3 祐理、アルカディアに立つ
「この世界の大陸は大きく言えば七つにわかれておってな、今儂らがいるのはその内の一つ――『黄の領域』ピトダー地方じゃ。この森はピトダーにある国家の一つ、クランシリーニー王国とラウラス帝国のちょうど国境に位置しておる。二つの国を繋ぐ街道は別の場所にあるからのう、ここには誰も近づかんのじゃ。森の名前すらもなくてな、便宜上“忘れられた森”としか呼ばれておらん」
「隠れ棲むにはうってつけ、ってわけか」
「うむ。詩守りの隠れ里が襲撃されてから、儂は各地を旅しておった。色々な場所で暮らしとったが、ここはいっとう居心地がいいわい」
祐理の腕にすっぽり収まったエペーはよく喋った。ぽてぽてと先導されても歩みが遅く、らちが明かないと抱えたのだが、それが案外気に入ったらしい。エペーは大して重くもなく、スライム的な何かとはいえ多少は固体を保てるようなので、感触が気持ち悪いことさえ除けば祐理にも負担はあまりなかった。……唯一の問題点は、寝起きでいきなり外に引っ張り出されたため靴下しか履いていないということだ。さすがにこれでろくな整備もされていない森の小道を歩き続けるのはつらいものがあった。
「詩守り……あんたを信仰する一族か」
「そうじゃ。詩守りは儂に仕える聖職者でもある。詩守りの血を引く者がおる限り、儂はここに在り続ける。儂を知り、儂を信じ、儂を神と認める者がおれば、たとえ力なき身でもまだ存在できるのじゃ」
「そのせいで母さんは……」
「……それについては言い訳の仕様がないのう。おぬしには悪いことをしたと思っておる。おぬしもロゴスに目をつけられていたとはいえ、おぬしに会おうと思ったのは儂じゃ。ただでさえおぬしは詩守りの子なのに、おぬしと儂を結びつける因果をより強いものにしてしもうた」
「……別にいいさ。元凶は、ロゴスのほうなんだから」
自分達家族を巻き込んだエペーを許すとは言わない。けれど、エペーだって被害者だ。この怒りをエペーにぶつけるのは筋違いというものだろう。
「で、この領域にも魔女ってやつがいるのか?」
「うむ。その名は【幸福の魔女】、ラフェミア。奴はラウラスの北東に広がる“紅き森”に棲んでいるという。狩るのはこの魔女からがよいじゃろう。ここから近いしの」
エペーが語った、狩人としての役割。それは、唯一神ロゴスを守る鎧を剥がすことだった。
アルカディアにある七つの領域には、それぞれ魔女と聖者と呼ばれる者達が一人ずつ存在している。絶望の権化たる七魔女は人々を苦しめ、ロゴスを信仰する教会の頂点に立つ七色の聖者は人々を守る――――しかしその存在は、実質同じものに過ぎない。どちらも神が配置した、ロゴスの手駒だ。堕ちた神だからこそ語れるそれは、日本で生きた祐理にとってはどうでもよくても、現地人の民からすればあまりいい話ではないというのはなんとなくわかった。
「魔女の存在意義については話した通りじゃ。魔女達はみな、己のために人を踏み躙る。その非道の行いには何の弁解の余地もない。しかし、魔女というモノは密かにロゴスにも認可され、推奨されているのじゃ――魔女を畏れさせることで、人間達を神に縋らせるために、な」
「で、聖者が人の信仰心を煽るんだっけ。ロゴスにしてみればとんだマッチポンプだな。魔女も聖者も利用されてる自覚がないんだから、余計ロゴスはたちが悪い」
「じゃろう? 聖者も魔女も、名前自体は昔からあったが……ロゴスはそれを、自分に都合のいいように捻じ曲げたのじゃ。特に七魔女など、儂が蹴落とされてからロゴスが新たに用意した……いや、乗っ取ったといったほうが正しいか。奴だけでは人が持つ神への不満が押さえきれず、はけ口として利用したんじゃろう。……魔女を脅威として置き、聖者の名のもとに民を跪かせて自分に祈らせる。まったく大した神じゃよ、ロゴスの奴は」
じゃが、奴の用意したその機構こそ儂らの反撃の糸口となる。そう言って、エペーはにやりと笑った。
