて剣を抜いた。
「あああ、怪しい者じゃないです!」
痩身の、見慣れない顔の騎士だ。たとえ同性だったとしても、こんな美形がいたら忘れはしないだろう。会ってはいないと思う。不審者でないと証明するためにも名乗りたいが、名乗ったところで認識してくれるだろうか。しかし祐理の心配は杞憂に終わったようで、祐理の姿を認めた騎士は少し慌てたように剣を下ろした。
「なんだ、ユーリか……。ちょっと待ってくれ、今甲冑を着るから」
「え? いや、そのままでいいですよ?」
そのまま騎士は、手元に置かれた黒い兜をいそいそ被る。何のことはない、見慣れない騎士の正体はラズトラウトだった。まさかあのごつい甲冑の下があんな中性的な優男だったとは。しかも思ったより若そうだった。さすがに祐理よりは年上のようだったが、二十前後か、もしかするとまだ十代後半かもしれない。隊長代理という役職や、周囲の騎士の年齢からしててっきり三十代ぐらいはいっていると思っていたのだが。
「ぐ……だ、だが、せめて兜だけは……」
ラズトラウトは兜を死守するように押さえた。どうしても素顔は晒したくないらしい。首から下は普通の服装なので、違和感があるどころの話ではなかった。
(そっか……もしかしてこの人、そういうのを隠すために鎧に固執してるのかもな。甲冑着てたら、中身なんてわかんないし)
隊長代理につくということは、もともとラズトラウトは副隊長か何かだったのだろう。自分より年長の騎士達をまとめる者が年若い優男では示しがつかないと、いかつい黒甲冑ですべてを覆い隠すことにしたのかもしれない。さすがに祐理しかいないこの場所で、そこまで気にする必要もないとは思ったが。失礼ながら、格好があまりにちぐはぐすぎて直視すると笑ってしまいそうだ。
「眠れないのか?」
「ええ、まあ、そんなところです。えーっと……旅の勘まで忘れたのか、記憶を失う前は宿屋にしか泊まってなかったのか、野宿は苦手みたいで」
「そうか。まあ、無理もないだろう。僕も野宿は得意なわけではないから、気持ちはわかる。本当は天幕があったんだが……敗走中に失ってしまってね。不自由を強いてすまない」
「い、いや、全然気にしないでください! 俺が無理言ってついてきたみたいなもんですし!」
慌てて言い募るが、ラズトラウトは落ち込んだようにうつむいたままだ。どうやら本気で負い目を感じているらしかった。うすうすわかってはいたが、かなり責任感が強いようだ。
「ついてきた、か。……ユーリ、君は記憶を失ってなおも“狩人”の名を名乗ったな。その使命も覚えていないようなのに、それでも君は“狩人”として在ろうとしている。もしも【幸福の魔女】を狩ったなら、次は他の魔女を目指すのか?」
「え? ああ、まあ、はい。そうですね。そうしないといけないんで」
覚えていないのではなく、知らないだけなのだが。祐理はただ、魔女達から心を奪っていくだけだ。そうしていけば、いずれロゴスのもとに辿り着ける。ロゴスを失墜させ、対等に渡り合うことができる。だから祐理は“狩人”になった。
「……ラズさんこそ、よく信じてくれましたね。いきなり現れて“狩人”だなんて名乗る奴なんて……自分でも怪しい自覚はありますよ、さすがに」
「はは、確かにな。それについては……そうだな、わらにもすがりたい、というのもあったが……一番は、“狩人”の伝承に賭けてみたかったからだ。かつて【原初の魔女】ヴィヴリオを斃した“狩人”レクトル、君がその再来だというのなら……魔女討伐の旅に、これほど心強い援軍はない」
「【原初の魔女】……」
「七魔女の前身さ。原点にして頂点、唯一絶対の真なる魔女。神が遣わした“狩人”に敗れたヴィヴリオは、その身を七つに割かれてそれぞれ紙片に封印された。七枚の紙片は、七つの領域の守り人の名において厳重に保管されていたんだ。七色の聖者と、そして聖者が従える勇者と守り人。彼らによって、ヴィヴリオは未来永劫眠り続けるはずだった」
けれどいつしかその封印は解き放たれ、ヴィヴリオの力を宿した紙片は七人の魔女を生んだ。役目を果たせなかった守り人は時代の流れの中に消え、魔を祓う勇者のみが聖者とともに歩み続けた――――そう続けるラズトラウトはどこか悲しそうだ。いや、それもそうだろう。ヴィヴリオの紙片が封印されたままだったなら、七魔女に苦しめられることもなかったのだから。
「……詳しいですね、ラズさん」
「“狩人”レクトルの話は、子供なら誰しも一度は憧れる英雄譚だからね。……ユーリ、君が本物の“狩人”なら、きっと今回の遠征は成功するだろう。そうであってほしいと、信じている。いや……たとえ君が普通の少年であっても、“狩人”の名前は……きっと、そう、仲間を勇気づけてくれるだろう。たとえ勝ち目のない戦いでも、僕らには希望が必要なんだ」
訥々と紡ぐ言葉は、まるで自分に言い聞かせているようで。夜空を仰ぐラズトラウト、彼の兜越しの目に星の明かりがどこまで届いているかはわからない。すべての光を遮るようなその黒い兜の下で、彼は一体どんな顔をしているのだろう。
