4 黒鎧の騎士
「……なあ、なんか変な臭いがしないか?」
「うん?」
腕の中のエペーに尋ねると、エペーはわずかに身を乗り出して周囲をきょろきょろと見回す。よく見ると、口の少し上あたりがひくひく動いているような気がした。まさか、そこが鼻なのだろうか。
「村の方角からではないか? そうじゃな、これは……まるで、何かが燃えているような……それと……わずかではあるが、血の臭いも……」
「はぁ!? まさかもう守り手が来たのか!?」
「いや、その可能性は低いはずじゃ。この森のことをロゴスは知らんはずじゃからな。いかに守り手といえど、むやみやたらと暴れるような真似はできん」
「助けに行ったほうがいい……よな?」
「む……じゃが、何があるかわからん。油断するでないぞ」
少し迷うが、足の痛みに耐えて駆け出す。森の終わりはすぐに訪れた。小さな木製の柵の向こうがカフタス村だろう。点在する家からは黒煙が上がり、あちこちに村人らしき亡骸が転がっていた。
「うっ……」
少し離れたところからは、固い金属がぶつかるような音と人々の怒声が聞こえた。吐き気をこらえてそちらへ向かう。
甲冑姿の騎士のような人間達が、誰かと戦っていた。敵対者は鎧の残骸のようなものを身につけていた。彼らもまた人間のように見えた――――背中から伸びたうごめく蔓と、あちこちに花が咲いた緑色の皮膚さえなければ、だが。
「えっ、アルカディア人ってあんなんなの!? なんか緑色なんだけど!?」
「そんなわけがあるか! 見た目だけならエデンの民ともそう変わらん! 魔物か何かに人間の騎士が襲われとるのじゃ!」
騎士達はそれぞれ炎を巧みに操って応戦しているものの、騎士のほうが数は少なく、劣勢を強いられているようだ。
一人だけ、他の騎士とは違う黒い甲冑をまとった騎士がいる。黒の甲冑は全体的に刺々しくて禍々しく、何より目立っていた。他の騎士達に指示を出しているあたり、黒騎士がリーダー格に見える。一人、また一人と騎士が植物人に蹂躙されていく中で、黒騎士だけはなんとか奮闘しているようだ。そのいかめしい鎧に見合った強さを備えているらしい。だが、一人ではどうにもならないだろう。案の定、黒騎士は絡みつく触手のような蔓に邪魔されて思うように動けなくなってしまった。
「なっ、なんか使えそうな奴――爆ぜ響くは断末魔! 頼む、燃えてくれ!」
祐理は『審問大全』をめくり、説明文から“炎”の単語が目についた項目名を叫ぶ。その瞬間、鈍く輝く牛の像が天から降ってきた。炎をまとったその牛は植物人を何人か巻き込む形で着地する。
巻き込まれた植物人はたちまち引火し、草の生えた地面を伝って燃え広がっていく。黒騎士に巻きついた植物人も炎に飲まれたようだ。燃えたおかげで脆くなったのか、黒騎士は自分に絡みついている蔓を乱暴に引きちぎった。
「新手かッ……!?」
「ち、違いますー! ただの通りすがりですー!」
兜越しでもわかる、殺気のこもった眼差し。ぶんぶんと首を横に振る祐理を脅威ではないと判断したのか、黒騎士はすぐに目をそらして祐理を背にして立つ。どうやら、その剣の切っ先は祐理に向けられずに済んだようだ。
「息のある者は僕の後ろに――立ち塞がれ!」
黒騎士が叫ぶが早いか、黒騎士の前から炎がごうッと一直線に燃え広がる。それは壁のようにそびえたち、まだ生きている騎士達を囲った。黒騎士が築いた炎の壁は牛の炎を飲み込み、騎士達を焼かないようにしている。どうやら黒騎士の炎は攻撃のためではなく、牛から味方を守るためのもののようだ。炎の壁のおかげか、牛の炎は黒騎士より後ろ――――騎士達や祐理に届くことはなかった。
「ほう、簡略詠唱か。あの黒い騎士、中々の手練れのようじゃな」
牛の炎が植物人を焼く。嫌な臭いが鼻を突く間、エペーがそう呟いた。疑問に思って見下ろす祐理に、エペーは説明を付け足す。
「今、あの黒い騎士は何もないところから炎を生んだじゃろう。本来、ああいうことをするには長い詠唱をせねばならんのじゃ。しかし奴はその正規の手順を踏まず、必要最低限の方法でもって印術を発動させた。当然威力は劣るが、時間に勝るものはなかろう。それができる者は限られておる。それに、別人が放った炎を簡略詠唱で抑え込めるとは大したものじゃ」
「ええっと……ようは、あいつは強い魔法使いってことか」
「魔法……おぬしにわかりいい言い方にするとそうなるのか? じゃが、その名はあまり出すなよ。その響きは、魔女の扱う魔術に似ておる。あれはあくまで人間の使う業……印術じゃ。たとえ同じようなものじゃろうと、言葉が持つ印象は大きく異なる。むやみに混同するものでもあるまい」
「わ、わかったよ」