無慈悲な神から人々の非難をそらすための魔女がいなくなれば、非道の運命に嘆く人々は再びロゴスのありようを疑うだろう。もともと聖者だけでは抑えきれなかったからこそ魔女だなんてものが生み出されたのだ、七人の魔女がいなくなれば不満の矛先はあるべき方向へと向かうに決まっている。
“狩人”である祐理が魔女を狩っていけば、人々はロゴスとエペーのどちらが頼れる神か――――正しい神かを知るだろう。ロゴスの虚飾は剥がれ落ち、祐理はアルカディアでの立場を手に入れ、エペーの力が戻る。その時には、人間に過ぎない祐理でも家族の仇が討てるはずだ。相手が神だろうと何だろうと、アルカディアで生まれ育った生粋のアルカディア人ではない祐理にとっては何の関係もないことだった。
「ただ一つ、注意せねばならんことがある。おぬしは“魔女”を殺すのではない。狩るのじゃ。七魔女はいずれも不死なる存在にして呪われた血の持ち主。その胸に秘める心を奪うだけにとどめなければ、おぬしにどんなしっぺ返しが来るかもわからん」
「心?」
「うむ。儂も七魔女の仕組みについてはよくわからんが……奴らはみな、心と呼ばれるものを内に宿しているらしい。心は決して死なぬ魔女を殺す唯一の手段と言われているが……儂にはどうにもそれが信じられん。七魔女から心を奪い、それを封じる……それが儂から“狩人”たるおぬしに下す命じゃ」
「ふーん。で、どうやってそれを奪えばいいんだ?」
「……根性?」
「ノープランかよ!」
エペーはだいぶ頼りにならなかった。こんな神(?)を信じて大丈夫だろうか。
「これ、もっと魔女について詳しい奴とかに仲間になってもらわないといけないパターンだろ……」
「うーむ……では、仲間集めから始めるか。儂としてはあまり多くの者を巻き込みたくはないんじゃが、背に腹は代えられん。儂ではおぬしに伝えられることに限界があるからのう。おぬしは巫女の子、なんらかの才があっても不思議ではないが……エデン育ちである以上、アルカディアの知識についてはどうにもならん」
「あ、そうだ。なんかさ、特別な能力とかくれねぇの? あんた、曲がりなりにも神なんだろ?」
「授けたいのはやまやまじゃが……儂とてろくな力が残っとらんのじゃ。まだ力があれば、ここまで落ちぶれることも……」
「……うん、正直悪かった」
「いや……待てよ? そうじゃな、祐理、頭を下げよ」
「は?」
怪訝に思いながらも言われた通りに頭を下げる。するとエペーはしゅるしゅると伸び、祐理の頭をすっぽり包み込んだ。たちまち祐理の視界は虹色で覆われる。
「ちょ、ま、キモい、キモいんだけど!?」
「儂は言葉を編み、真実を伝える神じゃった。その名において、おぬしに三つの力を授けたぞ。一つ目はすべての嘘を見破る力、二つ目はすべての嘘を打ち消す力、そして三つ目はすべての言語を操る力。これらは儂が今も振るえる数少ない権能じゃ。いかようにも使うがよい」
ようやく祐理を解放したと思ったら、エペーは得意げに胸を張るような仕草を見せる。エペーを片腕で持ち直して、若干ねとねとした頭部をぬぐいつつ祐理はぼそりと呟いた。
「いや便利そうだけどさ、今じゃないよなこれ。これでどうやって魔女と戦うんだよ」
「ぐっ……な、ならばこれはどうじゃ!」
エペーの身体から、触手のような手(?)が伸びる。ちょくちょく形状変化できるあたり、案外スライムの身体も便利なのかもしれない。
エペーが大きく口を開けると、触手はその中に突っ込んでいった。取り出されたのは、微妙にてらてら光っている古びた二冊の本だ。
「うわっ」
「ほれ、受け取るがよい! これは詩守りの一族の子に与えられる白紙の本、こっちは儂の古い友人が記した『審問大全』じゃ! 魔女狩りの極意が記してあると言っとった、これなら役に立つじゃろう!」
「ええ……?」
虹色の粘液まみれの本を押しつけられ、嫌々受け取る。しゃがみこんでその辺の葉っぱでぬぐうとすぐにぬめりは取れたため、ほっと息をついた。エペーは不服そうにしていたが。
