12 変化
朝食を食べ終えて、ラズトラウトとアンブロシアはすぐに買い出しに向かった。一人で部屋に戻った祐理は『魔女名鑑』を開く。突然喚び戻されたラフェミアは、目をぱちくりさせて祐理を見上げていた。
「なんぞ、まだ何かあるのかえ?」
「ああ、まあな。……知ってることを、全部吐いてもらおうと思って」
深呼吸を一つして、震える手で『審問大全』のページをめくる。大丈夫、何をためらうことがあるだろう。これまで何度も、この本の力を使ってきたじゃないか。
「……ほう。なるほどなぁ。好きにするとよい。わらわは逃げも隠れもせぬよ」
五百年を生きた聡明な魔女は、祐理が何をしようとしたのかすぐに見抜いたらしい。ラフェミアは口元を挑発的に歪め、眼鏡をくいと持ち上げた。
「それじゃあ、遠慮なく……キャ、秘めやかな遊戯?」
『審問大全』に記載されている拷問器具は様々だ。だが、だからこそどれを使えばいいのかわからない。
結局祐理が選んだのは、一番使い方がわかりやすい鞭だった。先端に鉤爪のついた、九本に分かれたものだ。これを振り下ろせばいいのだろう。
「そこまでじゃ!」
「ぶはっ!?」
けれど、そのためらいが隙を生む。顔面に向かって飛んできたスライムは、そのまま顔で受け止める羽目になった。
「おぬし、今何をしようとしたんじゃ? それだけはしてはならんことじゃぞ。『審問大全』は、そのためにあるものではないというに」
先ほどまで寝ていたはずのエペーは、寝惚けた様子も見せずに諭すような声音で祐理に語りかけてくる。その姿が虹色スライムでさえなければ、もう少しさまになっていただろうが。
「じゃあ、何のためにあるんだよ? 俺に『審問大全』を渡したのはあんただし、書いたのはご先祖様だろ」
エペーを引きはがし、少しむっとしながら逆に問いかける。エペーは変わらぬ声音で返した。
「敵対しとった時ならばいざ知らず……この者は、もはやおぬしの傘下じゃ。配下を手ひどく扱えば、報いを受けるのは自分じゃよ。レクトルならばこう言うじゃろう――“鞭は非常に奥が深いのです。素人がむやみに扱えば、怪我をするのは自分ですよ。いきなり実戦で使おうとせず、きちんと鍛錬をしてからにするべきです”とな!」
「ご先祖様のありがたい教えとか聞きたくなかった!」
鞭はたとえ話なのか、それとも使用に関する本物の警告なのか。祐理が顔をしかめると、スライムらしい柔軟な体を生かしてできた触手が伸びて秘めやかな遊戯を掠め取った。
「ともかく、虜囚に過度な尋問は禁止じゃ。捕らえた魔女を痛めつけて得られるものなど何もないぞ。何かしらの協力を得ようとするならば、あるじらしく命じればよい。拷問などせずともな。嗜好のために痛めつけたいならば論外じゃが」
「そんな性癖ねぇよ。ご先祖様じゃあるまいし」
祐理につまみあげられたまま、エペーはじっと祐理を見つめた。虹色スライムにはやっぱり目などなかったが、その眼差しはまっすぐこちらに注がれている気がした。
「のう、祐理。儂はな、目的のためならば何をしてもいいとは思っとらん。むしろ、取る手段、選ぶ方法、進む道を重視するべきじゃと考えとる。……そうでなければ、儂らはたやすく獣へと堕ちよう。追放されたあの日に着せられた汚名、それが真実となるような本物の邪悪にな。じゃから、儂らは他人に胸を張れる道を歩まねばならん」
エペーは、祐理の不満を感じ取っているのだろう。早く魔女達を狩って次のステージに進まなければいけないのになにを悠長にしてるんだ、と。それをなだめるように、エペーは続けた。
「この部屋には何故、ラズやアンがおらんのじゃ? おぬしが遠ざけたからなのではないか? 自分が今からすることは人に見せられないと、おぬしは思ったんじゃろう? そうであるならば、その手段は取るべきではない。他にやりようがあるはずじゃ」