ぼそぼそ喋る二人に、近づいてくる足音があった。黒騎士だ。ぎょっとして顔を上げるが、黒騎士はすでに剣を収めていた。
「まずは感謝と謝罪をしよう。君達のおかげで助かったというのに、冷静さを欠いて危うく恩人に剣を向けるところだった」
黒騎士は祐理の前で立ち止まる。他の騎士達もザッと横一列に並んだ。そのさまはまるで一種の儀式か何かのように厳粛で、そんなものに慣れていない祐理をたじろがさせるには十分だった。
「僕はラズトラウト=ディック。この帝国第三騎士隊副……いや、失礼、この魔女討伐隊隊長代理だ。君は……旅人か? 腕に抱えているのは亜獣のようだが……」
「魔女討伐た……もがっ!?」
「旅人です! こいつは、えっと、悪さはしないので、見逃してもらえませんかね!?」
過剰に反応したエペーの口を慌てて押さえる。喋るスライムなんて見せたら、騎士達がどんな顔をするかわかったものではない。
「あ、ああ。ただ聞いただけだ、そんなに焦らないでくれ。気にしなくても、飼育されている亜獣をいちいち取り締まりはしないさ。それが魔物なら引き渡してもらうところだが、見たところ魔女の気配もないようだし、何の問題もない」
「……どう違うんだ?」
「魔物は魔女の呪いを受けた生物や魔女によって生み出された生命のことで、亜獣はもともと存在しとる動物の一種じゃ。亜獣扱いされるのは気に食わんが……まあ、それで波風が立たんのなら甘んじて受け入れてやろう」
小声で尋ねると、エペーはやや不服そうに答えた。スライムはこの世界では「亜獣」と呼ばれるらしい。
「君の名前は? 靴も履いていないとは……何か事件にでも巻き込まれたのか?」
「帝国騎士ということは、もしやここはすでにラウラスの地か? 騎士殿、こちらはあるじのユーリ、儂はあるじの忠実しもべ、エペーと申します。我々は旅の途中で盗賊に襲われたのです。いかにあるじといえど、寝込みを襲われては対処できぬというもの。命以外の一切合切を奪われ、あるじはその時のショックで記憶すらも失い、道もわからぬままほうほうの体で逃げたのですが……そういえば、森を抜けてきたのう。あれは国境の森だったのじゃろうか」
「ああ、それは大変な目に遭ったな。となると、関所は通っていないわけか……。いいだろう、僕のほうから口添えをしておく。騎士たる者がか弱き民を見捨てるわけにはいかないからな。我が隊を助けてくれた恩もある、力にはなろう」
祐理の手を触手で押しのけて、エペーはぺらぺらないことないこと喋り出す。兜のせいで表情もよく読めないが、ラズトラウトはまったく疑っていないようだった。亜獣は喋っても驚かれないらしい。
「ところで……これは一体、どういった騒ぎなんですか? 村の人達は……」
「……一応、生存者の避難は済ませている。もともと村にいた駐屯兵達に隣村までの避難誘導を任せてな」
「誉れ高き帝国騎士は、帝都リラを守護しておると聞き及んでおりまする。その騎士殿がたが、なにゆえ国境のこの村に? 魔女討伐隊とはどういった意味でありましょう」
「その名の通りだ。僕らは、“紅き森”に棲まう【幸福の魔女】を倒すために皇帝陛下に遣わされた。この村に引き返したのは補給のためだ。……ここより先、“紅き森”までの町はほぼ壊滅状態でね」
「隊長代理、旅人相手に何もそこまで、」
「失態は失態だ。いかに恥だとはいえ、民に迫った脅威を隠して何になる」
ざわめく騎士を一瞥し、ラズトラウトは絞り出したような声音で告げる。彼はすぐに祐理に向き直った。
「北には決して近寄るな。南か西、あるいはクランシリーニーに戻れ。……できれば、クランシリーニーの民にも注意を促してくれるとありがたい。【幸福の魔女】の魅せる夢が、ついに“紅き森”から溢れ出したとな」
「ええっと……ラズトラウトさん達はどうするんです?」
「……この村を危険にさらしたのは僕達だ。せめて魔女の討伐を終えるまで、僕達は帝都に帰れない」
君達の幸運を祈る。その言葉を最後に、ラズトラウトは祐理に背を向ける。
「彼らに食料を少し分けてやれ。それと、簡単な装備を。丸腰では不自由するだろう」
「はっ」
ラズトラウトの指示に、ある騎士が敬礼してと走っていった。その騎士は、まだ無事な民家の傍に止めてあった大きな荷馬車から積み荷を降ろす。村人の備蓄かと一瞬ぎょっとしたが、よく考えれば家があるのにわざわざ荷馬車に積んでおく必要もない。避難用ならそれこそ持ち出して逃げているだろう。魔女討伐隊の物資のようだ。
他の騎士達とは少し意匠の異なる黒い鎧。視界に塞がるそれが遠ざかり、代わりに少し大きな袋を担いだ一般的な甲冑が近づく。太陽の光を受けて銀色に輝くそれに目をくらませ――――祐理は気づいた。気づいてしまった。
(これ……あの植物人と、同じ鎧じゃねぇか……!?)
