6 幸せの魔女
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かぐわしい花の香りに包まれるラフェミア=トラヴァルムは、小鳥達と戯れる民を見て嬉しそうに微笑んだ――――この国の住人は、みな満たされている。
この森はラフェミアの王国だ。五百年の長きに渡って守られ続けた、永遠の理想郷。【幸福】を謳う魔女が、救いを求める哀れな旅人のために築き上げた救済の園は、今日も甘く美しい夢で彼らを魅せている。
“永遠に醒めない幸せの夢”。“紅き森”の最奥に位置するこの場所を、ラフェミアはそう名付けていた。第一の魔女にして【幸福】の名を掲げる自分が、人々を幸せにするために作った地上の楽園。ここにいれば、人々はどんな苦しみからも解き放たれることができる。
外のことなど知らなくていい。飢えも貧困も悪法も、憎悪も裏切りも、外の世界に蔓延る悪徳などここには一つもない。一度“永遠に醒めない幸せの夢”に溺れたのなら、森の外のことなんてどうだってよくなる。だから誰も森の外のことなんて気にしていないし、ここを去ろうともしない。彼らにとって、それだけこの森が居心地のいい場所だからだ。
「む? 【側仕】の、スカートに血がついておるぞ。どこぞでつまみ食いでもしおったか?」
ふと、視界に揺れた白と黒のエプロンスカートに目がいく。ラフェミアに忠実に仕えるメイド、【側仕】エシェールは指摘を受けて恥ずかしげに顔を赤らめた。
「結界の様子を見に行ったら、この前の騎士の残党を見つけて……つい……」
「構わん、構わん。襲撃者ならばいくらでも食むがよい。むしろそなたは森の静寂を守ったのだ、褒めて遣わす」
ほんの少し前、不作法な来客が来たのはラフェミアの記憶に新しい。それが数日前だったのか、数週間前だったのか、あるいは数時間前の出来事だったかは、悠久を生きる魔女の身では定かではなかったが。
森を荒らそうとする者が来るのはよくあることだ。最近――――ここ数十年はその流れも落ち着いてきていたのだが、急に来たところで今さら騒ぎ立てるほどでもない。七魔女の集いの年に重なったのが面倒だと思う程度だ。
七人の魔女と、彼らに付き従う悪魔のみが足を踏み入れることを許される塔。そこで五十年に一度開かれる茶会の主催はラフェミアだった。それはラフェミアが第一の魔女だからだが、この数字に意味などないことは誰もが知っている。最古参の一人であり、一番目という言葉の響きからまとめ役を押しつけられただけだ。
一番目の黄、二番目の白、三番目の紫、四番目の赤、五番目の黒、六番目の緑、そして七番目の青。これは初代の七魔女が覚醒した順番にすぎない。もともと七魔女には自身に刻んだ言葉があり、そちらが通名として使われている。けれど代替わりを経れば経るほどどの領域を統べる魔女かややこしくなり、かといって領域名を冠せば七色の聖者の真似をしたようになって気に食わない。そこでいつのころからか初代の覚醒した順をもう一つの通り名として使うことになり、魔女達は恒例として一番目から七番目を名乗りだした。あくまでも身内間での識別方法だ、人間達がそこまで知っているかは知らないが。
押しつけられた立場なんてその程度のものだから、主催側がすることもたかが知れている。そもそも集いにおいて、七魔女はそれぞれ好き勝手に塔での時間を過ごすものだ。適当に話したり遊んだり、食べたり飲んだり。五十年ごとに魔女の塔で開かれる一年間の集会は、一か月に一度の茶会の日に塔にいれば好きなときに自領に帰っても問題なかった。
本当に大事な話は茶会の席でする。それ以外の時間はおのおのが自由に過ごしているだけだ、名ばかりの主催などいようがいまいが構わなかった。それでも、真面目なラフェミアはどうしても塔の様子が気になってしまう。
「人間どもが森を荒らさずにいてくれれば、こんな憂いなど抱えずにすむのだが。まったく、なにゆえ人間どもは攻めてくるのかのう。普通に来るのなら、わらわも歓迎するというに……やはり、この森を独り占めしたいのか?」
この森はすべての幸せが集う楽園だ。【幸福】を名乗る魔女が築き上げた理想郷だ。人に幸せを、心からの笑顔を。ただその一心で生み出したこの小さな国は、苦しみや悲しみとは無縁の場所だ。魔女の領地間移動に関する制約さえなければ、他の魔女達も招待したいぐらいだった。そうすれば、彼らも少しは丸くなるだろうに。
ラフェミアにはわからない。外界から隔絶されたこの場所に逃げ込んだ者達を、わざわざ外の人間が追ってくることが。この森の住人達はみな、つらい運命に絶望して現実からの逃避を願った。ラフェミアは、外の厳しい世界に拒絶された彼らを受け入れただけだ。それなのに、彼らを追い出したはずの人間達が何故森を襲うというのだろう。
「そうかもしれませんね。【幸福】様のことは邪険にしておきながら、【幸福】様の国は欲しいんですよ。だってここには、人間達が求めるすべてがありますから。まったく、あさましい人間の考えそうなことです」