「……」
「どれほどの偉業を成し遂げようと、穢れて血塗られた道を歩めばそれらすべてが台無しになるんじゃよ。栄光の地を踏む赤い足跡は消せんからな。影は常におぬしについて回るぞ。おぬし、それに耐え切れるのか? 目的を果たしたところで、己の罪の清算にはならん。ならば最初から、後ろ暗いことなどしないほうがいいんじゃないかのう」
「……わかったよ」
祐理が念じると、秘めやかな遊戯は跡形もなく消えた。エペーはぶるぶると激しく振えて祐理の手から逃れ、ぼとりと床の上に落ちる。そのたたずまいはどこか満足げだった。
(この神サマは甘いんだ。だから、ロゴスに付け入る隙を見せちまった。そのせいで、詩守りの一族は……)
甘くて優しい、理想論者。そんな神だからこそ蹴落とすのはさぞや簡単だっただろう。
ラズトラウトと同じだ。他人の目を気にして、自分で自分の首を絞めている。それでもその生き方を悔いることなく、それどころか理想通りの生き様を体現している。それが憎らしくて、けれど眩しかった。
「でも、悠長にしてられる場合じゃなくなったら実力行使に出るからな」
本当は、今すぐラフェミアを締め上げたほうがいいのだろう。少し前までは実際にそうするつもりだったし、今もそうすべきだと思っている。けれど、エペーに止められてほっとしている自分もいた。
「……わらわの口から言わずとも、そなたはすぐに真実に触れるであろうて。それどころか、わらわが語れるものよりずっと奥深くに至れるわ。魔女について知りたいのであれば、本人を目にするのが一番ゆえな」
興が削がれたと言いたげに、ラフェミアはつまらなさげな顔でぼんやりと遠くを見つめている。そこには恐怖も焦燥も、安堵すらもなかった。
「覚えておくといい。長く生きれば生きるほど、魔女は鈍くなっていく。肉の痛みにも、心の痛みにもな。しかれども、弱いところは弱いまま。それどころか、積み重ねた時の数だけ弱くなっていくのだ。狂気と言う名の砥石で、神経が研ぎ澄まされていくからのう。第五の魔女カティーシスは、まさにそのような魔女ぞ。……そなたともっとも相性がよく、もっとも相性の悪い魔女よ。そなたの力が、そなたという存在が、あやつほどに刺さる魔女はおらぬわい。その逆もしかりであろうがな」
祐理の力は、嘘を見抜くことだ。回りくどい言葉の中に隠れた真意までは掴めない。だからラフェミアの言葉の意味は、まだわからなかった。おまけに彼女は、きっと尋ねても答えてくれないだろう。
「わらわは【幸福の魔女】。救いを求める魂に、幸せが訪れることを願う者ぞ。ある者の幸福の裏側には、別の幸福が広がっている。世界とはそうあるべきよ。しかし世の中には、どうあがいても両立せぬ幸福というものも存在しておる。嘆かわしいことにな。……“狩人”のの幸福と、【災厄】のの幸福がまさにそれ。どちらかが幸せを掴むことを、わらわは等しく祈ろう。どちらが幸せを掴もうと、わらわは等しく喜ぼう」
そう言い残して、魔女は勝手に消えていった。
* * *
「……」
「……」
アンブロシアとラズトラウトは無言のまま連れ立って歩いていた。すれ違う人々が時折こちらを見てはひそひそと言葉を交わしている。彼らの目には、自分達は一体どういう風に映っているのだろう。
「あ、この角を曲がると雑貨屋がありますよ」
「そうか」
「……」
「……」
沈黙に耐え切れず、アンブロシアはわざと道を指さして明るい声を出した。しかしラズトラウトは一言短く返事をするだけで、結局それ以上の会話は続かない。
「消耗品は、いざというときに備えて多めに持っていると安心ですよね。ラズトラウトさんの印術適性はどれでしょう?」
「赤と紫だ。だが、ユーリが印術を使っているところは見たことがないな。僕も火種しか作れないし、もろもろを買い込んでおこう」