「白紙の本に名はまだない。それはおぬしが綴る、おぬしのための書物ゆえな。好きに名をつけるがよい。詩守りの一族は、そうして儂に捧げる物語を書き記す。それはただの読み物であることが多いが……クロエの子たるおぬしなら、特別な書を編めるやもしれん」
得意げに話し続けるエペーには悪いが、めちゃくちゃ使いどころのなさそうな本だった。いくらスライムとはいえ神は神、そんなものに読ませられるほどたいそうなものが書けるわけがない。
「『審問大全』も、そうやって作られた書のひとつじゃ。本を開くとな、なんかこういい感じの武器の説明があってな、武器の名前を呼ぶとそれが出てくるらしい」
「なんてふわっとした説明なんだ……本当にこいつは言葉の神か……?」
「細かいことは気にするでない! いいからほれ、試してみるがよい!」
ほれほれと押しつけられた触手を払いのけ、『審問大全』を開けてみる。幸い、粘液は中身まで汚していなかったようだ。
前書きなどはなく、いきなり本文から始まっている。本文と言っても、その大部分は絵だ。見開きを一つ使う形で何かを紹介しているらしい。左のページにはその何かの絵、右のページには説明文が書かれていて、ぱらぱらめくってみたが、どれも同じ構成らしかった。
「ええっと……踊れぬ姫の夜会靴?」
最初のページには、奇妙なブーツのような絵があった。何気なく項目名を読むと、靴下しか履いていなかったはずの足が不意にひやりと冷たくなる。見ると、いつの間にかブーツを履いていた。絵に描かれているブーツとそっくり同じものだ。
「おお、いいなこれ。ちょっと重いけど頑丈そうだ。……で、説明文は……」
ブーツは鉄製らしい。慣れない重さに戸惑うが、安全靴の類だと思えばむしろ安心感がある。
「“対象に鉄製のブーツを履かせる。合図とともに楔がブーツを貫くため、履かせた者の足止めに使用可能”……」
脱いだ。
「なんじゃ、履かんのか?」
「こんな物騒なもん履いてられるわけねぇだろ!? なに!? 楔ってなに!? なんか飛んでくんの!?」
「じゃが、靴は履いたほうがいいんじゃないかのう。森を出るまでもう少しとはいえ、先の村で履物が手に入るとも限らんし……そもそもおぬし、ラウラスの通貨など持っとらんじゃろう。さすがの儂も、金の工面などできんぞ」
「うう……こ、ここまできたらもう別に靴下だけでもいいだろ。裸足じゃないんだし、いけるいける」
まさかと思いながらも他のページをめくって説明文を読む。聖女に捧げる鉄車輪、狂える鼠の舞踏会、夢見る空の揺り籠……どれもこれも不穏な単語ばかりが並べられていた。
図解はほとんどが見慣れないものだったが、その中でもかろうじて祐理も知っている絵が含まれている。歴史の教科書で見たことがある、革命に敗れた王族の首を断ったというあれだ。項目名は安寧告げる断罪の歌となっているが、祐理にとってはギロチンと呼ぶほうが馴染みがあった。その次のページは永久の闇の緋き檻とあり、女性のような姿が彫られた棺桶が描かれている。
「あのさエペー、まさかとは思うけど……この本に載ってるのってもしかして、拷問器具とか処刑道具とかいう奴なんじゃないですかね……?」
「うん? ああ、そういえばそんなことも言っとったような……。儂も作者からもらっただけでな、詳しくは知らんのじゃ」
「あんたはちょっと友達付き合いを考えたほうがいいと思う」
「じゃが、奴は詩守りの一族の神官……おぬしの先祖じゃぞ?」
「知りたくなかった!」
そういえば、中世の魔女狩りでは拷問器具がどうのこうのでうんたらかんたらだったと歴史の教師が言っていたようないなかったような。そう考えると、“魔女”を狩るにはふさわしい道具だとも言える。……エペーの語彙力の低下が移ったかもしれない。気をつけなければ。
「さて、そろそろじゃな。もうすぐ森の出口が見える。森を出ればカフタス村じゃ。そこからしばし北に歩けばもう少し大きな町に着く。“紅き森”までは多少時間がかかるじゃろうが、町まで行けばその近くの街に行く馬車が出ているはずじゃ」
「へぇ。で、馬車に乗る金は?」
「……」
祐理達の旅は、前途多難のようだった。