エシェールはそう吐き捨てる。人嫌いのメイドはあるじたる魔女より思想と発言が過激だった。
ラフェミアが魔女になったのはもう五百年以上も前のことで、それだけ長く魔女をやっているとむしろ落ち着いてしまうものだ。ラフェミアが魔女になったのには理由があり、そのために流した涙や噛みしめた唇から滴った血もあったが、今ではもう遠い昔のことだった。
ラフェミアが今も魔女として在れるのは、自身が見出した【幸福】という存在意義のためだ。それは怒りでも憎しみでも、ましてや享楽のためでもない。彼女を突き動かすのは一種の使命感であり、この楽園で幸せに暮らす人々を眺めることこそ彼女が最も愛する時間の一つだった。
ラフェミア=トラヴァルムという少女は、もともと温和な性格をしていた。魔女になってからはずっと隠遁生活を送っているせいもあるだろう。ラフェミアは他の魔女のように、自分が魔女になった理由にいつまでも執着して身を焦がすようなことはなかった――――たとえ表面上はおとなしくても、彼女もまた狂える魔女の一人だということに違いはないが。
「ふむ……そういえば、例の新入り……七番目の小娘が面白いことを言っとったな。わらわの楽園を土足で踏み荒らそうとしないのなら、【悲哀】のの言葉通り人と魔女が手を取り合える世界も作れると思うが。少なくとも『黄の領域』の地であれば、のう。それが実現できない理由はただ一つ、人間どもの愚かさと強欲さゆえであろうて」
ラフェミアは博愛主義者ではない。ものぐさな魔女は自分の国の住人を守るが、わざわざ国の外にいる有象無象に向けて自分から救いの手を差し伸べるほどのやる気などなかった。
けれど、もしも。もしも夢の世界をもっと広げ、幸せの園にふさわしくない人間を間引いていけば、この理想郷が荒らされることはなくなるだろう。それは、いちいちやってくる襲撃者達をその都度撃退していくことより楽に思えた。
「そういえば、襲撃の余波で結界が壊れてしまって、夢の境界があやふやになってしまってましたよね。もしかすると、人里まで浸食しているかもしれません」
「そうだったな。よい機会ぞ、すこぅし本気を出すとするかのう」
「ええ!? やめてくださいよぉ! 無作為に人間を増やしたりしたら、この楽園が穢れてしまいますっ!」
エシェールはオレンジの瞳を大きく見開き、真白の髪を振り乱す勢いでラフェミアに迫る。エシェールは普段ラフェミアの言葉とあれば追従以外はしないのだが、めったにこない彼女の反論にはラフェミアも引きさがらざるを得なかった。
「むぅ、そうか? そなたが言うのなら仕方あるまい。領土を広げるのはやめにしておこう。さあ、結界の修繕を急がねばな」
一度垂れ流れた魔力は戻せないが、穴を塞げばこれ以上の流出は防げる。人里に溢れた夢については放置でいいだろう。どうせラフェミアが何もしなければ、『幸せ』が溢れかえることはないのだから。
「はい、【幸福】様!」
「うむ、よい返事ぞ」
元気よく頷いた悪魔を前にして、魔女は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。なんであれ、傍に置く者は素直なのが一番だ。拾った当時は荒みきった眼をした少女も、幸せを教えるとすぐになついた。彼女がこれほど明るく笑える娘になったのは、ひとえにこの理想郷の力だ。
「急がねばならん。まだ集いは途中ゆえな。早く結界を直して塔に戻らねば」
ラフェミアは周囲をぐるりと見回す。その完璧な景色に、【幸福】を謳う魔女は満足げに目を細める。彼女の目は、この世の楽園だけを映していた。
楽園の民は誰もがみな幸せそうで、現世に溢れかえるありとあらゆる悲しみなんてなくて。痛みや苦しみから解放された、悩みとは無縁の世界。それがラフェミアの築いた王国だ。
空ろな瞳で虚空を撫でる、口の端からよだれを垂らした人間などいない。風に吹かれてからからと音を立てる乾いた骨もない。すべてを惑わす妖しい香りを放つ花々だけは、変わらずそこにあったけれど。
「はいっ。私達がいない間、また人間が襲ってこないか少し心配ですけど……」
「そのときはそのときぞ、また帰るしかあるまい。……ふん、今さらなんの用であろうな。もとはと言えば、あやつらがわらわ達を認めなかったというのに。わらわ達のことなど、捨て置けばよいものを。……のう、そなたら。そなたらも、現世に戻りたくなどないよなぁ?」
生ける屍と化した民は病んだ笑みを浮かべ、魔女の問いかけに力なく頷く。それを見た魔女は、よりいっそう歓喜に打ち震えるのだ――――ああ、やはり素直なのはよいことだ、と。
【幸福の魔女】、ラフェミア=トラヴァルム。彼女は七人の魔女の中で最も怠惰で最も盲目、そして最も独善的な魔女だ。幸福を謳う魔女の楽園、虚飾の平和で彩られた作り物の理想郷。心を失くした人形達がそこから解放される日はまだ来ない。
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