「こんなこと訊くのもヘンですけど……怖いとか、ないんですか? このまま逃げ出したって、誰もわからないでしょう? どうせ死んだと思われるだけですよ。このまま進んで、魔女に勝ったところで、寄生呪樹に寄生されてるかもしれないんだから、国に受け入れてもらえるかもわからないって、自分で言ってたじゃないですか。他の騎士さん達も、それはわかってるはずですよね。なのに、ここまでする義理なんて……わざわざ再挑戦する必要なんて、あるんですかね?」
「そうだね。そう思った騎士はいただろうし、彼らはとうに混乱に乗じて逃げている。だけど僕は……僕らは逃げない。僕は、自分が自分であるために戦うんだ。僕は帝国の騎士なんだと、どんな時でも胸を張っていたい。だから僕にとって勅命は絶対だ。……これは僕にとって、存在理由を証明する戦いなんだよ。勇敢に死んでいった仲間に恥は晒せないし……どうせ死ぬなら臆病者としてじゃなくて、騎士として死のうじゃないか。もちろん、好き好んで死にたいわけじゃないけどね」
ラズトラウトは苦笑したようだった。声音には恐怖がにじんでいて、けれど嘘は一つも混じっていない。彼は本心からそう思っているのだろう。
ラズトラウトにとっては死への恐怖より、魔女に挑む絶望より、騎士としての生き様を貫き通すことのほうが勝っていた。そのありようはきっととても愚かしくて、生き急いでいるだけだ。けれど祐理は、それを馬鹿にはできない。彼のその生き方は、誰にだって嗤わせない。
「……ラズさん、あんたすごいよ」
「そうでもないさ。僕はね、格好悪い姿を人に晒せないだけなんだよ。……君のように、まったく知らない人相手だから話せるけど……僕はとても弱いんだ。僕は、本当の僕を隠してくれる虚飾の鎧から出られない。見せつけた自信が醜く剥がれ落ちていくところを、高く積み上げた矜持がへし折れるところを、僕を知る人には決して見せられない。死んだふりをして逃げ出して、その事実が明るみになれば……あるいは、みじめに魔女に敗れて嬲り殺されれば、誰もが僕を嘲って……僕に失望するだろう。それが耐え切れないだけなんだ。散った仲間のためなんて言っても、結局僕は自分のために逃げ出せないだけで……自分で自分の首を絞めているだけなんだよ」
よく知らない相手だからこそ本音が話せる、と。いつかどこかで、誰かが言っていたような気がした。それはむしろ、インターネットを通じて知り合った悪人と親密になってしまうプロセスだとか、顔も名前も知らない者同士で安易に誰かを吊るし上げて笑いものにできる理由だとか、そういったマイナスの要素を含んだ説明だったが……いじめの相談は匿名だからこそできるとか、そんな状況でも使われる言葉でもあった。
裕理とラズトラウトは今日会ったばかりの他人だ。出会った時間で言えば、半日程度しか経っていないだろう。祐理はラズトラウトという青年の半生をまったく知らない。彼がどう生きてきたのか、一つもわからない。そしてそれは、ラズトラウトも同様だ。ゆきずりの他人だからこその告解なのだろう。もし祐理がラズトラウトの傘下の騎士であれば、きっと彼はこんな話はしなかった。
「それでも、さ。そんだけ徹底できるなら、それはやっぱり本物だと思いますよ。嘘なんて、バレるからの嘘でしょう? ただの猫被りだとしても、最期まできっちり被り通して、全員を信じさせたなら……それはもう、それが本当ってことなんじゃないですかね。あんた、全然弱くないですって。本当に弱かったら、そういう嘘をついたところですぐぼろが出るはずです。そんなキャラを作ったことなんて忘れて、速攻で逃げ出してるでしょうね。それをしないで、自分を信じた人に最期まで嘘を信じさせようとするなんて……なかなかできることじゃないっすよ」
「……」
ラズトラウトはしばらく黙っていた。しかしすぐにぷっと噴き出す。
「君、敬語を使うのが苦手だろう?」
「あ、やっぱバレちゃいます? ほら、こういう風にその場で取り繕ってもすぐに見破られるんです。でも見た感じ、ラズさんが嘘をついてるなんて誰も気づいてないみたいだった。……こいつは逃げられないから逃げないんだ、なんてわかってる風には見えませんでしたよ。もし勘づいてたら、そんな大将に先頭を任せようとは思わないでしょ、普通。従ってくれる騎士がいるってのは、あんたがちゃんと騙せてる証拠だと思いますよ」
「そうか……僕はちゃんと、立派な騎士を演じきれていたのか。それならもう、心残りはないな。あとは魔女を斃して、帰還すればいい……」
裕理の言葉に胸のつかえがとれたのか、ラズトラウトの呟く声は少し弾んでいるようだった。
「ユーリ、無理して敬語で話そうとしなくていいよ。どうせ年もそう変わらないだろう? 僕はまだ十八だし、僕の身分なんて旅人の君が敬うようなものでもない」
「二つ差って結構大きいような……。いや、あんたがいいならいいか。じゃあラズさんも、今さら俺の前で見栄を張るのはなしってことでよろしく。全部知ってるから、今さら張る見栄もないと思うけどな」
「ぐっ……そ、そうだな。でも、あまり人には話さないでくれよ。僕にも立場があるんだ」
「……ところでラズさん、兜は外さねぇの? ここは外すところじゃね?」
「いや、それとこれとは話が別だ。人の目を見て話すのはなんだか恥ずかしくてね……。それに、あまり顔を見られたくないんだ」
ラズトラウトは恥ずかしそうに顔を背ける。いかつい黒鎧の騎士はただのシャイな青年だった。