なら、騎士達が戦っていたのは。つい今しがた、自分が燃やしたのは。いや、だけど、そんなこと、あるはずがない。あっていいはずがない。
「……貴方には感謝しております。私達の弱さを、貴方は断ち切ってくださった」
「嘘、だろ……」
袋を渡そうと裕理に歩み寄った騎士は、ぽつりとそう呟いた。泣きそうな声で、何かをこらえるような声で。だから祐理は理解する。受け入れてしまう。突きつけられた現実から目がそらせなくなる。あの植物人は、変貌した帝国騎士――――彼らの仲間だったのだと。
「なんで、なんであんなことになった!? あんたら、鎧の下は普通の人間なんだろ!?」
物資の入った袋を押しのけて掴みかかる。騎士は気まずげに顔をそらした。
「【幸福の魔女】は、植物を操ります。ああなった者達は、彼女の魔術のこもった種子を体内に宿していたらしく……」
「ユーリ、あまり僕達に近づくな。魔女に寄生呪樹を植えつけられた者がまだいないとも限らないからな。心配するな、魔女が操る寄生呪樹の母体に傷つけられない限り感染はしない。その食べ物も安全だ。……こんな説明で安心してくれとは言わないが」
「……ラズトラウトさん達は、これからどうするんです?」
「言っただろう、再び魔女に挑むのさ。仲間もこれほど減った今、勝ち目なんてないに等しいし……たとえ魔女を倒したところで、呪いに晒された僕らを国は受け入れようとは思わないだろうけどね。それでも僕らには、果たさなければいけない使命がある」
おそらくラズトラウト達は、すでに“紅き森”に行っている。そこで敗北を喫したのだろう。寄生呪樹とやらの攻撃を受けて多くの騎士が死に、生き残った者の中でも呪いをその身に受けた。ラズトラウトが隊長代理だと名乗っているということは、本来部隊を指揮していた者も志半ばで倒れたのかもしれない。
しかし、それでも彼らは帰れない。たとえ報われることのない戦いでも、勝利の果てに何の褒美もないとわかっていても、責任を取るためだけにまた魔女に挑もうとしている。それはとても無益で無意味で、けれどだからこそ見過ごせなかった。
もともと魔女を狩るのだと決めていた。だから何も問題はない。道案内もしてくれるのだから、これほど都合のいいこともない。
「物資はいらないです。あ、いらないわけじゃなくて……その、靴とかは今欲しいですけど、食べ物とかはこういう形じゃなくて、皆さんが食べるときに分けてもらえる感じにしてもらうって風にできませんかね?」
「……? 君は何を、」
「俺も同行させてください。……俺、“狩人”ですから」
何の気なしに笑った瞬間、騎士達がざわついた。エペーの名には何の反応も見せなかった彼らだが、“狩人”という言葉には何か特別な意味があったのだろうか。
「“狩人”……はは、得体の知れない旅人がそれを自称するか」
困惑した様子の騎士達の中で一人、ラズトラウトだけが笑う。笑ったようだった。顔もわからない漆黒の騎士は、出立の準備をする手を止めて祐理を仰ぎ見た。
「無辜の民を危険にさらすわけにはいかない、と普段の僕なら言っているだろう。……だが、君の力はもう知っている。何より“狩人”を名乗るなら、魔女討伐の旅に加えないわけにもいくまい」
今さら“狩人”ってどういう意味なんですか、とは聞けない雰囲気だ。エペーを見下ろすが、エペーは素知らぬ風で口笛なんて吹いている。
「君さえいいのなら、こちらからお願いしよう。この呪われた行軍に、ぜひ勇敢なる“狩人”の刃をお借りしたい」