実用的な会話だと、黒騎士は少しばかり饒舌になるらしい。
赤の印術は攻撃、紫の印術は探知のために使われる。火種と言うのは、きっと赤の印術で炎を放つことができるという意味だろう。危険な旅には向いている力だが、道具の助けなしでは進めないということでもあった。
「予備のランプと、脂と……ロープも買い替えたほうが……それから砥石……薬もか……」
店に入るなり品物を物色するラズトラウトについて回り、アンブロシアも品定めを始める。自分の籠に入れるのはすべて自分用のものだ。魔女になってまだ五年しかたっていないアンブロシアは、人としての感覚が抜けきれていないし、それを捨てるべきではないと思っていた。
「印術を使わないなら、ユーリさんはどういう風に戦うんですか?」
「それが、僕にもよくわからないんだ。君の心を収めた本があっただろう? ユーリは、あれと似たような本をもう一冊持っている。その本を使って、様々な道具を召喚するんだ。本人は加護の力のようなものだと言っていたが……」
印術適性は、人間なら誰しも備えているものだ。その数は全部で七種類。人が持てる適性の数に際限はなく、また色や適性の数で優劣が決まるということはない。それを決められるのは適正の高さでしかなかった。
適性の数は生まれた時から変わらないが、高さならば生まれ持った才能に加え努力次第である程度は伸ばせる。アンブロシアは転移や飛翔といったことに使える緑の印術と、防御に特化した青の印術しか使えないが、どちらの色の印術でも自分を越える適性を持つ者には会ったことがなかった。魔女相手にも通用するかはわからないが、他の魔女は魔術ばかりを使用する。元人間とはいえ、魔女になった以上は人間の力など必要としないのだろう。
雑貨屋の次は食料品店だ。淡々と買い物を進めていくうちに陽はすっかり傾いていた。そろそろ帰ろうと、二人の足が宿に向かう。
「……アンブロシア。今日は付き合ってくれて感謝する。それから、魔女を悪とみなし君のこともそう決めつけていたことについて謝罪をさせてくれ」
「え?」
ドアノブに手をかけていたアンブロシアは、思わぬ言葉に振り返った。自分の客室の前に立ったラズトラウトは、小さく頭を下げていた。
「君が魔女になった理由を聞いて、少し考えていたんだ。……僕も、守り手とやらの襲来に遭ったことがある。もしあのときユーリがいなかったら……そのうえで、僕が生き延びていたら……もしかしたら、僕も魔女になっていたのかもしれない」
「……」
「魔女は、人に害なす存在だ。けれど君のような魔女もいる。君のような普通の少女でも魔女になってしまう。だとしたら、もしかすると魔女の中には、やむを得ない事情で魔女になった者もいるのかもしれない。非道の行いには、何か深い理由があったのかもしれない。だから“魔女”という色眼鏡でひとくくりにするのではなく、それぞれの個人として考慮すべきだと気づいたんだ」
「では、ある魔女が、同情を禁じ得ないような背景を持っていると仮定しましょう。そのとき、ラズトラウトさんは剣を収めますか? その魔女がのちに多くを殺すとわかっていて、その哀れな魔女を見逃しますか?」
「……それはできない。罪は罪だからな。僕は人間だから、最後に持つのは人間の肩だ」
「ええ、その通りです。つまり、考慮など初めから無意味なことではありませんか? 少なくとも僕は、魔女個人の事情を知ったところで鉄槌を下す手を緩めるべきではないと思います。どんな事情があれど、それが無関係の人々を苦しめる免罪符になるわけではありませんから。……魔女の罪が許されるのは、その魔女が改心したときだけです」
では、失礼します。一礼したアンブロシアは硬質な声で告げ、客室に入った。
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